リレー講座:宮田律「トランプ政権の対テロ戦争と日本」。「偉人の命日366名言集」(久恒啓一)の見本が届く。

久恒啓一「偉人の命日366名言集」(日本地域社会研究所)の見本が届いた。発売は7月7日。478ページ。3241円。編集がよく、いい本になった。

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「副学長日誌・志塾の風」170608

・杉本係長:教育説明会資料

・山本さん:トレンドウオッチャーのスケジュール

・趙先生

・入試課で「偉人の命日366名言集」をピックアップ

・杉田先生

・松本先生:大いなる多摩学会

・高橋さん:沖縄での講演会。大舘での講演会。

 

リレー講座:宮田律「トランプ政権の対テロ戦争と日本」

・アメリカのイスラエル政策:緊密な同盟国。ホロコーストへの同情・正義の弱者への同情という道徳的・イデオロギー的要因。親米・過激主義への防波堤という政治的・戦略的要因。アメリカのユダヤ系市民とイスラエルとの結びつきという要因。強力な圧力団体AIPACなどユダヤロビーの巨大な影響力という要因。

・トランプ政権は特にイスラエルを支援する:716万人(全米の3%)のユダヤ人はマスコミ、ハリウッドなどで力がある。

・世界はどのような時代になっているのか:ロシア・アメリカ・EU・ISなど、トランプのデマゴーグに引きつけられている。

トランプ大統領イスラムに対するヘイトを繰り返し当選。ムスリムスケープゴートにし恐怖心を利用(ヒトラー)。狂犬と呼ばれるマティス国防長官。

パレスティナ和平の進展:親イスラエル政権のトランプは真逆の発言を繰り返している。

・ペンス副大統領が大統領になれば、、。

・日本のなすべき役割:今まで好かれてきたイメージを磨き上げることが大事だ。テロの動機を与えないこと。日本は強い国ではなく「賢い国」になれ(なだいなだ)。中村哲医師「仕事をしていれば戦争は考えない。仕事がないから戦争に行く」。中小企業育成で世界の平和を後押しせよ。アラブの失業率20%、生産性が低い。女性の教育率を向上させ社会進出させ出生率を低下させる。子だくさんで食が追いつかない。

・日本にできること:イスラム文明への敬意を持つ。中世ヨーロッパの発展に多大なく貢献をした。ラテン語翻訳、ゼロの発見、十字軍による知識共有、三角法、ユークリッド幾何学、振り子の法則、錬金術、アルカリ・アルコール、、。イスラムの価値観は、協力・扶助・献身。日本人はイスラム世界に尽くしてくれた十思ってもらおう。うらまれないようにやるべきだ。日本はアメリカと一体にならないようにすべきだ。トランプはいつまで保つか?国連平和維持活動(PKO)のシリアゴラン高原での兵力引き離し等に活路をみいだせ。

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 「名言との対話」6月8日。岩田専太郎「「一日5人。3万数千人の女がいつのまにかできる」

岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体專太郞1901年6月8日 - 1974年2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。

ある日、文京区千駄木の住宅街にある「金土日館・岩田専太郎コレクション」を捜し当てて常設展を堪能した。
1901年の浅草生まれだから20世紀の初年生まれである。昭和天皇とディズニーと同い年だ。戦争で無一文になった専太郎は、俳優の長谷川一夫の居候になり、3年間を過ごす。1920年19歳で挿絵画家としてデビュー。以来、73歳で死去するまで、半世紀にわたって雑誌や新聞を舞台に活躍。25歳、吉川英治の「鳴門秘帖」(大阪毎日新聞)の挿絵で一流挿絵画家の地位をえる。時代小説、探偵小説などあらゆるジャンルの挿絵を、時代に即した新鮮な感覚で描いた。この間、ずっと挿絵画家としてトップの地位を保った人生だった。
岩田専太郎が生涯に描いた挿絵は6万枚。親友の小説家・川口松太郎は「挿絵を描くために生まれてきたような男」と評している。浮世絵の伝統を基礎に、時代の流行を敏感にとらえ、画風を変化させていった。大胆な遠近法、装飾的な画面構成、映画のアングルやクローズアップの手法、新しい印刷技術ん織先取りなどを採用した「専太郎調」といわれる独自のスタイルを確立した。岩田によれば、義太夫太夫は小説家、三味線は挿絵画家という関係という見立てがある。

新聞、雑誌、ポスター、レコードジャケットなど夥しい作品がある。大仏次郎赤穂浪士」。小島政二郎「花咲く樹」。火野葦平「青春発掘」。冨田常雄「処女峰」。船橋聖一「夜のリボン」。小島政二郎「甘肌」。司馬遼太郎竜馬がゆく」。司馬遼太郎「世に棲む日々」。吉行淳之介「裸の匂い」。松本清張西海道談奇」。山岡荘八徳川家康」。映画ポスター「木枯し紋次郎」。レコードジャケット「森進一・無情の夢」。日吉ミミ「失恋」、、。
「挿絵画家には椅子が用意されていない。現役であることが位置であり、第一線から下ると、座る椅子は取り上げられてしまう」から、その覚悟で精進を続けた。「きのうは過ぎ去ってもうない。あすはまだ来ない。今日があるだけ」、そして「絵はかくもんじゃない。生まれるものだ。どんな子が生まれるか」という岩田は「専太郎美人」という言葉があるほど、生涯にわたって美人女性を描き続けた。「一日5枚で3万数千枚」、ということは、20年間の日々が必要になる。そして生涯で描いた挿絵は6万枚に達した。この計算でいくと実に33年の歳月である。継続の凄みを感じる人生だ。

中津市立小幡記念図書館に「郷土の作家資料室」がオープン:松下竜一・久恒啓一・巴里夫・藤田伝・小野不由美

6月2日、中津市立小幡記念図書館に「郷土の作家資料室」がオープンした。

中心になるのは、『豆腐屋の四季』などで有名な松下竜一(中津北校の先輩)の資料だが、私も郷土の作家の一人に加えていただいた。

松下竜一氏の他、久恒啓一氏(多摩大学副学長)、巴里夫氏(漫画家)、藤田傳氏(劇作家)小野不由美氏(作家)の作品を展示しています。」

「資料の中心は、『豆腐屋の四季』等で知られる、同市を代表する作家、松下竜一氏の自宅が2016年12月に取り壊された際に、自宅にあった旧蔵書約4,000冊の中から、図書館に寄贈された、特に重要な612冊です。その他、松下氏のファンの家族からの寄贈本120冊」。

トピックス|中津市立図書館

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 「副学長日誌・志塾の風」170606

・健康診断

・樋口先生:久しぶりに研究室で歓談。ブータン、上海、モンゴルなどの旅行で忙しいとか。食事会を予定。

・杉本係長:教育内容説明会資料確認。

・趙先生:済州島セミナーの報告あり。

 

「名言との対話」6月7日。梅田雲浜君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」

梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日1815年7月13日)- 安政6年9月14日1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者

 幕末に儒学者として立った梅田雲浜は、対外関係が緊迫するにつれて、政治的発言と行動を起こしていく。

小浜藩の重役に海防策を書き送り藩政批判を行ったとして士籍を削られ浪人学者となる。ペリー来航にあたり徳川斉昭の幕閣登用を主張。ペリー再来時には江戸で吉田松陰と交渉。水戸では家老の武田耕雲斎攘夷論を説くが効果なく帰京。ロシア軍艦が大坂天保山沖に現れ条約締結を迫ると妻子を放置し大坂に下る。京都で志士の指導者となり、上方と長州の産物交易に携わる。将軍継嗣問題・条約勅許問題が起こると一橋慶喜擁立・勅許繁多を推進。

こういった活動のため、安政の大獄が始まると二人目の逮捕となった。取り調べが終わらないまま獄中で病死。享年45。東京、京都、小浜に墓がある。京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。

冒頭の歌は尊攘家・梅田雲浜の辞世である。獄中にあっても、ただ「攘夷の大義」を唱え続けた。時局に関する大局観と激烈な行動のこの持ち主は、我が身を捨てて時代の転換期の先駆けの役割を果たした。

山本周五郎展(山梨県立文学館)--要するに「うまく書こう」といふ気持ちから抜けることだ

 山梨県立文学館で開催中の「山本周五郎展」をみる。

1903年山梨県大月市初狩町生まれ。本名は清水三十六(さとむ)。貧困のなかで生長する。

甲州人気質を嫌悪していた。それは面従腹背、吝嗇、フレキシビリティがない、妄執。

山本周五郎には恩人が二人いる。生涯第一の恩人は小学校の水野実先生「君は小説家になれ」とアドバイスをもらっや。このことが一生を決定したのである。

生涯第二の恩人は小学校卒業後に奉公にでた東京木挽町の質屋「きねや」山本周五郎商店の主人である。店主は奉公人に英語学校、簿記学校に通わせた、徳のある人だった。「真実の父」と呼んだ。筆名の山本周五郎は、この恩人の名前だったから、その恩の深さがわかる。

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 20歳で関東大震災に遭い、山本商店は焼失。周五郎は神戸の須磨、帝国更興信所文書部を経て、1928年浦安に転居し、定期蒸気船で京橋の日本魂社記者として通うが、3時間ほどかかり昼過ぎに到着、遅刻が多くクビになる。浦安は風景が気に入っている。

1929年、児童映画脚本懸賞に「春はまた丘へ」で1位に当選、これは映画化された。

1930年、結婚し鎌倉へ。

1931年、馬込文士村に転居。尾崎士郎村岡花子藤浦洸石田一郎などと交流する。尾崎士郎からは「曲亭」(へそまがり)という名前をつけられる。人が白と言えば黒といい、右と言えば左と反論する。

第17回直木賞に「日本婦道記」で擬せられるが辞退。「もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか。さういう気がします」が辞退の弁だ。文学は文学賞のために存在するものに非ずという堅い倫理観の故であった。その後も「樅の木は残った」で毎日出版文化賞、「青べか物語」で文藝春秋読者賞も辞退している。読者から与えられる好評以上のいかなる賞もあり得ないと確信していた。

1945年に妻きよは不帰の客となった。武家型の忍従の夫人だった。山本周五郎は41歳。

1946年、自宅の筋向かいに住む江戸っ子・吉村きんと再婚。あけっぱなしで明朗。

44歳、45歳頃「純文学も大衆文学もないという足場を確かめた。12,3年かかった。これから、その足場に立って、私の小説を書いてゆくわけである。すべては「これから」のことであるし、時間のかかることであろう、、」

土岐雄三あての葉書「一日五枚以上は、石にかじりついても書こう」と毎日執筆することの大切さを述べている。

人間嫌い。講演は拒絶。園遊会は欠席。「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」とい反骨ぶりだった。

1955年以降は、おそるべき力作のラッシュであった。1960年に発表した「青べか物語」は生涯最高と評価された傑作である。「長い坂」と「さぶ」はすぐれた自己形成小説だ。

「要するに「うまく書こう」といふ気持ちから抜けることだ」

「わが人生のもっともよく有り難き伴侶 わが妻きんよ そなたに永遠の幸福と平安のあるやうに 周」

「文壇酒徒番付1963」が貼ってあった。それによると、横綱石川淳井伏鱒二。張り出し横綱山本周五郎河上徹太郎大関吉田健一壇一雄

「満足やよろこびのなかよりも、貧困や病苦や失意や絶望のなかに、より強く感じることができる」

「大切なのは「生きている」ことであり、「どう生きるか」なのである」

「人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。--私はそれを書きたかった」

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 隣接の山梨県立美術館で開催中の「バロックの巨匠たち」をみる。

 万力公園。万葉の動植物の公園。犬養孝の解説が本人の声で聴くことができる。ここには時間を取ってきたい。

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 公園の一角に立つ甲州根津嘉一郎の巨大な銅像鉄道王根津美術館f:id:k-hisatune:20170607051221j:image

  「名言との対話」6月6日。川端龍子「画人生涯筆一管」

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年明治18年6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前日本画家俳人文化勲章

庶子として届けられたことを知り、「俺は龍の落とした子なのだ」として、30歳前から「龍子」の画号を使った。28歳、国民新聞社員として渡米、ボストンで「平治物語絵巻」など日本の古美術に出会う。29歳、帰国後日本画家に転向。30歳、再興日本美術院展に入選し才能が開花。44歳、「堅剛なる芸術の実践」を宣言し、自らの美術団体である青龍社を設立(亡くなるまで37年間運営)。

「目前の刺激に動揺することなく、横路へ外れず、自己の信ずる大道を誠実をもって固く踏んでゆけるように、日常的に心の訓練を重ねる努力がなければ、この自信を高めることは出来ないであろう」

「井戸を掘るように、深く深くと掘り下げて行こうとするもの、一つは泉水のように、そう深くなくとも成るべく広く広く動こうとするものである。自分の場合は浅くとも庭の池のように広く広くという方向にあるのではないか」

筆一管で自己の信ずる「堅剛なる芸術の実践」という大道を強く意識し、仲間をその旗の下に組織化し、小さく凝り固まらずに、大きく展けるように進んで行く。眼前の刺激に迷うことのないように、心の訓練を重ねる努力をした人だ。

石橋湛山記念館。南アルプス・クライネガルテン。

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理事長の浅川保先生から詳しく説明を受ける。このミュージアムは10年前に開館。山梨の生んだ石橋湛山の内閣誕生・退陣50周年にあたる2006年から企画展、シンポジウム、講演会などの積み重ねの上に、2007年5月26日にオープンした。寄付金3800万円で土地と2階建ての建物をつくったのである。

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第二次大戦では、甲府はアメリカ軍の大空襲(たなばた空襲)を受けて1127名が亡くなっている。負傷者1239目、被害戸数18094。この甲府には甲府連隊が1909年から1945年まで存在した。49連隊は満州、フィリピンレイテ戦、149連隊は、日中戦争でドイツの指導を受けて毒ガスを使用した。

甲府空襲:ある少尉「生き地獄であると知りつつもあまりの見事さに見とれるほど」「これが破滅の美」

内田俊一日記(1905年生・32歳で戦死)「今、漸く戦場日記を記しつつ頭上砲丸炸裂、、、生命の何処に消え失せるやも観念せり。霊は遠く故郷に帰りて、老母に会い妻と語らい坊やを抱く。故郷の山里を恋ひ村人をしたふ。戦場、只悲惨、死あるのみ」

 2階が石橋湛山

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明治神宮の建設に対してノーベル賞のような「明治賞金」を提案。「最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度および思想に、デモクラシーの改革を行ったことにあると考えたい。世界人心の奥底に明治神宮を打ち建てよ」

一切を棄てる覚悟「小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。大欲を満たすがために小欲を棄てよ。満州を棄てる、山東を棄てる、その他志那が我が国から受けつつあると考える一切の圧迫を棄てる」

大日本主義の幻想「一体何国から我が国は侵略せらるるおそれがあるのか。野心を棄つるならば、、、戦争は起こらない。他国から侵略されることも決してない」

「兵営の代わりに学校、軍隊の代わりに向上」

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 浅川理事長と。

浅川保「偉大な言論人 石橋湛山」(山日ライブラリー)を購入。

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「名言との対話」6月5日。富本憲吉「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年明治19年)6月5日 - 1963年昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。1930年には重要無形文化財「色絵磁器」保持者として人間国宝となった。1961年、文化勲章受章。

実際、遺言には「骨は灰にして加茂川に流してしまうべし」とあった。家族はそういうわけにもいかず、先祖代々の墓地に石塔をたてている。

「作品だけが墓である」には芸術家の覚悟がみえる。これほどの決意で作品に立ち向かっていきたいものだ。

自己点検ヒヤリングの日

自己点検ヒヤリング。

8つの委員会を対象としたヒヤリングは、朝9時から18時まで。両学部、大学院の動きの全貌が見える貴重な時間だ。委員長・課長等も緊張するが、私も含めて学部長・研究科長・事務局長も質問や意見を投げかけるのが役目なので、気を張り詰めていなければならない。中期計画の進捗状況を含め、2学部・1研究科の全てを見渡せるので、現状認識だけでなく、改善点や方向感が共有できるのので大事な日である。大学院も含めベクトルがさらに合ってきたことを実感できた。

以下、ヒヤリング風景から。

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 「名言との対話」6月4日。木下順庵「胡霜漢月照刀環。百戰沙場久不還。萬馬夜嘶靑海戍。孤鴻秋度玉門關」

木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日1621年7月22日) - 元禄11年12月23日1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめた。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。

藤原惺窩の弟子・松永尺五に学ぶ。京都で私塾を開く。金沢の前田藩から招きを受けたとき、師の子を推薦して、感心した前田利常は両人とも召し抱えた。後に順庵は5代将軍徳川綱吉に招かれた。官学であった林家以外では初となる幕府の侍講をつとめている。

順庵は教育者として優れていた。「木門十哲」と呼ばれる俊才を育てている。対馬藩に仕えて朝鮮通信使の来訪時に活躍した雨森芳洲加賀藩前田家に仕え、後に将軍吉宗の侍講となる室鳩巣、紀伊藩の祇園南海、富山藩の南部南山、『大日本史』の編纂にかかわった三宅観瀾甲斐府中藩主徳川綱豊(のちの将軍家宣)侍講の服部寛斎なきらめく才能が輩出している。その中でもっとも有名なのが徳川家宣に仕え、「「正徳の治」を遂行した新井白石だ。白石失脚後も、順庵は徳川吉宗の信任を得て政治に関与している。

日本においては古来、詩は宋と元を範としてきたが、順庵は唐詩を主張した。冒頭の詩はその順庵の作である。「北国には霜が舞い降り星月が刀環を照して帰心を促すが、転戦久しく沙場からは帰れない。青海の駐屯地では軍馬のいななきが夜空に響き、玉門関の秋空には鴻(おおとり)が一羽群れを離れて飛翔し去る」。順庵の出現以後、日本の詩は唐詩を倣うようになったと荻生徂徠が言っている。弟子の白石や鳩巣には詩文集があるが、順庵にはないのは不思議だ。教育者だったということか。

研究活性化委員会主催のFD勉強会:プログラムが充実しており、教授陣の研究活動が進む。

FD勉強会。グローバルスタディーズ学部から高橋先生と杉下先生も参加。

  • 図書館(池田課長)のデータベース:電子ジャーナル検索。日本の論文・世界の論文。図書。新聞記事。雑誌記事。研究者・学会。他図書館。(JapanKnowledge.をどうするか?・首都大図書館? 図書館で!学外から?)
  • 佐藤先生「GoogleClassroom」(復習と訓練!)
  • 文教大学の森一将先生「科研費調査書書き方のコツ」:必読参考書「科研費獲得の方法とコツ 改訂版第4版」(児島将康)。「科研費申請書の赤ペン添削ハンドブック」(児島将康)。サイト「科研費新姓書類お書き方のコツ」(http://www.kakenhi.net/)(kakenデータベース!日刊ゲンダweb。)
  • 研究活性化委員会の出原先生:kakenデータベース
  • 研究活性化委員会委員長の下井先生:実例紹介

感想:敵を知り己を知らば百選危うからず。今年は史上最高の昨年実績を上回る申請になることは確実。研究分野も「量も質も」。採択が増えるだろう。

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  • 神保町の話題のマニタ書房を訪問するが、休みだった。

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インターゼミ。最来週の研究計画発表に向けて。

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  「名言との対話」6月3日。石坂泰三「青年はすべからく素直たるべし。壮年はすべからく狸芸にでるべし。老人はすべからく、いよいよ横着に構えて、憎まれることを覚悟すべし」

石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年明治19年)6月3日 - 1975年昭和50年)3月6日)は、日本財界人、経営者第一生命保険東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会経団連)会長。経団連会長を4期12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三を嚆矢とする。

 石坂は鶏頭の方が牛後よりもいいと考えて逓信省に入省し、4年務めたのち第一生命に移り社長まで勤め上げ同社を大いに発展させる。三井銀行東芝から東芝再建を依頼され社長に就任する。このとき、自分の腹心は連れて行かず単身乗り込んだ。理由は出処進退が自由にできるからだった。石坂の決意がうかがえる。6000人の人員整理の断行がやむを得ないという社員へのメッセージも従業員の心を打っただろう「従業員諸君、我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する。余は就任早々この再建に直面し多少なりとも犠牲者を出すことは甚々忍び得ざる処なるも、大局上このほかに途なきを確信する以上、諸君に於いても能くこの事態を認識し協力せられんことを切に希望する次第である」

石坂には仕事についての名言が多い。

・誠実に、そして厳しく自分を管理することが出来ていれば、あなたの部下の管理の必要性はない。

・ 会社につとめて、いろんなこと教えてもらうんだから、金払ってもいいくらいだ。

・私は人生万事、小成に安んじろというのではない。小さな地位でも、一日一日を充実感を覚えながら働いておれば、必ず道は開けてくる。不平不満をぶちまけるだけでは、道は真っ暗だ。一時の苦を忘れ、明日を夢見ながら、コツコツ働くしかない。

 ・上手くいったら、お前たちの功績、上手くいかなかったらオレの責任にしていい。

・無事これ貴人。

・人生のコースには人それぞれのペースというものがある。自分のペースに合わせて、息切れず、疲れすぎをせず、ゆうゆうと歩を進めて、とにかくその行き着くところまで、立派に行き着けばよろしいのだ。

財界総理としての考えは、今も通用する。

・経営に秘訣なしだ。よく勉強すること。これが経営者の任務。

・ 今の世の中で政治が一番悪い

・私の財界に対する注文、それは第一に経済道義の高揚ということだ。

 ・経済が政治に追従するのでは、大きな飛躍は望めない。政治に並行しながら、これに政策面で優先することが経営者の任務ではないだろうか。

青年は素直であることが一番の美徳だ。壮年に求められる狸芸とは何か。老人は横着に構えて憎まれよとはどういう意味か。城山三郎が書いた伝記をじっくり読んで考えたい。

土井英司『エグゼクティブ・ダイエット』(マガジンハウス)

出版プロデューサーで書評家の土井英司さんが「エグゼクティブ・ダイエット」(マガジンハウス)という本を贈ってきたので早速読了。土井さんには一度、取材をしたことがあり、その後もパーティで顔を合わしている。

土井英司さんは、一日一冊のビジネス本を紹介するメルマガ「ビジネスブックマラソン」を12年数ヶ月=4500日以上続けていて、今は読者は6万人を超えている。続けるのは意志の問題ではなく続ける技術を知らなかったからだ、という説には毎日ブログを書き続けている私も賛成だ。

どんなに忙しい人も必ずやせるビジネスマンの最強ダイエット エグゼクティブ・ダイエット

体重を76キロから62キロに落として快調に仕事を続ける40代初めの仕事師・土井英司が放ったダイエット本には何が書かれているか。

・鏡に身体を映して体型をチェックせよ

・一日2食・筋トレ5分を実行せよ

・野菜から食べて、それから魚や肉を食べよ

・スクワット60回、腹筋10回、腕立て伏せ20回から始めよ

・朝は水を摂り前日のものの排出に専念せよ

・ランチはコンビニでサラダ3つを買え(チョップドサラダ・サラダボウル)

以上を参考にしよう。

「時間と健康」に対する意識(コンシャス)がビジネスの、というより良き人生を送るための貴重な資源だ。それは健康寿命を延ばすことになり、日本社会の課題に貢献するだろう。「遊び」が人間の仕事になる時代を迎えようとしている今、2045年のシンギュラリティに向けて、改めて身体に着目したい。

著者本人の「使用前」と「使用後」の比較写真が載っていないのは、画竜点睛を欠く気がするが、どうだろう。

 

「副学長日誌・志塾の風」170602

授業:本日のテーマは「図解文章法」。

ラウンジ

・杉田学部長

・松本先生

・高野課長:学長からの伝言

・杉本係長:戦略会議

研究室

・橘川先生:永平寺、マニタ書房、ユーチューバー、、、、

・事務局との定例ミーティング:宮地局長・川手課長。

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「名言との対話」6月2日。小田実「人間古今東西みなチョボチョボや」

小田 実(おだ まこと、男性、1932年昭和7年6月2日 - 2007年(平成19年)7月30日)は、日本作家・政治運動家。体験記『何でも見てやろう』で一躍有名になった。日本に多い私小説を批判し、全体小説を目指した。九条の会の呼びかけ人の一人。

世界を貧乏旅行して好奇心の赴くまま見て歩いた「何でも見てやろう」(1961年。29歳の時の出版。河出書房新社)という本が大ベストセラーになって、大学生のときに興奮して読んだ記憶がある。「たしかにアメリカ合州国から始まって世界大にひろがった旅は、私の思考、人生に大きく風穴をあけた。そこから風は激しく入って来て、余分なものを吹き飛ばした。私はそれを書いた。」と小田が述懐するこの本は若者の世界への目を開いた歴史的な本だった。

小田実は1960年代後半から1970年代前半にかけて活発に活動していた「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)を創るなど政治活動に多くの影響を与えた。大学時代にはこの人の発言に注目していた。就職後、20代の後半にロンドンで仕事をしていたが、そのとき、小田実が近くを通った。事務所にいると、中東地区を担当する偉い人(この人は豪放な人として有名だった)が「オメエ、小田まことって知っているか?」と聞くので、「それは有名な人ですよ」と答えたら、「そうか。オレは小田実(小田みのる)なら知っているが、小田マコトなんてしらないと答えたが違っていたかなあ」といって笑ったので、私もおかしくなったことを思い出す。

その後、日本に帰り30歳頃から知的生産の技術研究会(知研)に参加した。このとき「激論!ニッポンの教育」(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英二邸を訪れたことがある。ここで有識者の座談会を行い、それを編集して本にするという企画だった。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。いったいどんな座談会になるのかと思っていたのだが、始まってみると当時の教育の主流である次官経験者と舌鋒鋭くそれを批判する小田実の一騎打ちの様相を帯びてきた。小田実は体が大きく骨太な骨格を持った偉丈夫だが、相手の理論を真上から粉砕しようとする迫力があった。後で講談社の編集者に聞くと「小室直樹も毒気が強いが、小田実は毒の強さが上だからね」という返事だった。

大阪での知研の講演の前のに時間があって二人で喫茶店でしゃべったとき、考えがまとまってきた「図解」の理論を説明したら「それは大変なこっちゃなあ」と感心してもらったことを思い出す。セミナーの司会を私がやって、会員の車で小田さんを送っていった光景を思い出す。風圧は強いが、気さくな、そして大きな人だった。

「まあ、もうちょっと、行ってみようやないか。ほんとうに未知なものにむかって進むとき、人はそんなふうに自分に対して言うほかはない」

「ひとりでもやる。ひとりでもやめる」

二つ上の同志であった小中陽太郎は「この男には世界大の題材を摑み取るエネルギーとマイノリティにこだわる人生観の両面があった」と著書で語っている。もちろん世界と一人で対峙する魅力もあるが、等身大の小さな人間としての視点で動き、人々を巻き込んでいく姿も魅力的だった。そうだ、偉そうなことをいっても、人間は皆チョボチョボなんだ。小田実が言うと共感が湧き、何か可笑しい。肩の力を抜こう。