朝日新聞「GLOBE」9月2日版

朝日新聞「GLOBE」9月2日版を丹念に読んだ。今回の特集テーマは「中東の新しい地図」だ。中東の地殻変動シーア派の三日月と呼ばれる抵抗の枢軸とイスラエル・米国の対立。イエメンから紅海。地域大国の影響力増大。アラブ世界の崩壊。石油は需要が頭打ちに。アラブの春の後の方が悪い。エジプトは中東のシリコンバレーSNSの威力。他に、英国とドイツのベストセラー。映画。食べ物。テニス。佐渡島の酒造り。、、、。

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母と国東半島の海岸線をドライブ。

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「名言との対話」。9月3日。明間輝行「副社長まではゴルフでいえばフロントティでプレイしているようなものですが、社長はバックティ、もうあとがないんです」

明間輝行(1925年5月26日-- 2005年9月3日没)は、東北電力社長、会長。

明間輝行は専門学校を経て宮城高専を卒業し、中学校の教員を1年やって、東北大学法学部を卒業し、東北電力に入社。1972、3年のオイルショックの時代に石油、ガスの調達に電力業界苦労し時が混乱した時に、1975年から燃料部長として安定的な体制の構築に手腕を発揮、その実績で社長(1987年ー1993年)、会長(1993年ー2001年)になった人である。1993年には東北経済連合会第四代会長に就任し、東北の経済界の重鎮となった。

明間社長時代に新入社員として訓示を受けた東北電力の社員の話を今回聞いたが、福沢諭吉の言葉を使って「人に媚びるな」と語ったそうだ。もうすぐ定年を迎えるその人は今でもその言葉を鮮明に記憶していた。私の宮城大時代には、明間輝行の名前は知っていたが、接触したことはなかったが、やはり、明間は人の心に強烈なメッセージを残す偉い人だったようだ。

トップなると物事を見ていく視点が違う。トップは見えている景色が違う。明間は「社長はバックティ、もうあとがないんです。相談できる人間がいるのは副社長まで。社長は全部自分で判断する。真剣勝負の連続です」と述懐している。ゴルフに例えたこの言葉は、最終責任者の孤独な内面を語った名言である。

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小室 直樹
(こむろ なおき)
人物情報
全名 小室 直樹
(こむろ なおき)
生誕 1932年9月9日
日本の旗 日本東京府荏原郡玉川村
(現・東京都世田谷区
死没 2010年9月4日(77歳没)
日本の旗 日本東京都文京区東京大学医学部附属病院
学問
時代 20世紀 - 21世紀
活動地域 日本の旗 日本
研究分野 法学
社会学
法社会学
政治学
研究機関 東京大学
東京工業大学
影響を
与えた人物
門下生(橋爪大三郎宮台真司副島隆彦盛山和夫志田基与師今田高俊山田昌弘大澤真幸)など
主な受賞歴 城戸賞など
テンプレートを表

 

 

 

中津:母の短歌の弟子たちとの昼食会。11月の講演打ち合わせ。

 中津。

母の短歌の弟子たちとの昼食会。瑠璃京にて。

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 15時:中津南高校のPTA会長の細川さん(細川スーパー社長)、南高副会長、中津北高校のPTA会長との打ち合わせ。11月11日に行われる大分県PTA連合会が中津で開催される。そこでの基調講演を頼まれた。その顔合わせの会合。3人とも50歳前後。

人生100年時代を迎え撃つ、アタマとココロの革命を!」というタイトルで話をすることになった。

 その後、会場の中津文化会館で会場を見学し、確認。

 

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 「名言との対話」9月2日。上甲正典「心が成長すれば、技術も成長する。心の成長なくして、技術の成長はありえない」

上甲 正典(じょうこう まさのり、1947年6月24日 - 2014年9月2日)は、高校野球の指導者。

上甲正典高校野球の甲子園出場17回で、優勝2回(1988年春2004年春)・準優勝2回(2004年夏2013年春)という偉業を成し遂げた名将である。

1975年に母校・宇和島東高校のコーチとなり、2年後に監督就任。1987年第69回全国高等学校野球選手権大会で甲子園初出場。翌年春の「選抜」で初出場初優勝。

その後、済美高校の野球部の創部とともに初代監督に就任した。2004年には福井優也投手らを擁し、創部2年目でセンバツ初出場初優勝に導く。春夏連覇に王手をかけたが、惜しくも準優勝。2013年には、愛媛大会で157キロをマークした2年生エース・安樂智大投手らを擁し、決勝まで勝ち進んだが、浦和学院に破れ準優勝。上甲の座右の銘は「夢が叶うまで挑戦」だった。67歳で没。戒名は「弄球院正岳秀典居士」。

「肉体の限界を精神力で乗り越える。武士道精神のような厳しさもまた高校野球だと思います」

ライバルで親友だった名門明徳義塾高校の馬渕史郎監督は、松井秀喜に対して5打席連続四球という采配で話題なった人だ。馬渕は「間違っていたとは思わない。あの時のチームではあれしか勝つ方法がなかった」と後に語っている。

今年の夏に100回を数えた高校野球は日本中が熱中する素晴らしい仕組みだ。心技体そろった高校生たちが全力でしのぎを削る姿には、毎年励まされる。高校野球はドラマの連続であるが、試合終了後の監督や選手のインタビューは記憶に残るものが多い。上甲正典監督の「心」と「技術」に関わる言葉は、「心技体」にも順番があるという考えを示している。心を成長させ、技を磨き、体を鍛える。高校野球は教育が主眼だとしていたこの人の心技体論は聞くに値する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初代・若乃花〜ー「土俵のけがは土俵の砂でなおしてゆくんですよ。けがをするたびに休んでいたんでは勝負師にはなれませんね」

 

 

「名言との対話」9月1日。若乃花「15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある」

     
 
 
   
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
 
   
 

 

 

   
   
 


   
 
   
   
   
   
 
 
 
 

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年昭和3年3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、大相撲の横綱

初代若乃花は、ライバル栃錦と名勝負を重ね、“栃若時代”を築いた。29歳での横綱昇進、超軽量の体格で心配されたが、ライバル栃錦と互角の名勝負を展開し「栃若時代」を築く。

引退後は二子山部屋を創設し、弟の大関初代貴ノ花横綱2代若乃花横綱隆の里大関若嶋津らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。

弟の初代貴ノ花の初優勝時には、NHK大相撲中継で解説を務めていた出羽錦は「嬉しさや最後の賜杯甥の手に」と詠んだ。 第65代横綱貴乃花と第66代横綱3代若乃花の二人は甥にあたる。

子供の頃、相撲の巡業が故郷の中津に来たことがある。横綱栃錦横綱若乃花の熱戦を見て興奮して応援したことを思い出す。この時は若乃花が勝ったと記憶している。若乃花ファンだった私は、これ以降ますます若乃花を贔屓にした。

横綱になった稀勢の里明治神宮奉納土俵入りを行ったが、その際に使った化粧まわしは「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花のものだった。

以下、若乃花語録から。

・「体の小さい力士っていうのは、ちょっとつまずいてくるとガタガタッといってしまう面がある。だから、悲しいけど、気力で持っていかなければならないんです」

・人間、目先の苦難に、決してうちひしがれてはいけない。

・人間はどんな状況のもとでもくじけずに、精いっぱい力を尽くせば、その努力が、いつの日か報われるもののようだ。

・優勝できたのは、稽古を一生懸命やったこと。それだけだ。

・土俵の掟は、まことに厳しく、冷酷であり、思えば砂にまみれ、血の涙を流す闘いの歳月であった。

・ライバルとは、、、単なる競争相手ではなく、自分自身の人生を支え、高めてくれる最高、最良の存在なのである。

横綱が身を引く際には、立派な後継者に土俵を引き継がなければならない。

・「これはダメだな」と、いったん思いこんだら、力というものは本当に駄目になってしまう。

・人間はいつも望みを持って、精進、努力が肝要なのである。

・踏みしめる土俵は、私が命をかけた戦場であり、同時に「日本書紀」に史実として記されて以来、相撲道の伝統を千三百年余も守り、いまに伝える聖なる祭場である。

・力士の道とは、昔もいまも「稽古一筋に生きる」ことである。

 青森武道館の「花田勝治展示コーナー」では、「土俵のけがは土俵の砂でなおしてゆくんですよ。けがをするたびに休んでいたんでは勝負師にはなれませんね」という言葉を見つけた。土俵の鬼・若乃花は、小さな土俵には人生の全てがつまっているという。冒頭の名言は、俵のけがを土俵の砂でなおしながら、すべてを掴み取った男の言葉である。

土俵に生きて 若乃花一代 (この道シリーズ)

土俵に生きて 若乃花一代 (この道シリーズ)

 

 

谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』

谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』(晶文社)を読了。

在野の民俗学の第一人者である独学の人の著者が、自分で自分の道を切り拓いた民俗学の先輩の巨人たち--柳田国男南方熊楠折口信夫。吉田東伍。中村十作。笹森義助--の人生の足跡を描いた力作である。 

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

 

 以下、「独学」に関する記述のみをピックアップ。

・正統な学問にない分野の疑問を解くのが独学。すべてに疑問を持っていく。独学にはきりがない。たえず先へ先へと進むのが独学者の精神。無限に追求していく精神。自分が得た結論をもういっぺん疑ってみる。「思うて学ばざればすなわち危うし」は独学者が自足することへの戒めだ。在野の精神。独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者だ。生きた学問。

・学校教育は世襲の知識を受け取るところであり、国取りの知識ではない。独学のススメをできる教師こそ本当の教師である。知識は独学で学びとるときに初めて自分のものとなる。優れた学問を樹立したものはことごとく独学者の道を歩いた。

・独学者は非常に孤独だ。独学者は羅針盤を自分でつくらなくてはいけない。孤独だが、自分で切り拓いていくパイオニアとしての喜びがある。

・「自分一個の学」「私一個の学問」「自学」。独善と偏狭を戒めていれば正規教育を経てきた研究者の及ばない研究を生み出すことができる。自分で考える。考えて勉強する、調べる、そしてまた考える、この往復運動。

・与えられた既成の価値には目もくれず、新しい明日の世紀を開くために「自分で自分を作る」道を有ることする人びと。

・リテラリーマンとは大きな業績を残した独学者。

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鳥居龍蔵「私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず、私の学問も私の学問である。かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う」

本居宣長うひ山ぶみ」:「自分の得手なところから登ればよい。ただ必要なのは持続することである。たえまなくやるこtである。それさえあればいつかは山の頂をきわめることができる」

チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin ([tʃɑrlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリス自然科学者。卓越した地質学者生物学者で、の形成理論を構築。

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリス哲学者社会学者倫理学者

増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人政治家

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年明治8年)7月31日 - 1962年昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者官僚明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日慶応3年4月15日) - 1941年昭和16年)12月29日)は、日本博物学者生物学者民俗学者

折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年明治20年)2月11日 - 1953年昭和28年)9月3日)は、日本民俗学者国文学者国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人歌人でもあった。彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。

吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日1864年5月19日) - 大正7年(1918年1月22日)は日本歴史学者地理学者(歴史地理学)。

新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。

中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日1867年2月22日) - 昭和18年(1943年1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。

・笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日1845年3月3日) - 大正4年(1915年9月29日)は日本探検家政治家実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島千島列島を調査した他、奄美大島島司や第2代青森市長も務めている。また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。

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明日から、大分、山口、広島、岡山の旅に出るので、大学で仕事を済ます。

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「名言との対話」。8月31日。ダイアナ「社会で最も弱い立場の人びとを助けようとすることほど大きな喜びはないわ」

 ウェールズ公妃ダイアナDiana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。

イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年チャールズ皇太子と結婚、ケンブリッジ公ウィリアム王子およびサセックス公ヘンリー王子の2児をもうけた。後にチャールズ皇太子と別居状態になり、1996年に離婚。1997年パリ交通事故による不慮の死を遂げた。

「もし、私に何かあったら、真実を語って」と言われていたダイアナ妃のセラピストの書いた『ダイアナ妃の遺言』を読むと、占星術に凝るなどの占い中毒やエクササイズ中毒だったダイアナの日常、好悪の感情に揺れ動く情緒の不安定さ、ケネディ・ジュニアなど愛人との情事、そして心の空虚を埋めるための慈善事業などへの集中がよくわかる。ダイアナが心から共感していたのはジャッキー・オナシスの生き方だった。

世間知らずだったこのチャールズ皇太子妃は、夫の不倫への復讐として愛人を持ったのだと考えていた。このようなダイアナ自身の弱さが原因の行動は、圧倒的な共感を呼んで人気があった。女性たちはダイアナの中に自分の問題をみたのだ。始終、パパラッチに追われる生活を「金魚鉢で暮らしているようなものよ」と語り、アメリカ移住を考えたこともあったようだ。

ロイヤルファミリーとしてダイアナは慈善事業に取り組んだ。80以上の国にばらまかれている地雷の廃運動については、地雷で「犠牲になっているのは、子どもや動物、老人なのよ」と語っていた。ダイアナは100件近くあったチャリティを、王立マーズデン病院、英国立バレエ団、ホームレスチャリティセンター、ハンセン病団体、国立エイズ病院に絞った。そして名目ではなく、誠心誠意関与した。自分の人生を意義あるものにしたかったのだ。そして二人の王子を必ず慈善事業に伴うという教育を行っている。

野党だった労働党のブレアはダイアナを人びとの苦難に焦点を当てる外交大使にすると約束していたが、その夢は叶わなかった。また、ダイアナは自分の名前がついた病院やホスピスをつくりたかったのだが、死後にケンジントン宮殿に記念の噴水がつくられるにとどまっている。しかし、最も弱い立場の人びとを救おうとしたダイアナの真摯な発言と行動力は、人びとの心に強く訴え、感動を与えた。ダイアナ妃には人騒がせな女性という印象を持っていたが、実は英国民だけでなく世界の人びとに多大な影響を与えた偉大な女性でもあることがわかった。

ダイアナ妃の遺言

ダイアナ妃の遺言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全国地域リーダー養成塾で講演研修--「説得から納得への政策形成へ」

一般財団法人地域活性化センター主催の全国地域リーダー養成塾で講演研修。場所は市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷。受講者は北海道ニセコ町から徳島県三好市までの市町村の行政マン40名。平均年齢34歳。

1年間の長丁場のカリキュラムで、講師陣を眺めると、知り合いでは塾長の大森先生、大阪観光局の溝畑弘局長、民俗研究家の結城登美雄さん、そして総務省課長、NPO法人代表、大学教授などの名前がみえる。

9時から12時までのコースで講義と研修。テーマは「説得から納得への政策形成へ--図解思考のすすめ」。本日の「目からウロコ」は3人。

終了後のアンケートから。

・図解による合意形成のお話、目からウロコでした。

・有効性はまさに目からウロコでした。

・まさに目からウロコでした。

・図を使いなさい、というコトではなくて、「そういう頭の使い方をしなさい」というお話ととらえてよろしかったでしょうか。

・自分のあたまを使って考えたからか。心地よい疲労感がありました。

・とても楽しい講義でした。

・気持ちが楽になりました。さらに深く学ぶびたい。

・非常に納得。

・住民との合意形成から事務の引き継ぎまで様々な場面で活用できる素晴らしい論理。先生の他の講義も受けたい。

・今までいかに考えてこなかったか。

・ライフデザインも考えたい。

・おおまかに示して、住民と共に修正を加える合意形成を試したい。

・行革について、英米、県庁等の真似をすると失敗するというお話は、まさにその通り。自分の仕事を理解していないことを痛感して目が覚めました。役所の常識がいかにズレているか、いつの間にか自分のズレていたことに気がついた。

・省庁、県庁、先進自治体のマネはよくないという言葉に納得。

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京王プラザホテル「樹林」

・13時半:客員教授の荻坂さんから新著『成長が速い人遅い人』(日経)を頂く。 

成長が「速い人」「遅い人」

成長が「速い人」「遅い人」

 

・14時:総研客員の渡辺先生と懇談。ギリークラブで「100年人生」の講演。

・14時半:総研の渡辺先生と多摩信金の長島部長を引き合わせ。鵜飼亭、研究会、長寿食、コンテスト、、、、。

終了後、立川で所用。

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「名言との対話」8月30日。天谷直弘「生きている限り、人は運命と闘うか達観してこれと遊ぶか、ほかに道はない」

天谷 直弘(あまや なおひろ 1925年8月31日 - 1994年8月30日)は、日本の通産官僚エコノミスト

資源エネルギー庁長官として、石油危機への対応策に専念し成果を上げた。 通商産業審議官時代には、日米自動車交渉では対米輸出の自主規制枠を導入した。1987年7月電通総研設立に伴い初代所長を務めた。『日本町人国家論』で1983年に第4回石橋湛山賞。

天谷は著書『日本町人国家論』の中で、日本を名誉や美意識がなく、金もうけに徹した町人国家に例え、国際社会で信頼を得るには、身分の高い者は義務を負わなければならないというノブレス・オブリージ路線への転換を唱えた。『日本はどこへ行くのか』では「汗を流し、身銭を切れ」「政治的理念の確立と文化的魅力の涵養を」と語った。文化的魅力とは、便利・快適・探美・求真としている。探美とは街並の整備と文化芸術振興であり、求真とは高等教育の充実である。身分いやしき町人から、食わねど高楊枝の武士ノブレス国家への転換である。この路線で国際社会において名誉ある地位を占めるべきだとの論陣をはり、大きな影響を与えた。

天谷直弘は歴史的文脈の中で日本の産業政策を考え抜き、その案を外国にも、国民にも端的に説明ができるスーパー官僚だった。この人の講演を一度昼食会で聴いたことがある。

天谷直弘は1990年代前半まで、官僚としての仕事で、そして日本を代表する論客として、自分の運命だけでなく、日本の運命とも闘った貴族的精神の持ち主だった。さて、運命と闘おうか、それとも運命と遊ぼうか、、、。

日本はどこへ行くのか―21世紀への5つの視点

日本はどこへ行くのか―21世紀への5つの視点

 

 

 

 

 

フットサル全日本代表候補合宿。先生たちと交流。週刊誌のインタビュー。

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10時半:フットサルU21の全日本代表候補合宿が多摩大で開かれていた。この中に多摩大生が二人。杉田学部長と小仲さんと見学。練習を見てみたが、さすがにレベルが高い。

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11時。

研究室:講演準備。スケジュール。「遅咲き」のデータ。「独学」、、、。

ラウンジ

・中村その子先生:T-STUDIO「名言との対話」のPRを。

・増田先生:セブ島の語学研修

・金先生:入試。インターゼミの北京のフィールドワークの様子を聞く。

・杉田学部長:新潟での全国経営学部長会議に向かう

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 14時

多摩センターの京王プラザホテルで、新聞社系の週刊誌の取材を受ける。今回は、「スピーチ」がテーマ。1時間半ほどのインタビュー。どんな記事になるか楽しみだ。

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「名言との対話」8月29日。加瀬昌男「そこには今までなかった新しいことが書いてある。表現そのものが新しい。著者のぬくもりみたいなものが感じられ、類書がなく、しかも人の興味をグイグイ引っ張っていくようなもの」

 加瀬 昌男(かせ まさお、1931年 - 2011年8月29日)は、神奈川県出身の実業家草思社創業者。

早稲田大学文学部演劇科の卒業時「早稲田演劇」誌に一幕物の戯曲を応募して入選。卒業後日産自動車に入社し、工員などの職3年間ほど転々とする。1958年、「現代詩」誌の編集者となる。 1961年ヤマハのPR誌「ヤマハニュース」の編集長となるが、1969年に休刊になることが決まったため、草思社を創業。

初めに手がけたビートルズ伝記が10万部のヒットとなり、谷川俊太郎訳の「マザー・グースのうた」(全5巻)は総計110万部の売上を記録するなど順調な出発となった。

1976年の11月に徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」シリーズが正編と続編をあわせて合計120万部を売り上げ、二つあわせて1977年書籍ベストセラーの1位を獲得。以後、30年同じテーマで発刊しつづけた。一人の著者が、これだけの年月、同じテーマで書き続けた記録は破られないだろう。徳大寺の車への批評は厳しかった。例えば「コロナ=平凡さがとりえだが、エンジンが弱いのが泣きどころ/カローラ=可もなく不可もないクルマの代表/セドリック=俗悪趣味の傑作車/バイオレット=こんなクルマでも買う人がいるから不思議/シビック=見せかけだけの新しさではすぐ飽きがくる/ファミリアプレスト=古くさいだけだ」。自動車業界を震撼させたが、読者の根強い支持があったのである。このシリーズが草思社の業績を支えた。

草思社の本はタイトルがユニークであり、ベストセラーがよくでる不思議な出版社という印象を私は持っていた。「なぜ美人ばかりが得をするするのか」「他人をほめる人、けなす人」「謝らないアメリカ人 すぐ謝る日本人」「ツルはなぜ一本足で眠るのか」、、、、、。いつのまにか、名前を聞かなくなったと思っていたら、草思社は、2008年に東京地裁民事再生法の適用を申請し、文芸出資の完全子会社となっていた。

冒頭に紹介した加瀬昌男の「いい本」とは、つづめていうと「内容が新しい、表現が新しい」ということだと思う。名編集長・扇谷正造は「目をつぶって「エイ、ヤッ」と左右の指で目次を指す。すると『中央公論』から天皇制、『主婦の友』からおいしい朝食が飛び出してくる。そこで「天皇の朝食」という企画をやればいい」と冗談半分ではあろうが、異質の掛け合わせが新しさを生むとしている。その思いつきを新しい表現を用いて企画にまで高めていくのが編集者の腕ということになるのだろう。ヒット企画の公式はないが、社長や編集長は内容の新しさを追い、担当編集者は表現の新しさを工夫する、という結論にまずはしておこうか。

 

 

 

 

 

 

久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展---猫画家の描く猫的世界

久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展。

この企画展は「ニューヨークの猫画家」と言われる久下貴史が、文具の銀座伊東屋で18年連続で開催されている絵画展だ。猫好きの女性ファンに応えて「マンハッタナー」というブランドで、久下の作品がプリントされたバッグ、財布、傘、などが売られており、自由が丘には専門ショップ「Art Farm」まである。

1948年生まれ。1982年、「週刊朝日」の「山藤章二の似顔絵塾」の第一回大賞を受賞。1986年に「絵が描ける所だ」とニューヨークに移住。1992年に猫を描くことに目覚める。猫画家として猫的世界の作品を多数描く。2001年から作品発表の場を日本に移す。現在はューヨークを深く描くこと、日本の伝統画材を用いて猫を描くことに注力している。久下の猫のいる風景は、温かく、ユーモアがあり、優しい感じがする。

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動物写真家のの岩合光昭の作品展覧会が頻繁に開催されたり、テレビでの映像作品が流れたりする日本は、猫ファンが多い。その猫的世界の表現者の一人が久下だ。世界の都市で猫を描き、墨や顔彩などの日本の画材を用いて手漉き和紙に猫の表情を描く「新和シリーズ」も手がけている。久下の猫的世界はグローバルでかつローカルに進化している。一つのテーマを時間をかけて追いかけると、新しい世界が開けてくる。

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猫たちとニューヨーク散歩: 久下貴史作品集2

猫たちとニューヨーク散歩: 久下貴史作品集2

 

 

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・新宿の「るぶらん」で出版プロダクションと企画の進行打ち合わせ。

・力丸君と居酒屋で今後の相談。

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「名言とmの対話」8月28日。ミヒャエル・エンデ「時間こそが人生そのものなのです。そしてそれは心の中にあります。時間を節約しようとするほど生活はやせ細ってしまうのです」

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツ児童文学作家

1961年日本語訳『ジム・ボタンの機関車大旅行』)がドイツ児童文学賞。1973年「Momo」完成。翌年再びドイツ児童文学賞を受賞。1977年初来日。エンデは書物を通じて東洋に関心があり、豊かな好奇心で日本を観察した。1986年、日本国際児童図書評議会が催した世界大会の基調講演者再来日。瀬戸内海の島、桜満開の丸亀城、京都で仏教学者・上田閑照らとの討論、、、。この年『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と再婚。長野県の黒姫高原信濃町立の黒姫童話館ではエンデに関わる資料が収集されている。

世界で翻訳されている名作『モモ』。浮浪児モモは相手に自分自身を取り戻させる能力、宇宙の音楽と星星の声に耳を傾ける能力を持っている。「灰色の男たち」は「よい暮らし」のためにせかせかと生きる病に冒されているのだが、「時間の国」でモモは時間の豊かさを知る。人間はひとりひとりが金色の時間の殿堂を持っていることを知ったモモは時間泥棒に奪われた時間を解放する。こういう物語だ。この物語は過去のできごとのように設定されているが、現在と将来の姿でもある、ここに読者は惹かれるのだ。

・人生でいちばん危険ななことは、叶えられるはずのない夢が、叶えられてしまうことなんだよ。

・いちどに全部のことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけつぎの一息のことだけを考えるんだ。いつもつぎのことだけをな。するとたのしくなってくるこれがだいじなんだな。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにならにゃだめなんだ。

『モモ』の中の「時間泥棒」である「灰色の世界の男たち」の行動に、近代人はみな自分を見る。時間を節約し、効率を至上命題として、仕事に励む、その姿は自分そのものだ。「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じとるために心というものがある。もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないも同じだ」。時間は人生そのものであり、時間を節約しようとすれば生活がやせ細る。それは貴重な時間で構成されている人生自体が無意味なものになるということだろう。頭で時間を考えるのではなく、心で時間を感じるとる生活を送ろう。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))