田原真人『出現する参加型社会』ーー「コロナパンデミックが、人類社会の新しい可能性を示した」

田原真人『出現する参加型社会』を読了。 

副題の「コロナパンデミックが、人類社会の新しい可能性を示した」のとおり、愛と勇気が湧いてくる問題作です。橘川幸夫『参加型社会宣言』と連動した、今読まれるべき本。

出現する参加型社会 (未来叢書)

出現する参加型社会 (未来叢書)

  • 作者:田原真人
  • 発売日: 2021/04/05
  • メディア: 新書
 
 

著者はマレーシアに住む在野研究者。朝4時起きで2ヶ月で憑かれるようにこの本を執筆した。2011年に東日本大震災で仙台で被災し、2011年9月のマレーシアに移住。2012年FBグループ「反転授業」を起ち上げ、その後「ZOOM革命」を主導した人である。コロナ禍は戦後に闇市が乱立した時代と似ているとし、こういったカオスにはサーチする力があり、その中から新しい世界観がでてくると考えている。出現するのは「参加型社会」である。

ゆらぎが増幅するしくみを持つ非平衡・開放系である自己組織化の研究の蓄積を土台とした、高いレベルの論考を一定のリズムで書き続ける力量は並大抵ではない。自分史と世界史、人類史との連動を志向しながら、人間への深い理解をもとにした実戦的理論家として新しい世界観を提示してくれる。

主張をまとめるより、刺激的な言葉を拾うことにした。以下、キーワードのみ。

  • オンラインはリアルの代替ではない:動画講義。反転学習(壇上の賢人からファシリテーターへ)。女性が活躍。関係性を育む。違いがエネルギーとなる。雑談。友だち。余白。答えよりも問いが大事。社会変革ファシリテーター。リアルは制約が大きい。移動時間、録画、人数、欠席者への対応。双方向コミュニケーションを中心に学び合う。劣化版のオンライン体験。ZOOMは双方向。副業ではなく複業。自立分散型養成ギブス。広域・自立分散型集合知マネジメント。信頼関係と仕事の前進は車の両輪。一緒の会社のよう。ZOOMには人間が投稿されてくる。集合コストゼロ。継続的プロセス。教える人からファシリテーターへ。縁と起。マイノリティの声。異質な他者との対話の機会。集合知。リモートとリアルの組み合わせ。精度の高い適材適所。協働。
  • 生命論的世界観から生まれる未来:ダイナミックな往復運動。工場、工房、変容。静的安定から動的平衡。運動。秩序とカオスのバランスで知識を創造。因果と縁起の混じり合い。唯識、アラヤ識。双六ゲーム。世界観の更新がラーニング。関係性。実感。共感的な仲間と異質の他者との出会い。互酬。多くの依存先を持つと自立。多層的な所属。複数のプロジェクト。
  • 生命論的世界観:「個体であると同時に集合的無意識を通して外部に開かれた二重の存在であり、無意識から立ち現れる主体性や創造性を持つ」。複雑系量子論シンクロニシティ共時性)。物理学・心理学、大乗仏教場の理論。瞑想と幻覚。創造性。主体。自我と自己。非合理。ギフト。コミュニティ。個体として断片化している自我と、集合的無意識でつながり世界とつながっている自己という二重生命状態。共創エンジンとは潜在意識にある源泉から湧き出す衝動から生まれる活動。レンマ的知性。ネットワーク。物語。二重の生命観と二重の時間論。能力差は多様な可能性。
  • 機械論的世界観:近代は神からの自立する営み。複雑なシステムにはいのちが宿ってくる。ピラミッド型組織。部品人間。不登校。燃料は貨幣。国民国家全体主義。因果。要素還元主義。分析。外に出るとわかるメカニズム。抑圧と同調のメカニズム。自己欺瞞と自己嫌悪。アメとムチ。外発エンジン。暴力。ロゴス的知性。自我。固定フレーム。檻(選択肢の限定)と餌(アメとムチ)。魂の植民地化。支配と服従貨幣経済の進展。国民主権。国際金融資本。環境破壊。フォアグラ型教育。
  • 参加型社会学会:思考と身体知の相補を重視。監視社会シナリオの暗黒社会ではない未来。共創エンジンの燃料は「違い」。因果を思考し縁起を直観する。秩序とカオスをよろめき歩く。一緒に何かをやろう。非暴力と対話文化。時代の精神。共振、同時多発。人新世。地球環境は私たち自身。因果と縁起の交じり合った中で生きている私たちのための社会を再構築。

 橘川幸夫が掲げてきた「参加型社会」という旗印が、新しい世代に引き継がれる瞬間をわれわれは目撃している。この時代の精神を体現する運動に参加しよう。明日から始まるZOOMの読書会月間は、世代を超えた多くの人たちの参加で、盛りあがることになるだろう。

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午後。

新宿:橘川さんと仁上さん。

荻窪:出版社。

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「名言との対話」3月23日。村松剛「私たちの心の中にも、アイヒマンはいるはずなのです」

村松(むらまつ たけし、1929年3月23日 - 1994年5月17日)は、日本の評論家フランス文学者

東京大学大学院在学中からポール・バレリー研究の傍ら、吉行淳之介らの「世代」に小林秀雄論、三島由紀夫論などを発表、新進批評家として認められる。「現代評論」を経て、1958年遠藤周作らと「批評」を創刊。自然主義的リアリズムを否定し、文学作品の美学的構造を解明する一方、文化的視野からの社会批評を確立した。またナチズムに対する関心から、1961年アイヒマン裁判傍聴のためイスラエルへ赴き、1962年アルジェリア独立戦争に従軍して取材。アメリカへ留学後、1969年立教大学教授、1970年京都産業大学教授などを務めたのち、1974年筑波大学教授。

著書に「アルジェリア戦争従軍記」「評伝ポオル・ヴァレリー」「三島由紀夫その生と死」「死の日本文学史」「評伝アンドレ・マルロオ」「帝王後醍醐天皇」「血と砂の祈り―中東の現代史」「醒めた炎―木戸孝允」「三島由紀夫の世界」などがある。

1975年、「死の日本文學史」で第4回平林たい子賞を受賞。1982年フランス政府より教育功労章オフィシェを受章。木戸孝允の大作評伝「醒めた炎」(1979年から1987年にかけ日本経済新聞「日曜版」に長期連載)で第35回菊池寛賞を受賞。

『醒めた炎―木戸孝允』は、「欧米の未発表史料、幕府隠密の報告までも駆使して幕末の動乱を活写する渾身のライフワークだ。2800枚の歴史大作。木戸孝允の生涯を描く歴史小説の大作となっているが、木戸だけでなく、維新の立役者たちを描いている「幕末維新史」という歴史書だ。木戸孝允の人物造形の裡に、村松剛白身の生き方を読み重ねていく評者は多い。

 『決定版三島由紀夫全集』第38巻の書簡集には、141名宛の806通の書簡が収録されている。親友だった村松三島由紀夫は面白くない文章を書けない人だつた」と屈折した表現をしている。

「遺悼 村松剛先生を偲んで」という論考をネットでみつけた。1994年に5月17日に筑波大学比較・理論文学会の創立メンバーだった村松剛咽頭癌で65歳で亡くなった。その弟子たちがみた村松の姿と言葉を興味深く読んだ。「ああ村松先生は世界をこういう目で見ていらっしゃるんだ」(東京タワーをエレベーターで上昇中に)。「親友であった三島由紀夫について「語るべき時でしょう。」とおっしゃるまで先生は数年間迷われた」「東大で元同級生という方が「水際だった頭の切れ方だった」とおっしゃるのをきいて、やはりそうだったかと思った」。大学院生にとって「鬼の村松」という異名を持つ怖い存在だった。「僕が学生のころ、今後評論活動に専念するか、教師の道に進むかで恩師に相談したことがある。その時,恩師は両方やりなさいといわれた」「声が出なくなるくらいなら切らないほうがましだ」。明析であることに対する倫理感。教育者・村松剛は、厳しく優しく、いい先生だったようだ。

神経質そうな独特な風貌で、激しい主張の保守論客でもあった村松剛については私はずっと敬遠してきたが、村松剛『新版 ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像』(角川新書)を読んだ。1961年に行われたヒトラー総統のナチ親衛隊アイヒマン中佐の裁判を30代前半の村松はメディアからの依頼で傍聴する機会があった。ナチスによるユダヤ人虐殺の記録である。第一部「地獄からの報告書」で、虐殺の舞台となった6つの収容所で生き残った108人の証言の報告である。第二部は400万人をガス室に送ったアイヒマンの伝記が中心だ。学歴がなかったアイヒマンユダヤ人問題の専門家として頭角をあらわし出世していく。ヒトラーへの忠誠心と出世意欲が旺盛ではあるが、ある種凡庸な人物は「命令だったから仕方がない」と法廷で言い張った。人間が人間を殺して、骨をセメントに、脂肪を石鹼にするというニヒリズム。ここに村松は典型的な官僚の姿をみている。哲学者ハンナ・アーレントもこの裁判を傍聴した。小市民的で官僚的な普通の人間のなかに驚くべき悪行への素質があることがわかった裁判だ。現在の日本の国会でみる政治家や官僚の中にもその一端がみえる。

ここまで書いて、寝ようとするときに、ユーチューブで、たまたま日本記者クラブで4年前に行われた石田勇治教授の「ヒトラーとは何者だったのか」という映像が流れたので聞いてみた。これも何かの縁だろうか。

「私たちの心の中にも、アイヒマンはいるはずなのです」。「 凡庸な悪」はわれわれの身近に、そしてわれわれ自身に中にいる。

 

 

 

 

 

  醒めた炎―木戸孝允

 

優れた職業人に共通するキーワードを発見。

 図解塾の準備中に、優れた職業人たちの共通項を発見しました。

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安野光雅画家)。樹木希林(女優)。野村萬斎能楽師)。谷川俊太郎(詩人)。今和次郎考現学者)。不染鉄(画家)。田中角栄(政治家)。孫正義(経営者)。宮崎正勝(歴史学者)。吉田初三郎(鳥瞰図絵師)。梅田望夫コンサルタント)。小宮山宏(東大総長)。飯田亮(経営者)。阿久悠(作詞家)。白川義員(写真家)。宮城音弥(心理学者)。磯田直史(歴史学者)。横尾忠則(画家)。加藤典洋(文芸評論家)。下中弥三郎平凡社創業者)。山口晃大和絵画家)。松浦武四郎(探検家)。真鍋博イラストレーター)

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NJ社の原稿修正を始める:第1章。

大谷翔平の今季の成績:私の予想は「10勝。20本。3割」。

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「名言との対話」3月22日。草間弥生「一生は一度しかありません、大いに戦っていきたいと思います」

草間 彌生(くさま やよい、1929年昭和4年)3月22日 - )は、芸術家

長野県松本市生まれ。編目と水玉のパターンが増殖する独特の画風の前衛芸術家である。10歳で水玉と網模様をモチーフに絵を描く。幻視と幻聴を体験する。16歳で初入選。28歳で渡米。29歳初個展。30代では」「前衛の女王」の異名をとった。ニューヨークでは、反戦・反体制のハプニングの女王と呼ばれた。44歳帰国。49歳で小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表。54歳で小説「クリストファー男娼窟」が野生時代新人賞。71歳芸術選奨文部大臣賞。72歳朝日賞。80歳文化功労者。2016年の87歳では『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人でただひとり選ばれた。同じく2016年には文化勲章も受章している。

2013年に大分市美術館で開催中の「草間弥生展--永遠の永遠の永遠」を観る機会があった。草間は2000年頃から国内での大規模な個展を相次いで行っているので、よく名前を知られるようになった。東京でも何回かチャンスはあったが観ることができなかったが、ようやく旅行先の大分で観ることができた。草間弥生は、網目や水玉のパターンが増殖する常同反復の作品を生涯にわたって描き続けてきた。自分を前衛芸術家と規定している。会場のビデオで「ピカソも出し抜きたい。トップになりたい」と語っていた映像を観てその迫力に驚いた。そして「時よ、待ってくれ。私はまだ仕事がしたい」と意欲を示していた。
精神病院を拠点にアトリエに通う毎日で、強迫神経症で自殺の恐怖と戦うために絵を描いている。つまり絵の力で生きていることになる。東山魁夷も「絵を描いていないと何をしでかすわからない」と語っていたことを思い出した。「描きまくって死ぬの。1000枚でも2000枚でも」「闘っている」。恐怖を創造の力で抑え込んでいるのだ。

信州大学の初代精神科教授の西丸四方(1910−2002)は主治医の立場で本物の抽象画を描く草間を見ている。幻覚と幻聴から逃れるために描き続ける草間を題材として「分裂性女性天才画家」という演題で精神神経の学会で発表している。

草間の詩もいい。「、、、わたしは芸術の盾を持って、もっともっと人間としてのぼりつめていきたい。宇宙の果ての果てまで心の高揚にすがりついて生きて生きたいと祈る」(未来はわたしのもの)

2016年の文化勲章受章時には、「草間彌生の生き様を見ていただきたい。私は多くの人々が私の芸術を見てもらうことに全てを賭けています」と挨拶している。また「これから先、自分はどう生活していくかというと、やっぱり自分は死に物狂いで芸術をやって、死んだ後もなおかつ何千年も人々が心を打たれる芸術を作っていきたい」とも語っている。

草間弥生は「一生一度」の考えで、本日92歳を迎えた今も、オリジナルの作品をつくる毎日を過ごしているだろうか。この機会に2017年に東京都新宿区にオープンした「草間彌生美術館」を訪れたい。

 

寺島実郎「世界を知る力」ーーこの10年、復興は進んだのか。中国とどう向き合うか。

寺島実郎「世界を知る力」の6回目。東京MXテレビ

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 ・震災から10年:20世紀初頭の1901年は漱石もみたヴィクトリア女王の死去は「イギリスの世紀」の終りの象徴。21世紀初めの2011年9月11日は「アメリカの世紀」の終りの象徴。21世紀は「アジアの世紀」になる。

GDP。2000年:日本14%・日本を除くアジア7%・アメリカ25%。2010年:日本7%・アジア17%・アメリカ25%。2020年:日本6%・アジア25%・アメリカ26%。2030年予測:日本4%台・アジア32%・アメリカ22%。

・日本の貿易額。2010年アメリカ12.7%・中国20.7%。2020年アメリカ14.7%・中国23.9%・アジア54.2%。20230年予測:アメリ12%・中国26%・アジア61%。

・この10年、復興は本当に進んだか?:人口:岩手・宮城・福島3県の人口は▲32.9万人で6.1%の減、しかも仙台など大都市に集中。経済:2010年から2017年では第一次産業は▲33.9%(全国▲16.9%)。第二次産業(含む建築・土木)は+29%(全国14.7%?)。ハードを中心とした復興予算37兆円(防潮堤400㎞の8割・土地のかさ上げ等)。果たしてその後の新産業は興るか。日本海側を含む東北ブロック全体で2045年までで人口は▲30%。広域東北の構想はまったくみえていない。
・防災力を高める産業構造へ:1995年の阪神淡路地震から2020年までの25年の変化は、コンビニ5.6万件で社会インフラになった、スマホ・携帯が人口の1.5倍になり情報力のベースになった。地震・台風・風水害に対する日本列島の防災力を高めるべきだという教訓を得た。構想力と戦略性がキーワードだ。日本総研は医師会・土木学会と協力し道の駅を防災拠点とするプロジェクトを遂行中(備蓄・トイレ・PCRなどのコンテナ)。

・21世紀、中国と正面からどう向き合うか? 「尖閣問題」。北方領土(ロシア)、竹島(韓国)と違って、武力衝突の可能性がある。尖閣問題は存在しなかったが1968年にエカフェの資源調査で石油の埋蔵の可能性が指摘され、1970年代から中国が関心をもってきた。1978年トウ小平が来日し「棚上げ、後の世代に」と発言。2010年代には領有を主張する台湾も含め魚釣島をめぐる事件が起こった。2018年、中国海務局(海上保安庁にあたる)は軍のラインに位置付けられ準武力組織になった。日本、中国ともに「固有の領土」と主張しているが限界がある。正統性から主張すべきだ。双方の主張を相対化すべきだ。

・日本の主張:沖縄に帰属する。江戸時代には琉球は日中両属だった。ペリーの来航時には5回琉球に立ち寄り外交関係を結んでいる。明治の廃藩置県の延長で1879年に「琉球処分」で沖縄県にした。1895年1月には伊藤博文内閣は無人島の尖閣の領有権を閣議決定した。1896年、古賀家に貸与し、1932年に払い下げた。国際的にみて日本固有の領土(inherent:もともと、生来の)であったのではない。1943年の戦後処理を話し合ったカイロ会談でルーズベルト蒋介石琉球はどうするかと聞き、蒋は信託統治か、中米の共管と答え、アメリカは軍事基地のために施政権を得たが、もともと日本領土だったという認識だった。

・中国の主張:「尖閣は台湾に帰属」しており中国の領土だ。日清戦後の下関条約で仁日本に奪われた。台湾が中国に戻った。明・清時代は中国に帰属していた。(半分は正しいが、半分は違う。台湾は中国帰属ではなかった)。台湾では外省人に対し、「台湾人」としての自覚が高まっている。

・日本の主張の正当性:日本はサンフランシスコ講和条約で戦後世界に登場した。この条約には中国本土も、台湾も参加していない。(国連常任理事異国の台湾は1952年日華条約で追認)。第2条は台湾、ぼうこ諸島は放棄。第3条ではアメリカ合衆国を施政権者とする。これは大西洋憲章ルーズベルトチャーチル)で「領土拡大はやめよう」となった流れをくんで、信託統治で正当化したものだ。1951年、1953年に民政布告。尖閣は沖縄に含まれる。古賀家にはアメリカは使用料を払っている。本来、領有権があって施政権が発生するものだ。1971年の沖縄返還協定でも尖閣は入っていた。しかし、その直前にアメリカは方針転換をし、「あいまい作戦」に転じた。中国にも配慮し、領有権については逃げた。ニクソンキッシンジャー蒋介石の台湾に気をつかい、1971年10月の米中国交回復で毛沢東の中国に気をつかった。1972年3月、福田外相は「アメリカのあいまい、中立に不満」を表明し、意思表示を行った。2020年11月の菅・バイデン会談、2021年2月26日の国防省「領有権には立場はとらない」。事態をややこしくしているのはアメリカだ。

・開講的解決に向けてすべきこと:筋道のたった方策。:1領有権の確認(アメリカと折衝)。2国連理事会への意思表示。3中国・台湾と対話し主張を明確化。4国際司法裁判所への提訴し国際法理の遵守。「世界」5月号に書いた。全体知で考えよう!

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 ファミリー・ヒストリー。母に電話して聞く。みっちゃん。れんくん。

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テレビ:・「青天を衝け」。 上原美術館(下田)。黒木竹子。モネ。埼玉盆栽美術館。ジョルジュ・ビゴー。「稲毛海岸」。

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「名言との対話」3月21日。小林司「「ホームズ物語」全体がドイル(作者)の心情告白である」

小林 司(こばやし つかさ、1929年3月21日 - 2010年9月27日)は、精神科医作家翻訳家

東京大学大学院博士課程修了。医学博士大宅壮一東京マスコミ塾第7期生。上智大学カウンセリング研究所教授を経てメンタル・ヘルス国際情報センター所長。

 小林は熱心なエスペランティストとしても知られており、エスペラントについての入門書、あるいは開発者のザメンホフに関する著作も多く、共著・再刊を入れると100冊を超える著訳著を刊行している。またジークムント・フロイト研究でも有名な人である。

18歳年下の洋子夫人は東山あかねという筆名で、「二人で一人」と語っているように、シャーロック・ホームズ」関連の共著・訳を中心に共著で数十冊刊行している。1977年秋に小林・東山は日本シャーロック・ホームズ・クラブを創設した。

 私はロンドン駐在時に、パブ「ザ・シャーロック・ホームズ」をのぞいた記憶がかすかにある。 ホームズはベイカー街に住んでいたことになっている。夏目漱石はベイカー街の一本西のグロスター・プレイスに住むシェイクスピア研究家W・J・クレイグ教授のもとで個人レッスンを受けていた。そして1901年、ヴィクトリア女王の告別式を目撃している。それはイギリスの世紀の終りの象徴だった。

日本にもシャーロキアンは多い。架空の人物であるのに、全国に関連するものがあるのは珍しい。軽井沢にホームズ像、神戸異人館の英国館、大阪駅前第一ビル地下一階に英国パブ「シャーロック ホームズ」、、、。

まだ30代の頃、NHK「サラリーマンライフ」に出演した時に、小林司にスタジオでお会いしたことがある。当時は上智大学の先生だった。『サラリーマンライフ』は、1976年4月11日から1985年3月30日までNHK教育で放送されたテレビ番組だ。

二人の共著『シャーロック・ホームズ入門百科』(河出文庫)を読んだ。精神科医であった小林司は「「ホームズ物語」全体がドイルの心情告白である」と発表した。以下、ホームズの言葉を拾ってみよう。「精神を集中するコツは、済んだことを忘れることだ」「自分の行動は、法的にみると犯罪かもしれないが、道徳的には正しいのだ」「誰だって失敗するけれども、それを認めて、二度と誤りをくり返さないようにと反省できる人がえらい」「転載とは限りもなく努力する人のことだ(カーライル)」「人間の生存に不可欠ではない余分なものーーたとえばバラの花ーーの美しさを見ると、神があることがわかる。だから、美というもにに人間はもっと希望を抱くべきだ」、、、、、。

 人がある著者や登場人物のファンになるのは、自分が感じていること、考えていることを代弁してくれていると共感するからだ。シャーロック・ホームズの言葉は、小林司の言葉と理解しよう。

 

 

『ドアノー 音楽/パリ』展ーー「とにかくつづけるよう指示してくれたのは、ただ漠然とした予感だけだったのである」。

渋谷bunkamura美術館で開催中の『ドアノー 音楽/パリ』展。

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ロベルト・ドアノーRobert Doisneau, 1912年4月14日 - 1994年4月1日)は、フランスの写真家である。主として報道写真ファッション写真の分野で活躍した。

工芸学校で石版印刷工として後、1934年に結婚。1934年から1939年まではルノーに勤務して工場内の記録写真を担当する。プリントの出来栄えにこだわるなど遅刻が重なり、解雇される。その後フランス軍に入るが、1940年結核を発症して除隊となる。第二次大戦中は自由フランスレジスタンスに参加。1945年から1947年にかけてはフランス共産党に所属し、左翼系の芸術家たちとの交流を持った。

1949年ヴォーグ・フランス誌と契約しファッション写真を手がける。夜はロベール・ジローとともにパリの町中を歩き回って撮影を行った。ピカソや、コクトーボーヴォワール、カラスなど芸術家たちのポートレートも多数手がけた。1984年レジオンドヌール勲章Chevalier の称号を授与された。

写真で生活の糧をえる職業写真家として過ごし、「イメージの釣り人」と呼ばれ、生涯で45万点のフィルム、ネガを残した。

この企画展は、音楽を通奏低音としており、「街角」「歌手」「ビストロ、キャバレー」「ジャズとロマ音楽」「スタジオ」「オペラ」「モーリス・バケ」「1980‐90年代」で構成されている。パリと音楽と人々がテーマのように感じました。

写真家ロベール・ドアノー“パリの音楽”がテーマの展覧会、Bunkamura ザ・ミュージアムで - ファッションプレス

 以下、ドアノーの言葉。

  • パリは時間の浪費がチケット代わりになる劇場だ。
  • 見た人に物語の続きを想像してもらえるような写真が撮りたい。
  • 記録は熟成する。
  • 郵便物のライオンの檻の中やピカソのアトリエに入ることを許されるどんな職業があるだろうか。
  • 危ない橋を渡りながら担い手を集めた写真。
  • 小さな幸せの瞬間を釣り上げる喜び。
  • 幸福であろうと努力すべきだと思う。たとえ一つの手本を示すに過ぎなくても。
  • 私の個人的な気持ちを伝えることができた人たちは、時に地球の裏側からでも手紙をくれた。人生の晩年を迎えた男が受け取ることの出来る最も貴重な褒美といえよう。
  • 特に作品を作ろうとは思っていなかった。私が受けるこの小さな世界の思い出を単純に残したかっただけだ。

以下、自伝『不完全なレンズで 回想と肖像』(月曜社)から。

  • 写真は、時間とともに、本の頁のあいだに挟まった小さな押し花を想いおおkさせるような力を担ってくるのだ。
  • 歩きまわることを好む写真家が自分の芸を成功させるには、偶然出会った人たちの、ぼんやりした寛容さに頼らなければならない。
  • 映像は不毛ではない。発酵しつづけている。
  • 頭の中を空っぽにして、道ばたで摘んだ野生の果実をため込めるような状態にすることだ。
  • とにかくつづけるよう指示してくれたのは、ただ漠然とした予感だけだったのである。
不完全なレンズで―回想と肖像

不完全なレンズで―回想と肖像

 

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「名言との対話」3月20日安野光雅「私は薬で命をながらえることより、絵を描いて命を充実させることをおすすめしている」

安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 2020年12月24日)は、日本の画家装幀家絵本作家。

本日の22時から30分でテレビ東京で「新・美の巨人」をやっていた。誕生日の日の追悼特集なのだろう。ライフワーク「天使の旅」の9巻の物語。小舟で出てゆく旅人。名画の世界。ゴッホ、ミレー、、。独特の構図。遠近感のない平等な描き方。「天使たちの視線」、人々をみる角度。本城直季(写真家)。日本のとこりでは東日本大震災で残った一本杉も入っている。「数学」。小学校の絵の教師時代には、数学者の藤原正彦が習っている。編集者の松田哲夫もそうだ。森毅との対談風景。「自分の目で観て考える」。福音館書店から「なぞなぞ」という遺作も出版されている。

安野は工業高校を出たあと、小学校の教員をしてあと、23才で上京し、三鷹市武蔵野市で小学校教員をしながら勉強し、35才で画家として独立する。42才で「ふしぎなえ」(福音館書店)で絵本作家としてデビューする。安野の絵は、島根県の津和野出身であることが影響しているという説が多い。「絵を志すようになったスタートラインは津和野だったと言うほかありません。」と本人もそのことを半ば認めてもいる。

代表作には「ふしぎなえ」、「ABCの本」、「天動説の絵本」、「旅の絵本」、「繪本 平家物語」、「繪本 三國志」や司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」の挿画などがある。

また多くの業績に対し、ブルックリン美術館賞(アメリカ)、ケイト・グリナウェイ賞特別賞(イギリス)、BIBゴールデンアップル賞(チェコスロバキア)、国際アンデルセン賞画家賞、紫綬褒章、第56回菊池寛賞など国内外の数々の賞を受賞。文化功労者

安野光雅美術館は2001年3月20日、津和野町名誉町民の安野光雅の75歳の誕生日に、故郷津和野市の駅前にが開館にオープンした。収蔵される作品は4000点を超える。2017年6月23日に京都府京丹後市安藤忠雄設計の「和久傳ノ森 森の中の家 安野光雅館」が開館した。

私は安野光雅の企画展には何度も足を運んでいる。この画家の絵は、原風景をおだやかに淡い色遣いで描いていて観る人の心を和ませてくれる。。ファンが多いのはよく理解できる。日本では笛吹川小景、富士川身延山大菩薩峠桂川、山村初秋、笛吹川錦秋、笛吹川錦秋、笛吹川晩秋、、。イタリアの風景では、トスカーナの小さな村、バルベリーニ広場、ヴェネツイア、フィレンツエへの道、ローマ、、。

『絵本 歌の旅』『絵のある人生』『絵の教室』などの本を読んでいるが、エッセイも素晴らしくうまい。自然やものをみる目がいい。『絵本 歌の旅』では、早春賦、朧月夜、荒城の月、牧場の朝、からたちの花、城ヶ島の雨、琵琶湖周航の歌、山小屋の灯、あかとんぼ、椰子の実、たき火、ふじの山、仰げば尊し、ふるさとなど実に懐かしい童謡、唱歌を題材に、ほのぼのとしたエッセイが並んでいる。
「大人になってふりかえれば、その歌詞の意味を読み取ろうとするが、缶を開けて出てくる歌は、軍歌だろうと、恋歌だろうと、歌詞の意味はあまり問わない。」

「ただでくれるといわれたら、どれにする?」というふうに自分に問いかけてみると、自分なりの目が出来てくるのだそうだ。私の知り合いが、美術館では「自分の家にどれを飾ろうか」と考えて見るといいと教えてくれたが、同じような鑑賞の方法である。

『絵の教室』という新書の「はじめに」の冒頭には、「自分で考える」という文章がある。どのような分野でもとにかく「受け売りでなかったらいい」ということを言っているのは共感を覚える。そして「「絵が好き」という感性は、好奇心、注意力、想像力、そして創造力になり、枝分かれして物理学、生物学、医学というぐあいに変化しているのではなかろうか」「絵というものは、どうもイマジネーションというノウハウのない世界に力点がかかっているのではないかと思えてきたのです」。この本にゴッホのことがでてくる。日本の浮世絵には線がある。縁取りなどの線がある。でもフランスの絵には線がないと、日本の絵に驚いている。私自身、美術館を訪問する機会が増えているが、日本は線で描くのに対し、西洋画は面で描くという言い方をよく聞くが、こちらから見ると未熟な手法だという自虐的な説が多いのだが、相手から見ると優れた手法に見えるということなのだ。

「絵を描くとき、自分の意志というより、頭の中に誰かがいて、わたしの感性を左右するらしく、、、」。「創造性は、想像すること、つまりイマジネーションからはじまります。そしてそれは疑う力とセットになっている」と安野光雅は言う。そういう創造力は、子ども時代の豊かな時代にあったと深く思うようになった安野は、そういった日本の美しい自然を描く、残すことを使命と考えているように感じていたのだ。

『絵のある自伝』から。「その旧跡を訪ぬれば、むかしの時間も帰ってくると考えられぬ、、、、、そこにたてばなにほどかの感慨はわき起こるのである。、、地霊というものがあって、それが私に灌漑や情景をもたらすのだ、、、」「ほとんどの人物は差引ゼロという感じになっている」。

安野光雅「絵本 平家物語」。「平家物語」そのものは読んでいないので、今回は安野の絵とまとめの文章とで全体がつかめた。平家が昇殿を許された天承元年(1131年)から「平家にあらずば人にあらず」と言われたその清盛の栄華の極みを少し描いた後、平氏の悪逆非道な振る舞いと、源氏の勃興、そして那須平氏の滅亡までが、巧みな文章と素晴らしい絵画で綴られている。改めて、この物語は大叙事詩であると感じた。 講談社学術文庫平家物語」(全12巻・杉本圭三郎訳注)を中心に、絵画化した場面に沿って安野が文章を書きおろしたものだ。選んだ79場面と、それを含む143の文が原点に沿って配列されている。

安野は旧跡を訪ね、昔の時間を探す。その場所に立てばなにほどかの感慨が湧きおこる。地霊が感慨や情景をもたらしてくれると言っている。「絵本」という表現手段は、物語の主要なシーンのイメージを描いてくれているので、文章と相俟って真に迫ってくる。日本の古典にとどまらず、世界に目を向けて、古典を絵本という方法で再解釈しようとした画家である。戦い、俊寛僧都の鬼界が島への島流し巴御前那須与一義経の活躍と死、、、。

私は薬で命をながらえることより、絵を描いて命を充実させることをおすすめしている」との人生観があり、「私は絵を描きながら死にたい。描きながら死にたい」といってそのとおりに亡くなったセザンヌを思い出した。安野光雅のこの考え方には共感を覚える。

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 『絵本 歌の旅』『絵のある人生』『絵の教室』『絵本 平家物語』

 

 

 

 
 

3月は「積ん読」、4月は「精読」。

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4月分の本が届いている。まだ数冊あるでしょうが、3月中は少しづつ手に取ってみましょう。読まねばならないという意味での宿題というより、楽しみという意識の方が強いように思います。新しい世界を知ることは何ものにも代えがたいところがあります。4月からは、一日一冊の精読のプロセスに入ります。

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少しづつ読んでいる田原真人『出現する参加型社会』を読み終えました。後ほど感想を書くつもりですが、「未来叢書」シリーズにふさわしい未来を切りひらく名著です。

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「名言との対話」3月19日。伊吹和子「作家にとって最高傑作を書き上げたときが最大の危機なのである」

伊吹 和子(いぶき かずこ、1929年3月19日2015年12月16日)は、日本の編集者エッセイスト

京都市呉服屋に生まれる。女学校卒業後、京都大学国文学研究室に嘱託として勤務した後、1953年の24歳の時、当時66歳の谷崎潤一郎と会い、旧仮名遣いの書ける筆記者として「潤一郎新譚源氏物語」の原稿の口述筆記者となる。谷崎は、右手を痛めて自筆では書けなくなったために、「潤一郎新譯源氏物語」以降の作品制作は、ことごとく口述となった。「明日から来なくてよござんす」と何度も突然クビを言い渡されながら、谷崎から仲直りのお使いを頼まれれて復帰することが多かった。まさに谷崎の右腕として励んだ人だ。

「谷崎源氏」の仕事が終わったあとは、中央公論社の谷崎担当の編集者として引き続き口述筆記に従事し、「瘋癲老人日記」や「夢の浮橋」など、晩年の傑作の誕生の現場に親しく立ち会う。1959年からは中央公論に勤務し、谷崎の助手を続け1961年からは川端康成担当編集者となり、以降多くの作家の担当となる。1984年の定年退職後、谷崎との思い出を連載、『われよりほかに  谷崎潤一郎 最期の十二年』として1994年上梓、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

今回、『めぐり逢った作家たち』(平凡社、2009年)を読んだ。谷崎潤一郎の他には、川端康成井上靖司馬遼太郎有吉佐和子水上勉を回想したエッセイである。

谷崎は96ページで、他の作家は5人で212ページだから、2倍以上の分量だ。「あとがき」で述べているようにたしかにバランスは悪いが、谷崎との関わりは特別だったのだのだ。「谷崎源氏の真実」というタイトルで、この代表作ができあがる経緯と「禁忌三ヶ条」の真実について克明に研究的に記している。

与謝野晶子『新訳源氏物語』は概略を追った縮訳の全集であり、谷崎源氏は全訳である。「旧訳」「新訳」「新々訳」の三度の仕事の流れがわかる。1939年から1941年にかけて訳した「旧訳」が「山田孝雄校閲 谷崎潤一郎訳」となっている経緯は興味深い。山田博士国語学の泰斗であり、谷崎源氏は「昭和源氏」となると見抜いている。谷崎は3度原稿をつくっている。「源氏物語」は軍国主義の時代には「不敬の文学」と呼ばれた。臣下が皇后と密通、密通によって生まれた子が天皇になっている、臣下たるものが太政大臣に準ずる地位にのぼっている。これらの部分は検閲をおそれて自ら削除している。その経緯を追った研究記録でもある。

正宗白鳥は1933年にアーサー・ウェイリーの『源氏物語』の英訳を絶賛し、谷崎の小説を酷評している。絶賛された『春琴抄』の後に書いた作品を「大才谷崎潤一郎にしても、なほ多作の幣を免れないのではあるまいか」と指摘し、「同じことを同じ程度の技巧で書くのなら、芸術としては無用な所業である」と知れ切している。それを読んだ谷崎の反発が原動力となって源氏へつながっていく。伊吹和子はこの本で「作家にとって最高傑作を書き上げたときが最大の危機なのである」と記している。谷崎はスランプを乗り切るために、新作を考えるより楽な源氏に取り組んだのだ。そして一日に4、5枚の遅いペースで2年で書き上げている。

伊吹によれば、谷崎は光源氏には生理的な嫌悪感を持っていた。谷崎自身は「源氏」については「それほどの傑作と思いませんがね」と答えている。谷崎が「先生」という敬称を使ったのは鴎外、荷風山田博士、小学校時代の稲葉恩師だけだった。

山田博士は「私が監修したのですから、誤訳というようなものはありません」と断定している。この姿に著書は深い印象を持ったが、私も感銘を受けた。

『めぐり逢った作家たち』では、他の作家も谷崎との比べながら書いている。全員が文化勲章の受賞者であり、そうそうたる大作家たちから可愛がられたことがわかる。難物の谷崎の秘書がつとまったのだから、ということで、著名作家の担当をあてがわれたのだろうが、それは正しかったようである。

伊吹和子は編集者という仕事の持つ醍醐味を満喫したのだろう。人間観察としてはこれほど面白い職業ないだろう。作家という職業人については、秘書や家族、特に妻などの観察が非常に面白い。そういう例は、山本周五郎新田次郎などいくつかあげることができる。その嚆矢が伊吹の谷崎潤一郎だろう。

傑作とスランプという波の循環の連続の中で、その危機を乗り切るという意味での仕事の選び方について谷崎潤一郎のとった方法は見事だと思う。その機微を谷崎の不世出の秘書である伊吹和子が書き残してくれていることに感謝したい。早速『われよりほかに  谷崎潤一郎 最期の十二年』を読むことにしたい。 

 

「与謝蕪村「ぎこちない」を芸術にした画家」展ーー「 二刀流」、「独学」、「遅咲き」、「ヘタウマ」。

ユニークな企画で話題の府中市美術館で開催中の「与謝蕪村「ぎこちない」を芸術にした画家」展。企画展をみてきました。

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18世紀に京で池大雅(蕪村「平安之一奇物、をしき事に候」)、伊藤若冲、丸山応挙(17歳年下。筆濯ぐ応挙が鉢に氷かな)らと絵の才能を競った画家であり、一方で芭蕉も流れをひく俳人としても傑出した、二刀流の人物だった。山水画、人物画、そして俳画まで傑作を残している。その背景として中国の古典や歴史にも深い造詣を持っていたインテリでもあった。

この企画展は蕪村の「ぎこちなさ」という面に焦点をあてて、力強さ、揺らめきに着目した珍しい展覧会だ。

享保元年(17176)大坂生まれ。20歳頃に江戸で俳諧の「夜半亭」に入門。絵は独学で描いていた。27歳、北関東に移り松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を訪ねる。36歳、京へ。39歳から郷里の丹後国与謝村で暮らす。「夏河を越すうれしさよ手に草履」。

42歳、京へのぼり、絵画や俳諧の世界で長い年月を過ごし、途中2年間讃岐で過ごし、天明3年(1783)68歳で亡くなった。この間、48歳では「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」と詠み、55歳で夜半亭二世として俳諧宗匠となり、生涯で2800余の句をつくった。また人気画家としても活躍している。遅咲きの画家である。絵画では教養と感性を備えた文人の絵画である文人画の系統である。また50代の中ごろからは俳画で「蕪村スタイル」と呼ばれる傑出した作品をかいている。蕪村は洛北の金福寺の「芭蕉案」を再考するなど、「蕉風」の復興にも尽力しており、62歳から3年かけて「奥の細道」をテーマとした作品を手がけている。

蕪村の絵画の特徴をこの企画展は、「ヘタウマ」というわざと稚拙に描く破壊的な面白さに着目しており、その観点からくどいくらいに説明している。

以下、俳画の記された俳句をあげる。

「又平に逢ふや御室の花さかり」「花すすきひと夜はなひけむさし坊」「居直りて孤雲に対すかはすかな」「うくひすや日あたる夜に来たはかり」「涼しさに麦を月夜の瓜兵衛哉」「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日のたりのたりかな」「池と川とひとつになりぬ春の雨」「岩くらの狂女恋せよほととぎす」「古御所や虫の飛びつく金屏風」

蕪村の絵画のキーワードは、「 二刀流」、「独学」、「遅咲き」、「ヘタウマ」と記憶しよう。

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朝は立川。

夜は橘川、仁上、亀田らとZOOMミーティング。

BSテレビで、探検家アムンゼンの番組と、金星探査船あかつきの番組をみる。アムンゼンのスコットとの南極一番乗りの物語は小学生時代以来だ。二つの番組は局地探検と宇宙探検という探検の番組だった。

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「名言との対話」3月18日。宮川泰「その言葉を、もっときれいに、皆が感じてくれる様なメロディーを作らなければならない」

宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日 - 2006年3月21日)は、日本作曲家編曲家ピアニストタレント。

北海道の留萌市生まれ。土木技術者だった父親の都合で転校をくり返した少年時代には、母親の影響で孤独感をオルガンで埋め合わせ、音楽で自らを表現する喜びに目覚めていく。はじめは絵描きを目指して京都の美術学校に進んだ。キャバレーでピアノ演奏のアルバイトをしている時、大阪学芸大学のピアノ科の教授に勧められ入学、本格的に音楽を勉強する。

中途退学しプロを目指して上京し、渡辺プロの「渡辺晋とシックスジョーズ」にピアニストとして加わる。ザ・ピーナッツと出会い、「ふりむかないで」「恋のバカンス」を作曲し次々と作曲しヒットさせた。作曲にとどまらず、アレンジャー、番組のテーマソング、CM、映画音楽、番組の音楽総指揮、リサイタルの監督など活動は多岐に及んだ。

ジャズの感覚を生かした軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される音楽は、時間の短いTV番組のオープニングに重用され、「昼のプレゼント」「バラエティ笑百科」には、軽快なテンポとリズのオープニング曲を提供した。『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ズームイン!!朝!』、『午後は○○おもいッきりテレビ』、『ズームイン!!SUPER』などテレビ音楽にも多数の作品を提供している。

生来の目立ちたがり屋で笑いが好きな性格から、積極的にテレビ番組に出演して人気を集めた。音楽の楽しさを多くの人に伝えた生涯だった。主旋律をかく作曲は700曲、楽器構成や譜面を制作する編曲(アレンジ)は1万曲以上だった。「銀色の道」「若いってすばらしい」「宇宙戦艦ヤマト」「JRA競馬のファンファーレ」など、日本の音楽史に残る多くの名曲を残す、日本ポップス界の開拓者である。

1963年に「恋のバカンス」で第5回日本レコード大賞編曲賞受賞。1964年にピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」で第6回日本レコード大賞作曲賞受賞。1969年伊東ゆかり「青空のゆくえ」で合歓ポピュラーフェスティバル'69作曲グランプリ受賞。1971年沢田研二「君をのせて」で合歓ポピュラーフェスティバル'71川上賞受賞。

「名匠宮川組」のメンバーらと共に全国で演奏会を行っており、大阪芸術大学音楽学科の教授も務めていた。自身の通夜では「ウナ・セラ・ディ東京」、告別式では『宇宙戦艦ヤマト』の曲が演奏された。この二つが代表作なのだろう。

NHK あの人に会いたい」をみると、インタビュー時にも笑いが絶えない。旺盛なサービス精神で、周りには笑顔が絶えなかった人だ。「 音楽はとにかく楽しまなくては。これは歌謡曲 これは民謡 これはクラシックと分けない・音楽はすべて楽しいものである」と語っていた。

作詞家の言葉がさらに生きるようにメロディーをつくるのが作曲だ。作曲家がつくったメロディーを他さまざまな楽器を用いて、より高いレベルの音楽にまでつくり込んでいくのが編曲(アレンジャー)である。優れた編曲家の存在なしには、名曲は生まれない。その先駆者であり、名人が宮川奏だった。

 

 

 

 

 

図解塾の課外授業「続ける技術」第4回は「名言との対話」。

2016年1月1日から始めて、6月で2000日を迎える「名言との対話」がテーマです。2016年「命日編」、2017年「誕生日編」、2018年「平成命日編」、2019年「平成命日編2」、2020年「戦後命日編」、2021年「大正から昭和へ編(誕生日)。

職業別の名言に加えて、ノーベル賞受賞者、オリンピック金メダリスト、文化勲章受章者の名言なども紹介しました。

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以下、用意したレジメ。

  • 「名言との対話」の「命日」。2017年「誕生日」。2018年「平成命日」。2019年「平成命日2」。2020年「戦後」。2021年「大正から昭和へ」(父母)。
  • 〇なぜやっているのか? 2012年に学部長。2015年に副学長。挨拶が多い。
  • 〇何を書いているのか? 名言。生涯の概略。事績。言葉。解釈と感慨。人生の教科書。その人らしい言葉。私に響いた言葉。
  • 〇どのようにして書いているのか?人選:命日DB。人がいない? 月日が違う。うるう年。本の注文:アマゾン。古本。月20-25冊。読書:黄色マーカー。線読み。折る。赤で印。夜:少し書く(呼び水。機械的なもの)。材料を並べる)。睡眠中(アイデア)。翌朝:5時からブログと合わせて1.5時間(きれいな頭で人物に取り組む)。グーグル:生年月日・没年月日データベース。NHKアーカイブ(映像。あの人)。ユーチューブ動画。追悼文。、、、個人DBに成長。その人らしい名言。中心。自分の性格に合った言葉。自分を励ます言葉。自分との関係。久恒の思想。自分史。時代観。ポッドキャスト「偉人の名言」「ビジネスに活かす偉人の名言」。YAMI大のおしゃべり放送大学
  • 〇なぜ続けることができるのか?必死。一日一人。楽しみ(誰と出会えるか)。修行。新しいテーマ。反応。1年。10年。

以下、参加者の感想。

  • 図解塾課外授業、名言との対話。日記や人物記念館とともに、どうして続けられるのだろうと思っていた名言との対話。書籍と向き合い、自分自身でまとめあげて、一日一冊、一人ずつ出会い、教養の幅が広がっていく。今回は対話式の授業で、いくつかあった名言の中から受講者はどれが気になったかを協議しながら進んでいきました。そして、「選んだ名言でその人の性格がわかる」、という話には一本取られた!、という思いがしました。成長の角度と仕事の取り組み方。私にはこのあたりが響いたように思いました。今夜もありがとうございました。
  • 今日もありがとうございました。「名言との対話」はいつも読ませていただいてますが、続けるための知恵をたくさんいただきました。また、膨大な蓄積の中から職業とか、ノーベル賞受賞などの共通項で紹介していただいて、お腹一杯になりました。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。名言のシャワーを浴びて、①「人とのつながり」②「継続」③「好奇心」こういう事柄は大事だと素直に吞み込めた一方で、④「悩まず絞る、決断する」が今の自分の課題と痛感した次第です(「日本文化」、調べるほどに枝葉が広がり収拾難)。次回も宜しくお願いいい致します。
  • 1年数か月前から自分も名言を毎日投稿していましたが、最初は名言だけで注釈も何もつけず、しかも「偉人の〇〇366名言集」からしばしば引用したりしていました。しかし、半年くらい前から[Inspiring Words Today] として偉人の名言に限定せず、その代わり自分がなぜその言葉を挙げたか、ということをなるべく書くようになりました。その日になってあわてて探すのではなく、前もって選んでおくなどいろいろ工夫して、自分なりに続けていきたいと思います。
  • 今日もありがとうございました。毎日一人名言をブログにあげる。課題にされて、継続されていることに、改めて圧倒されています。楽しんでされていることが良いですね。自分の心に響いた言葉、選ぶ言葉から、性格がわかる。腑に落ちる言葉を、好きで良いということですね。たくさんの言葉を浴びて、頭ではなく、今日は心に響く講義でした。ありがとうございました。また来週もよろしくお願いいたします。本日の名言についてのお話しは各人の考え方が判り、面白かったです。自分の心に響く名言が増える事を今後の人生の楽しみの一つと致します。
  • 豊かな気持ちで帰宅致しました。心から御礼申し上げます。いつもながら先生の「名言との対話」から触発されること大なるものがあります。いつも「名言は一日にして成らず」ということを感ずるのは、それぞれ名言を発する人々がたどり着いたり、逢着したり、到達したりして滲み出るその人の境地を知らしめてくださるからです。これからも毎回楽しみに致します。

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高野課長と懇談。

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「名言との対話」3月17日。船越英二「僕っていう男はたった一人の女性すら幸せにしてやることもできないダメな男なんだ」

船越 英二(ふなこし えいじ、1923年大正12年〉3月17日 - 2007年平成19年〉3月17日)は、日本俳優

東京都生まれ。1941年昭和16年)には専修大学経済学部に入学し1944年昭和19年)に学徒出陣で繰り上げ卒業する。陸軍の見習士官として敗戦を迎えた。

1947年、大映ニューフェース2期生となり、映画『第二の抱擁』でヒロインの相手役に抜擢されデビュー。『野火』で主演をした際には、極限状況における敗残兵を演じきり、「キネマ旬報男優賞」「毎日映画コンクール男優主演賞」を受賞。『安宅家の人々』『破戒』『私は二歳』など、約200本の映画に出演した。

コメディから社会派まで幅広くこなし「からっ風野郎」「黒い十人の女」「破戒」「私は二歳」「黒の試走車」「女の一生」「盲獣」など約200本の映画に出演した。大映倒産後はテレビを中心に活躍した。

1989年に紫綬褒章、1995年に勲四等旭日小綬章を受章した。NHKでは、大河ドラマ『信長』、連続テレビ小説雲のじゅうたん』ほかに出演している。

生没同日であった。誕生日に亡くなったという珍しい人だ。享年84。私の知っている限りでは、60歳の還暦を迎えたその日に亡くなった映画監督の小津安二郎、92歳の誕生日に亡くなった沖縄県知事であった太田昌秀などが思い浮かぶ。

船越英二は、大正12年生まれで、 私の父と同じ学徒出陣組だ。戦力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させた。テレビで雨の神宮での学徒出陣の壮行会の映像をみるたびに、妻となった母がその姿をさがす短歌がある。それをさがしてみよう。

 長男は俳優の船越英一郎1960年生)は、俳優司会者としても大活躍している。英二は離婚歴があり、子連れで年上の女優の松居一代との英一郎の結婚には猛反対した。紹介しようと面会に来た時には、日本刀を抜いて思いとどまらせようとしたそうだ。そして夫婦そろっても結婚式に参列しなかった。息子夫婦は2006年には芸能界きってのおしどり夫婦としてパートナー・オブ・ザ・イヤーを受賞したが、世間を騒がせた騒動を経て2017年には調停離婚が成立している。

船越英二には、テレビでは「時間ですよ」、「熱中時代」の校長先生、「暴れん坊将軍」の孫兵衛役などで渋い演技をみせてもらった。最近、土曜日で毎週放映されているの「男はつらいよ」をみることがある。第15作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」では、寅さんが青森で知り合った冴えない中年男・兵頭謙次郎役で出ていた。リリー(浅丘ルリ子)も加えた3人の旅は幸福感にあふれていた。

「僕っていう男はたった一人の女性すら幸せにしてやることもできないダメな男なんだ」は、船越本人の言葉ではない。この寅さんの番組の中での台詞だ。若い頃は「和製マルチェロ・マストロヤンニ」と呼ばれた二枚目だった船越英二は、年相応の演技ができる実力俳優だった。