6月2日、中津市立小幡記念図書館に「郷土の作家資料室」がオープンした。
中心になるのは、『豆腐屋の四季』などで有名な松下竜一(中津北校の先輩)の資料だが、私も郷土の作家の一人に加えていただいた。
「松下竜一氏の他、久恒啓一氏(多摩大学副学長)、巴里夫氏(漫画家)、藤田傳氏(劇作家)、小野不由美氏(作家)の作品を展示しています。」
「資料の中心は、『豆腐屋の四季』等で知られる、同市を代表する作家、松下竜一氏の自宅が2016年12月に取り壊された際に、自宅にあった旧蔵書約4,000冊の中から、図書館に寄贈された、特に重要な612冊です。その他、松下氏のファンの家族からの寄贈本120冊」。
「副学長日誌・志塾の風」170606
・健康診断
・樋口先生:久しぶりに研究室で歓談。ブータン、上海、モンゴルなどの旅行で忙しいとか。食事会を予定。
・杉本係長:教育内容説明会資料確認。
・趙先生:済州島セミナーの報告あり。
「名言との対話」6月7日。梅田雲浜「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」
梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日(1815年7月13日)- 安政6年9月14日(1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。
幕末に儒学者として立った梅田雲浜は、対外関係が緊迫するにつれて、政治的発言と行動を起こしていく。
小浜藩の重役に海防策を書き送り藩政批判を行ったとして士籍を削られ浪人学者となる。ペリー来航にあたり徳川斉昭の幕閣登用を主張。ペリー再来時には江戸で吉田松陰と交渉。水戸では家老の武田耕雲斎に攘夷論を説くが効果なく帰京。ロシア軍艦が大坂天保山沖に現れ条約締結を迫ると妻子を放置し大坂に下る。京都で志士の指導者となり、上方と長州の産物交易に携わる。将軍継嗣問題・条約勅許問題が起こると一橋慶喜擁立・勅許繁多を推進。
こういった活動のため、安政の大獄が始まると二人目の逮捕となった。取り調べが終わらないまま獄中で病死。享年45。東京、京都、小浜に墓がある。京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。
冒頭の歌は尊攘家・梅田雲浜の辞世である。獄中にあっても、ただ「攘夷の大義」を唱え続けた。時局に関する大局観と激烈な行動のこの持ち主は、我が身を捨てて時代の転換期の先駆けの役割を果たした。