学部の「立志人物伝」:8回目は「女性」の偉人編。与謝野晶子・樋口一葉・石井桃子・向田邦子・草間弥生・志村ふくみ

学部の授業「立志人物伝は快調に進んでいる。

8回目の授業「怒濤の仕事量」では「女性」の偉人を取り上げた。以下、受講生のアンケートから。毎回のメッセージは若者の心に届いている。

・偉人に負けないように⾃分の世界観を広げようと強く考えさせられた。

・⽩洲正⼦さんの⾔葉は⾃分でも薄々と感じている部分があった。「命がけで何かを実⾏すること」今の私に⾜りていないのは「命をかける覚悟」なのかもしれない。
・命がけで何かを実⾏してみることが⼤切だと分かった。私も何かを実⾏してみようと⼼がけたい。

・与謝野晶⼦の詩は当時の⽇本の思想には反していたが公表できたことの凄さが分かった。

与謝野晶子「⼈は何事にせよ、⾃⼰に適した⼀能⼀芸に深く達してさえおればよろしい」という⾔葉は今回の講義で⼀番いいものだと思った。

・与謝野晶⼦のエッセイを少しずつ読んでみようと思った。
・与謝野晶⼦は詩も素晴らしいが、その⽣きるエネルギーが凄まじい。

・与謝野晶⼦は13⼈⼦どもを育てながら仕事をこなしたと知り、どういう⽣活をしたらそこまでのことができるのか不思議に思った。

・与謝野晶⼦や樋⼝⼀葉は戦時中の男尊⼥卑の時代にまわりの⾵習や視線に負けずに⾃分⾃⾝の⽣き様を精⼀杯出し切った事に羨望の念を感じた。与謝野晶⼦の死にたまふことなかれには、とても驚きを覚えた。
・樋⼝⼀葉の⾔葉の中で「このような時代に⽣まれた者として、何もしないで⼀⽣を終えて良いのでしょうか。何を為すべきかを考え、その道をひたすら進んでいくだけです」という⾔葉から、限られた中で活躍していく⼥性の⼒強さが素晴らしいと思った。

・樋⼝⼀葉は今の私達と同じくらいの年齢で亡くなっていた。⾔葉を調べようと思う。
・⽯井桃⼦さんに関⼼を持った。有名な本を作っていることを知らなかった。本を詳しく知っていても、作者のことを知らないといけないと感じた。

・⽯井桃⼦は70年間にわたり本を出し続けその対象が全て⼦ども向けということに驚いた。

・向⽥邦⼦さん、いつ死んでもいいように⼀⽇全⼒をかけているが⼼に刺さった。

向田邦子のいうように人生は終わるかは誰も分からないから後悔無く今を⽣きていかなければならないと思った。

・向⽥邦⼦のエッセイはとても好きでよく聞いていたので、本講義で取り上げられてとても驚いた。
・草間彌⽣さんの⼈物像には惹かれるものがあった。
・草間さんの美術館に⾏ってみたい。

 ・志村ふくみ⽒の「⼈は⾃然と対等な関係ではなく⾃然の中に⼈が⽣かされている」という⾔葉に現代の⼈々のエゴや傲慢さが含まれていると思った。

 

「名言との対話」11月26日。梅屋庄吉「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」

梅屋 庄吉(うめや しょうきち、明治元年11月26日1869年1月8日)- 昭和9年(1934年11月23日)は、日本実業家 

梅屋庄吉は香港、シンガポールなどでも写真業を営む国際的実業家であり、そこから発展して映画興行を大々的に行った人物だった。日本活動写真、後の「日活」を創業したメンバーの一人で、創業時には取締役を引き受けている。1911年にはカメラマンを中国各革命の戦場へ送り出し、1912年には白瀬中尉の南極探検の記録映画をつくり全国で上映するなど熱血漢だった。美男、おしゃれ、美食家、早起き、そして書斎にこもる人だったそうだ。そして映画の黎明期の主役の一人であり、アイデアマンだった。
1915年には、東京大久保の梅屋邸で孫文宋慶齢の結婚披露宴を行っており、この時の写真は、上海の孫文記念館でも見たことがある。孫文49歳、慶齢は22歳だった。慶齢は孫文亡き後は中国共産党で活躍し、国家副主席にまでなっている。北京の宋慶齢記念館で、毛沢東金日成と談笑する慶齢の写真を見たことがある。2008年の上海万博でも「孫文梅屋庄吉展」が開催されている。

孫文死去の後も、1925年には東京で孫文追悼会を開き、1929年には南京で孫文銅像を建てている。この時の写真では梅屋の隣は孫文の後継者・蒋介石とその妻・宋美齢だった。

中国と台湾双方から国父と呼ばれている孫文は、日本との縁が深い。中国革命がなった後、革命に貢献した日本人として、幾人かの人物を挙げている。資金援助は、久原房之助と犬塚信太郎。奔走したのは、山田良政、山田純三郎兄弟。宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟。菊池良士。萱野長友。不思議なことに梅屋庄吉の名前は出てこない。それは、孫文梅屋庄吉が1895年の双方が20代後半の若いときに交わした「孫文の革命を梅屋が資金援助する。このことは一切口外しない」という盟約のためだった。「ワレハ中国革命ニ関して成セルハ 孫文トノ盟約ニテ為セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙など一切口外シテハナラズ」というノートを梅屋は残している。迷惑を受ける人のことを案じたのだ。そのことが梅屋の名があまり知られていない原因だった。梅屋は孫文の南京での国葬の時には、日本人としてただ一人孫文の柩に付き添っている。

孫文が梅屋に送った「同仁」という書は、すべてのものを平等に愛するという意味がある。また、梅屋は、「積善家」というい書を書いている。積善の家には必ず余慶ありという意味である。 

梅屋庄吉関東大震災は避暑のために滞在していた千葉の別荘で遭っている。13日には大久保の留守宅に向かった。「東京市民の惨害は酸鼻の極に達し到底筆紙のよくする所ではない。、、この世ながらの修羅地である。」「最近の鮮人騒ぎの〇〇に顧みるときは、負けいくさに対しては、国民は必ずしも頼もしき国民ではないとの観念を一般外人に抱かしむるに至ったことを残念に思ふものである。、、朝鮮人騒ぎの経験は日本国民性の最大欠点を遺憾なくばく露したるものとして切に国民的反省を促さんとするものである。」

中国革命は日本人の支援者無くしては為し得なかったという説もあるほど、孫文の支援者は多かった。清朝は倒れたが、孫文が遺書で言っているように「革命はいまだならず」で、中国は共産党の国になっていき、日本とは戦争状態になっていった。このため、日中双方とも、こういった日本人の存在について触れないことになってしまった。梅屋のほかにも、熊本出身の宮崎滔天などももっと知られていい人物だと思う。

「中国の未来のためには革命を起こして清朝を倒すしかない」と話す若き孫文に対して、梅屋は「君は兵を挙げたまえ、我は財をあげて支援す」と誓った。映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像文化大革命紅衛兵の攻撃にあったとき、周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」ととめて難を逃れたというエピソードがある。日中関係の古層にはこのような物語があることを忘れてはならない。

服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』

インターゼミの前に神保町の古本屋をひやかす。3冊の古本を購入。

その中の一冊は、服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館)だ。

事典 有名人の死亡診断 近代編

 青木周蔵から和田豊治、渡辺渡までの173人の近代の有名人の略歴と死因を調べた本である。著者は医学博士で、奈良時代から近代までの医学史をライフワークとしており、その過程で死因を分析している。個別の有名人の死に至る足跡にも興味が湧くが、「はじめに」と「付録 近代有名人の死因一覧」(含む没年齢)を読みながら帰った。

明治維新によって文化の向上だけでなく、衣食住など日常生活は著しく向上した。その変化は当時の一流知識人に影響が早く現れた。そのことによって著名人の平均死亡年齢は高く、一般庶民のそれとは大きな差異がでた。

明治、大正時代の著名人の平均死亡年齢は、昭和30年(1955年)以降の一般国民のそれと同じである。ことに昭和初期の著名人の死亡年齢69.9歳は、一般国民の昭和48年以降の70.7歳に等しくなっている。

著名人:昭和時代63.0歳。大正時代65.5歳。昭和15年迄69.9歳。

一般人:昭和24-31年(1891-1898)42.3歳。明治32-36年(1899-1903)43.9歳。明治42-大正2年(1909-1913)44.2歳。大正10-14年(1921-1925)42.0歳。大正15-昭和5年(1926-1930)44.5歳。昭和22年(1947)50.0歳。昭和30(1955)63.6歳。昭和40年(1965)67.7歳。昭和48年(1973)70.7歳。

つまり明治大正時代の著名人は一般人より20年の長生きという驚くべき結果である。

また死因では、明治大正時代の著名人は脳血管障害が1位で、2位がガン、3位腎炎・尿毒症、4位心臓疾患、5位肺結核である。一般人は明治33年ー昭和14年は肺炎気管支炎が不動の1位で、全結核、胃腸炎、脳血管障害などが続く。昭和28年からは、脳血管障害が1位、2位がガン、心臓疾患などが続いている。

この死因の順位でも明治大正時代の著名人は一般人の昭和28年以降と同じになっている。

明治大正時代に亡くなった著名人の生活環境は、一般人の昭和28年以降と環境にあったといえる。

 「近代有名人の死因一覧」では287人が俎上に乗っている。85歳以上の長生きの人をならべてみよう。

東龍太郎(肺炎)90歳。天野貞祐(老衰)95歳。石黒忠直(医師)97歳。石橋湛山脳梗塞)88歳。伊藤圭介(慢性胃腸炎)99歳。宇都宮徳馬(肺炎)93歳。大隈重信8腎臓炎)85歳。大倉喜八郎(大腸癌)92歳。岡田嘉子(老衰)89歳。鏑木清方(老衰)93歳。樺山資紀(脳溢血)86歳。木下恵介脳梗塞)86歳。小磯良平(肺炎)85歳。佐々木信綱(急性肺炎)91歳。今和次郎(心臓麻痺)85歳。佐多稲子(敗血症)94歳。渋沢栄一(直腸癌)92歳。昭和天皇(腺癌)87歳。新見吉治(老衰)100歳。住井すゑ(老衰)95歳。田中清玄(脳梗塞)87歳。鶴見祐輔脳軟化症)88歳。東郷平八郎喉頭癌)88歳。富岡鉄斎(胆石症)89歳。西尾末広(腎不全)90歳。埴輪雄高(脳梗塞)87歳。東山魁夷(老衰)89歳。平塚らいてう(胆嚢胆道癌)85歳。松方正義(肺炎)90歳。御木本幸吉(胆石症)96歳。三島中洲(流感)90歳。諸橋轍次(老衰)99歳。山縣有朋(肺炎)85歳。

----------------

「名言との対話」11月25日。銭屋五兵衛「世人の信を受くるべし。機を見るに敏かるべし。果断勇決なるべし」

銭屋 五兵衛(ぜにや ごへえ、安永2年11月25日1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日1852年12月31日)は、江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。金沢藩御用商人を務めた。

石川県金沢市の銭屋五衛兵記念館。を訪問。加賀藩の財政に大きな貢献をした豪商で、「海の百万石」と言われた傑物である。39才から海の商いに入り、廻船で大商いをし、すぐれた経営手腕を発揮した人物である。この人は桐生悠々「銭屋五衛兵」、海音寺潮五郎「銭屋五衛兵」、舟橋聖一「海の百万石」、津本陽「波上の館」童門冬二「銭屋五兵衛と冒険者たち」などの小説等に描かれている。

藩の御用金調達などに尽力したが、河北潟干拓事業に着手するが、反対派の中傷による陰謀で無実の罪で80歳で獄中死するという数奇な運命をたどる。しかし明治維新後は鎖国体制下で海外交易を試みた先駆者として評価が高まった。

「初鶏や家家けっこうな八重の年」が辞世の句。

北前船の豪商・銭屋五兵衛の「信「敏」「勇」は、空間と時間の交点に立ち、勇気を持って決断することの重要性を教えてくれる。

山本周五郎の箴言集『泣き言はいわない』--「この世は巡礼である」

山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。

山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。本の内容自体が箴言で成り立っていると言えるし、山本の酒じゃ説教酒で人生論が多く仲間からは敬遠されていたそうだ。その山本の小説の箴言のなかから編んだ箴言集である。

山本周五郎の人生の指針は、「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)。スエーデンの作家・ストロンドベリは「最も大きく且つ尊く良き師であり友である」と『青かべ日記』に記されている。 

泣き言はいわない (新潮文庫)

泣き言はいわない (新潮文庫)

 

 以下、私の心に響いた言葉をピックアップ。

・人生は教訓に満ちている。しかし万人にあてはまる教訓は一つもない。

・人間がこれだけはと思い切った事に十年しがみついていると大抵ものになるものだ。

・大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。その心さえたしかなら、結果の如何は問題ではないと信じます。

・持って生まれた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。

・能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。

・仕合わせとは仕合わせだということに気づかない状態だ。

・世間は絶間なく動いています、人間だって生活から離れると錆びます、怠惰は酸を含んでいますからね。

・養育するのではない、自分が子供から養育されるのだ、これが子供を育てる基本だ。

・およそ小説作者ならだれでもそうであろうが、書いてしまったもんおには興味を失うものだ。

・人間が生まれてくるということはそれだけで荘厳だ。

・人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからであろう。

 

「副学長日誌・志塾の風」171124

10時:久米先生と懇談。

10時40分:授業「立志人物伝」。本日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」。安岡正篤二宮尊徳野口英世新渡戸稲造サトウハチローを取り上げて、映像や音声も含めて紹介。終了後のアンケートをみると、圧倒的に二宮尊徳への共感が大きいのに驚いた。

12時半T-Studioでの収録「名言との対話」。テーマは百寿のセンテナリアン。具体的には児童文学の石井桃子と、短歌の土屋文明

13時:事務局との定例ミーティング:杉田学部長。川手総務課長、水嶋教務課長。

 

「名言との対話」11月24日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家

17歳で玉堂を名乗る。岡倉天心創立の日本美術院には当初から参加。日本画壇の中心人物の一人。67歳、文化勲章。戦時中は東京都西多摩御岳に疎開。その住居を「寓庵」、画室を「随軒」命名していた。日本の四季の山河と、人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描いた。

御岳(みたけ)にある日本画の巨匠・川合玉堂美術館に到着するが、突然の豪雨に襲われる。「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。川合玉堂は19歳ほど年下の吉川英治とも親しかったそうだ。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。この玉堂も国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。

玉堂は書も、俳句、短歌も巧みであった。「河かりに孫のひろひしこの小石 すずりになりぬ歌かきて見し」。これは孫が拾った石を硯にして、座右の珍としたときの歌である。また「武蔵小金井」という駅名にひっかけて、「あの剣豪の宮本武蔵には子供があったかね」と尋ねていたという。玉堂はしゃれの名人でもあった。

晩年のインタビューで「先生、日曜日はどうしていらっしゃいますか、絵をお描きにならないときは何をしていらっしゃいますか」と聞かれたときの玉堂の答えだった。1年365日、絵のことを考え、ひたすら絵を描くという一直線の生涯であった。

多摩大インターネット放送局「トレンドウオッチャー」第10回--久米信行さんとの対談は「音声データ」がテーマ。

インターネット放送局トレンドウォッチャー第10回掲載お願いいたします。
「第10回」多摩大学 客員教授 久米繊維工業株式会社 取締役会長 久米信行 氏       多摩大学 教授 久恒啓一
 「時代の先端で活躍する久米信行 客員教授久恒啓一 教授が、最近発売
されたばかりのスマートスピーカーについて、私達の生活をどのように豊かに
していく可能性があるのかを、音声データがもたらす可能性も含めて熱い思い
を語ります。」

www.youtube.com

「名言との対話」11月23日。久米正雄「微苦笑」

久米 正雄(くめ まさお、1891年明治24年)11月23日 - 1952年昭和27年)3月1日)は、日本小説家劇作家俳人

一高時代から菊池寛(3つ上)と芥川龍ノ介と親しかった。この3人の師匠は夏目漱石であった。「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。 これは大正五=一九一六=年八月二十四日、芥川龍之介久米正雄(25歳)宛書簡にある漱石の言葉である。久米は41歳、石橋湛山の後を継いで鎌倉市議にトップ当選。46歳、東京日日新聞学芸部長。日本文学報国会事務局長。54歳、鎌倉文庫社長。鎌倉ペンクラブ初代会長。桜菊書院『小説と読物』を舞台に、漱石の長女筆子の夫となった恋敵・松岡譲と夏目漱石賞を創設したが、桜菊書院の倒産でこの賞は1回で終わっている。

福島県郡山市の文学の森にある久米正雄記念館は、鎌倉から移設した和洋折衷の74坪という大きな邸宅だ。記念館の近くにある久米の銅像は愉快そうに笑っている顔だった。銅像が呵呵大笑しているのは珍しい。

ゴルフ、スキー、社交ダンス、将棋、花札、マージャン、俳句、絵など趣味は極めて多く、親友の菊池寛の後を継いで日本麻雀連盟の会長もつとめっていた。酒席での得意芸の歌は、酋長の娘、船頭小唄などだった。ほうじ茶でウイスキーを割った番茶ウイスキーを発明したり、愉快な人だったらしい。久米が入ると座が楽しくなるという人柄だ。

久米正雄には友人が極めて多い。里見頓、大仏次郎今日出海佐藤春夫広津和郎、、、。久米の長男昭二は昭和2年生まれだが、同年生まれの野田一夫先生の父上はゼロ戦の技術者、私の母の父は旧制中学校の校長だったというから、その時代の空気がなんとなく見える気がする。

芥川は「その輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義ロマンチシズム。、、」と久米の人柄を語っている。「微苦笑」は久米自身の造語であった。小谷野敦の書いた久米の伝記『久米正雄伝--微苦笑の人』では、この微笑とも苦笑ともつかない、かすかな苦笑いを浮かべながら日々を過ごした人とその生涯を総括している。

多摩:学部教授会。新人先生の授業見学。品川:大学院運営委員会。

「副学長日誌・志塾の風」171122

・杉田先生・金先生・杉本係長:メンター。VOICEのあり方。多摩大式コンピテンシー

・学部運営委員会:教授会前の執行部の打ち合わせ:ゼミのあり方を議論し考え方を変えることに(今年は2次・3次で吸収)、教授会で説明。

・教授会:文科省研究ブランディング事業が採択された。今年の文科省私立大学改革総合は3つ合格した。

・小林先生:研究ブランディングの進め方

・デメ研とのZOOM会議トライアル:説明本を注文。

 ラウンジ

・杉田学部長:ゼミのあり方。事業計画。

・志賀先生

・杉本係長

・飯田先生:英語教育

・高野課長・山本:ZOOM。Podcast

・14時40分から授業見学:新人の野坂先生の「多摩学」。見学者は、杉田、金、水盛、小西、私の5人。

f:id:k-hisatune:20171123070306j:image

 最初に本日の授業の全体像を説明。事前に指名した2人の調査を発表させる(フィールドワークのインタビュー、自分のダンス、音楽も付けた動画を制作して発表する学生も)。どんどんあてていく。大人数であるが静かに聴いている。質問するとポイントがもらえる。クイズ方式。課題用紙に数字などを書き込ませ提出させる。スライド資料はT-NEXTにアップ。個人ワークあり。テンポがいい。、、、野坂先生本人が多摩についてよく勉強している。アクティブ・ラーニングを強く意識した授業スタイルに感心。

 品川キャンパス

 ・17時半:大学院運営委員会:事業計画。規程変更(3コースから一本化)。教務(時間割。シラバス。研究ブランディング。VOICEの数字)。入試広報(入試。MBAEXPO。体験講座)。院生(授業料減免)。2018年度教授会・運営委員会。

 

「名言との対話」11月22日。アンドレ・ジイド「人の一生は長い旅行だ。書物や人間や国々を通ってゆく長い旅だ」

アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 - 1951年2月19日)は、フランス小説家ノーベル文学賞受賞。

詩、小説、戯曲、批評等、あらゆる文学のジャンルを手がけ、いずれにおいても20世紀フランス文学の先駆者となった。中でも『背徳者』『狭き門』『田園交響曲』『法王庁の抜け穴』等小説の功績が著しい。ジッドの文学の主題も実生活も、不安との格闘の連続だった。「羅針盤の無い航行者」というニッケネームを持つほど、生涯にわたって変貌し続けた人物である。従姉マドレーヌとの恋愛体験と結婚生活が後の創作のテーマとなった。

「美しく死ぬのは、さほど難しいことではない。しかし、美しく老いることは至難の業(わざ)だ。」

「真実の色は灰色である。」

「大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害が踏切台となる者であります。」

「私の死んだのち、私のおかげで、人々がより幸福に、より立派に、より自由になったと認めると思うと、私の心は温まる。未来の人類の幸福のために私は私の仕事をした。私は生きた。」

日本では、堀口大學山内義雄などの手によって知られるようになった。ジッドの小説を翻訳した小説家・石川淳による批評文もあり、横光利一の純粋小説論はジッドの『贋金つくり』が影響していると言われるなどジッドの著作は当時の文人たちに多大な影響を与えた。

人生は旅である。自分を取り巻く上下左右の人々、友情と恋愛と結婚生活、生涯にわたって読みけるあらゆる種類の書物の数々、目を開かされる自国と異国の風俗、、、。やはり人生は航海だ。長い坂であるとか、重荷を背負う道行きだという日本の先達もいるが、ジッド本人がそうであったように、未知との遭遇の連続であるから、確かに人生は羅針盤の無い航海だ。この長い航海を無事に進んで行く羅針盤などはない。未知に触れて勇気を出して自分を変えていこう。

T-Studio「名言との対話」:センテナリアンの「片岡球子」(第23回)と「日野原重明」(第24回)をリリース。

「副学長日誌・志塾の風」171121

多摩大T-Studio「名言との対話」で2つをリリース。

「異次元の高齢化に立ち向かうために、何が必要なのかを、センテナリアンと呼ばれる100歳の人生を生き抜いた先人の名言から答えを見つけていきます。」

www.tama.ac.jp第23回「片岡球子」。日本画家、103歳。

片岡 球子(かたおか たまこ、1905年明治38年)1月5日 - 2008年平成20年)1月16日)は、昭和平成時代に活躍した日本画家である。日本芸術院会員・文化功労者文化勲章受章者。北海道札幌市出身。

www.youtube.com第24回「日野原重明」。医師。105歳。

日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44)10月4日 - 2017年(平成29)7月18日[1])は、日本医師医学博士聖路加国際病院名誉院長上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務めた。

www.youtube.com午後。

・研究室で事務処理

・ラウンジ:水嶋教務課長と「授業評価」(voice)の数字について確認、全学の統一が必要。杉本係長と「多摩大式コンピテンシーの構造と評価」の図、「戦略会議」の国際交流の打ち合わせ。

 夕刻。

・多摩大目黒高校で橘川先生と一緒に松井先生から教室見学と説明を受ける。

・橘川先生と懇親:いくつかの案件を考える。

 

「名言との対話」11月21日。伊藤昌哉「優れたリーダーには、三人のブレーンがいるということです。この三人というのは、一人はジャーナリスト。二人めは医者。そして三人めは宗教家なんです」

伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年11月21日 - 2002年12月13日)は、日本の政治評論家。池田総理の首席秘書官

伊藤昌哉「池田勇人 その生と死」(至誠堂)。西日本新聞政治記者で筆力があることもあり池田勇人の総理時代の様子があますところなく描かれている出色の本である。この本は、本来「安保からオリンピックまで 在職4年4か月」という題で池田勇人総理の回想録として出版されるという約束になっていた。一度も約束を破ったことのない池田総理ではあったが、ガンで退陣を余儀なくされ、1年を経たずして亡くなった。秘書として仕えた著者の伊藤昌哉は、ずっとつけてきた日記をもとに、この書を完成させた。最後に、鎮魂歌として伊藤は「私が本当にあなたのなかに生きれば、こんどは私のなかにあなたが生きてくる。池田あての私から、私あっての池田にきっとなる。私はそう思ったのです。」と書いている。
池田総理が発するすべての文章を書いていた伊藤昌哉は、後には政治評論家としてテレビで鋭い情勢分析をする人として記憶している。

池田総理の秘書官を努めている間に、お供して世界の首脳に数多く会った伊藤は彼らの共通項を3人のブレーンを持っていることとみた。批判してくれるジャーナリスト、激務を乗り切るための健康を司る医者、そして宗教家だ。宗教心の厚かった伊藤らしい見立てである。

池田勇人総理は「私心をなくして、薄氷を踏む思いでやって、なおかつたりない。そのたりないところは偉大なものにおぎなってもらうよりしかたがない」と語っていた。その偉大なものとは宗教であり、それを体現した宗教家だろう。

映画「ザ・サークル」--SNS社会の光と影を描くサスペンスエンタテイメント

映画「ザ・サークル」を多摩センターでみる。

原作は2013年にベストセラーになったデイヴ・エガーズの小説「ザ・サークル』。SNS社会の光と影をスリリングに描く、サスペンスエンタテイメント作品。

我々はどこへ向かっているのかを問う作品。

プライバシーに価値を見いだせるのか?

常にモニタリングしている状態でも自由と言えるのか?

巨大な監視システムから抜け出す権利は守られるのか?

そもそも選択権はあるのか?

f:id:k-hisatune:20171121055102j:image

 光:「隠し事もなくなれば、世界はもっとよくなる」「ユートピア」「人生の総てを共有する」「インターネットを使った新しいムラ社会」「透明化」、、。

影:「私を晒し者として公へと剥き出しにする」「想像を絶する暗黒への道行き」「ディストピア」「強迫的な人間関係」「終わらない競争のストレス」「民主主義がポピュリズム衆愚政治)、ファシズム全体主義)へ姿を変える」「人々が自ら好き好んで監視される社会」「「プライバシーは罪である」「村八分」、、、。

数千万人に見つめられるという圧倒的な疑似体験は迫力満点だ。問題を提起し、最後に放り出される。そこで自問させ、考えさせる。避けることのできない潮流の中でも、中庸と警戒心が必要か。

 ------------

友人からの通報で、阿川宏之さんの家族の紹介の中に私が出ていることを知った。三男阿川淳之さんの項「社会に出てからは日本航空に勤務しており、仙台支店時代は、久恒啓一さん(現・多摩大学学部長)と共に勤務し、酒を酌み交わす仲だったそうです。」とある。少し違うが、まあいいか。

kagerou-kazoku.com

「名言との対話」11月20日。林達夫人は先ず何よりも自分自身であらねばならぬ。人のなすべきことは、自己実現であり自己拡大である。」

林 達夫(はやし たつお、1896年11月20日 - 1984年4月25日)は、日本の思想家評論家

京都帝大文学部哲学科卒。東洋大学文化科教授。岩波書店「思想」「世界」の編集。写真家集団日本工房。昭和研究会。東方社理事長。戦後は、貸本屋「湘南文庫」から始まる。鵠沼夏季自由大学。中央公論出版局長。鎌倉大学校文学科長。日英交流のあるびよん・くらぶを創立。文藝春秋共産主義批判。明治大学教授。平凡社で「世界大百科事典」の編集責任者。ファーブル「昆虫記」を翻訳。

 「批評家は自らの「好き嫌い」を「是非曲直」のオブラートに包んで差し出すところのインチキ薬剤師である。人が掴まされるのは――中味は要するに彼の「好き嫌い」にすぎない。」

自己実現が大事だという人は多いが、「自己拡大」という言葉を使う人は始めてだ。林達夫の生涯にわたる縦横無尽の活躍をみると、好奇心のおもむくままに、自己をあらゆる方向に拡大していこうとする強い意志が感ぜられる。錐で揉み込むようにある方向に自己を実現していくのではなく、どこまでも自己の可能性を広げていこうとする姿勢はこの人の真骨頂だ。林達夫が百科事典を編んだのは当然に成り行きだったと思う。