「芹沢銈介の世界」展(日本民芸館)ーーつくる喜び(染色家)とつかう喜び(蒐集家)

日本民芸館の「生誕130年 芹沢銈介の世界」展。

「日本民芸館」という題字は、芹沢銈介の字だった。

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静岡市立芹沢銈介美術館を訪問したい。

「別冊太陽」の「芹沢銈介の日本」では、図案家から染色作家への20代、柳宗悦と紅型(びんがた)に導かれた30代、棟挙移住と沖縄への旅の40代、終戦から復興への50代、津村の暮らしと相手なしの仕事の60代、「もうひとつの創造」への情熱の70代、パリ展と最晩年の日々の80代というように芹沢の生涯を総括している。

芹沢は柳宗悦『工藝の道』を読んで「長年悩みつつありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり。生涯にかかる感動的の文章に接せしことなし」と感じ、柳を生涯の師と定める。柳は芹沢を「立場をくずさない質」「考えにぐらつかない」人と評した。
仙台の東北福祉大学の芹沢銈介の美術館でみた映像では、裸婦像が、次第にデザイン化、単純化されて、最後は縄に変化する図案などには驚かされた。その映像の中で池田満寿夫は「単純化への意思がある」「見たものを即刻デザインする」「自然からデザインする」というように芹沢の特徴を分析している。

世界が模様の宝庫に見えた染色家は、次のようにいう。

  • 図案という空なものでなく、具体的な「物」に自分を見出したい
  • 長年悩みつつありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり。生涯にかかる感動的の文章に接せしことなし(柳宗悦「工藝の道」を読んで)
  • どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい
  • 電気屋さんの腰にぶら下がっているペンチやねじ回しの列、また街頭に出会う道路工事や塗装など、この道具たちにも皆何か生きていて、美しい文様を感じるのです。
  • 集まり寄るものすべて有難く、すべてよろし。常にふれ合ひて歓ぶなり

芹沢は多作な生活美のデザイナーだった。日常の用いるあらゆる物品に模様を描き続けた。着物、帯地、のれん、壁掛け、卓布、風呂敷などの生活用品。屏風、軸、額絵などの観賞用の作品や寺院の荘厳布。本の装幀、和紙。染絵本や挿絵。扇子、うちわ、カレンダー、絵はがき、蔵書票、マッチのラベル、お品書き、包装紙、のし紙、ポスター、株券、賞状、商標や商品のラベルなどの商業デザイン。建築設計、家具、展示、ステンドグラス、看板、鉄行灯、緞帳のデザイン。素描、水彩画、ガラス絵、板絵などの肉筆画。陶器の絵付け。「いろは」「春夏秋冬」などの文字デザイン。、、、、

ブックデザインの分野でも多くの作品をつくっている。式場隆三郎柳宗悦、内田百閒、川端康成獅子文六司馬遼太郎水上勉山崎豊子、、。

生涯の師は6歳年長の柳宗悦である。柳は芹沢を「立場をくずさない質」「考えにぐらつかない」人と評した。また芹沢の仕事を「模様を生み、こなし、活かし切り、また派手でありながらも俗に落ちない色を生み出した」と評している。

70代からは「もうひとつの創造」といった蒐集に力を注いでいる。それは自分で選び、日々を楽しんで蒐集に情熱を傾けることであった。芹沢は、染織家としての「つくる喜び」、蒐集家としての「つかう喜び」の両方を知っていて、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。創作と生活の一致にいたっている。時代や国境を越えた、そして様々なジャンルにわたった蒐集の日々も感動的な日々だった。染織と同様に、蒐集もまた創造なのである。

芹沢は「どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」という。芸術は自己主張で動物的なものが中心だが、芹沢は逆で植物的だ。対象にのめり込むことで、自分の存在を消していこうとしたのである。

芹沢は「手仕事」の人であった。

  • 「図案という空なものでなく具体的な「物」に自分を見出したい」
  • 「ふだんに私は見て感じたものを、手あたり次第、ありあわせの紙に書いておくのです。新しい柄をつくりたいと思うと、この書きとめておいたものを、あれこれと見て、構図をまとめるわけです」(『暮しの手帖』「型絵染」・1972年4月第17号)

30代のころ、妖怪漫画の第一人者の水木しげるさんの自宅を訪ね取材したことがある。書斎には、妖怪を新しく生み出すための資料棚があった。「どうやって妖怪をつくるのですか」と聞くと、「妖怪と妖怪を組み合わせる」と答えてくれた。異質なもの同士の融合。これは、紛れもなく知的生産である。と感じた。芹沢の図案も同じやり方だった。

師の柳宗悦への愛情あふれる「絵入り書簡」には、体調不良の柳(69歳)も感激したのではないか。描いた芹沢は63歳だった。品物がまるでそこにあるようだ。

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「名言との対話」9月10日。望月良晃「寅さんは、菩薩です」

望月良晃(?- 2014年9月10日)は、柴又帝釈天題経寺住職。享年82。

東京都出身。大乗仏教経典の研究者で、『法華経を読みとく』『大乗涅槃経入門ーーブッダ最後の教え』『庶民仏教と法華信仰』などの著作がある。

人気映画『男はつらいよ』のフーテンの寅こと、車寅次郎が頭が上がらない「御前様」のモデルである。午前さまを演じた笠智衆は実生活では熊本の浄土真宗の寺に生まれながら継がなかったのだが、第1作からずっと柴又帝釈天の住職「午前さま」として毎回出演していい味を出している。

山田洋次監督は、「寅という人間は、みんなにバカだと言われて、笑いものになりながら、本当はとても大事な役割をこの世で果たしているような男なんだろう、そういうふうにぼくはこの映画をつくりながら考えています」と語っている。また、相手の気持ちになってやれる、その人の立場に立ってものを考える、その人の幸せのために自分はどうすればいいかと真剣に考えるとか。そういう能力は寅は誰にも負けないとも『寅さんの教育論』で語っている。

望月良晃はフーテンの寅さんについて、その能力こそ、仏教でいう菩薩のはたらきそのものであり、人の心にいつしか救いの灯を点ずるのであると書いている。

では菩薩とは何か。人々の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する。自分だけが救われることを考えるのではなく、この世に生きているあらゆるものに対して心配し、助けようとする「慈悲」の心と、他者の安楽を自分の喜びと感じる「喜」、そして自他の区別なく人を見る「捨」の心を持った人である。

そうしてみると寅さんは菩薩そのものではないか。その菩薩の姿をみなが皆が喜んでいるのが、この映画が長く続く秘訣なのだ。亡くなる前の母親と弟が毎週土曜日のテレビの「寅さん」シリーズを楽しみにみているとのことで、私も影響されて改めてみるようになった。寅さんは、本当はとても大事な役割をこの世で果たしている菩薩だとみる望月良晃の観方に納得した。

望月住職は「演歌は、滅びの歌であり、流離の歌である。その意味で、仏教が教えた無常観を歌い上げていると言えるようである」とも言う。

  『柴又巷談ーー午前さまの人生問答』を読んだ。人生問答を6人の著名人と語っている本である。「あとがき」には「私は、6人の善知識に会って、人生修行の旅をさせていただいた」とある。『華厳経』の中に、善財という童子が、53人の「善知識」を訪ねて教えを乞う求道物語がある。善知識とは良き先達のことだ。

望月良晃は、「男はつらいよ」シリーズで笠智衆が演ずる「御前さま」の姿と、「寅さんは、菩薩です」という名言を記憶にとどめておこう。こういったかたちで、歴史に名を残すということもあるのだ、