NHKカルチャーラジオ「保阪正康が語る昭和人物史」の「梅棹忠夫」の2回が放送された。以下、そのまとめ。
梅棹忠夫は日本の民族学研究の基礎を築き、国立民族学博物館の設立に尽力した。フィールドワークを重視し、世界中で学術探検を行った。著作は240冊に及び、戦後の日本社会に大きな影響を与えた。
1920年に京都の西陣で生まれ、幼少期から漢字を覚え、夏目漱石や森鴎外の作品を読破するなど、非常に読書好きな子供だった。昆虫採集や標本作りに興味を持ち、京都帝国大学で動物学を専攻し、中国やミクロネシアでフィールドワークを行った。太平洋戦争中に大学院特別研究生制度により兵役を免れ、モンゴルでの調査中に終戦を迎えた。
現地を訪れて直接観察し、関係者に聞き取り調査を行うフィールドワークを重視した。京都大学探検部の初代顧問の一人に就任し、探検部の精神を学問に活かした。 若い人の話をよく聞き、彼らの情熱の実現に力を尽くした。 探検精神を持ち、現地での調査を重視した。フィールドワークを通じて、現地の文化や習慣を直接観察し、研究を深めた。
1957年に出版された『文明の生態史観』は、旧大陸の文明の発展を生態学的に分析したユニークな学説だ。日本とヨーロッパの文明を生態学的に分析したものである。日本とヨーロッパの文明を巨大文明の縁に位置づけ、同質の関係にあると主張した。視力を失った後も口述筆記で著作活動を続け、多くの著作を残した。大阪の国立民族学博物館(民博)の創設にも貢献した。国立民族学博物館には34万5000点を超える資料が収集されている。 国立民族学博物館は民族学(文化人類学)に関する研究と教育の機関として機能している。平成22年に90歳で亡くなったが、日本の民族学研究の基礎を築いた業績は高く評価されている。
以下、昭和56年、1981年2月1日の60歳の時の梅棹忠夫の文化講演会。
- 宗教、習慣、文化の異なる3000の民族が世界に存在している。民族は文化的概念であり、国民は政治的概念であり、DNAで決まる人種は生物的概念。民族学の視点から世界の出来事を見ると、一般の見方とは異なる角度から理解できる。
- 民族学は諸民族の文化的特徴や歴史的形成過程、民族同士の相互関係などを実証的に研究し、現代の世界状況を理解するための重要な鍵となる学問である 。国家、国民という見方では、世界は理解できない。その下に民族地図があり、そこからはまったく違った景色が見える。
- 国立民族学博物館では、文化に焦点を当て、人種的特徴を排除した展示を行っている。民族学の知識を持つことで、国際的な事件の認識が深まり、立体的になる。民族学の視点から国際理解を深めることができる。
- 民族学の知識は新聞や雑誌、学校教育でほとんど普及しておらず、特に高校以下では教えられていない。知っているのはゲルマン民族だけというようなことになる。近年ようやく大学において講義が開講されるようになった。海外旅行に出かける場合、民族学の知識が無いと表面的な観察になってしまう。遺跡や名所を見ても、意味が分からない。
- シルクロードでも、諸民族の衝突、摩擦、などについての基本知識がなければ何のことかわからない。遊牧民と農耕民の違いなど、民族学の知識を身につけることで、旅行の収穫が大きくなるはずだ。
- 中東の民族構造を理解することで、地域の動きをより深く理解できる。中東にはアラブ民族、インド・ヨーロッパ系民族(イラン。ペルシャ帝国)、トルコ系民族(オスマン帝国)の三つの大きな民族が存在する。イスラムが中心だが、キリスト教もある。イスラムにもスンニー派とシーア派がある。クルド民族はイラン、イラクなど5つの国で国民として存在している。常に独立をしかけている。こういうことがわからないと真相は見えない。
- 東南アジア。中越両民族、漢族と越族の対立やその他の民族紛争は数百年から2000年の歴史を持っている。同じ社会主義国でも紛争が起こっている。
- 21世紀に向けて民族的対立はますますひどくなると予測され、民族自立や独立の権利を要求する動きが続くと考えられる。 かつては宗教が民族対立を超える原理となっていた、そして儒教もそうだったが、近代に入ってからその力は失われた。イデオロギーにも期待はあったが民族的対立を超える力にはならず、最近の紛争でその限界が明らかになった。米ソという巨大な軍事パワーにも限界がある。
- 第一次大戦後の国際連盟が「民族自決」の原理を打ち出し、オーストリーハンガリー帝国による民族国家が成立し、オスマントルコの解体を引き起こした。第二次大戦後には、イギリス帝国の衰退によりムガール帝国の解体でインド、パキスタンが独立した。東南アジアでもオランダ、フランスの衰退、日本の敗退により、多くの非圧迫民族が独立を達成した。
- 複合民族国家は内部に少数民族を抱えており、その処理が必要である。ソ連邦や中国のような巨大な国家が今後どうなるかは不明だが、民族自立の動きは続くと予測される。ソ連や中国では、国内の少数民族に対して自治権を拡大する動きが見られる。
梅棹は65歳の時にウイルス性の視神経炎症により視力を失った。視力を失った後、文献を読んでもらい、それを聞いて口述筆記する方法で著作活動を続けた。次々に本を出版し、その生産性の高さから月刊「ウメサオ」というニックネームが付けられた。平成元年から平成五年にかけて、梅棹忠夫の著作集が22巻別巻1が出版された。
平成六年に文化勲章を受賞し、その喜びを以下のように語った。
- 文化勲章は民俗学者で初めて柳田国男が受章している。民族学では私が初の受賞になる。ありがたいことだ。これで民族学と比較文明学が世間、国家に認められたことになる。民博の創設に尽力したこと、著作集が完成したことも評価されたのだろう。
- 民族学は人類の根源的な問題を扱う学問である。研究は一貫してフィールドワークに基づいており、現地での直接の接触を重視してきた。民博ができたことによって、日本の民族学が世界の第一線に立つことができた。優秀な研究者が出てきつつあり、将来の発展を期待している。
- 20世紀後半に巨大帝国が次々と解体し、各民族の自立が進むことで摩擦が生じる。21世紀の前半までは民族問題は解決はできなだろう。民族学者は、紛争の背景や民族問題の原因、背景、歴史については解説する役に立てる。
梅棹忠夫と彼を尊敬する梅原猛は京都学派の一員として、学問の世界に新しい風を吹き込んだ。二人とも74歳で文化勲章を受章している。東京とは違った京都の風土が生んだ代表的人物だ。平成11年に勲一等瑞宝章を受賞した。平成22年に90歳で亡くなった。
(①CLOUDNOTEで2本の30分番組を録音したものを、②「要約」と「文字起こし」をする。③2つの要約を1本のようにつじつまのあうように並び替える。③要約は端折り過ぎてリアリティに乏しい面があるので、文字起こしと音声を聴きながら、加筆する。④今回は梅棹の2回の講演内容を1本にし、インタビューも本人の熱意が伝わるようにさらに修正を加えた。)
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・明日の「図解塾」の準備。
・仙台の岩澤君と「人物記念館ミュージアム」の打ち合わせ。
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「名言との対話」6月25日。団藤重光「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」
団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大正2年)11月8日 - 2012年(平成24年)6月25日)は、日本の法学者。享年98。
岡山県出身(山口生まれ)。小学校、中学校を飛び級でで卒業し、第六高等学校を経て、東京帝大法学部を首席で卒業した。
東京大学教授1974–83年(昭和49–58年)、最高裁判所判事1981年(昭和56年)。日本学士院会員。1987年(昭和62年)勲一等旭日大綬章。1995年(平成7年)文化勲章。
東大教授時代は、師の道義的責任論とその師の性格責任論を止揚して人格責任論を提唱するなど、戦前に新派と旧派に分かれていた刑法理論の止揚を目指し、発展的に解消、継承し、戦後刑法学の学説の基礎を築いた。刑法学の第一人者である。私も法学部だったので、団藤の刑法学を学んでいる。
最高裁判事として強制採尿令状を提唱。大阪空港訴訟では深夜早朝の差し止め却下に対して反対意見を述べている。自白の証拠採否については共犯の自白も本人の自白と解すべきだという反対意見を述べた。学者時代は共謀共同正犯を否定していたが、実務家としては肯定説に立った。
もともとは死刑に賛成の立場であったが、ある裁判の陪席として出した死刑判決に疑念を持ったことから、その後は死刑廃止論者の代表的人物となった。退官後も死刑廃止運動などに関与した。
著書を眺めると、刑法学以外の『反骨のコツ』(朝日新書)が目に入った。典型的なエリート街道を走ってきた団藤は、実は反骨の人であったのだ。1968年に日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど文筆家としても有名だった。
最高裁判事時代に死刑判決に対して傍聴席から「人殺しっ!」という罵声が浴びせられた。その声が耳の底に残ったと『死刑廃止論』にある。一、二審査有罪判決に一抹の不安を持っていた団藤は、死刑廃止の気持ちが湧きあがったのだ。
その声を放った人物によると、「無実の人間を死刑にするのか」と理性的に大きな声で発言したそうだ。それが「人殺しっ!」と聞こえたのだろう。それほど、衝撃を受けたのだ。「刑事訴訟法の生みの親」が死刑廃止論者になったのはこれがきっかけだった。因みにこの裁判で死刑判決を受けた死刑囚は、40年近くを獄中で過ごし、病死している。
「死刑の存続は一国の文化水準を占う目安である」とした団藤の『死刑廃止論』には、「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と書かれている。
団藤重光は晩年にはイエズス会から洗礼を受けている。洗礼名はトマス・アクィナスだった。『神学大全』で知られる中世・イタリアのスコラ学の代表的神学者をもじった名である。
団藤重光は東大教授時代、最高裁判事時代、退官後、晩年と、考えを変えることに躊躇しないところがある。厳格な面と柔軟な面があったようだ。希代の法学者は最後はクリスチャンとなった。その足跡に興味がわく。