FD勉強会ーー「ZOOM授業」の事例報告会

FD勉強会10時40分から12時10分。「ZOOM授業」の事例報告会に参加。

語学の先生たちの発表から:石川先生。中村先生。非常勤の語学(中国語。韓国語)の先生。

  • 遅刻者はほとんどいない、遅刻者が壊す悪い雰囲気がない。私語なし。チャットを使い発言してくる。質問がしやすい。忘れ物がない。パソコンスキルアップ。ポリコムカメラで対面に近づく。書画カメラも使い勝ってがよい。時間外の対応、自発的勉強会も。ルール設定。休憩。高度なALは難しい。満足かどうかわからない。個性がつかみにくい。脱落者が少ない。出席率がいい。対面授業より質問が多い。ディベートはやりやすい。

長島先生の発表から。

  • 音が重要。音楽。コンピュータ(詳細)。始まりの音。UMU。スライドマスターで統一フォーム。グランド・ルール。チャットで質問。8888。ファシリテーション。ゆっくり。マイクと顏ライト。時計。20分。最大の関心事からの離脱。クロージングが重要。公式ブログ。高校の先生の教授法。パソコンスキル。誰から始めるか。「以上です」でクロージング。ウインドウズ10のフォトで動画編集。ブレークアウトルーム:チェック、自動で何分でバック。、、、

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「名言との対話」7月4日。堀内平八郎「未知の中に生活する我々の「最大未知」は光である」

堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 - 1997年7月4日)は日本の実業家。浜松ホトニクス創業者。

長野県伊那市出身。「今見ている北極星の輝きは800年前の光」と小学校の授業で聞き、光に興味を持った平八郎は、髙栁健次郎が浜松高等工業学校でテレビ研究をしていることを知り進学を決意する。高柳は日本のテレビの父でありブラウン管受像機産みの親である。1940年の日本オリンピックで日本の科学技術を世界に誇示するため、NHK技術研究所に協力を依頼された髙栁の下で電子管研究に没頭。戦時中は陸軍第7研究所に所属して日本電子工業株式会社に出向しながら約10年間暗視管の研究に取り組んだ。

1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を試みる。その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビ(現在の浜松ホトニクス)を創業する。 光と電気とは物理的に兄弟関係だから、光を電気に変換して使いやすくする、すなわち、テレビ技術の応用を製品化に持ち込めば、おそらく国境を越えて人類社会に貢献できるはずと考え、光電子増倍管の開発に成功。熱線やX線などの電子変換や、光導伝セル、撮像管などを利用した計測用テレビジョン装置等も開発。その後、東京大学が宇宙観測用に打ち上げたミューロケットの追跡指令装置や、これに積み込まれた計測用テレビジョン装置もつくった。

社長、会長、取締役相談役として、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。1969年に全国発明表彰朝日新聞発明賞、紫綬褒章受章。平八郎は1997(平成9)年81歳で逝去した。

2002年の小柴昌俊のノーベ物理学賞賞受賞につながったス^パーカミオカンデには浜松ホトニクスが開発した「光電子増倍管」貢献して話題になった。2015年の梶田隆章の「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」にも浜松ホトニクスの製品が貢献している。

魚は生存のために必要な水や、その中に溶け込んだ酸素の存在は知らない。人間にとっての光りは、そのような存在だ。小学校の授業で興味を持った「最大未知」を生涯追い続けた。その執念が数度にわたるノーベル賞受賞という功績を生んだのだ。

浜松ホトニクスの新卒採用のホームページには、「人類の知らないこと、できないことに挑戦する」、「「人類史上初」を生み出す感動」などの魅力的なメッセージが並んでいる。「未踏未知」を探求しようとする創業の精神が息づいていることを感じる。高柳健次郎、堀内平八郎、そして現在の経営陣と続くあくなき科学と技術の探求の流れが見せる景色をわれわれはまだまだ楽しむことができるようだ。