「幸福塾」の「新・代表的日本人」シリーズ。本日は「怒涛の仕事量」の第1回目「漫画家」編。

「幸福塾」の「新・代表的日本人」シリーズ。本日は「怒涛の仕事量」の第1回目「漫画家」編。

以下、塾生の学びから。

  • 本日も、どうもありがとうございました。「新・代表的日本人」の8回目、「怒濤の仕事量」の第1回で漫画家。漫画家が締切に追われて怒濤の仕事量にならざるを得ないのはよくわかります。石ノ森章太郎が元旦以外は休まなかった話も聞いたことがあります。苛酷な、しかしたぶん本人たちにとっては楽しい怒濤の仕事の中で、今の日本人にたくさんのプレゼントをしてくれました。手塚治虫石ノ森章太郎藤子・F・不二雄矢口高雄やなせたかし白土三平長谷川町子・・・・今日は参加者の子供の頃読んだマンガのこともそれぞれ出し合って、たいへん楽しいひとときでした。また、ドラえもんアンパンマンをはじめ、非常に多くの日本人の心を育ててきた、まさに「広く、長く」影響を与えてきたという点で「偉人」に値する人たちだと思います。 世界第2位の参加者を誇るコミケ創始者米沢嘉博や、「ガロ」の創刊を通して多くの漫画家を育ててきた長井勝一も非常に大きな役割を果たしてきました。他の分野でもそうでしょうが、コンテンツを生み出す人々と、それを育て広げる人々の両方が必要なのですね。日本の誇るアニメ文化がさらに成長し、世界の人たちからますます愛されるようになってほしいと思います。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は「怒涛の仕事量」ということで、一世を風靡した漫画家の仕事に対する思いなど、作品からは伺うことができない興味深い話を聞くことができました。手塚治虫石ノ森章太郎赤塚不二夫、藤子 F不二雄、矢口高雄などの紹介がありましたが、この中で手塚治虫の「一流の映画をみろ、一流の音楽をきけ、一流の芝居をみろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」という言葉や、「漫画以外の教養や知識が最後にものを言う。ふだんの勉強も必要で、漫画本ばかり読んでいてはダメである。文学や科学書、紀行、評論集などの本に親しんで知識を広めることだ。」という言葉が印象的でした。漫画家の仕事は膨大な読書に支えられているのだということがよく分かりました。(漫画本ばかり読んでいてはダメである、と言っているところも面白い。)また、石ノ森章太郎の「むりやり手を動かそうとしているうちに、不思議とちゃんとアイディアが湧いてくる」と、いう言葉も興味深く、創作は頭ではなく手で考えるものなのか、とも思いました。 常に締め切りに追われながらの膨大な仕事量。手塚治虫石ノ森章太郎も享年60歳。漫画家は「鉄の体を持たないとできない」と言われるほどにハードな仕事なのだということが良く分かりました。また、コミックマーケット米沢嘉博や『月刊漫画ガロ』の初代編集長の長井勝一など漫画に関するインフラ作りに貢献した人の紹介もあり、「怒涛の仕事量」=量を出すことの凄さを改めて考えさせられました。ありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。怒涛の仕事量の漫画家たちのお話でした。今や漫画やアニメは、世界中で楽しまれている日本の文化となってますが、その漫画の基礎を作った方々のお話でした。漫画の神様と言われる手塚治虫は、古今東西の人類の知的生産を漫画で描こうとしたこと。漫画の王様と言われる石ノ森章太郎は、マンガ、漫画、劇画、コミックなど合わせて「萬画(よろずが)」といい、素晴らしい作品ばかりのようだが、本人は会心の作はないと思っていたお話。ギャグ漫画の王様と呼ばれる赤塚不二夫は、色々な人に出会って教えてもらったと、とても謙虚な人だったこと。また、漫画のインフラを作ったコミケの父米沢嘉博、『ガロ』の長井勝一、など、漫画を巡る人たちのお話をシャワーをあびるように聞きました。知っている方ばかりで面白く聞けました。その後のみなさんとの漫画についてのお話も面白かったです。また次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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NPOユーラシアンクラブ » 加藤九祚・国立民族学博物館名誉教授・NPOユーラシアンクラブ名誉会長逝く

「名言との対話」9月11日。加藤九祚「人生に、もう遅いはありません。老いは免れませんが、好奇心は抑えられなかった」

加藤 九祚(かとう きゅうそ、1922年5月18日 - 2016年9月11日)は、人類学者。享年94。

韓国生まれ。10歳で来日し韓国姓の李を加藤に改名する。工業学校を経て鉄工所に入社。上智大学予科を仮卒業し入隊に満州へ。1945年ソ連軍の捕虜となり、5年間を過ごす。上智大学に復学し卒業し、1951年平凡社に入社。1971年退社し念願のシルクロードの旅にでる。1975年に国立民族学博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民族学標本収集と研究に従事する。1985年の定年退官後は相愛大学、次いで創価大学教授としてシルクロード研究センター長をつとめる。退職後にウズベキスタンのテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。

2000年前後からロシアや中央アジアに関する年報『アイハヌム』を創刊編集し亡くなるまで続けた。「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られている。

2016年9月、ウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、搬送されたテルメズの病院で死去。創設した「オクサス学会」の最終号の追悼紀要には「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」と記されている。

以上は「加藤九祚 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)の要約だ。

加藤はシベリア抑留中に「この機会にロシア語でも勉強しよう」と独学でロシア語の勉強を始め、戦時下の軍部の弾圧で死を遂げた、「悲劇の天才言語学者」の親日学者・ニコライ・ネフスキーを知る。日本留学中にロシア革命が起き帰れなくなり日本に定住し日本文学、神道アイヌなどの優れた業績をあげるが、1929年にソ連に戻るがスパイ容疑によって非業の死をとげる人だ。加藤は自分の境遇と似ているこの学者を研究し『ニコライ・ネフスキーの生涯』を書き、1976年大佛次郎賞を受賞する。

『シベリアに憑かれた人々』(岩波新書)を読んだ。1974年の刊行である22歳から27歳までの抑留生活を送ったシベリアの地に眠る仲間たちに捧げた本である。自分の日本での生活も抑留生活的な側面があるとも書いている。

シベリアは18世紀初頭のスエーデン人捕虜に始まり、19世紀のポーランド反乱参加者、ツアーへの挑戦者、20世紀の革命後の流刑囚や日本人捕虜の存在などの歴史がある。

部下を救おうとして冬の海に飛び込んだために死を迎えたピョートル大帝、遺骸が板にしばられて土に埋められたベーリングカムチャッカ志を訳した前野良沢、日本への使節となったラクスマンの父であるエリク・ラクスマンエカテリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫、、、などシベリアに憑かれた人々の苦難の歴史がつづられている。加藤自身もその一人なのである。

加藤は65歳から考古学を始める。「人生に、もう遅いはありません。老いは免れませんが、好奇心は抑えられなかった」、そして「私の希望は発掘しながら、パッタリ死ぬこと」と語っていた。それから30年ほど後の2016年にウズベキスタンの発掘調査の現場で94年の生涯の幕を閉じた。ウズベキスタンでは「国民の損失」とまでいわれた。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに発掘の場を見いだし、その現場で生涯を終えたのである。

梅棹忠夫との対談を読んだ記憶があるが、加藤を民博に招いたのはシベリアで知り合った梅棹だったことを初めて知った。加藤九祚のユーラシアをにらんだスケールの大きい波乱の生涯と、撃ちてし止まんの不屈の精神には感服した。この人のことを知ったのは収穫だった。

改めて加藤の生涯を大きく眺めてみる。50歳までの青年期は、入営、ソ連の捕虜を経て、出版社で仕事をする。50歳からの壮年期はシルクロードの旅で知り合った梅棹忠夫に誘われて国立民族学博物館の教授として過ごし、ソ連やシベリアに関する本を上梓する。そして、実年期の65歳からは考古学を始め、シルクロードを遊歴し、熟年期の最後の94歳で、ウズベキスタンで発掘中に倒れる。これは希望通りの最後である。人生100年時代のモデルとすべき人である。「人生、もう遅いはありません」という言葉を納得させる生涯だ。