『アクティブ・シニア革命』テスト版8pのソーシャル編集会議を開催。

『アクティブ・シニア革命』テスト版のソーシャル編集会議を開催。

21時から1時間ほど、「アクティブ・シニア革命」編集部と、深呼吸学部のメンバーと橘川さんが参加。私からの説明の後、意見交換を行った。

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内容は、以下でダウンロード。https://metakit.booth.pm/items/5839558)

意見の概要。

  • 趣旨と内容については、大いに共感を得られた。人生を攻めてる人たち。学び続ける。励まされる。、、、、
  • 紙面の見本である「組み見本」をつくる必要。パンフレットと違う。
  • 読ませる。内容は600字、後の200字部分はタイトルなど。
  • 写真が大事。意味のあるものに。
  • 記事は複数で構成するバンド発注。特に特集。ワイワイと。
  • 図はタテもありか。

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朝。

メルマガ送信。神社までのウォーキング(毎日)。立川で整体(オステオパシー)。

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「名言との対話」。笹島信義「俺たちは地球の開拓者」

笹島信義(ささじま のぶよし、1917年?ー2017年7月1日)は、土木業の経営者。享年99。

93歳で仕事人生を回顧した笹島信義『おれたちは地球の開拓者ーートンネル1200本をつくった男』を読んだ。土木という仕事に打ち込んだ男たちの物語だ。

1956年当時は復興途上の日本は急増する電力需要を満たすことが至上命令だった。そして人跡未踏の秘境に黒部第四ダムの建設が始まる。通称クロヨンである。黒部川上流に資材を運び込むための関電トンネル(大町トンネル)を笹島班が担当する。クロヨンダム完成の命綱の工事は、巨大な破砕帯にぶつかった。糸魚川から富士川にかけての大断層・フォッサマグマによって岩石が打ち砕かれ、そこに地表から水が染み込んだから、地盤が弱く、水が湧出する。この難工事に、関西電力の太田垣社長から「日本土木の名誉にかけて頑張ってください」とのメッセージが届き、全員が奮い立つ。熊谷組の「トンネルの神様」と呼ばれた牧田専務は「人間にできないことでも神様ならできる」と瀬戸内海の大三島大山祇神社にお参りに行けと笹島に言う。

後にインタビューで「貫通した瞬間は喜びを通り越して、みんながボーっとしていた。黒部から吹いてきた風が坑内の粉じんを吹き払い、視界が透き通っていく。うれしさと虚脱感が混じった不思議な感覚だった」と述べている。

 1964年に本正次が毎日聞に連鎖したノンフィクション小説『黒部の太陽』は登場人物は実名で登場した。1968年には三船プロ石原プロの合作で、映画『黒部の太陽』(熊井啓監督)が制作・公開された。1年間で733万人がみるという空前の大ヒット作品となった。石原裕次郎が演じた「岩岡剛」のモデルは笹島である。この映画は少年時代の私も学校全員でみている。クロヨンの関電トンネルだけで23人が殉職している。作業員4681人だったから、200人に1人という高い割合で亡くなっている。難工事だったことがわかる。

この本を読みながら、笹島がいう「戦場」におけるリーダーシップを学んだ。食糧調達により食べ物の心配をなくす。部下が仕事に集中できる環境をつくる。最前線に詰める。誇りを鼓舞する。作業員を集め、統率する能力が重要。高い労賃の7割を家族に支払う。傷害にあったとき部下の意見を吸い上げて決めると3倍ほど能率があがる、ぶれない。前を向き、やるべきことを懸命にやる。上司とのカケ。、、、。

絶望の淵に沈みながら、持てる力を最大限に発揮して困難を克服した経験が、一人ひとりを大きく成長させ、勇気と自信を植えつけられた笹島班は、その後もトンネルを掘りまくる。東海道新幹線、香港の地下鉄工事、イランでの二つのトンネル、山陽新幹線の六甲トンネルと新関門トンネル、13年かかった海底を掘った青函トンネルの担当区、、。、、。日本の主要なトンネル工事のほとんどに関わっている。「どんな難工事であっても、工期だけは必ず守る」トンネル屋は、地球に麻酔をかけながらの手術をする人たちだ.。

笹島によれば、トンネル掘りには、寒いところで生まれ育った人間が向いているそうだ。土木作業は忍耐との闘いである。根性と根気があれば、技術も自然についてくる。西の人間は我慢が足りないのだそうだ。意外だが、地下は地震に強い。笹島は東京の地下に幹線道路の大動脈を整備することを勧めている。

笹島はある親方から土木の仕事で一番大事なことは「二根三惚れ」だと言われた。二根とは、根性と根気。三惚れとは、仕事に惚れ、土地に惚れ、女房に惚れること。これが笹島建設の基本理念になっている。

土木という仕事は「地球の開拓者」だ。彼らの命がけの努力の上に、今日の日本の近代が成り立っていることをひしひしと感じた。偉人・笹島信義はもう少しでセンテナリアンに手が届く99歳で亡くなった。