FD勉強会ーー「ZOOM授業」の事例報告会

FD勉強会10時40分から12時10分。「ZOOM授業」の事例報告会に参加。

語学の先生たちの発表から:石川先生。中村先生。非常勤の語学(中国語。韓国語)の先生。

  • 遅刻者はほとんどいない、遅刻者が壊す悪い雰囲気がない。私語なし。チャットを使い発言してくる。質問がしやすい。忘れ物がない。パソコンスキルアップ。ポリコムカメラで対面に近づく。書画カメラも使い勝ってがよい。時間外の対応、自発的勉強会も。ルール設定。休憩。高度なALは難しい。満足かどうかわからない。個性がつかみにくい。脱落者が少ない。出席率がいい。対面授業より質問が多い。ディベートはやりやすい。

長島先生の発表から。

  • 音が重要。音楽。コンピュータ(詳細)。始まりの音。UMU。スライドマスターで統一フォーム。グランド・ルール。チャットで質問。8888。ファシリテーション。ゆっくり。マイクと顏ライト。時計。20分。最大の関心事からの離脱。クロージングが重要。公式ブログ。高校の先生の教授法。パソコンスキル。誰から始めるか。「以上です」でクロージング。ウインドウズ10のフォトで動画編集。ブレークアウトルーム:チェック、自動で何分でバック。、、、

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月4日。堀内平八郎「未知の中に生活する我々の「最大未知」は光である」

堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 - 1997年7月4日)は日本の実業家。浜松ホトニクス創業者。

長野県伊那市出身。「今見ている北極星の輝きは800年前の光」と小学校の授業で聞き、光に興味を持った平八郎は、髙栁健次郎が浜松高等工業学校でテレビ研究をしていることを知り進学を決意する。高柳は日本のテレビの父でありブラウン管受像機産みの親である。1940年の日本オリンピックで日本の科学技術を世界に誇示するため、NHK技術研究所に協力を依頼された髙栁の下で電子管研究に没頭。戦時中は陸軍第7研究所に所属して日本電子工業株式会社に出向しながら約10年間暗視管の研究に取り組んだ。

1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を試みる。その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビ(現在の浜松ホトニクス)を創業する。 光と電気とは物理的に兄弟関係だから、光を電気に変換して使いやすくする、すなわち、テレビ技術の応用を製品化に持ち込めば、おそらく国境を越えて人類社会に貢献できるはずと考え、光電子増倍管の開発に成功。熱線やX線などの電子変換や、光導伝セル、撮像管などを利用した計測用テレビジョン装置等も開発。その後、東京大学が宇宙観測用に打ち上げたミューロケットの追跡指令装置や、これに積み込まれた計測用テレビジョン装置もつくった。

社長、会長、取締役相談役として、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。1969年に全国発明表彰朝日新聞発明賞、紫綬褒章受章。平八郎は1997(平成9)年81歳で逝去した。

2002年の小柴昌俊のノーベ物理学賞賞受賞につながったス^パーカミオカンデには浜松ホトニクスが開発した「光電子増倍管」貢献して話題になった。2015年の梶田隆章の「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」にも浜松ホトニクスの製品が貢献している。

魚は生存のために必要な水や、その中に溶け込んだ酸素の存在は知らない。人間にとっての光りは、そのような存在だ。小学校の授業で興味を持った「最大未知」を生涯追い続けた。その執念が数度にわたるノーベル賞受賞という功績を生んだのだ。

浜松ホトニクスの新卒採用のホームページには、「人類の知らないこと、できないことに挑戦する」、「「人類史上初」を生み出す感動」などの魅力的なメッセージが並んでいる。「未踏未知」を探求しようとする創業の精神が息づいていることを感じる。高柳健次郎、堀内平八郎、そして現在の経営陣と続くあくなき科学と技術の探求の流れが見せる景色をわれわれはまだまだ楽しむことができるようだ。

 

 

 

 

 

 

東京新聞に授業の記事が掲載された。「都知事選」のZOOM授業:朝は学部。夜は社会人大学院生。

午前2限。「都知事選」の3回目の授業。本日の東京新聞朝刊に記事が掲載された。

f:id:k-hisatune:20200703055358j:image

本日の都知事選の3回目の授業は選挙管理員会の「選挙公報」が題材。以下、変遷。

小池支持者が多いが。野党が統一候補を立てることができていたら、いい勝負になっただろうという数字になった。さて、5日の投票日の結果はどうなるか。

3回目:小池百合子45%。宇都宮健児22%、山本太郎13%、小野泰輔6%、立花孝志1%。

2回目。小池百合子47%、山本太郎27%、宇都宮健児20%、小野泰輔3%、立花孝志3%となった。他には後藤輝樹、桜井誠。

1回目。小池百合子33%、宇都宮健児21%、山本太郎20%、小野泰輔15%、立花孝志10%。

以下、受講生の反応から。

・新聞に取り上げられたのは一般的にタブーとされる政治の話を議論の一環として扱う試みの大胆さへの敬意ではないか。

・ヨコ文字の多用、難しい言葉の乱用など、公約は高年齢層をターゲットにしているのでのでないか。

東京オリンピックのことが一切書かれていないため疑問。都知事選の裏側でコントロールしているのではないかと感じる。公平性を疑う。

・選挙に無関心という感覚でいると結果的に自分たちの未来を奪われていくことに気がついた。

・投票の仕方がわからない。

・図を描いているときの先生同士の話し声が気になって、集中力が欠けてしまった。

ーーーーーーーーーーー

以下、6月28日のブログから。

都内各戸に配られた「選挙公報」(東京都選挙管理委員会)を材料に、 東京都知事選の主要5候補(マスコミ)の公約・マニフェストを図解してみた。

授業で都知事選の公約を図解するというテーマで100人の大学生に取り組んでもらっているので、その材料として図を描いてみた。この骨格の図に知り得た情報を加えていくと、それぞれの公約の全体像が見えてくるだろう。たとえば、山本太郎では、東京都の財政がいいので都債で借金をする余裕が十分にあるとか、小池百合子は前回の公約との延長でみるとか、宇都宮健児については、立憲・社民・共産の主張がどこに入っているのかとか、、、。

選管の「選挙公報」にはオリンピック・パラリンピックについては一言も入っていないのは意外だった。

f:id:k-hisatune:20200628234851j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234521j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628235007j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234552j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234607j:image

 

f:id:k-hisatune:20200629044120j:image

  --------------------

電話

・出版社:文言の最終調整。

・八木さん:日曜日に訪問する。

ーーーーーーーーー

夜は品川の社会人大学院の授業。テーマは「都知事選」の公約。以下、感想から。

・本日はありがとうございました。気づいた点として■ただ漠然と読んでいる、候補者の公約を図解にすることで、公約の軽重や矛盾、表現の稚拙な点等が浮き彫りになった。■更に、候補者を比較してテーマ別に図解することで、改めて各候補者の主張が鮮明になり比較できた。思った以上に、小さい広報誌からでも候補者ごとに違いがあるものである。個性・主張が感じられた。■結果、図解は候補者の評価に相当役立つことが分かる。TVだどでも、討論などの前にテーマ別の図解による専門家の論評があっても本来は面白いが、それ自体が評価になってしまうのであろう。

・人で比べるという視点、内容で比べるという視点、全員並べるという比較、比較の仕方は無限にあると思いました。投票したい人がいなくとも、実際に比較してみると公約実現までの時間軸が見えてきて、任期と合わせて妥当な人を選ぶという選択方法もあると思いました。先生、本日もありがとうございました!

ご講義ありがとうございました。本日の取り組みさせて頂いて感じたことは、選挙公報について・抽象的な記載が多く、候補者の考えを的確に出し切れていないなと思いました。そのため、候補者は公約を図解化すれば、もっと想いが伝えられるのではないかと思います。公約の図解化について・公約を図解化しようとすると無意識にものごとを理解しようと頭が働き、理解が深まるなと改めて感じました。

・今日は都知事選挙の公報を図解しました。図で各候補者の公約について書いたり、比較の作業をしたりしました。図解で分析して、政治家の性格が見えます。私はもともと政治に関心がないですが、今回の授業と通じて、少し関心になりました。授業とても面白かった。これからも、図解のアンテナを立っていろいろなことに試したいです。

・本日公約を図解にしました。やっているうちに、図解の素晴らしさを深く感じました。図解は考えていることを整理するだけではなく、知事の公約を理解することもかなり役に立ちました。この前、こういったような文章を読んでも、理解できないので、今回図解のお陰で、大変理解できました。今週も文章を図解にして練習し続きます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話」7月3日。吉田忠雄「企業を森林とみるならば、社員は一本一本の樹木である。各々の樹木が自らの力で生きていこうと努力すれば、森林全体が生気に満ちあふれて隆盛を迎える」

吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 1993年7月3日)は、日本の実業家で、YKKの創業者。 

富山県魚津市出身の吉田は「偉人伝」の愛読者だった。その中でも小学生時代に読んだカーネギー伝が気に入っていて。「他人の利益をはからなかったら自らは栄えない」という「善の循環」の考え方に感動する。

 古谷商店の社員を経て1934年にYKKの前身であるサンエス商会を設立し、ファスナーの生産を始める。以降、兄弟の吉田久松とともにYKKを世界的な企業に育て上げる。 ファスナーの国内のシェアは一90数パーセント、世界のシェアも40数パーセントまで達した。

YKKは 徹底した現地主義をとった。「現地で生まれた利益は基本的には現地で再投資する」。これも「善の循環」である。

オイルショックの時のエピソードがある。取引先の人たちを集めて 「我々が百億円の損失をかぶる。だからみなさんは出し惜しみや値上げはしないでほしい」と語った。消費者に製品を供給するために、メーカーが泥をかぶらずにどこが責任を取るのか、というのが吉田の哲学であった。

YKKグループは2020年3月現在で、国内18社・海外91社のグローバル企業で、従業員は国内17,789名/海外28,472名、そして連結売上高は7238憶円(2019年度)になっている。

富山県黒部市吉田にYKKセンターパークがあり、YKKブラジル農園直輸入の自家焙煎コーヒーやオリジナルグッズ販売、ファスナー手作り体験も楽しめ、黒部の原風景の再生を目指す「ふるさとの森」がある。その一角に「創業者吉田忠雄ホール」が設置されている。著書は『仕事儲け人儲け - 人間吉田忠雄語録 ワールド・エンタープライズYKK経営」の勘どころ』(大和出版、1986年)、 『みんなに伝えたい世界のファスナー王 吉田忠雄のことば』(吉田忠雄、千広企画、2020年)がある。

 「企業を森林とみるならば、社員は一本一本の樹木である。各々の樹木が自らの力で生きていこうと努力すれば、森林全体が生気に満ちあふれて隆盛を迎える」。そして「企業自体も社会の中では一樹木である、皆でがんばって社会の繁栄に貢献しよう」。社会は大小さまざまの森林で成り立っている自然のようなものだ。一本の木が林となり、その林が森となっていく。そういった森が集まって社会をかたちづくる。そういう世界観だ。

社会という肥沃な大森林からもエネルギーをもらい、一本の樹木が成長して森を形成し、その果実を社会に返していく。そういう「善の循環」の哲学は、YKKの後輩たちにも引き継がれ、確固たる方針となっている。品川駅のコンコースに「窓を考える会社YKKap」という大型の広告がある。大学院の授業に向かうたびにこの広告を見ていて、YKKという会社のことを私もよく考えることがある。YKKは大きく美しい森となった。

 

 

 

 

 

橘川幸雄『参加型社会宣言 22世紀のためのコンセプト・ノート』ーーー未来を考えるヒントが満載の現代人必読の書

橘川幸雄『参加型社会宣言 22世紀のためのコンセプト・ノート』を読了。 

未来を考えるヒントが満載の現代人の必読書である。

  

 以下、この本のキーワードと、読みながら浮かんだ言葉など。

 異人:異才。異能。異色。異端。預言者。詩人。

コロナ渦。本人も渦。渦に巻き込まれる人々。

参加型社会:参集、参与、参加、参画。

不易と流行

情報化社会と情報産業社会。1960年代。農業、工業、情報産業。

自己主張の時代。全員参加型社会。人種、民族。国民。

新しい産業。新しい職業

教育と医療。学校と病院。ビジネスの原理ではない。教えたい教師と学びたい学生との関係の再構築。時代と闘う教師と学びたい学生。日本の教育の本質は、学ぶ側に。

時代観:起承転結。明治、大正、昭和。平成。令和から起。輪廻の思想。

40年周期説:1865、1902、1945。1952、1992.2032。富国強兵、経済大国。

個人の人生観:10代、20代、30代、40代。50代から起。起床転転。結はない。

新・孔子の人生訓(人生100年時代):青年期・壮年期・実年期・熟年期・大人期・仙人期。120歳。3期と6期。

人類は豊かさ(自由の拡大)を求めてきた。カラダ、カネ、ヒマ、そしてココロ。   近代の継続? 近代と現代。いつから現代か。80年。75年。

深呼吸することば=自由提携詩とは何か。

情報化社会への移行期。1963年の「情報産業社会」の入り口から半世紀以上。

個人から発した願いや、思いが、関係性のなかで調整され、融和していく組織論

定性の定量化による気分。分散・適量・適正・融和・質・個。

合意術:社会的合意形成:評価より評判。安全より安心。文章より図解。定量より定性。説得より納得。理論より方法。勉強より実行。構造より関係。本社より現場。知識より知恵。世界より日本。中央より地域。集中より分散。

インターネット:クオリティよりリアリティ。

ニートは家の内部への家出だ。内村鑑三の言葉「父母に棄てられたる子は、家を支える柱石となり、国人に棄てられたる民は、国を救う愛国者となり、教会に棄てられたる信者は、信仰復活の動力となる」

連帯と孤立。、、孤独だが孤立ではない。涅槃社会?

文明と文化:装置群・制度群とともに形成する一つのシステム。人間精神の価値の体系

個人:組織が担っていた役割を自らの内部に包み込んでいく個人?社会や人類全体の課題を内包した人類?

牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男命。中津!

 

企画集。

縦組みと横組み。

フォト川柳。

facebookグループ。

編集。

一見、リピーター、ひいき:通販。

SSは現地を知らない。

動的電子辞書。

価格は中身。図解の価値。

キラーコンテンツは教育。

HPは自分史。お墓。個人アーカイブ。香典。

音声。動画

民族際交流

ネットワーキング人生。タテ(異世代)。ヨコ(同世代)

文章家。新しい文体。安定した文体。一貫。高低がない。流れる。

未来フェスという発明。野の人材、人物、才能、志、、。

「人は人生で「何を遺すか」:内村鑑三「金を遺すか、事業を遺すか、思想を遺すか。いずれも才能が必要であり、そうでない人は、「高尚なる生涯」を遺せ」。後藤新平「人、事業、金」。大倉孫兵衛「子孫には事業を残すのがいい」。

会社から企業への変化。バブル崩壊後。社会貢献課長。仲間が集う会社。企む仕事の企業。

自動車産業:巨大なシステム産業。都市。一人一人の仕事の奥が深い。クロスファンクショナル。

会社とは経営者と従業員と顧客がつくるコミュニティだ。株主資本主義ではない。

 

あとがき

1970年大阪万国博覧会。民族紛争の時代。2025年の大阪万博。万民博。民族、市民。

大企業を作戦本部とする中小企業ネットワークこそ日本の国力?

未来に対する対応能力にいる選別の始まり。浮沈:学、学生、企業、ビジネスマン、地域、国家。

実働だけの労働へ。リモート。

1972年「ロッキングオン」創刊。1981年の「企画書」。1991年にバージョンアップ。2020年に「参加型社会宣言」。林雄二郎。生涯にわたって一冊の本を書き続ける。東京人。企業。個人を生きる。

1973年JAL入社。1980年に知研入会。1990年に「図解の技術」。2002年「図で考える人は仕事ができる」。2020年「全集」。梅棹忠夫。九州。大企業。海外。大学へ。公人人生から個人への道へ。図解=技術、体系、思想。アタマの革命(図解)=全集

1982年の出会い、2013年福岡空港での再会。2014年から客員。

リアルテキスト塾。深呼吸する言葉。吸って吐く言葉。オリジナル。

名言との対話。吸って吐こう。一種の自分史。ココロの革命(人物)=2025年・10冊

 --------------

大学:明日の授業準備。

   総合研究所のミーティング。

大手町:日本経済新聞社を訪問し、中沢編集委員と面談。2時間ほどいろいろと情報交換。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」。7月2日。荻昌弘「自然って生きてるってなんて美しいんだ、また命万歳!と叫んでほしい」

荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988年7月2日)は映画評論家料理研究家、オーディオ評論家。

東大文学部国文学科卒。キネマ旬報」編集部を経て、1956年からフリーの映画評論家。NHK映画委員、映画旬報編集委員も務めた。TBSの「月曜ロードショー」にレギュラー出演、名解説者としてお茶の間に親しまれた。食通として知られ、食文化、音楽、旅などの評論も行う。 

月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から、淀川長治水野晴郎と並んで名解説者として知られた。明晰で無駄のない解説で、品と知性に溢れた格調高いものであった。

テレビカメラを自分の母親だと思えば気が楽ではないかと思うようになり、それ以来テレビ出演への恐怖心がなくなったと語っている。あの説明は母親への説明だったのだ。

当時の映画解説者は、テレビ朝日淀川長治日本テレビ水野晴郎、フジテレビは高島忠夫テレビ東京木村奈保子、そしてTBSが荻昌弘である。淀川長治の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という名台詞、水野春郎の「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」なども有名だったが、荻昌弘は決まり文句を使うやり方はとらなかった。立て板に水の語り口。中身のストーリーをばらすことはしない。ほんとに映画がすきなんだなあと感じさせる解説だ。

久しぶりにユーチューブで「月曜ロードショー」のいくつかの語りを聴いた。「ねらわれた学園」「フレンチコネクション」「ローーキー2」「マッカーサー」、そして「桃太郎 海の神兵」をめぐる手塚治虫らとの座談会、、。

 著書に『映画批評真剣勝負 ぼくが映画に夢中になった日々《作品鑑賞篇》』『荻昌弘のシネマ・レストラン』『荻昌弘のシネマ・ライブリー』『映画百年史』などの映画にかかわる作品以外にも、「ステレオ」「実践的宿泊論」「男のだいどこ」「味で勝負」「歴史はグルメ」などがある。

冒頭に掲げた「自然と命」発言は、最後の解説となった「ビューティフルピープル/愉快な仲間」という映画で使った言葉である。すでに病魔におかされていた荻昌弘の、命の賛歌の叫びであった。享年62。戒名は「光映院明徳日弘居士」。

 

 

東京新聞から「都知事選」の取材あり。出版社で企画が進行中。知研幹事会で方針決定。

9時半:東京新聞社会部立川支局の服部記者の取材を受ける。

都知事選」をテーマとした授業。近々、記事になる。
f:id:k-hisatune:20200702044954j:image

 

13時:荻窪で松田君と猪俣君と昼食。

14時:日本地域社会研究所へ。

・猪俣君の8月刊行の新刊「憲法改正」の覚書。私の推薦文を手交。

・松田君と私の共著「フォト川柳」の社長への企画説明。

・私の「図解コミュニケーション全集」の色校と再校を受領。
f:id:k-hisatune:20200702045001j:image

 

16時から18時:代々木で、東京知研の幹事会。

コロナ時代の影響と現状。10月の民博でのイベント。今年のセミナー。「読書会と共同出版」というテーマが浮上。
f:id:k-hisatune:20200702045004j:image

18時::猪俣君とビールで懇親会。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月1日。大倉和親「暦の年齢と、体力と精神力の年齢とは違います」

 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。

 父の孫兵衛は、絵草紙屋、書籍屋(漱石の『吾輩ハ猫デアル』を刊行)、洋紙問屋などの開業している。「天のソロバンには違うところがない」と信じ、経験と人間観察で仕入れの名人になっていった。

陶器製造業は「乞食になっても私がやらえねばならぬ仕事だ、かく思い込んだ仕事である以上は天が必ず助けてくれるだろう」「守るということは退くに等しく、進み取る道を講ぜねば世に遅るること言うまでもない」。つねに日本の最先端をめざした人である。「子孫には事業を残すのがいい」と息子の和親とともに仕事に励んだ。

息子の大倉和親は慶應義塾幼稚舎に学び1894年慶應義塾本科を卒業し、父の親友の会社の森村市兵衛の森村組に入り、神戸支店勤務を経て、1895年より1903年までニューヨーク支店勤務、イーストマン・ビジネスカレッジ(商業夜学校)修了している。

1904年、花瓶やコーヒーカップなど輸出用白色磁器製造を目的とする日本陶器合名会社(現在の(株)ノリタケカンパニーリミテド)設立に際し、初代代表社員(経営責任者)に就任。日本陶器の改良を考え日本陶器合名会社を名古屋で父・大倉孫兵衛らと設立、日本初の洋式陶磁器焼成窯を備えて、ノリタケチャイナの名を世界にひろめた。

1917年、分離独立し、東洋陶器株式会社(現・TOTO)設立。1919年日本碍子を設立し社長。1921年建築用タイルの伊奈製陶所(後のINAX、現・株式会社LIXIL)、1924年伊奈製陶株式会社を設立し会長。積極的な技術導入と全国展開。美術陶器の 大倉陶園は皇室御用達となった。1955年7月1日に79歳で死去した。

この父と子は、衛生陶器のTOTO、内外装タイルのINAX、碍子の日本ガイシ、自動車用スパークプラグの日本特殊陶業、洋食器のノリタケ、皇室御用達の最高級陶器の大倉陶園。これらを創業し、世界のトップブランドに育てあげた。

 息子の和親は、本業以外にも、外貨獲得のためのサカタのタネ、カガミクリスタル(ガラス食器)、金属食器の関刃物などの会社も支援している。一大陶業王国を築いた類まれな二代目であった。英国貴族の風貌、白皙長身、眼光炯炯、頭脳明晰、識見高邁、熟慮深謀。製造から経理、販売まで熟知。最先端情報に敏感。2男5女の子宝にも恵まれている。亡くなった時は、青山斎場で、日本陶器・東洋陶器・日本碍子三社の合同社葬が行われた。これは珍しい。死後、妻は大倉和親記念財団を設立している。

森村和親は目標を絶えずより高くより高くと設定して休まなかった。「我を越す者はなしとなったとき、とかく自負心が起こりやすい」と日本陶器創立30周年式典で祝辞を述べている。この人は暦の年齢を信じず、永遠の青年のまま生涯を閉じたのである。

製陶王国をきずいた父と子―大倉孫兵衛と大倉和親

製陶王国をきずいた父と子―大倉孫兵衛と大倉和親

  • 作者:砂川 幸雄
  • 発売日: 2000/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

「ZOOM革命」講座の3回目ーーアップした動画の感想と励ましをもらった。

 この土日にZOOM講座3回目。動画をアップした感想と励ましをもらった。今日の講座では、「目線」を意識した。フォト、パワーディレクター、カルタジア、、、。

以下。

  • 永年のご経験と研究に基づく見解には説得力と迫力を感じます。「図」は「考える」ことの「手段」だと考えると、目的を果たすための手段に多様性を許容する余地はないのでしょうか?ちょっと疑問と不安を感じました。
  • 久恒さん、拝見しました!1回目~4回目の変容が見えて、久恒さんの懸命な努力に尊敬しました!すごいです!1回目よりも4回目の方が話し方が自然体で、目線も視聴者に向いていて良かったです。私的には、学生時代に学んだことが実社会で役に立たなかったという原体験が語られた1回目の動画に、久恒さんが図解コミュニケーションの魅力を感じたwhyを感じました。
  • 図解コミュニケーションというご自身だけのユニークは分野を切り開こうとする意気込みを感じました。わたしは図で考えることが少ないので、もっと知りたいと思いました。なぜ図解のパワーに気づいたのかという原体験と、図解の強さ、利点を表す例があるとWHYが納得でき、すなおにWHATに繋がって行くと思いました。
  • 「図解コミュニケーション」というのが有効だということが伝わってきます。ここまできちんと構築されていれば、すぐにでも講座ができるのではないかという印象を持ちました。あとiPadを活用するというのもいいですね。私も自分の動画のときになにか文字を提示したいと思ったのですが、いいアイデアが浮かばずに断念しましたが、なるほど、こういう方法もあったか、と思いました。
  • 久恒さん、4本の進歩が見えていいですね。表情がテイク1では堅かったので、だんだんとほぐれてきました。テイク2ではiPadが出てきて、なるほど〜。テイク4では例も入っていました。図解コミュニケーションという特異な手法を広げたい、という意気込みは伝わってきました。ではどうして久恒さんはそれにこだわっているのでしょう。どんな体験、想いがあるのでしょう。それはテイク1で語られていたこれまで教わってきたものと関係あるのでしょうか。そこのところをぜひお聞きしたいです。
  • 先生の主張にすごーく同意します!私も文字だけのコミュニケーション 例えばメール、チャット など苦手です。齟齬が発生しやすいです。ところが、一方で、文字のコミュニケーションでないと自由にコミュニケーションできない人たちがどうもいるようです。すごく多様化しているのでしょう。そんな人たちも、図解を用いたコミュニケーションは受け入れやすいと思います。視覚でたくさんのコミュニケーションを受け取っていますものね!とてもわかりやすいビデオメッセージでした!ありがとうございます!最後の、先生の笑顔が素敵です!
  • 図解コミュニケーションの講座受けて見たくなる動画でした。私は中高の現場で働いています。最近、探究的な学びの中でプレゼンテーションを指導することがあります。実は、指導していることが逆だったのかもしれないと考えさせられました。図で示すほうが騙しやすく、文章の方が本当の理解や伝えたいことが伝えられると思っていました。動画もあらゆる手法を用いて説明されており分かりやすいです。
  • 4本の投稿、模索しながらの進化。見える化できていいですね。図解コミュニケーション面白そうです。文章と図解の繋がりも興味あります!
  • 既に輝いている宝石をさらにさらに磨きをかけて輝きを増していくプロセスを進まれている久恒さんを感じました。ホワイトボードに板書するのではなく、iPadを使用されているところにオンラインに対する意気込みを感じました。
  • 4本の動画をアップする久恒さんのパワーを尊敬します!図解で伝達を広めていきたいという強い意志を
  • 感じました1点、図解で伝達する際のデメリットも少し加えてもよいのではと思いました。そのデメリットも超越する方法であるという点から聴き手への説得力や納得感がより高まるのではないかと感じました。
  • 10年以上前に、先生の講座に参加しました。それ以降、私も図解に拘っています。さて4本のビデオを投稿いただき、進化の過程がとてもよくわかりました。こうして全てを投稿いただくことで他の方の学びも深まりますね。図解の効用はとても共感します。今回の課題であるWHYという観点からすると1本目のほうがよく伝わってきました。4本目はSTEP2にフィットしているように思います。でもぜひさらなる進化を楽しみにしています。
  • 久恒さん、最初の動画の冒頭部分が強く印象に残りました。どんどん改善を加えて更新されているのが素晴らしいです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

・電話:中沢。福島。力丸

梅棹忠夫著作集13巻の図メモを作成。

・本の推薦文を書く。

・書評書くためのメモを書く。

ーーーーーーーーーーーーーー

ジム:スイミング700m

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」6月30日。柴田錬三郎「戯作者と自負するものこそ真の文学者だ」

 柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年大正6年〉3月26日 - 1978年昭和53年〉6月30日)は、小説家ノンフィクション作家中国文学者

兵隊時代は日本の敗北を予想し、無意味な死から逃れるべく仮病などに腐心している。南方海洋のバシー海峡九死に一生を得るという体験もしている。だから実際の戦争を知らないで書く作家たちに批判的だった。

1956年から週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズで、剣豪小説をのブームを起こす。1965年、『イエスの裔』で直木賞1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞。代表作に『眠狂四郎』『御家人斬九郎』『水滸伝』『徳川太平記』など多くがあり、戦国幕末を扱った作品が多く、剣客ブームを巻き起こした。

高輪の柴田家の秘書をしていた中村勝二『柴田錬三郎私史ー自虐とダンディズムの軌跡』(鵬和出版)を読んだ。若い頃から身近にいた友人でもあったから、エピソードや言葉の錬金術師の言葉がたくさん記されている。

一週間で一篇の読みきりの眠狂四郎シリーズは、文豪ブームをまき起こした。「無明の自我を持てば残虐無道の毒刃となる」という師の教えを選んだ眠り狂四郎の円月殺法により、敵を倒すごとに深まる暗澹たる虚無感を描いた。1万枚から2万枚という原稿量だ。20年間にわたり毎年500枚から1000枚という大著を同じテーマで書き続けたという計算だ。同じような内容を書かないから難行苦行であっただろう。

彼はギャンブラーでもあった。ギャンブルという麻薬と闘うことによって、清新を鍛えた。人生上の一種の修業だとしている。「チャンスがなければ、その人間は世に出ることはない。どの世界でもおなじだね。不条理こそ、この世の鉄則だ」という宿命観の持ち主だ。人生もギャンブルだという人生観だろう。

「大衆との共感のなかで苦悩し、しかも大衆の苦悩を、おのれの苦悩として孤独に徹し、生き切ることだ」という柴田錬三郎のライフワークの一つは山本周五郎だった。「いつか、じっくりと日本の民衆史を掘りおこしてみたい」。「「山本周五郎のもの、プラス俺の文学を書いてみたいと思う。それから、全く世に埋もれている民衆の生活を掘りおこしてみた」。

もう一つのライフワークは中国の国民文学ともいうべき一大長編ロマンだった。「中国文学を完全な日本の文学に、俺の文学に描き変えてみたいことだ。文学のより大きな普遍性への冒険だな」。

いずれも民衆史である。山本周五郎と中国文学、「これが俺の晩年の仕事だ」と語っていたのだが、タフであったダンディスト柴錬は61歳で亡くなってしまう。ライフワークには手をつけられなかったのであろう。

若い時代に文士になると告げた時、母から「お前の嘘つきが、役にたつの」といわれ絶句したという柴錬は、嘘とフィクションこそ文学のエキスであるとし、戯作者と自負するものこそ真の文学者だと喝破した。師は永井荷風佐藤春夫である。「文士は無頼漢でなければならぬ」。「エンターテイメントこそ文学の核だ」。「志賀直哉が、日本の近代文学に猛毒をばらまいた元凶」、、、。

志賀式リアリズム、社会主義リアリズムなどを柴田錬三郎は信じない。純文学は本物の芸術ではない。まったく面白くない、わくわくするたのしみを与えるエンターテイメントこそ文学の核であるという。それを書くのは戯作者を自覚したものである。柴田錬三郎の小説はまだ読んでいない。読みたい作品が増えていく、、、、。

柴田錬三郎私史

柴田錬三郎私史

  • 作者:中村 勝三
  • 発売日: 1986/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

共同クラウドファンディング出版に参加

greenfunding.jp

第一案件 吉池拓磨・屋台のひとびと 

第二案件 石花ちとく・おうちでロックバランシング 

第三案件 坂野修一・哀色の海(あいいろのうみ) 

第四案件 アフターコロナ総研(仮)・コロナ情況の若者気分調査 

第五案件 久恒啓一・名言の暦 366名言集(平成命日編) 

第六案件 亀田武嗣・現代語訳「野菜・果物・魚介 諸国漬物法」奥村繁次郎著 東京 大倉書店発行

  -------------

 「久恒啓一・名言の暦 366名言集(平成命日編)」

2016年以来、毎日noteでその日に亡くなった、誕生した偉人が残した名言、その人の生涯、感慨などを書き続けています。その成果は「偉人の命日366 名言集」「偉人の誕生日366名言集」「平成時代の366名言集」と書籍にまとめています。  その延長線上に、「名言の暦 366名言集(平成命日編)」を企画しました。平成の30年間に亡くなった人物の生涯と残した名言をまとめた本です。 「なべて人の一生は棺をおほふて後定むべければ也」といわれています。同じ年に生まれても60歳で亡くなった人と85歳で亡くなった人では、四半世紀の差があり、生きた時代が違う気がします。誕生した年より、亡くなった年がより重要なのは、こういう理由があります。この本には、人生100年時代の生き方のモデルが豊富にあります。その生き方と彼らが残した珠玉の名言を味わいましょう。

◇リターン

 ⑴   3,000円:「名言の暦 366名言集(平成命日編)」を1冊贈呈

    ⑵ 10,000円:上記書籍以外に、久恒啓一の著書2冊の合計3冊の福袋を進呈。

 ーーーーーーーーーーーーーーー

・ 大学で打ち合わせ

 ・デメケンの定例ミーティング

 ーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話」6月29日。竹内不忘「子ども達が希望をもって逞しく育って欲しい」

 竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 2011年6月29日)は、彫刻家。

 長野県小県郡和村(現東御市)出身。川端画学校に学ぶ。1931年日本美術協会に出品し銅賞。1935年第1回東邦彫朔院賞、1937年文展に『山』を出品、1938年第3回東邦彫朔院恩賜賞受賞。その後も出展を続け、1965年日展審査員、1966年日展会員。

 1979年に紺綬褒章受章。1990年、池袋西口公園に『平和の像』を設置。公共施設に多数の作品をみることができる。故郷である東御市には、中央公園には江戸時代に活躍した力士である『雷電像』があり、東御市立和小学校には『太陽の子』がある。

2011年、東京都豊島区の自宅で死去。101歳没。不忘は100歳を越えたセンテナリアンである。センテナリアンの9割は女性だが、彫刻家には男性の長寿者も多い。平櫛田中107歳、北村西望102歳がセンテナリアンだ。他にも佐藤忠良98歳、流政之95歳、澤田政廣93歳、、。彫刻は肉体労働であるから、頑健になるのだろうか。

 1986 年は当時の東部町の町制30年で記念行事の一環として、雷電立像が建つことになった。除幕式には退職して2年半の第24代式守伊之助祝詞を上げている。2014年に市民交流広場となって、雷電像移されている。

 東御市には「竹内不忘先生を顕彰する会」がある。「作品はいずれも穏やかで柔和な表情で先生の人柄が現れている。和の活性化事業の一つとしてやっていきたい」(神津会長)との記事がある。

もう一つが 和小学校の「太陽の子」だ。不忘のメッセージは「和の子ども達が希望をもって逞しく育ってほしいという心からの願いがこめられ、和教育に大きく役立つことを願って作られ、南傾斜の太陽と緑の恵まれた自然環境の和の大地にしっかり足を踏みしめ、太陽の光を全身に浴び、両手を上げ、遥か南の理想の空を見つめる姿は希望にもえ、明るく健やかに成長している子どもの姿である」だ。

竹内不忘という彫刻家は多くの公共施設に作品を遺している。故郷には雷電像と太陽の子の二つがある。この地の過去の偉人と未来を担う子どもである。それは故郷の希望のしるしである。

 

 

 

 

 

都知事選の主要5候補の「選挙公報」の公約・マニフェストを図解してみた。

都内各戸に配られた「選挙公報」(東京都選挙管理委員会)を材料に、 東京都知事選の主要5候補(マスコミ)の公約・マニフェストを図解してみた。

授業で都知事選の公約を図解するというテーマで100人の大学生に取り組んでもらっているので、その材料として図を描いてみた。この骨格の図に知り得た情報を加えていくと、それぞれの公約の全体像が見えてくるだろう。たとえば、山本太郎では、東京都の財政がいいので都債で借金をする余裕が十分にあるとか、小池百合子は前回の公約との延長でみるとか、宇都宮健児については、立憲・社民・共産の主張がどこに入っているのかとか、、、。

選管の「選挙公報」にはオリンピック・パラリンピックについては一言も入っていないのは意外だった。

f:id:k-hisatune:20200628234851j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234521j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628235007j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234552j:image

 

f:id:k-hisatune:20200628234607j:image

 

f:id:k-hisatune:20200629044120j:image

  --------------------

ジム:スイミング700m

ーーーーーー

橘川幸夫『参加型社会宣言』を読了。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」6月28日。海部八郎「商売なんて簡単やで。お客さんが喜ぶことだけすればええんやから」

海部 八郎(かいふ はちろう、1923年6月29日 - 1994年6月28日)は、実業家。

神戸経済大学(現在の神戸大学)卒。1947日商に入社。船舶、航空機部門で辣腕を振るった。40歳取締役、44歳常務、47歳専務、51歳副社長と猛スピードで階段をのぼっていった。

1979年ダグラス航空機購入をめぐり外為法違反容疑で逮捕(ダグラス・グラマン事件)される。1980年7月東京地裁外為法違反と議院証言法違反により懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が確定した。以後、日商岩井関連の企業を中心に仕事をした。1994年、70歳で死去。

  総合商社日商岩井の海部八郎は、「日商海部あり」といわれた逸材で、業界が違う私も名前を雑誌などでみかけた。そして副社長時代に起ったダグラス・グラマン事件で、ライバルの丸紅の伊藤専務とともに、名前が知れ渡った。

海部の学んだ神戸高等商業は、中津出身の水島てつ也が創立し初代校長をつとめた三高商の一つである。中津の金谷には水島公園がある。水島の父・均は豊前中津藩士福沢諭吉の縁戚にあたる人だった。神戸高商の建学の理念は、貿易商社マンの育成とキャプテン・オブ・インダストリーづくりだった。出光佐三はこの学校の卒業生だ。そして安宅英一(安宅産業)、越後正一(伊藤忠商事)、そして日商、兼松、丸紅、などの関西系総合商社のトップを独占する勢いだった。

海部八郎は 入社1年目の創立20周年記念社内論文に応募した「世界貿易の趨勢と機械貿易の将来」で第1位を獲得し、工業化のオルガナイザーだった「鈴木商店」の復活の夢を追うトップに目をかけられる。その後、「一人で日本の船舶輸出の2割を扱った」「1年で30隻も受注した」といわれるほど活躍し、「海部軍団」と呼ばれたチームは航空機商戦でも日本の空を制覇した。海部八郎はエースで四番のスーパーマンだった。友人の戸川猪佐武によれば「自分によい人にはこまかく気を配る」。目上の人を大切にした老人キラーだった。座右の書は「聖書」である。

ダグラス・グラマン事件は、1978年2月に発覚した日米・戦闘機売買に関する汚職事件である。1979年、 海部は外為法違反容疑で逮捕される。議院証言法違反容疑で再逮捕される。1980年7月24日 には東京地裁判決で懲役2年執行猶予3年の判決がでて、控訴せず刑が確定している。当時は政界、財界をゆるがす大事件だった。

「 商社マンはすべて数字だ」という信念で、社内の政治にはかかわらず、独力で業績をあげ続けた。その栄光の道の先には、凋落も待っていた。

1973年から1978年まで『サンデー毎日』に連載された山崎豊子不毛地帯」でも主人公の敵役として登場している。私が今回読んだ「捲土重来 海部八郎は死なず」(原田昌範)は、1981年の刊行であり、海部はまだ回天の意気に燃えていると結論づけている。そして死後17年経った2011年にも、仲俊二郎著「我れ百倍働けど悔いなし 昭和を駆け抜けた伝説の商社マン 海部八郎」(栄光出版社)という伝記がでているのは、やはり特別なビジネスマンだったという気がする。 後輩には「商売なんて簡単やで。お客さんが喜ぶことだけすればええんやから」と語っていたそうだ。単純だが、実に名言である。