「三角イメージ体験法」と「図解コミュニケーション」をつなぐ「〇△▢」ーー藤原勝紀編「創造の臨床事例研究」を読んで。

 藤原勝紀先生から『創造の臨床事例研究』と題した小冊子が送られてきました。

 6歳年長の藤原さんは、九大教授から51歳のときに京大教授に転じた心理学者です。臨床心理学の草分け的存在で、現在は臨床心理士試験のトップで、学会の会長でもある人です。私は九大探検部の先輩としてながくコミュニケーションをとってきました。

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 FJK研究会:舶来の臨床心理学から日本の臨床心理学に船出したのが半世紀前。それをさらに切りひらいたのがFJK研究会。藤原研の略称ですが、フロイトユング、河合の頭文字ともいえるのだそうです。この研究会から学位取得者も多く出て活躍しています。藤原さんは「三角イメージ体験法」という独創的な心理療法を開発し、不安障害などの心理的障害へ適用し、新たな心理臨床を展開させた功績で、2017年に日本心理臨床学会賞をもらっています。

三角イメージ体験法では、クライアントは〇△▢の動きとともに緊張が誘発され変化する独特の身体感覚を体験し、セラピストとの関係性を通じて新たな関係とその意味が生成する体験となっていく。従来の刺激中心から反応中心のこの手法は主体機能を活性化しながら援助機能を創出していく生身の人間関係体験の形成過程をともにつくる人間関係の技法だ。五輪の塔、胎蔵界マンダラ、万華鏡とも親和性がある。

「藤原勝紀先生語録」:「じゃないか、と問いを出していく」「言葉が出てくるまでのプロセスから考えよ」「関係性に落とせる軸を2人で作る」「健康さに目を向ける」「臨床体験に基ぢて考える研究」「セラピストに引き起こされる感情体験も広い意味でのイメージ体験」「関係性の次元を変換させる」「1回1回が勝負」「イメージセラピー」「ケースの中で展開する」「身体を動かさないで、こころを活性化させる」「普通人への心理臨床」「仮説・狙いを持って面接」「想定できないものへの備え」「偽物は数が集まる」「臨床心理は別れの商売」「宗教は孤独を救えるか」「自身が、今ここ、を生きる努力をしえいるか」「他者の心に記したいから語る」「はっきり決まらないところでの付き合い方が専門性」「問題でなく課題に対応する」「引きこもりの子は闇を生きる力がある」「共同作業のパラダイム」「あいまいなままで終わることの健康」「答えから応えへのパラダイムシフト」「セラピストは生涯初心者」「心の世界の無量寿を生き抜く」「諦めない力がついてくるのが面接力」「約束を守ってもらえる体験の積み重ね」「当たり前のケースで子どもの世界の豊かさを語れるか」「人の心に、包括的な学問として寄り添う、そのための心理臨床学」「人間関係を作る力、それが面接力の汎用性」「面接法は治療であり研究」「専門性は内に置きつつ外と連携できるのがホンマもんの連携」「臨床心理士と公認心理士の両方をいかすことが心理臨床の根本パラダイム

「私のFJK研究会体験」というコーナーでは、多くの学者たちが藤原さんの言葉を語っている。「スリル」「創造」「可能性」「逆向き」「専門性」「急がない」「相手の持つ力を信じる」、、。影響力の大きさをを感じます。

前々からの藤原先生との会合の中で感じていたことですが、新たな臨床心理を展開させた「三角イメージ体験法」は、私が切りひらいてきた「図解コミュニケーション」と通じるものが多いと改めて感じました。曼荼羅を表紙にした「図解コミュニケーション全集」第1巻を、11月に渡し損ねたので、贈ることにします。

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「名言との対話」1月5日。岡井隆「だめな人間だったわたしは、それでも歌のおかげで、なんとか生きて来られたのである」

岡井 隆(おかい たかし、1928年昭和3年)1月5日 - 2020年令和2年)7月10日)は、日本歌人詩人文芸評論家 

名古屋の旭丘高校を経て慶應大学医学部卒。内科医としてながく病院につとめる。医と文のせめぎ合いの人生だった。1946年「アララギ」に入会。1951年近藤芳美らと「未来」を創刊。1955年頃より塚本邦雄らと前衛短歌運動をおこし,歌集「斉唱」で注目をあびる。「禁忌と好色」で迢空賞。現代短歌大賞。「ヴォツェック/海と陸」ほかで毎日芸術賞。「馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ」で読売文学賞

1983年から、中日新聞東京新聞に『けさのことば』を長年にわたって連載していた。1990年6月から2014年3月まで、日本経済新聞歌壇の選者を務めた。1993年より宮中歌会始選者を21年間つとめた。2007年から宮内庁御用掛。2016年文化功労者

1975年の『鵞卵亭』(1975)から、短歌がもつ韻律の美しさを生かし、のびやかに現代人の内面を抉るようになる。1994年の『神の仕事場』あたりから、文語に口語文体を調和させるなど柔軟な作風を繰り広げる。定型詩の可能性を模索し、写実に偏りがちな短歌に思想性や社会性を持ち込み、虚構も大胆に詠み、英語や口語もふんだんに取り入れる。試行を続けてきた存在として、新しい世代に与えた影響は大きい。

1920年生まれの塚本邦雄、1935年生まれの寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人である。岡井によれば、前衛短歌運動は、象徴や比喩を多用し虚構も扱えば短歌にももっといろんなことが可能になるという、外からの短歌滅亡論への反論だった。また内では前衛狩りの歌壇の風潮と戦った。

以下、この本と歌集から気に入ったものを取り出した。

 恩寵のごとひっそりと陽が差して愛してはならないと言ひたり

 うつくしき女と会ひし中欧のカフェテラスより現在(いま)が生まれつ

 曙の光の中で読むときに昨夜の書(ふみ)の顏変わりゆく

 薬品にほとんど近き食品が勢ぞろひして寒し地下売場

 才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核

 草刈りの女を眼もて姦すまでま昼の部屋のあつき爪立ち

 かくのごとくわれもありしか青春とよびてかなしき閑暇の刑は

 おおわが朱色の聴診器死へむきてあへぐひとりも夕映のなか

 或る友を幸福の側へ差別してわれはも寝たり菊のごとくに

 売春と売文の差のいくばくぞ銀ほしがりて書きゐたりけり

 朝思へばぼくより幸福な奴なんてゐるわけがない歪むな隆

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

岡井隆の短歌から現代詩、批評まで、2020年まで70年を超える活動はまさに多芸多彩であった。日常の細部を口語を交えて軽やかに歌う「ライト・ヴァース」(軽妙洒脱な詩)を提唱するなど、年齢を重ねるごとに作風も自在に変えていった。岡井自身によれば、自身は一貫して歌人であり、結社人として生涯現役の人だった。

岡井隆『わが告白』(新潮社)を読んだ。2009年から2011年までの日記である。過去を書く伝記が嫌いな岡井は、現在を書く日記に愛着がある。日記は「強い。勁い。つよい」と繰り返している。この本では過去と向きあうことの困難さをうかがうことができる。

短歌は作品が大事だが、歌よりも歌人の方が優先する詩型であると岡井は言う。歌人の人生と生活を知らなければ歌の価値がわからない傾向がある。破婚と反婚、そして5年間の恋の逃避行と同棲までの7年、入籍まで9年を経験した「超婚」の現在。嫉妬と悪意の嵐との戦い。裁判沙汰になったストーカー騒動。 栄誉願望はエンドレスであり、欲望を肯定してようやく心の平安を得た日々。幸福論や仕事論についての多くの読書、ヒルティ、アラン、アンドレ・モロワ、亀井勝一郎など。、、、、

岡井隆という歌人の特色は、「短歌とはなにか」「現代の日本人にとって短歌とはなにか」についての本をたくさん書いていることだ。多くの歌人の 生き甲斐短歌とは違う。自身をだめな人間だったという岡井隆は歌の力にすがって辛うじて生き延びたという。絵画の東山魁夷も何をしですかわからない自分を絵が救ってくれたと言っていたことを思いだした。「短歌とは何か」は、岡井隆自身の生きる意味そのものを探るテーマだったのだろう。

わが告白

宮城谷昌光『孔丘』を読了。聖人・孔子から人間・孔丘へ。改めて『論語』に向かいたい。

年末から読み進めていた宮城谷昌光『孔丘』(文芸春秋)を読了しました。

 

孔丘 (文春e-book)

 著者の宮城谷昌光は、中国をテーマとしたすぐれた小説を書き続けている人です。46歳と遅いデビュー以来、新田次郎文学賞直木賞芸術選奨文部大臣賞、司馬遼太郎賞、菊池寛賞毎日芸術賞などを受賞しているから、その実力は折り紙付きと言っていいでしょう。

その宮城谷は「孔子」を書こうと何度も考えました。50代に史料を集め、文献を読み、年表をつくった、そして無理だと諦めた。60代に、整えた資料に向き合ったが、また無理だと諦めた。『論語』にみる孔子の姿が重すぎたのです。70歳を過ぎて、失言と失敗もあった孔丘という人間を書こうと肚をくくった。今書かなければ死ぬまで書けないと自分を励まして書いたのがこの作品です。2020年10月発刊だから、著者は現在75歳になっており、73歳で死去した孔子を越えました。このあと、どんな本を書くのでしょうか。

 

 この本で、「人間・孔子」はどのように描かれているでしょうか。

15歳:武人になるまい。学問で身を立てるべく懸命に学ぼう。独学。

20歳過ぎ:はじめて弟子を持つ。身長2メートル16センチの長人。異相の人。

30歳。官を辞し人を教えておのれも学ぶという道を選ぶ。教場を建てる、ゆったりとした衣服を着用する。復習を重視、実習も。起源と変化を知る。射術と御馬。世の騒擾にかかわらず研学を続ける。予言を的中させたものが聖人。次ぐ者が亜聖。教諭の天才。

40歳。不惑周王朝の文化がもっともすぐれていると確信。天、天命、天意。碩師。

50歳、天命を知る。自分ではどうしようもないのが天命。魯に帰る。文化国家は武よりも堅牢。城壁の取り壊し。隣国と親しみ合う。政治とは先んずること、労すること。善政とは公平な司法と過酷でない課税。

55歳:亡命。

60歳。耳順。いやなことでも天が命ずるのであれば順う。近くの者が喜び、遠くの者がやってくる、それが政治。

67歳。病はない。亜聖の顔回が40歳で死去。

68歳:14年の亡命生活から帰国。

70歳。心の欲する所に従って、矩をこえず。自由自在にふるまっても人の法則をこえなくなった。

73歳。死去。

この本では「礼」について詳しくかいてあります。礼とは何か。もとは宇宙の原理。人間世界の秩序したもの。礼で個をつないでゆけば世間全体の体温が向上する。礼法は冠婚葬祭の法。礼を守ることは不当な法から官民を護ることになる。正義の道をゆくための道標。民を総べるには礼。僭越や下剋上を抑止する力。秩序の壊乱を未然に防ぐ。百年、千年の計。礼を学べば人として立つことができる。正しい礼の発見と創造。蝋燭のようなもの。「仁」とは何か。人としての正しい在り方。人としての本分。礼に比べて記述は少ない。

この本を読み終わって、聖人の孔子が孔丘という人間としてあらわれ、やや身近になった感じがします。この背景を持って、聖書と並ぶ偉大な書である『論語』をひも解きたいと思います。

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ポッドキャスト「ラジオ版学問ノススメ」。ウオーキング中に聞きました。しばらくはこの番組を聴くことにします。

吉田類(酒場詩人)

立花隆(ジャーナリスト)

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「名言との対話」1月4日。内田忠「民主政治の成否は、とどのつまり「人間」に帰着する」

 内田 満(うちだ みつる、1930年1月4日 - 2007年1月26日)は、東京生まれの日本政治学者

早稲田大学第一政治経済学部卒。1969年、早稲田大学政経学部教授。 1978年、早稲田大学別科国際部長。 1986年、早稲田大学政治経済学部長。 2000年、定年退職、 2002年、「日本政治学の一源流」で早稲田大学博士(政治学)。

日本政治学会理事長、日本選挙学会理事長、衆議院議員選挙区画定審議会委員、財団法人明るい選挙推進協会会長を務めた。

アメリカのロビイストについての研究でも知られた。ゼミ生には、寺島実郎やニュースキャスターの久和ひとみなどがいる。2007年1月26日、死去、享年77。

 内田満『政治の品位』(東信堂)を読んだ。以下、「Ⅱ政治家よ、言葉を響かせよ」。以下、アメリカとイギリスの政治家や学者たちの名言から。

  • リンカーン「奴隷になりたくない人は、奴隷を所有しないことに同意しなければなりません。他人に自由を否定する人は、自分でも自由に値しませんし、公正な神の下で、自由を長い間保持することはできません」
  • ケネディ「問うなかれ、あなたの方の国があなた方のために何をなし得るかを。と板前、あなた方があなた方の国のために何をなし得るかを
  • チャーチル「デモクラシーは、一番悪い政治の形態です。今までに試みられてきた他のすべての形態を別にすればの話ですが」
  • レーガン「政治は、芸能とよく似ている。まずオープニングが地獄で、その後はしばらく出せですが、終わりがまた地獄だ。」「政治は、悪い職業ではない。成功すれば多くの保証があるし、失敗したら、いつでも本が書ける」「皆様が必要とするものを何でも家でも与えることができるほど強力な政府は、皆様から何から何まで取り去ってしまうほど強力な政府ということになります」「いつも私が不思議に思うのは、姉妹の経験のない人が、どうやって政治家の役割をうまくこなせるのかということです」
  • サッチャー「政治では、予期しないことが起こると、いつも予期していなければならない」
  • ハロルド・ウィルソン「首相の成功の主要な条件は、夜の熟眠と歴史のセンスである」
  • マイケル・フット「権力の座にいる人には、本を読む時間がない。しかし、本を読まない人は、権力の座に適さない」
  • ジャン・ジャック・ルソー「イギリス人は、自分たちは自由だと考えているが、彼らは思い違いをしている。イギリス人が自由なのは、議会の議員の選挙の間だけで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷化されてしまい、何の力も持たなくなってしまう」
  • ウィリアム・サイモン「悪い政治家をワシントンへ送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」
  • ジェームズ・レストン「選挙は、く将来についてのかけであり、過去の人気の度合いを測るテストでは無い」
  • トマス・カーライル「この国民にして、この政府」

以下、 日本の政治家の名言から。

  • 尾崎行雄「選挙の場合には、政党は批判を受くべき被告であって、国民は裁判官であることを忘れてはならぬ」
  • 大野伴睦「猿は木から落ちても猿だが、代議士は落ちたらただの人」
  • 西尾末広「政権を取らぬ政党は、ネズミを取らぬ猫のようなもの」
  • 川島正次郎「政界、一寸先は闇」

民主政治の制度は完成に向けて永遠に途上にあるから、常に見直しが必要だ。そしてその制度を運用するのは人間であり、常に誤用や悪用がはびこる。だから政治の成否は人間の問題に帰着する。となれば政治学の基礎は、人間学なのだといえるだろう。

「修身」という言葉はすでに死語となってしまったが、やはり修養という考え方は忘れてはならないと思う。 政治学者・内田満は、早稲田大学政経学部長を経て、1990年と1994年と2回続けて総長選挙に出馬したが、いずれも決選投票で敗れている。以上の政治に関する名言を蒐集するなかで、内田満は学内政治と選挙についても深く考えただろう。日本の政治も、大学の世界も同じだと感じていたのではないだろうか。 

政治の品位―日本政治の新しい夜明けはいつ来るか

 

 

 

 

 

「誕生日」考。

本日、1月3日はわたしの誕生日です。今年の6年目の「名言との対話」は、「大正から昭和へ」というテーマで、その時代に生まれた人を取り上げることにして始めました。今日は、「誕生日」に関わるエピソードを記してみたいと思います。

  • 誕生日と命日が同じ日の人。詩人の塚本邦雄
  • 50歳で著作目録をつくることを決心し59歳で完成した人。文明学の梅棹忠夫は、盲目になってからこの目録を頼りに「著作集」を完成させた。
  • 70歳の誕生日に「70歳のわが誕生日うららかに鳥さえずりてあかるき日なり」と詠んだ人。コメリ創業者の捧賢一。
  • 90歳の誕生日に歌手生活70周年の記念アルバムを出した人。歌手の田端義雄。
  • 78歳の誕生日の前日に生前葬を営み、翌日に復活祭を慣行した人。女優、経営者の水の江滝子。
  • 61歳から17年間、教え子たちから誕生会を続けてもらった人。映画「まあだだよ」(黒澤明監督)で主人公となった学者・内田百閒の誕生会は、61歳から17年間続いた。
  • 誕生日の日に記念館が故郷の金沢にオープンした人。世界への禅の紹介者・鈴木大拙
  • 66歳の誕生日に社長を退いた人。ロイヤル創業者の江頭匡一
  • 95歳の誕生日に句集「ひとり」を出して「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」と詠んだ人。小説家の瀬戸内寂聴
  • 心中し発見された日が誕生日で、「桜桃忌」となづけられた人。小説家太宰治
  • 92歳の誕生日に亡くなった人。沖縄県知事の太田昌秀。
  • 60歳の誕生日に亡くなった人。映画監督の小津安二郎
  • 43歳の誕生日にマッキンリー冬季単独登頂に成功し翌日不明となった人。登山家の植村直己
  • 誕生日に太陽がめがけてきてその塊を呑み込んだ人。黒住教創始者・黒住宗忠。

『誕生日大全』(主婦の友社)は占星術の本です。この本がトイレにあったので、1月3日をひいてみました。

人生の転機として、「18歳」と「48歳」をあげてあり驚きました。大学入学あたりから「主体性」や「自己表現」に関心が深まり、自己変革をしたのがわたしの第一の転機です。ビジネスマンから大学に転身するのが「精神的なものへの興味が高まる」40代の後半でしたから、ぴったり当たっています。そして後年は、愛の大切さを知ることになるそうです。青年期、壮年期、そして現在の実年期のわたしを予見しているようです。

「意欲。創造力。若々しい。教育。計画。眼力。新事業。構想。直感。起業家精神。創造性。言葉。自立心。アイデア。熱心」を挙げてあり、長所は「ユーモア、気さく、創造力、芸術的、話がうまい、自由を愛する」となっています。一方、短所としては「飽きっぽい。虚栄心が強い。自慢する。浪費壁がある。自分に甘い。怠惰である。疑い深い」とあり、納得する記述でした。不思議です。

因みに1月3日生まれをあげてみましょう。河上丈太郎森村桂。安藤太郎。 キケロ大友宗麟荷田春満加藤高明。八代六郎。小林一三鶴見祐輔三岸節子三遊亭円楽(5代目)。坂本龍馬。 クレメント・アトリー。柴崎勝男、平山秀雄、山本学、入交昭一郎、稲越功一岩下志麻横路孝弘尾木直樹高瀬春奈、、。

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昼食:レストランで誕生会。

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20時からZOOM読書会。田原真人さんが出す予定の『出現する参加型社会』(クラウドファンディング出版)を巡るミニ講演と感想の会。16人ほどが参加しました。「統合」という観点からわたしもコメント。統合的世界観、統合医療、統合的理解、、。

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「名言との対話」1月3日。ゴードン・ムーア「見過ごせないほどチャンスが大きいと思ったらリスクを恐れるな。しかし、一度決断したら簡単にあきらめるな」

ゴードン・ムーアGordon E. Moore, 1929年1月3日 - )は、Intel Corporation(インテル)の設立者の一人。
サンノゼ州立大学へ入学。専攻は化学だった。1948年にはカリフォルニア大学バークレー校に転籍、卒業後にカリフォルニア工科大学大学院に進学し、赤外線分光学において化学博士号を取得。

1956年、半導体の分野で名を挙げていたショックレー博士の誘いを受け、ショックレー半導体研究所に勤める。後にムーアを含む8人が、経営方針をめぐる違和感で去る。そしてフェアチャイルド・セミコンダクターを立ち上げるが、大企業病に嫌気がさしてインテルを創業し世界一の半導体メーカーに育て上げた。またムーアは半導体産業のガイドライン的な役割を果たす「ムーアの法則」の提唱者としても知られている。1965年に発表した論文の中で「半導体の集積率は18か月で2倍になる」という経験則である。

玉置直司『インテルとともに』(日本経済新聞社)を読んだ。副題は「ゴードン・ムーア 私の半導体人生」だ。ムーアは日経新聞の「私の履歴書」に1995年2月に登場している。それを書いた記者がまとめた本である。インテルを世界最大の半導体メーカーに育て上げたムーアによればこの本は「自分史」であり、かつ半導体産業の歴史である。ショックレー半導体研究所、フェアチャイルド社、インテル社を通じて、失敗を繰り返したと言う。そして運がよかったと総括している。正しい時期に正しい場所にいて、チャンスを捕らえることができたことは幸運だったという。自分史と産業史が一体となっている。生涯を「〇〇人生」と呼べる人は幸せな人だ。

1970年代末に日本企業に警戒感が生まれ、80年代は日本企業が席巻したが、インテリは1992年に売上高は世界一になった。そして顧客への安心感の提供のために「インテルインサイド」キャンペーンを始める。日本では「インテル入ってる?」というコマーシャルが流れたことは記憶にある。

ムーアは大学教育について「グループの中で研究したり働くということをもっと経験させるべきだ」と提言している。理工系はチームでプロジェクトに取り組む方法を教えるべきだという。

意外なことにムーアは半導体人生を「失敗の連続だ」と述懐してている。「インテルを創業して以来、33年間を振り返ると自分でも信じられないほど多くの失敗をしたと思います。忘れようとしても忘れられない失敗がいっぱいあります」「企業は放っておけば成功体験にしがみついてリスクを避けるようになります。その方が楽だからです。しかし、企業にとってこれが一番怖いのです」

そして成功者の誰もが言うように「運がよかった」とも語る。 人生では何回かチャンスが巡ってくる。それをつかむにはリスクを冒す必要がある。「シリコンバレーでは、リスクを冒す者だけが刺激的で価値ある人生を過ごせる」、それがシリコンバレーの掟なのだ。もちろん失敗も隣り合わせになることは忘れてはならない。「チャンス、リスク、執念」がムーアのアドバイスだ。

インテルとともに―ゴードン・ムーア 私の半導体人生

 

 

 

 

「だ・である」調から「です・ます」調にギアチェンジします。

ブログの文体は、今までずっと「だ・である」調で書いてきました。今年から「です・ます」調にギアチェンジをしてみましょうか。

2005年に刊行した『図で考えれば文章がうまくなる』 (PHP研究所)で、以下のように書いています。

「私自身は、以前は「だ・である」調を基本に文章を書いていました。ところが文章が難しくなる場合が多く、なかなかすっきりと文章を書き飛ばしていくということができませんでした。中身の割にもったいぶって書いてしまうことになりがちでした。」

「しかしある時期に「です・ます」調に変えてから、文章を書くのがずいぶんと楽になりました。読み手に対してもやさしく語りかけるような感じで書いていくスタイルが、頭の働きを活発にすることにも気がつきました。それまでは文章としての格調だとかリズムとかに関心が集中していたのですが、「です・ます」調になってからは、語りかける中身のほうに大きく重点が移ったような気がします。」

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NHKBS正月時代劇「ライジン若冲 ~天才 かく覚醒せり~」。 若冲。大雅。定次郎。

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夜は深呼吸学部(橘川幸夫学部長)の2010年の初回の講義。新雑誌。ZOOMコミュニティ。ラジオ番組。、、、、。面白いことが始まりそうです。参加しましょう!

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「名言との対話」1月2日。徳岡孝夫「今や彼の連載コラムも終わった。日本の言論界には、そのぶん平和が戻った。めでたいと言うべきだろう」

徳岡 孝夫(とくおか たかお、1930年昭和5年1月2日 - )は日本のジャーナリスト評論家翻訳家。

大阪府生まれ。京都大学文学部英文科卒業。フルブライト留学生として米シラキュース大学新聞学部大学院修学。毎日新聞社会部、『サンデー毎日』、『英文毎日』の各記者、編集次長、編集委員を歴任。ニューヨーク・タイムズのコラムニストも務めた。第34回菊池寛賞受賞。『横浜・山手の出来事』で第44回日本推理作家協会賞受賞。『五衰の人―三島由紀夫私記』で第10回新潮学芸賞受賞。

フォーサイト』に連載のコラム「クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?」は、2000年1月号から、ウェブ版に移行した後も続き、20年近い2019年5月14日の「筆を置くにあたって」までを書いた。

雑誌『諸君!』(文藝春秋社)で、1980年1月号から最終号の2009年6月号まで30年、7ページの匿名巻頭コラム「紳士と淑女」を連載した。計算すると400字詰で20枚強になる。そのうち263本を編んだ『完本 紳士と淑女』を読んだ。この最終号で筆者であることを明かしている。最後は「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた「紳士と淑女」の筆者は、徳岡孝夫というものであった」だ。以下、いくつか言葉を拾ってみる。

金正一から金正日に改名。いじめをなくすことはできない。正義を売り物にするなかれ。田中角栄小沢一郎は 梟雄。官民格差なんてバカ休み休み言え、こちらは競争、倒産、クビもある。マスコミのウソでないものは、株価、プロ野球のスコア、気象通報。現代の英雄はテレビに出る人。ニクソンアメリカを救った。頼山陽徳富蘇峰司馬遼太郎。出版は商売であることを忘れるな。納税者背番号制で匿名原稿はやられ言論弾圧が可能に。美智子皇后は尋常の人ではない。漱石、鴎外、露伴、志賀、谷崎の運命。過不足ない話をする松井秀喜長島茂雄脳梗塞は人災。5千円札になる樋口一葉は「偉人」のうち最も貧しかった。、、。

徳岡孝夫という名前は私のブログには3度登場している。

  リチャード・ニクソン「指導者とは」(徳岡孝夫訳)を再読。1982年直後に読んで、優れた人物であると再認識したことがある。30年ぶりに読んで改めて世界のトップであるアメリカ大統領の視界の広さと仕事の重要さ、その中でライバルと接触しながら自国と世界の利益を追求する姿を垣間見ることができた。「ニクソン。文章を書くのにテープに口述筆記をするのが一番だ。重要な演説の原稿をまとめるのが自己を鍛える。決断の検証と思考を磨くことになるからだ。政治指導者は伝記類の熱心な読者だ」。 

。77歳のときに書いた 『ライシャワー自伝』を読んだ。日本とアメリカを等距離で見つめ続けた希有の知識人が日本への深い愛情と理解はいずこより来たかを外交秘話を交えて率直に語る本である。翻訳者は徳岡孝夫だ。

では、「三島由紀夫が自決した当日、特に信頼している人で、市ヶ谷自衛隊に来るように事前に連絡した毎日新聞(当時)記者の徳岡孝夫」と記述している。2020年11月20日配信の「時事ドットコムニュース」で、90歳の徳岡孝夫が三島由紀夫との3年半の交友の日々をふり返っている。特派員としてバンコクに赴任中、取材で滞在していた三島に平安時代の歌詩集「和漢朗詠集」を貸した。三島はバンコクを立つ際、「楽しませてもらいました」とにっこり笑い、本を返した。自決後、刊行が予定されていた小説「豊饒の海」の最終巻が「天人五衰」と知り、朗詠集を慌てて取り出した。三島が開いたであろう癖の付いたページがあり、題名の元になった一節が記されていた。「一生を閉じる作品の題が決まったという笑顔だったのでは」と語っている。

紅露逍鴎の遺訓をとどめる14最年長の山本夏彦の名筆に脱帽する徳岡孝夫は、50歳から90歳近くまで、歯に衣着せぬ名物コラムを書き続けており、今も健在のようだ。自分の書くものが世間を騒がせてきたが、終わるから平和が戻るだろうとの気概に打たれる。時流や高名におもねらず、深い洞察と鋭いセンスで書き続けた執念はみあげたものだ。修行の日々であっただろう。

 

 

1980─2009 完本 紳士と淑女 (文春新書)

 

あけましておめでとうございます。「継続と開拓」。「大正から昭和へ」

あけましておめでとうございます。

近所の日枝神社で娘、息子の家族たちと初詣。御神籤は「小吉」。

「春くれば ふりつむ雪もとけるべし しばし時まて 山のうぐいす」

運勢「物ごとひかえめにし心ただしく身をまもりてあまり進みてなさぬがよろし

よからぬ人にさまたげられて思はぬあやまちをなすことあり 交際は十分注意すべし」

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過去に積み上げたものの継続と未来をにらんだ新世界の開拓へ向けて日々を生きる。これを2021年の方針としたいと思います。その際に御神籤の「運勢」を念頭において慎重に進みたい。

継続:『図解コミュニケーション全集』2巻以降の発刊。「人物記念館の旅」に企業博物館も加え1000館を目標に歩む。大手出版社から2冊の出版。

新世界:図解塾。クラウドファンディング。VR(ハバーチャルロアリティ)。学会。会社。、、、、、。

毎日早朝に書き続けている「名言との対話」は6年目に入ります。「命日編」「誕生日編」を経て、ここ3年は「平成命日編」「平成命日編2」、そして昨年は「戦後命日編」に取り組みました。今年は「大正から昭和へ」とし、大正から昭和初期に生まれた人を対象とすることにしました。私の父は大正12年、母は昭和2年生まれで、父母と同時代に生きた人たちを取り上げて、その世代のことを考えるという趣旨です。

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「名言との対話」1月1日。三浦洸一「空に伸びろ青年の樹よ。森に育て青年の樹よ。国を興せ青年の樹よ」

三浦 洸一(みうら こういち、1928年1月1日 - )は、日本歌手

神奈川県三浦市三崎の浄土真宗最福寺の三男として生まれる。東洋音楽学校卒業後、1952年ビクター入社。芸名の三浦洸一の三浦は三浦半島の生まれであることからつけられた。洸一は、この世界で「ピカ一」になれるようにと「光一」となる予定だったが、既に他社の同名の歌手がいたため、この世界は水物だからという意味で「洸一」に変更となった。

三浦は名作曲家吉田正に師事し、1953年5月「さすらいの恋唄」でデビュー。吉田学校の第1期生だ。同年9月発売の「落葉しぐれ」で一躍スターダムにのしあがる。1955年の「弁天小僧」、1956年の「あゝダムの町」「東京の人」がヒットする。1957年には川端康成作品をモチーフにした「踊子」がヒットし、「街燈」等文芸を材料とした文学的香りの作品を多数発表し、「文芸歌謡の第一人者」と呼ばれるようになる。男性的なテノールの実直な唱法で歌う上品さがうけた。企業の社歌や自治体が制作する音頭などの吹きこみ依頼も多かった。紅白歌合戦には1955年に初出場。その後、1957年からら1963年まで連続出場を果たす。39年の落選時には物議を醸し出したほどの人気歌手だった。

1983年にはフジテレビ系のバラエティ「森田一義アワー笑っていいとも」にレギュラー出演し、飄々とした朴訥な人柄で、人気が高かった。2000年、レコード大賞功労賞受賞。2008年にはビクター創立70年記念行事の一環として、レコードデビュー55周年を祝い、2枚組のCDアルバムが発売されている。

佐伯孝夫作詞・吉田正作曲「東京の人」は都会歌謡の名曲だ「並木の甘えのトレモロを テラスの椅子でききながら 銀座むすめよ なに想う」。文芸歌謡のハシリの「踊子」は、「さよならも言えず 泣いている 私の踊子よ、、、 ああ 船がでる、、」も耳に残っている。

石原慎太郎作詞・山本直純作曲「青年の樹」。1961年から翌年にかけてテレビで79回放映された番組の主題歌だ。三浦洸一の力強い歌声は「雲が流れる丘の上 花の乱れる草むらに 、、」から始まる。公募で選ばれた勝呂誉のデビュー作だ。確か森繁久彌が主人公の父親役で初回の東大入学式当日にやくざに絡まれてステッキで応戦する役だった。ユーチューブで歌声を聴いてみた。「若き希望と夢の苗」「あつき心と意気地持て」「我らをおきて誰かある」などの言葉が散りばめられている。60年代の高度成長を目前の時代の30歳前の若き石原慎太郎の詞は青年の希望と自負に満ちている。三浦洸一の澄みきった歌声の歌は、まだ少年だった私の志を刺激したことを思いだした。歌は偉大だ。

 

 

 

 

 

 

大晦日。例年の「紅白」ではなく、「年末年始未来フェス」を楽しんだ。

晦日は例年の「紅白」ではなく、「年末年始未来フェス」に参加した。18時から始まって、最後は元旦の朝まで続いたようだ。常時60名ほどが参加。

三田未来フェス。失敗談のフェス。作曲家。映画監督。ジャズピアニスト。俳優。高校生。大学生。教員。新聞記者。自営業。図書館研究者。新教育機関従事者。不動産。自動車部品。宇宙少年。ファシリテーション協会。サラリーマン。GOTO。ザリガニ。マスターズ陸上。国道16号線。島根。福岡。失恋。たたら製鉄。学力の三要素。つくる。ザリガニ。ガソリン車技術。リテラシー。、、、、、、。

 私は43番目に「クラウドファンディング出版」をテーマに5分ほど発言。「移動と交流」「時間」「個人」「鳥瞰」「図解」「新世界」「図解コミュニケーション全集」「クラウドファンディング」「ZOOM図解塾」。チャットで「図解」に反応してくれたのは、中島さち子、前田吉広、柴田ひでとしさん。

松沢豊和さんの三田未来フェス、鈴木剛さんの失敗談フェス、さかはらあつしさんの「小さくても勝てます」に興味。

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 午後から、娘と息子の家族もそろって、和やかな夕食会。

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2020年

・新世界:ZOOM(授業と図解塾)。クラウドファンディング(全集)。VRへ。

・人物記念館18館増えて935館。「全集」の刊行を開始。知研50周年企画を実施。

・SNS等:ブログ連続5938日。名言との対話「戦後編」、5年1830日。メルマガ1263号。インスタ「後ろ姿探検隊」。HP320万ヒット。

・読書は250冊プラス30冊程度か。

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「名言との対話」12月31日。渥美和彦「「創意、創作に燃えている人は、長生きする」

渥美 和彦(あつみ かずひこ、1928年9月25日 - 2019年12月31日)は、日本医学者

北野中学、三高、東大で、天才、秀才に出会う。中学からの友人の手塚治虫の『鉄腕アトム』のお茶の水博士のモデルは渥美だった。『手塚治虫漫画全集』400巻を残して手塚は60歳でガンで死去した。渥美の見立てでは、原因はストレスだった。ラグビー、ボートなどのスポーツでも活躍して、三高時代の石井威望、小松左京らとも親交が深いなど優れた友人に恵まれている。

渥美は医者となり心臓外科を専門にし、人工心臓、医学のコンピュータ化、レーザー光による手術を手がけた。医学と工学の境界の仕事が多かった。日本未来学会に参加し、東大の林雄二郎と京大の梅棹忠夫の議論を聴いている。大物経済人にも可愛がられ、本田宗一郎松下幸之助井深大などの仕事やライフワークを手伝っている。中村天風にも指導を受けて売る。

渥美はこういった広い人間関係で、民間療法、合氣道、呼吸法なども視野に置くようになっていく。そして統合医療の流れを先導していき、日本統合医療学会理事長をつとめた。

 渥美和彦『統合医療がよくわかる老い方上手』(PHP研究所)で、医学の流れを説明してくれている。西洋医学は、部品構造学と呼ぶべきもので、部分のトラブル解消を主眼にしている。西洋医学:部品構造学。部分のトラブル解消。原因の除去のため科学的手段。治療。病気は悪との考えで原因の除去のため科学的手段を用いて治療を行う。東洋医学は体全体で健康を考えていく。本来持っている自然治癒力でバランスのよい状態へ戻すことが主眼だ。心身一如の考えで心身のバランスを整えることを大事にする。また代替医療という分野がでてきた。中国・インドの伝統的東洋医学、ハーブ、針きゅう、瞑想、音楽、マッサージ、カイロプラクティク、気功、信仰、、などで西洋医学を補佐しようという考えだ。

渥美和彦が主導した「統合医療」とは何か。西洋医学代替医療の融合と統合を目指している。予防医学とそれを実現するための包括医療だ。患者中心の医療、身体・精神だけでく人間を総括的にとらえる全人的医療、治療だけでなく予防と健康増進に寄与する医療、一生をケアする包括医療。渥美の視野には、クォーク医学、量子医学も入っている。そして「気」、「エーテル」からでた「ホメオパシー」も。そして、理性、感性、悟性、霊性という道筋も見えていたようだ。この流れへの障害は西洋医学中心の国民健康保険制度の維持を至上とする日本政府だという。医療現場の崩壊を防ぐために、長期的にはこの統合医療が日本を救うという主張だ。この本を書いた2009年から10年以上たった。どこまで進んだだろうか。

渥美先生には何どか野田一夫の関係で接している。野田先生の米寿の会だっかた、挨拶で「野田さんは健康診断ですべてAであった。その秘訣を友人たちで聞きにいったことがある。100歳は間違いない」とユーモアを込めて語っていたことを覚えている。

「創意、創作に燃えている人は、長生きする」、そして「ガンと戦う人が長生きする」と語る。私なりに「意欲と気力」と言い換えてみようか。渥美和彦自身は、昨年の大みそかに91歳の生涯を閉じている。

 

参考::渥美和彦『統合医療がよくわかる老い方上手』(PHP研究所)

 

 

 

 

 

 

「外的世界の拡大は内的世界を深化させる」ーー「個人の登場」「交流の爆発」「変化と進化で深化へ」

「外的世界の拡大は内的世界を深化させる」は、私が念頭においている生き方の指針だ。これは学生時代に身に着けた探検精神である。2020年は、新型コロナの登場で世界中がパニックに陥った年となった。生身の人間としての移動が制限され、友人・知人・家族との交流が減った。世界が止まったのだ。

一方で、リモート生活が一気に開花した年ともなった。ZOOMによって、授業も、ビジネスも、帰省も、プロジェクトも行われるようになった。リアルでなくても大きな障害はないことがわかってきた。そして驚くべきことに通勤、通学を含めた移動の時間がぽっかり空いたのだ。

一日24時間しかないという制限が撤廃された。一日数時間が人生に付加されたのだ。その時間に何をするのかが問われている。時間革命である。公人と私人の時間がほとんどだった人生に、個人の時間が突如現れたのだ。

新型コロナで外的世界の拡大は阻止されたのか。実際の移動は不便になったが、VRも含めたリモート技術によって、タテ・ヨコ・ナナメの交流がむしろ活発になった人々も多い。世代を超えた交流、業界を超えた交流が一気に爆発的に拡大している。外的世界は拡大している、そしてそれに伴って、内的世界は深化していることを私も実感している。

今年、必要に迫られてZOOMを使いこなせるようになった。授業や講演だけでなく、個人的な課題であったZOOMを使った「図解塾」を始めることができた。「図解コミュケーション全集」をつくろうとして、クラウドファンディングの世界を知った。VRの世界ものぞいた。どうやら、2020年は自分にとって新世界に入る画期的な年になったという総括ができるようだ。「外的世界の拡大は内的世界を深化させる」は生きている。拡大の方法が豊かになってきたのだ。その方法や技術の変化と進化に対応していくのが深化への道である。

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 久米信行さんの「今年の十大ニュース」で、図解塾をとりあげてもらった。

https://www.facebook.com/nobukume

【2020私の十大ニュース07 久恒啓一先生のオンライン図解塾に入門】
57歳の手習いで、何でも図解できる脳に鍛え上げるべく、図解マイスターの久恒啓一先生に入門しました。多摩大で久恒先生の人物評伝の授業を受けた際に、リアルタイムで図解メモを取る達人ぶりにシビレて、いつか私もと考えていたのです。
そのチャンスは今年訪れました。久恒先生はクラウドファンディングで全集発行を始められ、そのお礼品にセミナーを発見。即座に申し込んだのです。時節柄zoomでの開催となりましたが、毎回の課題を自分の頭で図解するのは、まさに究極の脳トレでした。
おかげさまで、メルマガのコラムや質問コーナーに活用できましたし、来年からiUで始まるビジネスケーススタディの授業でも活用できそうです。
年明けから、また久恒先生の図解塾が始まりますので、みなさんよろしければご一緒いたしましょう。きっと世界の見え方が変わり、人生も新たな展開を見せるはずです。noteでのクラファン登録で受講資格ができます。

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「名言との対話」12月30日。星新一「人生最大の楽しさと言ったら、人に模倣されることでしょうね」

星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一1926年大正15年〉9月6日 - 1997年平成9年〉12月30日)は、日本小説家SF作家

父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。1948年東京大学農学部農芸化学科を卒業。大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。1951年、父がの急逝で中退し経営悪化中の会社を継ぐが破綻し、会社を譲るまで処理に追われた。1963年小松左京手塚治虫らと日本SF作家クラブの創設に参加。1976年から1977年まで日本SF作家クラブ初代会長を務めた。 1983年秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。小松左京筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる。

『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』『きまぐれロボット』などのショートショート集がある。またインターネット社会を予見した『声の網』や少年の夢をめぐるファンタジー『ブランコのむこうで』などの長編もある。父・星一の壮年期を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、青春記を描いた『明治・父・アメリカ』、『祖父・小金井良精の記』などの伝記も発表している。

以下、星新一語録。

 「(アイデアを出すとは)多くの人の意見を集め、広く資料を調べ、とらわれない自己の判断で整理し、そこから新しい可能性をひきだすことである。具体的な世界から抽象の世界に飛び、ふたたび具体的な世界に戻りながら、せきとめられている水路を発見することなのだ」「突飛な質問、恥、笑い、というのはアイデアへの感覚なのである」「忙しく動き回りながら、深く考えることは、人間にはできない」「学問のもとは、好奇心。好奇心を育てるようにしておけば、優れた人物も、自然に育ってくる」

「できるだけ多くのものを内に秘め、一方、口数は少なく、軽々しい判断はしない。その修行が気品というものを作り上げる」「われわれが過去から受け継ぐものはペーソスで、未来に目指すべきはユーモア」「個性のある人と話すのは楽しい。しかし、それには、こちらも一つの個性を持たなければ、会話が成立しない。人生を豊かにするためには、そういった努力がいる」「わたしは失敗に終わってしまった。しかし、完成を心にえがきながら、ずっと楽しく生きてきたよ。楽しく生きてきたような気がするだけかもしれないがね。これでいいのだろう」「自分のことを気にかけてくれている人がいる。それだけで十分だ」「人が夢の世界を持っていなかったら、現実に対して何の批判もしなくなり、ただただ現実に押し流され、ずるずるとだめになってゆくだろうね。現実の世界はそれぞれの人の夢で支えられているともいえるんだよ」

「文体とは、あくまで人柄だ。ユーモアのないひとにユーモラスな文など書けるはずもなく、大まかな性格の人に神経質な文は書けない。文章技術より、自己発見のほうが先である。それだけでいい。あとは、辞書をそばに誤字を減らすよう努力し、文字を丁寧に書くように気を付ければ、文章は自然と、あなたの人柄のいい面が現れてくる」

それでは「ショートショート」とは何か。短く不思議な小説でアイデアが勝負の作品だ。サマセット・モームが「コスモポリタン」誌で試みた短い小説が話題になり、それを都筑道夫が日本に持ち込み星新一によってショートショート形式が広まった。「世の中には短く要約できないものはない」という星新一は、「ショートショートの神様」となった。雑誌『小説現代』では400字詰め原稿用紙7枚まで、雑誌『SFマガジン』ではでは5枚程度としているが、星新一には10枚程度の作品が多い。当用漢字しか用いない平易な文章、時事風俗や固有名詞、性や殺人を描かない透明感のある作風は、年齢性別国籍を問わず広い読者層、とくに小中学生の子供たちに支持されている。刊行部数は、新潮文庫だけでも3000万部に及び、今も増刷・復刊が行われている。翻訳は「ボッコちゃん」の英訳(1963)を皮切りに、旧ソ連から東欧諸国の言語、中国語、韓国語、スペイン語ベンガル語エスペラント語まで20言語以上延べ650件以上となっている世界的作家となった。

2013年から日経「星新一賞が始まった。理系的な発想に基づいたショートショート、および短篇小説を対象とした公募文学賞で、作家たちを励ましている。私は作品はきちんと読んではいないが、世田谷文学館で開催された小松左京や、筒井康隆の企画展では、星新一の名前をみかけているので親しみを感じている。

星新一公式サイト」をみつけてのぞいてみたが、今でも週1ペースでニュースが掲載されていた。2020年12月30日付(本日)で「星新一公式サイト英語版のニュースを更新しました」とのニュースをみかけた。星新一の作品は長い生命を持っている。そして父、祖父の物語も書いているように、自分一代で人生を考えていなかったように思う。星新一は今も生きているのだ。

形式の発明は創造である。それを模倣する人々が多くなるとひとつの分野を形成する。生きがいというのは自分が生きた短い時間だけにあるものではないらしい。死後も含めた長い時間を生き続けるのは人生最大の楽しみだろう。どうやら星新一の「ショートショート」は永遠の命を持ったようである。