田端文士村会館「芥川龍之介の生と死」展。すみだ北斎美術館「北斎視角のマジック」展。表参道の「未来フェス」忘年会。

田端文士村会館で開催中の「芥川龍之介の生と死」展。充実した企画展だ。

親友の室生犀星は、田端文士村を「賑やかな詩のみやこ」といい、その「詩のみやこの王様は芥川龍之介」と語っている。龍之介という名前は、生年月日時が辰年辰月辰日辰刻だったことによる。芥川の実母は龍之介を産んだ後に狂人となった。芥川は「ぼんやりとした不安」によって自殺したとされるが、その一因は発狂の予感に対する恐怖心にあったかもしれない。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」「畢竟気違ひの子だったのであろう」。

以下、この企画展の章立て。「芥川龍之介の死生観」「芥川龍之介谷崎潤一郎の文学論争」「芥川龍之介の晩年と死」「芥川龍之介の死と室生犀星」「芥川龍之介の死と堀辰雄」「芥川龍之介の死と家族」「芥川龍之介の死を語る文壇仲間」「現代に生きる芥川龍之介」。詳細は別途書く。

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 「文豪とアルケミスト」という文豪シュミレーションゲームの芥川龍之介

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 両国の江戸東京博物館を訪問するが、休館だったのは残念。

 思い直して「すみだ北斎美術館」を訪ねる。2回目。没後170年「北斎視角のマジック」展。欧米系の外国人が多い。長野県小渕沢の北斎館(画狂人葛飾北斎の肉筆画美術館)所蔵の120点が展示されていた。北斎は83歳から高井鴻山(1806-1883)宅に毎年のように4回滞在している。詳細は別途書く。

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表参道で降りて橘川幸夫さんを中心とする忘年会に参加。一般社団未来フェスの前田さ(右)さん、高野さん(左)。平凡社の下中直人会長。放送作家の松岡昇、編集者の榎本統太、共創社会プロデューサーの坪田哲司、山崎純一郎らと今回知り合った。自分史の河野女史もいた。不思議な会だ。

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「名言との対話」12月28日。坪内寿夫「少数にしたら精鋭になるんや

坪内 寿夫(つぼうち ひさお、1914年9月4日 - 1999年12月28日)は日本実業家

満鉄、シベリア抑留を経て、戦後は映画館経営から始める。1953年、現在の新・来島ドック社長。1978年、佐世保重工業社長。 倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、「再建王」と呼ばれた。  一代で造船・海洋を中心とした来島グループ(来島ドックグループ)とも呼ばれる180社を超える巨大企業群を作り上げ、「船舶王」「四国の大将」とも称された。

徹底した少数精鋭の「コスト削減」と「信賞必罰人事」だった。佐世保重工では460人の管理職を37人に減らした。230あった課を8に減らした。「少数にしたら精鋭になるんや」と組織改正をいっぺんにやった。そしてだんだんに上がっていくエスカレータ人事ではなく、タテに急上昇急下降する「エレベーター人事」 を断行した。

坪内は日本一の経営者になるという野心を持っていた。率先垂範し、質素にし、信用を得るという型の経営者を目指した。銀行、部下、お得意さんの信頼を得るために、給料、賞与はとらず、配当もいらない。ただ全株を持ってワンマンでやる。しかし日常生活は質素そのものだったから皆信用した。「坪内さんは政商ではなく、清商であった」と愛媛県知事加戸守行も語っている。珍しい経営者だ。

以下、『坪内寿夫対談集 夢つきることなし』(角川書店)から拾った坪内語録。 

「斜陽でも生き残ればいい会社になるわけです。現状打破をやって、少数精鋭でやれば、だいたい生き残れる」「泥をかぶって率先垂範するのが、経営者の務め」「幹部は少ないほうがいい。これは鉄則です」「社員に働く喜びを自覚さす教育が必要なんじゃ」「会社に入ってからが本当の勉強で、勉強してもらわんと勝てんのですわ」「だめな会社じゃから、みな欠陥がある。それを根気よく直していく」「率先垂範する以外にない」「誠意を示していく。そのためには自分を犠牲にしなくてはいかん」「成功するまで金を注ぎ込んでやるんじゃから、これは成功しますよ。、、個人財産があるからできる」四国国鉄を俺に任せれば5年で黒字にしてみせる」 

 この人物には作家たちが興味を持つようで、多くの小説の題材になっている。柴田錬三郎『大将』、落合信彦『戦い、いまだ終わらず』、高杉良『小説会社再建-太陽をつかむ男』、半村良『億単位の男』、青山淳平『夢は大衆にあり~小説・坪内寿夫』、佐伯正夫『坪内イズムの真実を今 再建人生ここにあり』。2018年にはホテル奥道後・壱湯の守内に、「奥道後坪内記念館」が開設されている。

精鋭を少数集める、そんなことはできるはずがない。やはり手持ちの駒を使うしかない。そのときは人を減らし、少人数で仕事をこなすようにする。そうすると精鋭になっていく。日本初の植民地・台湾を9年で黒字にした後藤新平も徹底した組織の簡素化と人員の大削減を断行している。私も似た経験がある。30代で上下二人でやっていた労務の仕事を若い私が上司から任されたことがある。一人ですべて判断しなくてならないから真剣になった。また40代になって経験不足の部下を多数抱えたことがある。このときは仕事を猛烈に増やして、それぞれを責任者にしたら、のんびりしていた部下たちも働きだした。公然の秘密である「率先垂範と少数精鋭」の坪内イズムには共感する。

夢つきることなし―坪内寿夫対談集

夢つきることなし―坪内寿夫対談集

 

 

柳兼子(声楽家。柳宗悦夫人)「やっと80歳になって歌が歌えたなという気がいたしますからね。長生きをしてよかったなと思います」

日本民芸館の向かいに建つ柳宗悦旧居。2階には柳宗悦記念室がある。日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿、著書などをみることができる。また書斎の壁半分を占める自らデザインした本棚には4万冊の蔵書がおさまっている。「今日も空 晴し又」という書がかかっている。

驚いたことに1階には柳兼子記念室があった。知らなかったが、兼子は宗悦の妻であると同時に声楽家としても大をなした女性であった。民芸館で売っていた松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』を購入し兼子の生涯を追った。

兼子は芥川龍之介と幼稚園、小学校で同級だった。男と同等の立場でいこうと考え、声楽なら女の立場があると気がつき、東京音楽学校で声楽を学ぶ。歌い手になるよりも芸術家になりたいと考えた。師のペツォールドから「お前の声はドラマティックだ」と励まされた。

宗悦21歳、兼子18歳で出会い、兼子の22歳で歌を続ける条件で結婚する。宗悦の母の勝子は加納治五郎の姉である。1924年、宗悦は同志社女子専門学校教授となる。1925年、兼子は33歳で同志社女子専門学校講師になる。宗悦の収入は朝鮮の民芸品や本代に消えるため、生活費は兼子の肩にかかっていた。36歳、発音の勉強と実力を試すためにドイツに半年滞在し、独唱会をひらき、「東京の柳兼子、それは異常な出現である」と新聞で絶賛される。

兼子は民芸運動創始者柳宗悦夫人であり、宗理(インダストリアルデザイナー)、宗玄(美術史家)、宗民(園芸家)の3人の子どもを育てながら、歌と家庭を両立させた。日経新聞では「女の中の女」と紹介されている。62歳、国立音楽大学教授。年1回のペースでリサイタルを続ける。69歳、宗悦が民芸館で椅子に座ったまま昏睡状態、その後72歳で死去。69歳の兼子の人生はそれから23年あった。紫綬褒章芸術院会員。

日本の声楽家は50歳で引退する人が多いが、自分は80歳でやっとうようやく歌が歌えたなという気がいたしますと語り、長生きをしてよかったと思う。83歳でアルトの声でリサイタルをしている。

92歳で亡くなったときの葬儀では長男で喪主の柳宗理は「母なしには民芸館は建たなかったと思う」と挨拶をしている。日本の声楽の基礎を築いたアルト歌手は92歳で天寿を全うした。不撓不屈で研究を続けたところにこの人の偉さがある。高齢化時代の女性の生き方のモデルだ。

 (松橋桂子編『柳兼子音楽活動年譜』)

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「名言との対話」12月27日。ベーナズィール・ブットーパキスタンは、核心的技術を持っているが、平和目的に限って使ってきた。今後、核兵器製造や核実験、兵器技術輸出などのために使わねばならない日が、決して来ないことを願っている」

ベーナズィール・ブットーBenazir Bhuttoシンド語:بینظیر ڀھٽو、ウルドゥー語: بینظیر بھٹو1953年6月21日 - 2007年12月27日)は、パキスタン政治家。

祖父、父と有力政治家を産んだパキスタンの「ブット王朝」と呼ばれる名家出身のこの女性は1969年4月、米国ハーバード大学ラドクリフ・カレッジおよび英国オックスフォード大学レディー・マーガレット・ホール校で学び、1973年秋にオクスフォードに進学。PPE(政治学・哲学・経済学)で修士号を得た。

帰国後、父であるズルフィカール・アリー・ブットー首相が設立したパキスタン人民党(PPP)の総裁(党首)となり、イスラム諸国家における初の女性首相になった。当時のイスラム諸国最年少の35歳のリーダーとなった。この年にビープル誌で「世界でもっとも美しい50人」にも選出されている。1993年には2度目の首相に選出されている。2007年12月27日に、政界復帰を目指して、国会議員選挙運動中に銃撃と自爆テロで暗殺された。10数年前のこのニュースは世界に衝撃を与えた。私もその一人だった。

 英国からの分離独立したヒンズー教徒中心のインドとイスラム教徒中心のパキスタンは宿敵同士となって、紛争は恒常的に起こっている。パキスタンの核の論理をブットーは次のように説明している。

パキスタンは、核心的技術を持っているが、平和目的に限って使ってきた。今後、核兵器製造や核実験、兵器技術輸出などのために使わねばならない日が、決して来ないことを願っている」「わが国を核拡散の道へ追いやる国がインドであることを認識せねばならない。インドは、南アジアを救うため、自制すべきだ」

しかし、インドは核を持った。パキスタンも後を追うしかない。それが唯一の自衛手段であると、後にパキスタンも核実験を強行し、事実上の核保有国となった。

現在パキスタンは隣国アフガニスタンからの難民流入によって人口が急増しており、2017年には2億人を超えている。2050年には中国、インド、アメリカに次ぐ人口大国になると予想されている。

2013年、女性が教育を受けることに反対するタリバンから頭部と首に銃撃を受け負傷し奇跡的に命をとりとめたパキスタンの15歳のマララ・ユスフザイは世界の注目を浴びた。マララは国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。2014年にノーベル平和賞を受賞したマララは、イスラム世界における初の女性首相であるベーナズィールに刺激を受けたと語っている。マララは米タイム誌が発表した「2014年最も影響力のある25人のティーン」の一人に選ばれている。

女性差別の厳しいイスラム教を奉ずる国で、首相をつとめた女性・ブットーの動向は内外で注目されていた。そのブットーに刺激を受けた40年以上後に生まれた女性が次の時代を担っていく。一人の人物の出現は、後の世界に大きな影響を与える、そのことを改めて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

野田一夫先生と語る会ーー「凛然として」

広尾で野田一夫先生(92歳)と語る会を開催。

立教大学OB、多摩大学OB、宮城大学OBなど40人ほどの教え子たちが集合。立教OBの高橋茂人さんの挨拶の後、私は「現代の論語 野田一夫語録」出版プロジェクトの開始を宣言した。https://forms.gle/7mMTadp44QLGokUw6

師匠と弟子。
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 高橋さんのスピーチ。

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乾杯!

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多摩大OBグループとの対話。

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「凛然」。岡山、秋田からも参加。
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宮城大OBグループとの対話。力丸君の司会。
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蔡君。力丸君。平君。奥君。高山君。石橋君。、、、
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仙台から駆けつけた野田一夫ファンクラブ会長の富田さん。
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修了後、力丸君と玉川大学の小酒井先生と打ち上げ。

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昼: 立川で整体。

午後:荻窪日本地域社会研究所

夕刻:東京駅のステーションギャラリーで「坂田一男」展。

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 「名言との対話」12月26日。石垣りん「自分の住む所には/自分の手で表札をかけるに限る」

石垣 りん(いしがき りん、1920年大正9年)2月21日 - 2004年平成16年)12月26日)は、詩人

3歳で関東大震災に遭遇。4歳の時に生母と死別、以後3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。15歳で高等小学校を卒業後、日本興業銀行の事務見習いで入行し、定年まで勤めあげた。親に迷惑をかけずに自分が好きな詩を書くために収入を持ちたいという思想を持ち、生涯独身だった。

この有名な詩人は、ほぼ10年ごとに4冊の詩集しか出していない。『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年、39歳)、『表札など』(1968年、48歳)、『略歴』(1979年)、『やさしい言葉』(1984年)。この4冊は「石垣りん文庫」として1998年から2002年にかけて刊行される。また童話屋から、2000年から2002年にかけて刊行される。また「石垣りん」の詩集として思潮社中央公論社、童話屋、角川春樹事務所、理論社からも1971年から2004年にかけて刊行される。1冊1冊、1詩1詩が人々の胸を打ち続けてきたことがわかる。

第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞を受賞している。そして「教科書に多数の作品が収録されている。

現代詩手帖特集版 石垣りん」を読んだ。

「表札」自分の住む所には/自分の手で表札をかけるに限る。、、、精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それでよい。(石垣りんはこの詩を書くために生まれてきたと評されるほど有名な詩)

「儀式」母親は/白い割烹着の紐をうしろで結び/板敷の台所におりて/流しの前に娘を連れてゆくがいい。、、、、パッケージされた肉の片々を材料と呼び/料理は愛情です、などとやさしく諭すまえに。/長い間。私たちがどうやって生きてきたか。/どうやってこれから生きてゆくか。

詩について石垣りんは次のように言っている。「詩は虹を書くことではない」。「虹を指している指、それがどうやら詩であるらしいということ」。

与謝野晶子を祖とし、永瀬清子等へ続く女性詩人の「実感軸」の系譜の流れの先に位置する詩人である。また、「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」が代表作の6つ下の茨木のり子石垣りんが、戦後の女性解放時代を代表する詩人として双璧だった。当たり前の暮らしをしながら、鋭い刃物のような言葉で生きることの本質を描いた詩人だった。これまで人間が、女性がどう生きてきたか、これからどう生きていくかが詩の主題だった。NHKアーカイブで語っているように、「これだけは言わせていただく」という言葉が、石垣りんの詩だったのだ。

2009年 静岡県南伊豆町の町立図書館内に「石垣りん文学記念室」が開設された。凛凛たる響の名前、凛然たる風貌、この人は生涯を「石垣りん」として、凛として生き抜いた人だ。 

現代詩手帖特集版 石垣りん

現代詩手帖特集版 石垣りん

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 思潮社
  • 発売日: 2005/05
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

「散歩が日本一エキサイティングな街」ーー多摩ニュータウン

ココロ社という人のブログで、私の住む街・多摩ニュータウンを紹介している文章を発見した。同感だ。 

多摩ニュータウンがひとりで住むのに最高に楽しい街である

・広くて住み心地最高の部屋があるというのに散歩がやめられず、なかなか家に帰れない有様になった。

散歩が日本一エキサイティングな街:「歩車分離」された日本一長い遊歩道。デザインされた団地の神々しい風景。宇宙を感じさせる風景。、、、。

随所にある不思議な公園。・多摩ニュータウンの魅力が凝縮されている公園といえば、京王堀之内駅と南大沢駅の間にある長池公園にとどめを刺す。・長池公園から始まり、京王堀之内駅近くへとつながる「せせらぎ緑道」も最高だ。

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このブログで紹介されている私の毎朝の散歩道に、今日は白鷺(しらさぎ)がいた。昨日は蒼鷺(あおさぎ)をみた。川辺を遡る翡翠(かわせみ)を見ることも珍しくない。

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「名言との対話」12月25日。加島祥造「尖がらず(△)、角ばらず(▢)、転がっていく(〇)」

加島 祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2015年12月25日)は、日本詩人アメリカ文学研究者翻訳家随筆家タオイスト墨彩画家

 私の父と同じ大正12年生まれだ。13人兄弟の10番目。早稲田大学在学中に学徒出陣。アメリカクレモント大学院に留学。帰国後に信州大学に就職し30代から30年間を松本で過ごす。山歩き、釣りを楽しみ、碁を覚え、温泉に浸かった。そして本を読み、翻訳の注文にじっくりと取り組んだ。横浜国立大学に移り、40代から東洋思想に関心が向かう。50代から書をならい、67歳から一人で信州伊那谷で暮らす。墨彩画を描く。その住居を晩晴館と呼んでいる。

中国の古い詩「天意重夕陽、人間貴晩晴」(天意夕陽を重んじ、人間晩晴を貴ぶ)からとっている。一日のうちでもっとも大事なのは夕方であり、人生でも晴れ晴れとした晩年が大事だ。そういう心境とういう意味でつけた名称だろう。

子どもたちにむけてやさしく書いた加島祥造『わたしが人生について語るなら』を読んでみた。最初はすーっと読むことができたが、2度目に読むと心に響く言葉が多いことに気づいた。「現代人必読の書」と解説にある。その通りかもしれない。

よく遊び、好きなことをし、楽しむことが大切だ。好きなことをするといっても、対象も変わるし、自分も変わっていく。それが心の成長だ。それを続けていると、元気になり、健康になり、いきいきとした状態になっていく。そのエネルギーが「命」の力だ。

嫉妬心が問題だ。嫉妬する人は自分のしたいことをしていない人だ。そういう気持ちを起こさないためにはまず自分を幸福な状態にしておくことだ。そうすれば他人は気にならなくなる。好きなことをしている人は、1人でいても孤独ではない。それが自由なのだ。

英文学者の加島は、ドイツ文学者の中野孝次と同様に東洋思想に引きつけられる。二人の対談もある。老子は、ひとりの人間のエネルギーと宇宙全体のエネルギーとのバランスを説いた。それが孔子の中庸のバランスを含む大きな働きで、「タオ」という。宇宙エネルギーという大きなものにつながっていることを信じてまかせていこう。老子は3つの宝という。他人への愛情、欲張らない、威張らない。深い愛を持ち、質素に暮らし、ゆっくり進む。喜び、驚き、感動をたっぷりと味わい、嬉しいといえる人生をおくるために「命」が与えられた。自分に与えらえた命を信じよう。苦しい時は、窓をあけて外の空気や光や風を取り入れよう。老子は自分が幸福になると、家族、村、郡、国が順々に幸福になっていくから、まず自分を愛せと言っている。

英語のbird's eyeは鳥瞰と訳す。空から鳥の目で地上を見晴らすと世界が見える。それに対し、加島は英語のnderstandの意味は「下に立つ」ことであり、見上げればものごとがよく見えると英文学者らしい解説をしている。「上、下を見ること3年。下、上を見ること3日」という言葉もある。鳥瞰と虫瞰の両方がそろって、人間と世界がわかるということだろう。

変化を受け入れると、良い方向へ向かうことが多くなる。変化を怖がると小さな変化ばかりが気になる。老いていくことは恐怖でも何でもない。何歳になっても自分の可能性はどんどん拓けていくというのだ。

 禅僧仙厓の「〇△▢」図を「尖がらず(△)、角ばらず(▢)、転がっていく(〇)」と解釈する。幼いころから〇く転がっていたのに、死の恐怖を感じる軍隊で△にされ、20代から50代の社会人の壮年期に▢となり、60代からまた〇くなろうとし、70代からやっと転がり(〇)始めた。「いま・ここ」にいる自分だけを意識するのが、〇の時代だ。これが加島の一生であるとの人生観だ。

「〇△▢」は、私の書斎にも飾ってある。この図はみるひとに解釈をゆだねている感じがある。加島祥造の「尖がらず(△)、角ばらず(▢)、転がっていく(〇)」は名翻訳者加島祥造の名訳だと思う。 

(015)わたしが人生について語るなら (ポプラ新書)

(015)わたしが人生について語るなら (ポプラ新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

音声講座「ビジネスに活かす偉人の名言」50本が完成

 「こえラボ」の岡田社長に励まされて、2019年の1年でポッドキャストでの毎週1本の音声講座50本(30分)の放送が終わり、12月をもって完結した。インタビュー形式なので、語る内容が広く、深くなった感がある。大事な財産になった。さて、これをどう使おうか? 紹介の音声を聞けます。https://meigen.koelab.net/

以下、音声講座説明。

「生活に深く影響を与える人、幅広い人に影響を与える人、世代を超え長く影響を与える人、このように影響力を与える人を「偉人」と考えています。そして、このような偉人は良い言葉を残しています。偉人からは職業観、仕事観、人生観、死生観について深く影響を受けているものです。音声講座「ビジネスに活かす偉人の名言」は多摩大学久恒啓一これまで多くの偉人に接してきた中で培った経験を生かして、偉人の名言をビジネスに活かすためのポイントをお伝えいたします。ビジネスには、事業や仕事という意味があります。事業をおこしたい、仕事を充実させたい、人生を意味あるものにしたい。そんな前向きな考えを持ったビジネスパーソンのための講座を開始いたしました。この変化の激しい時代だからこそ、偉人の名言から学ぶことが多いと感じています。過去を学ぶことにより、現代でも活かせるポイントをわかりやすく伝えていきます。約30分の音声講座で、主に下記の内容をお伝えしています。偉人の人物紹介。偉人の名言の解説。ビジネスに活かすヒント・偉人にまつわる書籍や偉人館のご紹介」

取り上げた人物のリスト。

1月:塚本幸一(ワコール創業者)。浪越徳次郎(指圧療法創始者)。鬼塚喜八郎(アシックス創業者)。笹崎龍雄(サイボクハム創業者)。

2月:秋山真之(海軍軍人)。山本周五郎(小説家)。安藤百福日清食品創業者)。

3月:手塚治虫(漫画家)。斎藤茂吉歌人)。勝海舟(政治家)。本多静六(林学博士)。

4月:小林一三(阪急東宝グループ創業者)。村野四郎(詩人)。内村鑑三キリスト教思想家)。城山三郎(小説家)。リー・クアンユー(政治家)。

5月:後藤新平(政治家)。朝倉文夫(彫刻家)。扇谷正造(ジャーナリスト)。竹内均(地球物理学者)。

6月:寺山修司(劇作家)。与謝野晶子歌人)。ダ・ヴィンチ(芸術家)。池波正太郎(小説家)。

7月:亀倉雄策(グラフィックデザイナー)。宇野千代(小説家)。佐藤栄作(政治家)。小倉昌男(ヤマト創業者)。北里柴三郎(医学者)。

8月:梅棹忠夫(人類学者)。鈴木大拙(禅学者)。中野孝次(作家)。江藤淳(文芸評論家)。ヘミングウェイ(作家)。

9月:阿久悠(作詞家)。坂本九(歌手)。山口瞳(作家)。浜口雄幸(政治家)。

10月:湯川秀樹(物理学者)。徳富蘆花(小説家)。西郷隆盛(政治家)。遠藤周作(小説家)。

11月:三浦綾子(小説家)。渡辺崋山蘭学者)。石坂洋次郎(小説家)。新渡戸稲造(思想家)。

12月:渋沢栄一(実業家)、白洲次郎(政治家)。坂本龍馬(政治家)。トルストイ(小説家)。

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クリスマス・イブは、首都大学東京のレストランでコンサート。

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金子みすゞブラームスシューマンショパンドビュッシーラヴェル

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 「名言との対話」12月24日。サミュエル・フィリップス・ハンティントン「人間が共通してもっているのは、「共通の文化への傾倒よりも、むしろ共通の敵(もしくは悪)の自覚」である」

サミュエル・フィリップス・ハンティントン(Samuel Phillips Huntington、1927年4月18日 - 2008年12月24日)は、アメリカ合衆国国際政治学者

 コロンビア大学戦争と平和」研究所副所長を経てハーバード大学教授。1986年から1987年まで、アメリカ政治学会会長を務めた。23歳から2007年までの58年間、ハーバード大学で教鞭をとった。1976年から始まったカーター政権下で1977-78年、国家安全保障会議NSC)の安保政策調整官を務めた。

1996年刊行の名著『文明の衝突』の原題は「文明化の衝突と世界秩序の再創造」である。米ソ冷戦が終了した世界においては、イデオロギーによる対立ではなく、異なる文明化が進行中の地域同士の断層線で紛争が激化すると予測した。ハンチントンによれば、世界の主要文明は、西欧文明以外に、中華文明(中国。儒教)、ヒンドゥ文明(インド。ヒンドゥ教)、イアスラム文明(イスラム教)、日本文明(神道)、東方正教文明(ロシア。正教)、ラテンアメリカ文明(カトリック)の7つの主要文明と、その候補のアフリカ文明があるとした。日本文明については、「日本は家族を持たない文明である」と言い、2世紀から5世紀において中華文明から独立した日本一国のみで成立した孤立文明としている。

深刻な脅威は主要文明間の宗教や文化を含む、民族が中心の文明の衝突であり、不干渉と共同調停のルールを構築することが平和の条件として、話題を呼んだ衝撃の書だ。この本は世界39の言語に翻訳されて世界中に影響を及ぼしている。ハンチントンがこの本を書いてから、20年以上が経った。予言通り、自由主義陣営が社会主義陣営に勝利した後も、世界中で絶え間なく起こっている大小さまざまの紛争をわれわれは目撃している。

ハンチントン理論によれば、「イデオロギーでは分裂していても文化が共通する国々は統合される」から、一つの文明圏や国ではイデオロギーの対立よりも、文化や宗教を基盤とする文明意識が優先することになる。

文明の衝突とはグローバルな広がりをもった種族間の紛争」であり、人間が共通してもっているのは、「共通の文化への傾倒よりも、むしろ共通の敵(もしくは悪)の自覚」であるとハンチントンは洞察する。

われわれの文明は、敵や悪の存在で、自らを愛する感情が刺激される。国と国の戦争もオリンピックのようなスポーツも同じだ。敵をつくることによって劇薬である民族感情が刺激される。敵や悪は接触の多い文明の断層で目覚めるから、近隣諸国との関係は悪いのが普通だ。その自覚に立っても、ハンチントンのいう「異なる文明の内部への相互不干渉と、紛争調停のための文明共同のルール構築」は、現在の世界を眺めてみても難題であると感じる。しかし、それを追い求める以外に平和を維持する策はないのではないか。 

文明の衝突

文明の衝突

 

 

 

 

 

 

日本ペンクラブの機関誌「P.E.N.」(2019年12月号)

会員になっている 日本ペンクラブの機関誌「P.E.N.」(2019年12月号)が届いた。本日の「名言との対話」の早乙女貢は、日本ペンクラブで常任理事、専務理事をつとめ、国際ペン大会に数多く出席していることもあり、じっくりと読んだ。

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12月1日現在で会員数は1492名。

 P会員(Poets=詩人、Playwrights=劇作家)。詩人・俳人歌人、脚本家、劇作家、放送作家など。

E会員(Essayists=随筆家・評論家、Editors=編集者)。エッセイスト、翻訳家、学識経験者、学者、編集・出版人、記者、ジャーナリスト、評論家、漫画家、映画監督、放送番組制作者、俳優、演出家、画家、装幀家、デザイナー、写真家、書店・図書館・美術館・博物館等の学芸員や専門職員など。(私はE会員に登録)

N会員(Novelists=小説家)。小説家、ノンフィクション作家、ネット媒体で活躍する作家など。

歴代会長: 島崎藤村正宗白鳥志賀直哉川端康成芹沢光治良中村光夫石川達三高橋健二井上靖遠藤周作大岡信尾崎秀樹梅原猛井上ひさし阿刀田高浅田次郎。吉岡忍。

「ふるさと文学2019-立原道造浅間山麓」。京都例会「人間国宝神田松鯉氏、講談「扇の的」を熱演」。9月例会「杉田成道氏のミニ講演と懇談会」。第85回国際ペン・マニラ大会「東南アジアの連携をテーマにしたシンポジウムに参加、香港ペンも登壇」。国際ペンの動き。広島ペンクラブ創立70周年記念講演会「下重暁子副会長」。第17回大田原市文学サロン「文学と家族」。「国語教育と文学」検討チーム。日本ペンクラブ会長談話「文化庁補助金不交付決定の撤回を求め、「アイチトリエンナーレ2019/表現の不自由展・その後」おjすみやかな再開を期待する」。言論表現委員会勉強会。5月、6月理事会報告。会員短信。会員消息。

「国際ペンの動き」(国際ペンのホームページから):7月9日、世界メディアの自由会議でジャーナリストとメディア労働者の安全を守る共同声明。9月のマニラ大会で先住民言語がテーマ。11月15日は獄中作家の日。各国の状況としてカザフスタン、ブラジル、キリギスタン、ウガンダ、インド、スエーデン、キューバ、香港、スペイン、ラテンアメリカ、ロシアにおける弾圧などに立ち向かている事例などが紹介されている。日本では愛知県の検閲に焦点を当てた展示中止の件を声明とともに掲載。

 https://japanpen.or.jp/

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「名言との対話」12月23日。早乙女貢会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配している」

早乙女 貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日 - 2008年12月23日)は、日本の歴史小説時代小説作家

戊辰戦争で賊軍の会津藩士であった曾祖父はアメリカにわたる。その娘の祖母から旧満州会津精神を叩き込まれた。15歳あたりで作家を志して「会津」を書くことを意識する。敗戦後、中国旧満州ハルピンから九州博多に引き上げる。1948年、上京し山本周五郎の知遇を得て師事する。

1969年、「僑人の檻」で直木賞を受賞し、その後は、時代小説・歴史小説を主軸としながら、現代小説、ミステリー、歴史エッセイ、評論、紀行など多彩な創作活動を展開した。

大衆文学研究賞特別賞を受賞した2003年刊行の「わが師 山本周五郎」(集英社文庫)を読んだ。尾崎四郎が「曲軒」とつけたように狷介で扱いにくい周五郎に可愛がられて、文学修行と人間修行をする。本名は1月1日生まれの太閤秀吉に因んだ鈴ヶ江秀吉である。ペンネームは若い娘に貢ぐという意味だ。師は執拗にこの名前の変更を促した。作家は作品で勝負すべきで、名前は平凡でいいという考えだったが、早乙女は応じていない。

この本では身近で観察できた弟子は師の思想、日常を語っている。師を語ることは弟子自らを語ることになる。私も周五郎のファンであり、二人の作家を理解する貴重な書であった。

早乙女貢は師の山本周五郎が没した3年後からこの鎮魂の書ともいうべきライフワークが始める。「会津士魂」は1970年から18年かけて「歴史読本」に連載し、62歳で7000枚13巻の長編として完結し、吉川英治文学賞を受賞する。その後、「続会津士魂」8巻も書き、2001年に33年間の歳月を費やして75歳でついに完結する。

周五郎は「書かずにいられないもの」があるなら、どんな偉大な作者も及ばない独自の価値があると語っている。早乙女の場合、それが「会津」だった。早乙女貢は、敗者の側から歴史を丹念に検証していった。それを支えたのは怨念であった。

早乙女にはエッセイが少ない。「自分の身の回りのことを書く暇があったら、一篇でも多く小説を書くよ」という考えであり、それは師も同じだった。また日本ペンクラブでも常任理事、専務理事をつとめ、1985年のサンマリノハンブルクルガーノ、ソウル、、、、1997年のブレッドまで毎年のように国際ペン大会にも出席している。曾祖父のアメリカ、中国における祖母の薫陶、外交官の父、といった生い立ちから国際感覚を備えていたのであろう。

直木賞受賞時には東京新聞に「私の血の命じるまま」と題して寄稿し、「会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配しているのは、曽祖父の悲憤が、三代にわたって外国生活を強いる結果となったことと無関係ではない」と書いている。会津にこだわったのは血のなせる業だった。この点、祖母が早乙女に与えた教育の影響を忘れることはできない。山形の阿部記念館で次郎の祖母が偉かったという話を聞いたことがあ。同じように早乙女貢をつくったのも会津魂の塊であった祖母であった。家庭教育の影響力を改めて思った。 

わが師山本周五郎 (集英社文庫)

わが師山本周五郎 (集英社文庫)

 

 

 

 

 

「化学工学会」の経営ゼミナールで行った講演のアンケート

朝の散歩で。

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11月30日の公益社団法人「化学工学会」の経営ゼミナールで行った講演のアンケートが届いた。講演テーマは「人生100年時代を迎え撃つ、アタマとココロの革命を!」。

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/11/30/000000
・ 図解での表現は報告資料でも実感していることであり、よく理解できた。特に鳥瞰図の良さを知り、活用したいと思った。
・改めて図解を用いて仕事したいという気持ちになりました。人生100年と考えて、仕事だけでなく、個人的なライフワークを探索しようと思いました。
・図を描くためには、その中のものが論理的につながっていなければならず、それらを明確にすることが要諦だとよく理解できました。また、鳥瞰図は参考になりました。
・図解による思考の整理と、意識の共有は、これからますます多様化していく社会の中で非常に有効な手段であると感じた。
・図を使うことの重要性を再認識した。1枚の戦略図という点は非常に興味深く、どこかで活用してみたいと思った。

・非常に興味深い内容でした。文章がいかに曖昧で、人によって受け取り方が変わるのか、改めて痛感させられました。確かに自分も誤解がないようにと意識はしており、そのため、文章がどんどん長くなる傾向がありました。自身も子供が苦手な算数の文章題に、「図を描くとわかりやすい」と教えており、自分もわかっていたはずにもかかわらずです。重要なポイントを絞り、シンプルに理解することの重要性が改めていい気させられました。
・ 図形を使った理解は目から鱗の感じがした。それに絞っていただければと思った。
・「図解で考え、文章にする。」と言う提言は,納得できるものでした。文章では,直ぐに理解出来ないことがありますが,洗練された図解は、分かり易い経験を業務の中で日常的に経験しています。図解で考えることを習慣化して行きます。

・図解化することでより深く理解できることが良くわかりました。文章を1次元とすれば2、3次元が図面、更に時間を加えて動画(4次元)になれば更に強い伝達力を持つことになる。今のネット時代が発達するのも当然だと感じます。技術伝承、マニュアルを動画にするのも面白い
・ 図での説明が有用である点はその通りであり、今後気を付けて活用していきたいと感じた。後半の偉人の名言集のところは、少しポイントが不明確で把握しづらかった。
・図解することで文章では伝わらないことが正確に伝えることができることが非常に良く理解できました。実践していきたいと思います。また、人生を100年という長いタームで考えていかなければならないことも痛感したので、キャリアプランの見直しも進めたいと考えます。
・「文章」は人によって理解・解釈が異なってしまうが、「図解」はそれを防ぐことができる。今後の業務にて図解コミュニケーションを心掛けたい。
・独自の仕事・生き方で地位を築いている方で、且つ大学の先生らしい緻密な考えを持たれていて興味深い講演でした。

・【感銘を受けた言葉】人生は豊かさ(自由拡大)への旅である.。≪少壮老死≫・少にて学べば、壮にして為すことあり・壮にして学べば、老いて衰えず・老にして学べば、死して朽ちず
・より一層、図を活用していきたいと考えます。
・箇条書きは駄目という事が凄く頭に残っています。
・非常に落ち着いたご講演で、印象に残りました。頭の中や、今後の進むべき方向を考える際に、まず図で表して関係性をつないでいくことの重要性が理解できました。

・図示することの効果を改めて感じた。図で考えること、思考を整理することを意識していきたい。
・図解法で纏めることにより、説得性のあるプレゼンを試みる
・図解の有効性が分かった。今後に活かそうと思う。
・文章を図解にする事で、自身の理解を整理する事や他者に伝えやすくする事が大変参考になりました。
・図解の大切さは確かにと思わせた。通常数枚にわたる資料を、どうやってわかりやすくまとめるかのヒントになったが、おそらく時間がかかる。ただ、時間をかけるだけの価値がおそらくあるのだろうと思った。

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ジム:ストレッチ、ウオーキング30分3キロ、ストレッチ。スイミング400m。バス。

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「名言との対話」12月22日。川谷拓三「きっとある。おもしろいとこ、楽しいとこってのは、どんな仕事にでも」

川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年7月21日 - 1995年12月22日)は、日本俳優である。

 旧満州生まれ。敗戦とともに高知県安芸市へ引き揚げる。1960年東映京都撮影所に入社。通行人や殺され役などの大部屋生活を15年という長きにわたって経験する。失敗したら明日はないという過酷な時代だ。悔いのないようにやろう、そういう心構えで、ようやく映画「仁義なき戦い」シリーズで見い出される。1974年「史上最大のヒモ・濡れた砂丘」で映画初主演。1975年大部屋仲間の室田日出男志賀勝らと脇役集団・ピラニア軍団を結成。同年テレビドラマ「前略おふくろ様」で脚光を浴びる。1976年CM「日清きつねどん兵衛」が評判となる。1978年NHK大河ドラマ「黄金の日々」に出演。ほかの代表作に「鉄砲玉の美学」「愛の亡霊」「薄化粧」「仔鹿物語」など。喜怒哀楽を体当たりで表現し、主役を食う演技で人々を魅了した。

 「川谷拓三しかできな役、芝居」というものを目指してきた。時間はかかったが、殺られ役の中に、自分の演ずべき役を発見したのだ。全出演作品の7割近くが「殺された」役だった。3000回死んだから、3000人の男の生き様を演じたことになる。一人ひとりの男の一生を表現しようと死んできたのだ。

川谷は出演した作品の台本をすべて持っていると言う。メモで真っ黒になった台本は、役者としての成長の記録だ。自分独自のデータベースをコツコツとつくってきたということになる。本人にとっては財産、宝物だ。そういった着眼と努力、心掛けが川谷拓三という独特の名優をつくりあげたのである。

「役者とは「役」という他人の人生を掠めとりながら、新しい自分を発見する職業である」「役者はアーチストだから、常になにか新しいものに挑戦し続けるのが使命だ。その使命とは観客の期待、イメージを快く裏切ることだ」。川谷拓三は新しい「川谷拓三」を追い求めた。

1991年刊行の「3000回殺された男」というタイトルの半生記を読んだ。そこには、あと10年でこの映画の世界の中で「川谷拓三にしかできない世界」というポジションを作りたい、今僕は必至だと語っている。それから亡くなる1995年までは5年余しかなかったのは惜しまれる。

NHK「あの人に会いたい」では、「きっとある。おもしろいとこ、楽しいとこってのは、どんな仕事にでも」と語り、自分の職業を早く好きになる人の勝ちだとも言っている。誰かが必ず見ている。この言葉には大いに共感する。どの世界でも同じだ。 

3000回殺された男―拓ボンの体当たり映画人生

3000回殺された男―拓ボンの体当たり映画人生