「イサム・ノグチ」展--彫刻から身体・庭へ

東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ」展。

 

1「身体との対話」:北京で斉白石から墨絵を学ぶ。そして人体のデッサンの上から墨太くなぞる「北京ドローイング」と呼ばれる一連の素描を描く。唐三彩にも惹かれる。日本では埴輪に関心を持つ。「玉錦」「えらいやっちゃほい」。

2「日本との再会」:1950年再再来日。45歳。前回は26歳。1951年に映画スター山口淑子(1920ー2014)と結婚し、北大路魯山人の北鎌倉の農家で新婚生活。後に離婚。陶器による彫刻・テラコッタ(陶彫)に熱中。岐阜県美濃地方の和紙と竹を巣材に愚夫提灯をモダンな「あかり」として」甦らせた。「光の彫刻」である。

3「空間の彫刻--庭へ」:1907年の初来日。鎌倉周辺の禅寺で庭に目覚める。1931年の来日では京都の寺で日本庭園をみる。「庭は空間の彫刻」。石の彫刻と大地の相互作用で「庭」という空間を創り出す。

4「自然との交歓--石の彫刻」:石の役割。玄武岩花崗岩御影石)。高硬度の石が「世界の創造」にかかわる「宇宙の根本物質」とみあんし、「石」の声を聞く。」大地の歴史の「時間の凝縮」を感じとる。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」

私は2010年末に映画「レオニー」(松井久子監督)を観ている。原作は、ドウス昌代「オサム・ノグチ−−宿命の越境者」(講談社文庫)。イサム・ノグチ(1904-1988年)の母の物語である。父・野口米次郎と母・レオニーの物語で、悲しいイサムの生い立ちがよくわかるストーリーだった。この映画を観ているから、イサム・ノグチには親近感がある。

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イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。

父親の野口米次郎は有名な英詩人、小説家、評論家、俳句研究者であった。母親のアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアについては、後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」とイサムは語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。ドウス昌代イサム・ノグチ 宿命の越境者』に感銘を受けた松井久子監督が7年の歳月をかけて完成させた作品だ。私はこの映画の中で神奈川県茅ヶ崎での生活、不登校となったイサム、そしてイサムの芸術的才能に気づきアメリカへ送り出す母親の愛情、、などを興味深く観た。

第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際にはイサムは自らアリゾナ州日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち日本人社会から冷遇されたため、収容所からの出所を希望するのだが、日本人であるとして出所はできなかった。イサム・ノグチは二つの祖国を持っており、その悲哀を経験している。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」「肝心なのは見る観点だ。どんな物をも、一個の古靴でさえも彫刻となるものはその見方と置き方なのである」

ノグチは多作な彫刻家であり、ユネスコの庭園(パリ、1958年)、チェース・マンハッタン銀行ビルの沈床園(1964年)、IBM本社庭園(1964年)、、イェール大学ベイニッケ(バイネギーレア)図書館の沈床園、、、など世界中を舞台にし、1987年にロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。日本でも、門(東京国立近代美術館、1962年)、オクテトラ、丸山(こどもの国の遊具、1966年)、万博記念公園の噴水(1970年)、つくばい(最高裁判所内、1974年)、天国(草月会館内、1977年)、土門拳記念館の庭園(1983年)、タイム・アンド・スペース(高松空港、1989年)、ブラック・スライド・マントラ(1992年)、モエレ沼公園(1988年 - 2005年)、イサム・ノグチ庭園美術館など膨大な仕事を残しており、1986年には日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞している。

イサム・ノグチは、1969年からは四国香川県の五剣山と屋島の間にあり庵治石の産地の牟礼町にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、ニューヨークとを往き来し制作に励んだ。1999年にできた「イサム・ノグチ庭園美術館」を訪ねたが予約制だったので入れず、外から見物したことがある。ノグチは「地球を彫刻した男」と呼ばれたのだが、自身は最大の彫刻は地球の自然であると語っている。ノグチの最大の師匠は大いなる自然であったのだろう。

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「名言との対話」。前田武彦「言葉は時として刃物より鋭く人を傷つける」

前田 武彦(まえだ たけひこ、1929年昭和4年〉4月3日 - 2011年平成23年〉8月5日)は、日本の男性タレント放送作家司会者

 1953年5月にNHKがテレビの本放送を始めた。前田武彦は前例のない未知の世界の探検家たちと新しい世界にこぎ出した一期生だ。当時活躍した人たちは一芸に秀でる人、知性、ユーモアに富んだ大人ばかりだった。徳川夢声柳家金語楼菊田一夫、三木鮎郎、古川ロッパ中村メイコ宮城まり子フランキー堺、、、、

前田武彦は、テレビの台本、ラジオの脚本、を書くことから始まった放送作家の一期生であった。「光る海 光る大空 光る大地 ゆこう 無限の地平線」で始まるテレビ漫画「エイトマン」の作詞が初ヒット。ニッポン放送「ヤング・ヤング・ヤング」。フジテレビ「夜のヒットスタジオ」。「笑点」の二代目司会。「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」など、毒舌のまじる司会は人気があり、私もよく見ていた。

ところが、共産党宮本顕治書記長との対談後の、参院選補欠選での共産党候補の応援で、「夜のヒットスタジオ」で問題を起こす。高視聴率をたたき出していたマエタケの貢献を評価し現場は「おとがめなし」に傾いていたが、女性誌が「共産党バンザイ事件」と報じ、それがフジ鹿内信隆社長の耳に入り、以降完全に仕事をほされてしまう。

2003年、テレビ50周年で書いた本が『『マエタケのテレビ半世紀』だ。食えない貧乏生活から、次第に頭角を現し、絶頂期を迎え、凋落していく姿が描かれている。この本の中では、ライバルたちの活躍をみるマエタケの姿が目に入った。

4つ下の永六輔。「ボクは当分コントしか書きません」と自分の意見をはっきり言う態度だった永はラジオ番組のパーソナリティタレント随筆家放送作家作詞家として大活躍した。

3つ下の青島幸男。コントの台本新進ライターだったが、「青島だあ」と人を食ったセリフで世に出た。その後、作家作詞家タレント俳優放送作家映画監督を経て政治家になり、最後は東京都知事になった。

5つ下の大橋巨泉。ジャズ評論家として出てきたが、テレビ番組司会者ラジオパーソナリティ放送作家エッセイスト競馬評論家音楽評論家、時事評論家、馬主政治家参議院議員)、実業家・芸能プロモーターと華々しい人生を送る。

このような年下のライバルたちと比較しながら、「それにくらべて、俺は」という空気がこの本には見て取れる。啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」の心境だ。

「テレビの還暦まで生きていたら続編を書いてもいいな」と『マエタケのテレビ半世紀』の最後で書いている。それは2013年なのだが、マエタケの寿命は2年ほど届かなかった。

「言葉は時として刃物より鋭く人を傷つける」の後には、「刃物の傷は薬でなおすことができても、言葉による心の傷は治療がむずかしい。それなのに刃物で人を傷つけた場合のように罪に問われることはあまりない。そのせいか、人の心を傷つける言葉は世の中に平然と使われつづけている」が続く。

前田武彦は言葉で世に出て、人気の絶頂で、その言葉で滑り落ちる。言葉は人も傷つけるが、自分をも切りつける凶器だ。そのことを知り抜いていても、ワナに落ちることがある。

参考『マエタケのテレビ半世紀』(いそっぷ社)。

 

 

非常勤講師対象の「教育方針説明会」を九段サテライトで開催。

15時から、非常勤講師対象の「教育方針説明会」を九段サテライト開催。

私は冒頭の20分の説明を担当。

・三浦梅園「おのおの、その長ずるところにしたがい、好むところに向かわしめる」

・アクレクサンダー・S・ニール「もっともよい教師とは、子どもとともに笑う教師である。もっともよくない教師とは、子どもを笑う教師である」

・ウィリアム・アーサー・ワード「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。偉大な教師は心に火をつける」

・高宮行男「予備校教師は5者を兼ねなければならない。学者、医者、役者、芸者、そして易者だ」

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・「授業マネジメント、授業のアクティブラーニング化」についての非常勤講師の方々の発言からのヒント。

ビジネススキル検定。接客英語。英語のAL化の工夫(グループ。リーダー。プレゼン)その日にテスト。スマホの方針を細かく(留学生対応も含め)。知識とALのバランス。経済とAL(映像・動画・手を使う課題設定)。アウトプットのイメージの提示。企業訪問。ハガキでコミュニケーション。ZOOM。図書館で授業。関心のある商品の説明から入る。アイコンタクト。毎回所感を提出。誇りを持たせる。、、、、。

・一階の文庫カフェで1時間ほどの懇親会。先生たちと懇親。

感想:「非常勤講師」という呼び方を考え直したらいいのではないか。常勤・非常勤とは外形からの区別に過ぎない。「協力講師」など、専任と一緒に大事な教育をやっていく同志という意味が示せる名称を考えよう。

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久恒啓一『100年人生の生き方死に方』(さくら舎)が本日発刊。

https://www.amazon.co.jp/100%E5%B9%B4%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%96%B9-%E2%80%95%E7%99%BE%E5%AF%BF%E8%80%85-%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%80-%E4%B9%85%E6%81%92%E5%95%93%E4%B8%80/dp/4865811591/ref=as_sl_pc_wdgt_ex?&linkCode=waf&tag=hisatunenet-22

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「名言との対話(平成命日編)」8月4日。渥美清「何というかな。ああ生まれてきて良かった、そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きてんじゃねえか。そのうちお前にもそういう時が来るよ、な?まあ、がんばれ。」

渥美 清(あつみ きよし、1928年昭和3年)3月10日 - 1996年平成8年)8月4日)は、日本コメディアン俳優

 工員、担ぎ屋、テキ屋、旅回り一座員、コメディアンなどを経て、テレビデビュー。盗みで補導されたときに刑事から「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた。それが俳優になるきっかけだった。

1968年にテレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始され、松竹で映画になり大ヒットする。山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズでは、車寅次郎(フーテンの寅)役で27年間48作品で主役を演じた。これは次第に国民的映画になっていった。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載った。

没後に国民栄誉賞を受賞。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由だ。俳優としては長谷川一夫に次いで二人目。いかにファンが多かったかがわかる。私の家族でも、母、弟、息子と三代にわたって「寅さん」大のファンだ。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2、3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。

私の「人物記念館の旅」で「寅さんと出会ったことを思いしてみる。2007年、山田洋次監督と渥美清の資料の揃ったややバタ臭い「小諸寅さん記念館」を訪問。 2013年、葛飾柴又の山田洋次ミュージアムとペアになっている「寅さん記念館を訪問。寅さんは1934年生れという想定だ。歴代のマドンナたちの懐かしい写真が並んでいる。渥美は「私という独楽が山田さんという独楽にぶつかって勢いよく転がりはじめたような気がします」と語っている。2016年、銀座1丁目の松竹スクエア3階の演劇・映画専門図書館「松竹大谷図書館」を訪問した時、ミニ展示は「渥美清−−没後20年」展だった。「風天」の俳号を持っていた渥美清には、「お遍路が一列に行く虹の中」などの作品がある。

渥美清は名優として評価が高かったのだが、どの作品も「寅さん」を超えることはできなかった。映画での役とは違って、渥美は私生活を秘匿し、他者との交わりを避ける孤独な人物だったのは意外だ。私生活を徹底的に秘匿していた。それは、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった、という。あまりに偉大な作品があると、それを超えられない苦しみもあるのだ。1991年肝臓癌が見つかり、1994年にはに転移。亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花が遺作となった」。享年68。

 「そうよ、仕事ってのはね、何しても、楽なものってのはないんだよ、うん」「いいかあ、人間、額に汗して、油にまみれて、地道に暮らさなきゃいけねえ。そこに早く気が付かなきゃいけねえんだ」、、。

寅さんが映画の中で吐く言葉は、自分のことを棚にあげてはいるが、人生や仕事の達人を思わせる名言が多く、妙に説得力がある。映画の中でこういった言葉を聞けるのも嬉しく思うファンが多いのだろう。「何のために生きているのか」という問いへの答えは難しいが、寅さんのこの答えは、心にしみじみと響いてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 



 

インターゼミ二日目(箱根)。朝日新聞(ロマンスカー)。飲み会(新橋)。

学長講話

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 ・デジタル・ディクテータシップ。「IT」(平準化技術。ビッグデータ)X「FT」(金融。ファンドが成功させる)=FAGA+M(412兆円)。カエル跳び経済。

時価総額:2018年。トヨタ・ドコモ・ソフトバンク。5位KDDI。6位キーエンス。5.4兆円ユニクロは1.4兆円の東レの技術。4.2兆円のオリエンタルランドは2.1兆円の新日鉄住金の2倍。日立(3.8兆円)・新日鉄住金東レ経団連会長企業。危うい「ものつくり国家・日本」。

・日本の株価:アベノミクスで2倍。公的資金外資公的資金投入で安心感)。公的資金(投入は日本のみ)=日銀ETF買い(年8兆円)+年金基金(25兆円)。株価の実力は1万6千円台(3割減少)。

・高齢者(72%が保有。自堕落な誘惑)。財界も株価上昇で恩恵(安危に流れる)。失政続きの安倍政権(仕方がないという無力感)。

・ジェロントロジー:都市郊外型高齢化が問題!国道16号線に住む元企業戦士。サラリーマン(新中間層。帰属組織が無くなり不安とおびえ)・戦後生まれ(戦後民主主義で自己主張。私生活主義のミーイズム)・コミュニティの欠如(宗教がない。精神的支柱がない。寺じまい・墓じまい)。高齢者を社会参画する存在に!

・生命史と人類史から:生命科学の新知見。「人間とは何か」の視界の変化(人間とチンパンジーのDNAの差は1.06%(含む個体差)=言語とコミュニケーション)。歴史学の変化(ラスコーの壁画・アイスマン(5300年前)・ギリシャ。アフリカ単一起源説(6万年前からグレートジャーニー)。1万年前に定住革命(農業)。2500年前に世界宗教の萌芽(ブッダ孔子ユダヤ教、キリスト)。コミュニティの誕生。自分を超えた大きな価値・存在(神・仏・天)。虚構の誕生。思いやり・配慮・建前・文化・規範、、。

ブッダ(16歳結婚。29歳出家。35歳悟り)。自灯明・法灯明。個人の内面に向き合った存在。解脱を追求する仏教は無神論であり思想・学問。弟子達が「加上」(神秘性を附加)した大乗仏教衆生の救済)へ。世親の「唯識論」。観音力(聞こえない音を観る)・聞光力(見えない光を聞く)。

・1648年ウエストファリア条約で政治が宗教から自立。400年経って現代は宗教の蘇りの時代。AIは思想・宗教・哲学に影響を与える。自分自身のものの考え方を持て。思想・宗教・哲学。自主自立。考え抜く力をつけよ。

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本日の朝日新聞に「自分史の日」の講演の記事。

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 夜は新橋。ドゥハウスの高栖社長、濱さん。デメケンの橘川代表、鈴木さん、亀田さん。留学生のインターンシップと就職活動、、、、。

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「名言との対話」8月3日。倉嶋厚「やまない雨はない」

倉嶋 厚(くらしま あつし、1924年1月25日 - 2017年8月3日)は、テレビで気象キャスターとして活躍した気象エッセイスト気象学者。

現・気象大学校卒業後、気象庁へ入庁。気象庁主任予報官、札幌管区気象台予報課長、鹿児島地方気象台長を歴任し、1984年気象庁を定年退職。NHK外部解説委員となり、『ニュースセンター9時』『にっぽん列島ただいま6時』『NHKモーニングワイドサンデー』で気象情報、気象キャスターを担当。一方でリポーターとして『NHKニュースおはよう日本』のコーナー“倉嶋厚の季節の旅人”を担当。人気お天気キャスターとなった。素朴な風貌と誠実な人柄と柔らかい語り口のこの人は、今なお懐かしい。

後輩の気象予報士森田正光によれば、「天気解説で大事なことは「おやまあ」「そうそう」「なるほど」の三つだ」と言っていたそうだ。「おやまあ」は、驚き、「そうそう」は共感、「なるほど」は、納得だ。この3つは、人とのコミュニケーションの極意ではないだろうか。それが倉嶋厚の人気の秘密だろう。最低気温が25度以上の日を「熱帯夜」と言っているが、これは倉嶋の造語である。

フランスの第1回国際気象フェスティバルでベストデザイン賞。第47回日本放送協会放送文化賞を受賞。

ところが倉嶋は妻の入院と死、自身の末期ガン宣告で、鬱病を発症する。その過程と回復までの苦闘の手記が『やまに雨はない』(文春文庫)だ。どん底、無力、放棄から次第に自身を運命に委ねていき、多くの人の助けを借りてこの危機をなんとか脱出する。

倉嶋によれば、気象というものは循環が本質である。日々刻々の変化の連続だ。何事も上がれば下がる、下がれば上がる。それは人生と同様だ。まさに無常なのだ。「やまない雨は降ったことがない」という言葉があり、それを端的に要約したのが「やまない雨はない」だ。この書は、ベストセラーになった。多くの鬱病患者を励ましたことだろう。倉嶋厚は、『やまない雨はない』の出版後、10数年の時間を経て、2017年に93歳で逝去している。 

やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから… (文春文庫)

やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから… (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

箱根でインターゼミ合宿。

箱根湯本の水明荘でインターゼミ合宿。

13時から新人教員3人の自己紹介のミニ講演。5つの班の中間発表。終了は17時前。

18時15分から食事会。二次会。三次会と続く。

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10年目の今年は、人数は史上最高だった。内容も一番良かった。

初見先生「労働に喜びは存在するのか」。後藤先生「協力に基づく幸せな社会のあり方」。加藤先生「生活を豊かに」。

AI班「豊かな人生とは何か」。地域班「人生の満足度」。サービス班「高学歴高齢者の再武装が幸せに繋がる」。多摩学班「人生100年時代を幸せに過ごす社会システム」。アジア班「どういう体制が幸せをもたらすか」。

全体の底流を流れている研究テーマは、人生100年時代の「幸せと豊かさ」だ。寺島学長の8月10日発刊の「ジェロントロジー宣言」(NHKブックス)は、人生100年時代を睨んで社会システムをどう変えるかがテーマであり、私の8月4日発刊の「100年人生の生き方死に方」(さくら舎)は、人生100年時代の個人の生き方のモデルを提示したものだ。

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「名言との対話」8月2日。村上信夫「やはり平和が一番だ。うまい料理こそ平和の象徴。もう一度料理をつくろう」

村上 信夫(むらかみ のぶお、1921年5月27日 - 2005年8月2日)は、日本のフランス料理の料理人。

村上は帝国ホテル料理長という日本最高峰の地位を26年間という長期にわたり務めた名シェフだ。NHK「今日の料理」の名物講師としても活躍した。テレビでふっくらした体型とヒゲの風貌とやさしい語り口を覚えている人も多いだろう。

犬丸徹三・帝国ホテル支配人から北欧の食べ放題料理スタイルを研究するよう指示され、村上は「バイキング」方式を考案する。また1964年の東京オリンピックでは「女子選手村」の総料理長として300人以上のコックのリーダーをつとめた。 包丁類を買い集めているうちに手が出るようになった日本刀の蒐集が趣味。講道館柔道六段。 

  「料理にこれでいいということはない。いくつになっても研究を続ける」

 「私ども料理人は怒ったりしたあとに味付けをすると辛くなってしまう。ですから本当のプロの料理人は泣いたりわめいたりしなくなるものなんです」

短歌の土屋文明は敗戦時に「我にことばあり」と言って、短歌をを縦横に使える時代がきたと力強く宣言した。インパール作戦で生き残った塚本幸一は服飾の分野で新生日本の国造りに命を捧げ英霊を慰めようとした。同様に戦後、シベリアに抑留から日本に戻ってきた村上信夫は「うまい料理こそ平和の象徴」と考え、料理で自分が立ち、その料理で平和に貢献しようと決意したのだ。日本中の様々な分野でこのような決意をした人たちがいて、復興が成功したのであろう。

 

 

 

「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

学部授業「ビジネスコミュニケーション」の最終回のアンケート「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

・世界が変わった。これからの⼤学⽣活でも“図解”を活⽤していきたい。

・⼀回り⼤きく成⻑したように思った。他の⼈たちに負けない1つの⼒だと思う。この講義を受けて良かった。

・図解の本質に触れ、無限⼤の可能性を感じた。⼤きく成⻑できた。「図解」で事業やプロジェクトのビジネスに⽣かしていきたい。「図解」は社会の課題や問題のソリューションとして活躍できると思う。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

 ・分析⼒が上がった。物事の本質を⾒られる様に成⻑した。

・キーワードの関連性や関係性、俯瞰視点での⾒え⽅が分かるようになった。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・構成⼒を⾝につけることができた。分かりにくい⽂章も分かりやすくまとめる⾃信がついた。⾃分に期待したい。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・まず物事を⾒る⽬が変わった。どんなことをするにも、全体像を⾒渡すことがで
きれば問題解決がかなりし易くなる。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

・「俯瞰」の⽬を持つ。図解には個性がある。図解には正解がないという⾔葉で描
きやすくなった。⼤きく成⻑できた。

・講義を受けていなければここまでできるようにならなかったので、⾮常にありがたい授業だった。

・「頭の筋⾁を鍛え、考える⼒を強化する」という⾔葉が⼼に響いた。

・最終課題の⽂章を読んでいるときに、⾃然と図解を考えられるようになり、成⻑に繋がったと感じた。

・図解が⼤好きになった。

・⽂章を理解する能⼒が上がった。

・論理的な考えがある程度⾼められた。⽂書やデータの中から中⼼的なことをすぐ探すことが上⼿くなった。まとめる能⼒も⾼められた。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

・多⾓的な視点で物をとらえて⾒ることができるようになった。

・図解を知り、こんなにも⼈に伝えやすく⾒やすいものがあるのかと驚いた

・⾔葉と⾔葉をつなぐポイントが分かった。⽂章を読む⼒がついた。⻑時間作業する⼒がついた。

・図解するんだ、と思って⽂を読むと頭に⼊ってきやすくて、とてもいいことを学んだ。

・図解を学んだ事により難しい⽂章も理解し易くなった。これからも図解を使っていこうと思う。考える事が重要だと感じた。

・⻑⽂の読解⼒が上昇し、「まとめる」→「分かる」というプロセスができあがった。

・他の講義で活かせる機会が多かった。

・普段のノートの取り⽅が変わった。来期も楽しみにしています。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

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市ヶ谷にて。

・N出版社:処女作を出版してもらった出版社。2つの出版企画が浮上。

・M社:楽しみな新たな教育プロジェクトが出発。

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「名言との対話」8月1日。永山則夫「私がなければ事件は無い、事件がある故に私がある」

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者である。1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。

 永山則夫は北海道網走市呼人番外地で生まれ、青森の中学卒業後、上京。店員、自動車塗装工、日雇労働者等を経て、1968年に東京、京都、函館、名古屋で4件の連続射殺事件を起こす。1969年に逮捕。1990年死刑確定、1997年47歳で死刑執行。

生前から話題になっていた永山則夫とは同学年であることを知り、興味をそそられながら526ページの『無知の涙』を読了した。「金の卵たる中卒諸君に捧ぐ!」と表紙に記された記されたノートへの詩と断章の書きつけである。ノートは10冊あって、1969年7月2日から、1970年10月30日までの1年3ヶ月の膨大な記録である。この間は、私の大学入学直後から2年生の前半にあたる。

「私は四人の人々を殺して、拘留されている一人の囚人である」。7月2日は「罪人よ ああ罪人よ 罪人よ どこえ行くんだろう この道は どこえ行こうとしているのだろう、、」から始まる。この期間に連続射殺魔・永山則夫は哲学・精神分析学・心理学・小説などあらゆる名著を紐解いている。この独学で自己自身を考える実存主義思想思想で両足で立つことを教えられ、貧困を扱った師マルクスエンゲルスから決定的に覚すいさせられる。そして、マルクスを信奉する左翼という立ち位置を獲得する。その過程が克明にわかる。「頭の中で逃走する」という存在理由を見つけたから、「私は生きますよ死ぬまで、、」と決意表明をしている。

・実存という言葉の意味をつかんだ。実存とは、私がこのように物を書き綴っていることなのである。

・たった一年間で世界という物の根源的状態を知り得たということである。

1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表。1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。

永山の作品は以下のように多い。手記では、『無知の涙』合同出版(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『人民をわすれたカナリアたち』辺境社(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『愛か-無か』合同出版(1973年)。『動揺記1』辺境社(1973年)。『反-寺山修司論』JCA(1977年)。永山則夫の獄中読書日記-死刑確定前後 朝日新聞社 1990。日本 遺稿集 冒険社 1997。文章学ノート 佐木隆三監修 朝日新聞社 1998。死刑確定直前獄中日記 河出書房新社 1998。小説としては、『木橋(きはし)』立風書房1984年)のち河出文庫- 第19回新日本文学賞受賞作品。『ソオ連の旅芸人』昭和出版(1986年)。『捨て子ごっこ』河出書房新社(1987年)。『なぜか、海』河出書房新社(1989年)。『異水』河出書房新社(1990年)。『華』1-4、河出書房新社(1997年)。その他:『死刑の涙』(1988年)。

このノートで「私は本を出したいと願望している。、、印税が入ったら、私が殺めし家族の人々にそっくりそのまま渡したいためである」と記している。死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

「このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わったであろう。人間ゆえ、思考可能な人間ゆえ私は知ってしまった」永山は、司法が死刑と無期懲役に揺れる中で、あくまで生きようとして闘い続けた。「動機なき、理由なき殺人」を犯した永山則夫は、その事件を起こした故に牛馬ではなく、「人間」になったという一大パラドックスの考えさせられるドラマである。永山則夫という希有な存在は、死刑の存廃にかかわる論争を呼んだ。 

無知の涙 (1971年)

無知の涙 (1971年)

 

 

 

 

 

 

三菱一号館美術館「ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界」。寺島文庫リレー塾の2018年前期最終回。

三菱一号館美術館「ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界」

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ショーメはジュエリー(宝石)を扱う250年近い歴史を持つ企業である。ナポレオン一世の戴冠式の宝冠、皇后ジョゼフィーヌのブレスレット以外にも、ティアラ、王冠、紋章など王侯貴族のシンボル、麦の穂(繁栄と豊穣のの象徴)、トロフィーなど権力と結びついた装飾を扱う。ショーメの特徴は「自然主義、感情、壮大さ」の3つのテーマだ。上流階級であることを示す、東部を飾るティアラは、成功と財産を体現するものであった。

創業者はマリ=エティエンヌ=ニト。ショーメの着想源は、「歴史と地理」だった。古代、中世、ルネサンス、17世紀などの多様なものを組み合わせる歴史主義。世界、特に中国、インド、そして日本などの東洋文化からの影響が地理の世界だ。歴史と地理がインスピレーションの源である。

ニトはフランス革命の時に、王妃マリー・アントワネットが所有する日本漆器コレクションを助け出した。この関係はジャポニズムという形で続いている。自然現象を神格化した「雷神のブローチ」や、「硯箱」など、自然への魅了、洗練、崇拝などの日本の影響力は大きい。

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・自宅の書斎:「名言との対話」用に8月に読む本を整理。24冊か、修行だ。

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・研究室で仕事。次に向けて書類処理。

東京オペラシティ(初台)の東京アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展をみる。

丸の内オアゾ丸善を覗く。

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19時から丸の内の日本工業倶楽部で寺島文庫リレー塾。寺島実郎講師。20時30分まで。椅子席で満杯。250名くらいか。

IMF世界経済見通し:世界18年3.9%、19年3.9%、20年3.8%。日本18年1.0%、19年0.9%、20年0.3%(18年は0.2%下方修正)。

・デジタル専制。日本の株価の実力は1万6千円。3割ダウン。時価総額キーエンス7.6兆円(IOT)が6位、ソニーは7位。ユニクロ5.4兆円、オリエンタルランド4.2兆円、日立3.8兆円、新日鉄住金2.1兆円。

マクロンと師のジャック・アタリ(思想家・作家)。国際連帯税などの新しい政策論。トランプの分析書(ニューヨークタイムス。・ワシントンポスト)。1968年、その時何をしていたか?映画「7月4日に生まれて」。

・ジェロントロジー:都市郊外型社会の高齢化が問題。工業生産力モデルと通商国家モデルの優等生が住む国道16号線ふるさと納税の活用。寺じまい・墓じまい。80歳の7割は健常者。ミスマッチ。高齢者を支える側にしていく知恵。天人五衰

・知の再武装。3段階の知。流動性知能。結晶性知能。唯識論性知能。(学習知・経験知・総合知?。暗記・関係・本質?。記憶力・判断力・洞察力?。?・図解・人物。流動性と結晶性はトータルで横バイ。自分史・家族史・回想録がいい。「いくつになっても脳は若返る」(ジーン・D・コーエン))

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「名言との対話」7月31日。鶴見和子「斃(たお)れてのち元(はじ)まる」

鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年大正7年)6月10日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本社会学者

父・祐輔は政治家。母・愛子は後藤新平の娘。弟は戦後の進歩的文化人を代表する1人であった鶴見俊輔。南方熊楠柳田國男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などで知られる。1979年(昭和54年)に『南方熊楠』で毎日出版文化賞1995年(平成7年)に南方熊楠賞1999年(平成11年)に朝日賞

社会学者・鶴見和子の遺言は二つある。「憲法九条を守って下さい」。パリ不戦条約(ケロッグ・ブリヤン条約)が源であり、それは人類の理想だ。「曼荼羅の知恵をよく考えて下さい」。曼荼羅の論理は、異なるものはそのまま互いに補い合って共存する道を探究するという論理である。仏教は因縁を説く。因は因果律で必然性、縁は偶然性。科学の方法論としては西洋の因果律よりも優れている。これ鶴見和子が研究対象とした南方熊楠の考えだ。

鶴見和子は15歳で佐々木信綱に入門し、21歳で歌集『虹』を自費出版する。その後、アメリカ留学で学問の道に入って歌と別れる。晩年になって脳出血で斃れた後、半身不随になったが、言語の能力は残った。そして「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」と詠んでいるように歌が次から次へとほとばしる。「斃れてのち、やむ」ではなく、「倒れてのち、はじまる」である。

冒頭の言葉は「斃(たお)れてのち元(はじ)まる宇宙耀いてそこに浮遊す塵泥我は」から取ったものだ。発病後、短歌を杖として生きた過程で、自身の内的発展論の「内発性」の意味を実感する。「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」。斃れてのちやむのもよし、斃れてのちはじまるもよし。必然(因)と偶然(縁)の織りなす運命に従て精一杯生きよう。7月31日は、鶴見和子さんを偲ぶ「山百合忌」と命名されている。

遺言―斃れてのち元まる

遺言―斃れてのち元まる

 

 

 

世田谷文学館「ビーマイーベイビー』(信藤三雄)--「俳句じゃなく川柳みたいな」「東京」「江戸の洗練」「粋・傾く」「情念に囚わないシャープな形」、、、。

世田谷文学館「ビーマイーベイビー』を先日観てきた。

信藤三雄という人は知らなかったが、CDジャケットデザイナーとしての作品が多い。現在は沖縄在住。1948年生まれ。

信藤三雄「俳句じゃなく川柳みたいな」「東京」「江戸の洗練」「粋・傾く」「情念に囚わないシャープな形」、、、。

・スタイリスト、クリエイティブディレクター、ミュージシャン、作曲家などが語る信藤三雄「東京の価値を変えた男」「セクシーさ、ちょっと悪い感じ」「CDジャケットをポジティブにした人」「時代をつくってきたけれど、時代に翻弄されていない」「クレイジーでセンスがいいパンク」「依頼があったら作るというスタンス」「音楽がわかる」「時間感覚、時代感覚」、、、。

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松任谷由実Mr.ChildrenサザンオールスターズSMAPMISIAなど、手がけたCD/レコードジャケットの数は2007年時点で約900枚にのぼる。1980年代後半から1990年代にかけて、ピチカート・ファイヴフリッパーズ・ギターといった「渋谷系」ミュージシャンのCD/レコード、宣伝材料一式のアートワークに携わり、渋谷系におけるデザインの方向性を決定づけたといわれるグラフィックデザイン以外にも、映像作家としてミュージック・ビデオ映画も手がけ、元々はバンド「スクーターズ」の一員として活動していたミュージシャンでもある。

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予定では今日は岡山で県職員研修を行うことになっていたが、この夏の災害で延期となった。

大学に出勤。

・秘書と打ち合わせ:成績付け。講演準備。スケジュール調整。

・杉田学部長:近況交換

・渡辺さん:戦略会議の宿題。

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「名言との対話」7月30日。山田昭男「私には、社員のアルバイトを禁止する理由がまったく分からない」

山田昭男(やまだ あきお、1931年10月7日 - 2014年7月30日)は、日本の実業家、演出家。未来工業の創業者。

旧制中学卒業後、父の経営する電線メーカーに入社。同社在籍中、劇団「未来座」を旗揚げし、昼はサラリーマン、夜は舞台監督や裏方全般として活躍。劇団に熱を入れ過ぎたため勘当され、劇団の仲間と各種資材の製造販売会社「未来工業」を創業。独自のコスト節約法と、スイッチボックスのようなシェア8割を超える強みを持つ商品をいくつも生み出し、高収益体質の企業をつくった。メセナ活動として演劇への市民の招待や、映画制作なども行っている。

未来工業は、残業禁止、ノルマ無し、タイムカード無し、休日数は年間140日。(盆暮れは2週間休み)、約800人の従業員は全員が正社員、定年は70歳で60歳を過ぎても減給はない。非常にユニークな企業である。社員を幸福にすること、徹底した差別化を図ること、この2つの取り組みにより高い業績をあげてきた会社である。

以下、山田昭男語録から。

・人をルールで縛るからダメになる。縛りを解けばやる気になる。・報連相をやめた結果、自発性のある社員ばかりという理想的な組織になった。それが、大手に負けない商品を次々と打ち出せる原動力になっている。・いまの私の肩書きは相談役だけど、日本の会社で相談したら怒る相談役は私だけやろうね・常に考えろ。世間や業界とは反対のことを常に考えろ。・正社員でない人間が技術を覚えようとするか・人間をコスト扱いするな・鞭(ムチ)が無くとも社員は働く。それを知らないのは“無知”。・もうかってない会社と同じことをしても儲からない。・「不景気だ」と嘆いている奴は、「私は商売がドヘタで儲からない馬鹿者です」と公言しているようなもの。・社員には、まずは“モチベーションという餅”を食べさせなければ、何をやっても無駄だ。・昔の営業マンは売る事を考えれば良かった。今の営業マンは儲かる事を考えなきゃいけない。・大手と同じものを作っていては負けてしまう。考え続けて差別化しろ!・「どうしたら売れるか」?。お客が満足するものを売ればいいのです。

 著書に「毎日4時45分に帰る人がやっているつまらない「常識」59の捨て方」「ホウレンソウ禁止で1日7時間15分しか働かないから仕事が面白くなる」「日本でいちばん社員のやる気がある会社」「稼ぎたければ、働くな。」「日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり”」「常識をひっくり返せばメシの種はいくらでもある 日本一幸せな会社をつくった男のヘンな発想法」「ドケチ道 会社を元気にする「生きたお金」の使い方」「楽して、儲ける! 未来工業・山田昭男の型破り経営論!」などがある。

山田昭男の数々のしびれる名言の中で私も強く同感するのは、冒頭のアルバイトについての言葉だ。人脈が増え、新しいことを吸収し、金銭的にも豊かになる。会社一筋の忠誠心ばかりの社員は、人と違う発想は出てこない。企業にいた頃、副業を認めようという動きに参加したことがあったが、実現はしなかった。それも25年ほど前の話だった。今頃になって「副業」解禁という流れが出てきたが、いかにも遅すぎる。副業は本業に大きく貢献するのは自明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 定年前こそ人はよく働くんだよ
2. 残業したい?だったらもう一人雇いなさいよ
3. なにせ報連相禁止だからね
4. 正社員でない人間が技術を覚えようとするか
5. 人間をコスト扱いするな
6. 成果主義を採用するつもりはない
7. 泥棒に入られたらいけないという法律はない
8. 自分にできることから真似してみる
9. まとめ