多摩美術大学美術館「タマビ DNA 現代日本画の系譜」展。

松山英樹、マスターズ制覇! 4日間のプレーで1打差という厳しいスポーツがゴルフ。

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多摩美術大学美術館「タマビ DNA 現代日本画の系譜」をみてきました。

親友でライバルの関係にあった加山又造と横山操が「多摩美」の伝統をつくったことがわかりました。

加山又造。1927年生まれ。77歳で没。7000点の索引と資料。30年に一人でればいいという考え方。「倣北宋墨山水雪風景」、「雪月花」、「猫」。カメラ。日本画家版画家。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。文化勲章。米谷、中野がでただけでよい。

横山操。「闇迫る」1920年大正9年)1月25日 - 1973年昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。横山の作品は石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。57歳で没。育てる人。

個人、個の力が多摩美大の伝統。二人は意見は違うが尊敬しあっていた。二人のアーカイブあり。

奥村土牛。米谷清和「横山先生からアルバイトをやめよと諭された」。堀文子。1918-2019、在任は1970-1999年。人の絵をみるが自分のは見せない人。「冬野の詩」。中野嘉之「粛粛」。平松礼二「ノルマンディエトルタ」。

加山又造については下記の本を買ったので別途取り上げたい。

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 長池公園の新緑。1万2千歩。

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夜はデメケンのミーティング

知研の福島さんと電話。母とも電話。

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「名言との対話」4月12日、荒巻義雄

荒巻 義雄(あらまき よしお、1933年4月12日 -)は、日本小説家SF作家推理作家評論家

紺碧の艦隊』の大ヒットで、いわゆる架空戦記小説の世界を代表する小説家として広く知られている。また、札幌時計台ギャラリーのオーナーもつとめている。静修女子大学(現・札幌国際大学)教授も務めた。 日本文芸家協会会員。日本SF作家クラブ会員。現代俳句協会会員(旭太郎名義)。

北海道生まれ。早稲田大学文学部で心理学を学ぶ。卒業後、家業の建築業を手伝うために北海学園大学土木学科に入学する。1970年、評論「術の小説論」ち短編「大いなる正午」を発表しデビューする。その後、 硬質な幻想SFを次々と発表。一方で、伝奇SF「空白」シリーズ、「キンメリヤ七つの秘宝」シリーズ、大河SF「ビッグ・ウォーズ」シリーズ、「要塞」シリーズ、「艦隊」シリーズなどのシミュレーション小説をなどを精力的に発表した。作品リストを眺めると、まさに怒涛の仕事量だ。シミュレーション小説の創始者である。

日本SF作家クラブ編『日本SF短編50 Ⅰ 1963-1972』(「ハヤカワ文庫)を手にした。日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジーで11人の作家の作品が入っている。巻頭言は宮城大で同僚だった、日本SF作家クラブ第16代会長の瀬名秀明さんが書いている。創設者の一人である小松左京は「SFは未来を想像し、未来を描く。その想像は読者の夢やヴィジョンとなり、実際に未来を創造する力となる」との信念を持っていたそうだ。クラブが発足した1963年から2012年までの50年を、50の短編で振り返ろうとした意欲的シリーズの第1巻で、1970年に荒巻義雄の「大いなる正午」という作品が入っている。
『大いなる正午』は、奔流のような想像力で未知の世界に扉をひらく傑作だ。「大宇宙は輪廻する!」「永劫回帰する時の大流転」「大宇宙的階級制度」「高次元土木技術」「高次元泥」「時間を空間化して考える」「時空素子」「脈動宇宙の収縮」「多元宇宙」「複雑な時層帯」「宇宙的土木技術」、、。ベルグソンアインシュタインライプニッツスピノザニーチェなどの名前も登場する。「大いなる正午とは、収縮の極より膨張の極へ到る宇宙進化の、ちょうど中心に当る時なのだ」。宇宙の分岐点を描いた作品である。

荒巻義雄公式WEBサイトの「近況報告」によれば、今もなお続々と作品を発表し続けていることがわかる。未発表、単行本未収録の作品もアーカイブされている。2014年より、『荒巻義雄メタSF全集』(全7巻・補巻)を刊行。今までに刊行した単行本は、181冊にのぼる。それも文庫は含んでいないというから、その創作のエネルギーには驚くほかはない。

そして「今後、ますます、読書人口の低下が顕著になり、出版社任せだった従来のあり方が劇的に変わるかもしれません。こうした情況下で、作家はどうすればいいか。自費出版も一つのモデルですが、クラウドファンディングという、本の文化を守りたい有志のかたがたから資金を集めて出版する方法もあることを知りました。私としては、ぜひ、成功させ、この方法を広く普及させたいと考えているのです」とクラウドファンディング「CAMPFIRE」で挑戦し、50万円の目標に対し、33人から60万円以上を集め成功している。荒巻義雄は本日で88歳。1970年のデビュー以来、半世紀を越えて、快走中である。

日本SF短篇50 I (日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジー)

 

隆慶一郎『時代小説の愉しみ』(講談社)ーー書く愉しみは、読む愉しみでもある。

古本市で買った隆慶一郎時代小説の愉しみ』(講談社)。

隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年大正12年〉9月30日 - 1989年平成元年〉11月4日)。影武者徳川家康』(1989年、新潮社)、『柳生刺客状』(1990年、講談社)をずいぶん前に読んで興奮した記憶がある。司馬遼太郎が「ライバルがあらわれた」と言ったという説もある。非農業民という一種の自由人の眼で歴史を眺め、その様相を書こうとした作家である。

時代小説の愉しみ (講談社文庫)

以下、拾い読みから。書く愉しみは、読む愉しみでもある。

時代小説の愉しみ、少なくとも書き手にとっての愉しみは、この古本屋での眩暈にに似ている。些細な史実にこめられた感動、さりげない言葉に秘められた目くるめくような美しさ。

・「死人の方が、生きている人間より確かだからでしょうね」。「死者たちの決然とした風貌の見事さはどうだ」「志を立て、それに殉じた。その誇りだけが烈々と私たちに訴えかけて来る」

・あの賞(ノーベル賞のこと)は、人生が間違いじゃなかったよと、仏様の光明のように、遠くからやって来た。(福井謙一の妻)

「あとがき」には、「私自身も含めて、小説家は不勉強だったとつくづく思う。歴史家に負けていてたまるか、と密かに敵愾心を燃やしているのである」とある。そのあとがきには、「平成元年7月20日東京医大病院にて 隆慶一郎」と書いている。それから3か月たたずに亡くなっているから、その志は完遂はできなかった。

もともとはテレビ、映画のシナリオライター池田一朗)であり、本格的に時代小説を書き始めて、直木賞候補になった『吉原御免状』を書いた1986年からわずか数年しか、作家生活はなかった。この人に時間があったら、日本史を書き換えたかもしれないと思うと残念だ。

1996年新潮社で『隆慶一郎全集』全6巻が刊行された。2009年9月より2010年7月にかけ同社で、新版『隆慶一郎全集』全19巻が刊行された。

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朝5時から12時まで、来週の準備のためのひと仕事。

図解塾・課外授業。大学院講義準備。ファミリーヒストリーの質問作成。6月刊行のP社の原稿の初校の著者校正。

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「名言との対話」4月11日。すぎやまこういち『無冠の帝王』っていう負け惜しみ的な自称を返上できる」

すぎやま こういち(本名:椙山 浩一(読みは同じ)、1931年4月11日 - )は、日本作曲家編曲家指揮者

東京生まれ。武蔵中学校青島幸男と知り合い生涯の親友となる。成蹊高校では音楽漬けに日々をおくる。音楽大学への進学を希望していたが、ピアノが弾けなかったことから断念し、東大に進学する。文化放送に入社、1958年開局準備中のフジテレビに移籍する。

ディレクターとして、「ザ・ヒットパレード」を企画。1960年代からはCM作曲家としても活動。1965年、退社しフリーとなる。1968年から作曲活動に専念し、ザ・タイガーズやザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。1970年代には特撮音楽、アニメ音楽、そしれ1980年代にはゲーム音楽を手がけ、「ドラゴンクエスト」などゲーム音楽の作曲家として活動する。2004年、SUGIレーベルを設立。2020年、文化功労者

B面の王者を自称している。ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、ザ・タイガーズ「花の首飾り」「君だけに愛を」など大半の曲、ヴィレッジ・シンガーズ亜麻色の髪の乙女」、ガロ「学生街の喫茶店」、、。また、CMソングは2000曲以上にのぼる。政治家の民主党松原仁自民党稲田朋美らの応援曲にも手を染めている。

以下、語録から。

 「音楽は、常に論理と感性、車の両輪で出来る」「曲のコンセプトを考えるとき、これはやはり論理が主」「プロの音楽家を目指すなら音楽理論と感受性が必要」「曲のメロディはもちろん大事ですが、大きな構造で考えるとスコアは設計図みたいなもの」

「最終的な完成形を頭の中でイメージしないで闇雲にキーボードを叩いても良い作品は生まれない」「若い時から優れた作品に触れることが重要」「音楽を創る上で一番大切な感受性は習って身につくものではない」苦労しないでフッと浮かんだ曲が結果的にいい曲になる

ゲームファンでもある。「煮詰まったらドラクエやる」「ゲームも人生も、逃げたら経験値は上がりません」「ゲームと違って、人生には決まった攻略法はありません」「DQドラゴンクエスト)のスライムは可愛いんだよね。これで僕の基本的な音楽の方向性も決まったなぁという感じ」

「曲作りの勉強は独学です」「楽家は勉強が好きじゃないと務まらない仕事」「芸術家になるためには、まず自分の目や耳でよいものを感じて選びとる「審美眼」が大切」「子どもの時から音楽が好きでしたので、音楽学校に行くことも考えましたが、音大の入試にパスするほどピアノが弾けませんでした(最終学歴:東京大学教育学部教育心理学科)」

「音楽は心のタイムマシーン。、、、音楽を聴くことによって、その音楽に初めて触れたとき、音楽で何かを感じたとき、そのときの気持ちに、それが10年前であろうと20年前であろうと一瞬にしてパーンとその人をその時の気持や情景に送り込むことができる」

ユーチューブで2016年の交響組曲ドラゴンクエストⅣ」導かれし者たち コンサート」の東京交響曲を指揮し、聴衆に語る元気な声を聴いた。2018年の「ドラゴンクエストⅣ」のテーマ音楽の指揮をする姿をみた。すぎやまこういちのつくるゲーム音楽はオーケストラの演奏という本格的なものだ。

「ベートーベン、モーツアルトなどのクラシック音楽を全人類が200年以上聴いていてもまだ飽きないというのは、飽きない音楽の真髄」とし、「(ゲーム音楽は)何回聴いても飽きない曲でないといけない」とのめり込んだようだ。

ゲーム音楽、アニメ音楽、映画音楽、テレビ番組の主題歌と素晴らしい業績であったが、不思議なことに賞には恵まれてはいない。2020年に文化功労者となったとき、「『無冠の帝王』っていう負け惜しみ的な自称を返上できる」と笑いつつ喜びを語った。「命ある限り音楽家としてやっていきたい」というように、最高齢ゲーム音楽製作者のギネス記録を更新中である。

 

「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展ーー忘れられた花鳥画の大家の出現という事件

上野の東京芸大美術館で「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展。これほどの画家が忘れられていたのは驚きでした。本人は文展などには出展せずに、注文に応じた作品を描いていたことが、その原因でした。

渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画-

1852年生。1866年、 16歳で歴史画家の菊池容斎(1788-1878年)に入門。3年間の修行時代は文字を書く練習のみで、「自然をよく観察し記憶し写生せよ」といわれた。

起立工商会社に入り輸出工芸品の下図、図案制作に従事。1787年のパリ万博でパリに。美術商の林忠正に先導されて、日本の画家や、印象派の画家との交遊。エドーガー・ドガは省亭の絵を生涯手もとにおいた。

30代から40代は、挿絵、口絵、そして「美術世界」「省亭花鳥画譜」など、多色摺木版本にかかわった。1889年のパリ万博、1890年の内国勧業博、1893年のシカゴ・コロンブス世界博にも出品している。「牡丹に蝶の図」、「龍頭観音」、「七美人之図」。「塩治高貞妻浴後図」、「小松曳」などが印象に残った。絹に薄ぬりで描く作品は素晴らしい。

波川惣助(1847-1920年)との無線七宝の共同開発はパリからの帰国後に開始されている。360種類の釉薬を使い複雑な色合いを実現した無線七宝の原画は省亭だった。迎賓館赤坂離宮で30枚の「七宝絵画」をみることができる。

忘れられた画家である。1898年に創設された日本美術院には参加を辞退し、それ以降は競争の場には出品しなくなった。画壇政治に巻き込まれるのを避けた。四季折々に床の間を飾る省亭の花鳥画後藤象二郎など当時の大物が愛した。海外では横山大観竹内栖鳳以上に馴染みがある近代日本画家だった。

花鳥風月と並んで江戸情緒を描く画家でもあった。「四季江戸名所では、春の上野清花、夏の不忍池蓮、秋の瀧の川の楓、冬の墨堤の雪で、景色と人物を描いている。

小説の挿絵・口絵も画業の重要なジャンルだ。山田美妙、坪内逍遥尾崎紅葉、らと仕事をした。山田美妙の著では裸婦を描いて注目された。また雑誌「美術世界」でも活躍した。40代以降は二つの家庭を往復する二重生活を送っている。

68歳まで、市井の画家を貫いた。これほどの花鳥画の大家が知られていないには不思議だ。商業美術として軽んじられたことと、欲しい人にのみ描いたからだからだが、この初の企画展を機会に、名が高まることを確信した。 

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14日の「名言との対話」では岡田良雄をとりあげた。

今日の収穫

魯迅の名言を拾う。

魯迅「墨で書かれたタワごとは血で書かれた事実を隠しきれない」

・もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

・自己満足しない人間の多くは永遠に前進し、永遠に希望を持つ。

・目的はただ一つしかない。それは前進すること。

・うしろをふり向く必要はない。あなたの前には、いくらでも道があるのだから。

・天才なんていない。僕は他人が休んでいる時間も仕事をしていただけだ。

 

松尾雄治「何でも練習すれば絶対にうまくなる」

・「まん延を見届けてから防止措置」(東京新聞の川柳)

・見合い、恋愛、なれ合い。

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「名言との対話」4月17日。藤城清治「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」

 藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年大正13年〉4月17日 - )は日本の影絵作家。

師の一人である「暮しの手帖」の花森安治から「影絵は、光と影、自然と人間、絵画とカメラなどのコラボによる新しい時代の美術」だといわれ、舞台を与えられ、大活躍する。その結果、1996年には長野県白樺湖に影絵美術館、1998年には北海道生田厚町に影絵美術館が誕生している。

そして2012年には名前を冠した美術館が那須高原に誕生している。2014年に訪問したのだが、素晴らしい美術館で、おそらく那須リゾートの名物となっていくだろう。1924年生まれの影絵画家は当時は美術館が開館した当時は89歳だった。「ぼくも今年で90歳になる。今の僕なら、賢治童話と四つに組んでも真正面から勝負できるような気がした。「風の又三郎」に全身全霊を打ち込んで作れば、いままでにない、新しい影絵作品が出来るかもしれない」と。宮沢賢治の世界に取り組んだ「ぼくの影絵は賢治童話の中で触発され、進化していった」。

「僕の影絵はモノクロの時代に培った構成や細密さ、形にあくまでもこだわりますから、カチッとした電気の光源で照らしたほうが活きる。そこへ光の色を重ねるわけです」

「影絵は、光と影の祈りの芸術」であるとし、影絵という武器で、童話、神話、自然、寺院、聖書、震災、、、などあらゆるものをどん欲に表現していく。影絵というキーワードで進化と深化を重ねていく姿に感銘を受けた。表現者は、自分独自の武器で世界と歴史、そして生命と宇宙を表現しようとする、と改めて思った。この美術館を訪ねた折に、「はだか木も 影絵のごとき 美術館」(吐鳳)という句ができた。 

2016年には、山梨県の昇仙峡を訪ねた折に、昇仙峡にある影絵の森美術館を発見した。藤城清治は1948年に花森安治から「暮らしの手帖」に影絵の連載を依頼されのがデビューとなった。この美術館は1992年に開館しているが、まだ藤城が有名ではない時期なので藤城清治の名前はついていない。そこでは山下清の企画展をやっていた。旅先ではスケッチはしない。帰って記憶をもとに描いた。43歳から東海道五十三次の取材を始めた。49歳で没。

キリスト教旧約聖書『創世紀』は世界の創造を描いている。その壮大な世界には、ハイドンが音楽で、白川義員が写真で挑戦している。「光と影による聖書画こそ、今日にふさわしい聖書画であり、歴史的に見ても影絵は聖書画に最も適した技法であると信じたからです」と語っている藤城は自らが開発した「影絵」という武器で11年の歳月をかけて完成している。アダムとイブ、カイントアベルノアの方舟バベルの塔など33の作品が那須の美術館におさめられている。表現者は、「日本」に向かった場合は、最後は「古事記」などに、そして「世界」に向かった場合は「天地創造」に向かうような気がする。

那須高原にぼくの美術館ができる。それは若い頃から、ずっと持ち続けていた夢だった。その夢が夢でなく、ほんとに実現して、こんなうれしいことはない」と喜びを語っている。しかし、同時に「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」との言葉もあった。89歳の藤城はすでに大御所となって、また老境でもあり、誰も意見をしてくれなくなったことを嘆いていた。だが仕事を続けるために、毎日2時間の散歩を課していて、自宅から駒沢オリンピック公園まで往復1時間半をのウオーキングを課していたように、本人は意欲満々であったことが印象に残っている。その藤城も本日で97歳を迎えた。異次元の高齢化の時代に、生涯にわたって進化を続けようと志す人にとって、藤城清治の心構えは大きな励ましになる。

 

 

 

南大沢駅前での初の「古本まつり」をぶらつく。

 南大沢駅前で初の古本市。隆慶一郎時代小説の愉しみ」「小林秀雄全集第三巻(作家の顔)」「日本史有名人の臨終図鑑2」「日本の生死観大全書」を購入しました。

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図解塾の課外授業「続ける技術」の準備。テーマは「最初の一冊、最後の一冊」。

P社の原稿修正に本腰。

山田五郎の『オトナの教養』3本「鳥獣戯画」(なぞはまだ解けていない)「ゴッホ」(日本びいきの画家の困った性格)「ミュシャ」(日本とは相思相愛)を聴く。

根岸さんから様子を聞く。

朝はヨガを1時間。

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「名言との対話」4月10日。富永光行「商売は「機を見るに敏」なり」

富永 光行(1927年4月10日〜 )は、経営者。

岐阜市生まれ。1950年、名古屋で個人商店「靴のマルトミ」を創業する。合資会社を経て1973年に株式会社「靴のマルトミ」を設立。靴を中心に、玩具、アパレル、バッグなdのチェーン店を展開。店舗数日本一の小売業チェーンを築く。1990年には名古屋証券取引所に上場を果たす。

創業期は「ゲタから靴」へという流れの中で、既製皮靴でコストダウンをはかり成長する。1970年代を通じて主要幹線道路が相次いで整備されたことを受けて、1980年代から「靴のマルトミ」は郊外のロードサイドに「靴流通センター」の大量出店を敢行し、靴63%、玩具22%、アパレル、バッグ15%の売上構成で、「靴流通センター」や「靴のマルトミ」、玩具小売の「BANBAN」など10業態の販売チャンネルを持ち、ロードサイド店を中心に、1995年には1700を超える店舗を有していた。1987年に導入した独自の「オーナーシステム」を適用したOS店が原動力となり急成長を遂げ、ピーク時の1996年2月期には年売上高約1717億1400万円をあげるまでになった。

頂点であった1995年5月刊行の富永光行『商売は「機を見るに敏」なり』(ダイヤモンド社)を読んだ。一坪の靴屋から日本一のチェーンを築くまでの成功物語である。富永は「人間は下を向いて歩け。上を向いて歩くと躓くぞ」という天理教の教師であった父の教えをまもって商人道を邁進し、靴の色の流行で世界の景気の見通しが読めるまでになった。1995年と時には1800の店舗と1900名の社員を抱えていた。最後のページでは、10年以内に国内3000店舗を達成する。中国のほか、東南アジア、ロシアなど海外市場は限りなく広がっているとし、2005年から2015年にかけて大々的な多店舗化をスタートさせ、中国全土で靴だけでも2000店舗は楽につくれると豪語している。そして「そのとき、私は間違いなくこの世にはいないと思う」と述べている。

しかし、個人消費の低迷やディスカウントストアとの競争激化から収益性は低迷。長引く消費不振と不採算店舗の増加から99年同期の年売上高は約1380億3300万円に減少、約29億円の当期損失を計上した。2000年12月に(株)靴のマルトミ(茶谷正幸社長、従業員1343人)は名古屋地裁民事再生手続き開始を申請するにいたった。そういえばよく見かけた「靴流通センター」はいつの間にか見かけなくなった。現在はユニクロファーストリテイリング)の傘下に入っている。

しかし大型ショッピングセンターの進出という脅威があり、バブル崩壊後の1992年には、流通コンサルタント渥美俊一は「ロードサイドビジネスはまだ続く」と言い、経営コンサルタント船井幸雄は「将来性がないからいずれダメになる」と正反対の意見だったと回想している。富永は渥美の意見に賛成していたのだが、「ロードサイドビジネス衰退論」の船井のいうとおりになった。1995年刊行のこの本は意気軒高な創業者の最後の叫びであったことになる。富永光行にしてもどうも最後は「機を見るに敏」とはいかなかったようである。

ある事業を創業し華々しく成功し頂点を極めた直後に、世の中の急激な流れと自身が築いた組織の問題で衰退と没落の道をたどる、そして大企業や新勢力に城を明け渡すことになった創業者は実に多い。 事業を何世代にもわたって続けることは実に難しいことなのだと改めて感じることになった。

 

 

 

山田五郎「オトナの教養」ーレンブラント。モネ。ダ・ヴィンチ。

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ユーチューブで山田五郎「オトナの教養」が面白い。画家たちの人生の真実を知ることができる動画。しばらく堪能することになるでしょう。

レンブラント「夜警」。火縄銃組合。42歳。バロック美術は対比(明暗)。集団肖像画。謎の少女は愛妻。画家の頂点。子どもが育たない。転落が始まる。乳母から訴訟。ローンで豪邸。オランダの衰退。貧民街へ。本当のアーチストへ。

・モネ「散歩、日傘をさす女」。1875年と11年後の3つの作品。妻カミーユ。幸せな時代。破産したパトロンの家族(アリスと6人の子ども)が一緒に住む。再婚。睡蓮を200以上描いていく。

ダ・ヴィンチモナリザ」。普遍的人物像。67年の生涯で14、5点しか描かなかった。ラファエロ37歳で170点以上。80代のミケランジェロは無数。注文通りに描かない、納期を守らない画家。モナリザはずっと書き続けた作品。何度も何度も塗り重ねた。輪郭がなく結果的に不思議な表情。角度や光の加減で表情が違う。

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多摩センター。橘川さん、竹越さんと昼食。

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HPの改造計画を相談。ZOOMで岩澤さんと意見交換。

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「名言との対話」4月9日。久里洋二「ありがたいことに、「死」が、次々と先輩を消してくれます」

久里 洋二(くり ようじ、1928年4月9日 - )は、アニメーション作家、イラストレータ絵本作家、洋画家

福井県鯖江市生まれ。京都市美術学校に合格するも、軍人だった父が公職追放となり、進学を断念し様々な職業についた。横山泰三に触発され、雑誌に漫画を投稿するが全く採用されなかった。1950年に上京し、文化学院美術科、アテネフランセに入学する。二科展特選。文春漫画賞受賞。

後に、自身も参加した「若い日本の会」の結成がきっかけとなり、柳原良平(1931-2015)、真鍋博(1932-2000)とともに「アニメ三人の会」を主宰し、大人のためのナンセンスアニメーションを開拓した。漫画映画をアニーメーションという言葉に変えたのはこの3人だ。

テレビ「11P M」「ひょっこりひょうたん島」「みんなの歌」などで作品を発表した。代表作は「人間動物園」(武満徹が音楽)「二匹のサンマ」「殺人狂時代」「部屋」など。どれも海外での評価が高く、ベネチア国際映画祭では3回、アヌシー国際アニメーション映画祭など、世界中の映画祭でことごとく受賞している。

ニューヨーク近代美術館、パリ市立近代美術館、山梨県立美術館、池田20世紀美術館などで個展が開催された。また新潮社「トンボの本」のロゴマークをデザインしている。2011年、旭日小綬章受賞。福井県鯖江市に1800点の作品を展示する常設展示館「GALLE RY  K」という専門画廊がある。また、鯖江の礎を築いた鯖江藩主間部(まなべ)に因んだ「まなべの館」という博物館には、鯖江出身の近松門左衛門西山真一画伯とともに、「久里洋二の部屋」があり、独特のユーモアとペーソス、そしてあたたかみのあふれる作品が展示されている。

『ボクのつぶやき自伝@yojikuri』(新潮社)を読んだ。 twitterのつぶやきをもとにした独特のスタイルの本である。2010年4月から2011年10月までのtwitterから抜粋した言葉で構成されているユニークな本だ。最後は、東日本大震災原発のことなども語っている。

 「僕は独学です」「アイデアが一番大事です」。「アイデアが命です」。「アニメは音楽と同じく世界共通語です」。「アニメを見すぎると「アニメ評論家」になっちゃうぞ」。「未来を表現することが僕の生き方です」。

同じ1928年生まれの手塚治虫からは「僕は子供アニメを作ることにする。だけど、久里君は子供アニメは作らないでくれないか」、「僕は武蔵、久里君は小次郎だよ」と言われた。手塚は久里の才能を恐れたのだろう。その結果、久里洋二は「手塚君にアトムのアニメ化を勧めたことが失敗だった」と述懐している。勧めていなかったら、子どもアニメは久里の世界になったかもしれない。

ライバルの手塚治虫1989年(平成元年)に60歳で亡くなっているのだが、それから30年以上の本日、久里洋二は93歳となった。2020年には、銀座のギャラリー、福井県立美術館、鯖江、そして2021年には小平市ブリジストンイノベーションギャラリーで企画展を開催している。昭和で終わった手塚と比べると、平成、令和、そして21世紀の20年以上を生き抜いて現役で活躍していることになる。ライバルとの関係で悔恨もあるようだが、「ありがたいことに、「死」が、次々と先輩を消してくれます」という言葉は、長く現役を張ってきた仕事師の本音だろう。

ボクのつぶやき自伝―@yojikuri―

ボクのつぶやき自伝―@yojikuri―

 

 

 

 

 

 

「仏教未来フェス」に登壇ー本日はお釈迦様の生誕日。60名が参加、30名が発表。

「仏教未来フェス」に登壇しました。本日はお釈迦様の誕生日。

住職、仏教出版社、、、、、、、。昼の部は参加者は30人、発表者は16人でした。夜の部と合わせて参加者60、登壇者30とい盛況でした。

以下、主宰者からのメッセージ。

釈尊生誕日である4月8日の花まつり当日に、仏教や仏の道の未来を語る時間を設けます。 登壇時間は5分。仏教未来フェスはあらゆる人が自由に語り、自由に表現できる場を提供します。仏教未来フェスという言葉にピンときたなら、その気持ちそのままにテーマとして語ってください。トークテーマは自由です。
【開催スケジュール】〈昼の部〉13:30-16:00〈夜の部〉20:30-23:00
【参加ルール】◯登壇枠登壇希望の方はひとり5分の登壇時間を使って、自由に表現をして頂きます」。

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  • 金沢ひろし「般若心経に歌をつけた。台湾」。瀧澤智瞬「新潟。会社員から住職。生きることは苦。苦は不確実、無常」。かわまつ佳宏「空かいとソーシャルデザイン。空と縁起。曼荼羅金剛界」。久恒啓一神道儒教・仏教。図解は曼荼羅。日本人の宗教生活。宗教消費者の論理。家政学の一種」。渕上周平「子どもへのアプローチ。地獄、極楽、娑婆」。伊藤照男「株・366。お寺とテクノロジー」。本田「大学生」。小池陽人「神戸の住職。知ることと愛すること」。金剛界曼荼羅は仏になるため過程で智恵、胎蔵曼荼羅はもともと仏になるためで慈悲をあらわす」。酒井弘雄「良いお寺。日経。寺院消滅。無葬社会。仏教とビジネス界を結ぶ」。伊藤充一「瞑想。佛教大学」。「KOJI[サンガ。マインド不フルネス。上座系の出版社。倒産」。佐藤由樹「サンガ。サンガジャパン」。石花ちとく「ロックバランシング研」。
  • ルーム4「地獄。極楽。山伏。曼荼羅。上座。共通項。創価学会。タブー。フラット
  • 夜の部:竹越。真野。真言宗僧侶。須弥山エア寺勧学院。八宗綱要。常念。インド仏教の全体像。至元禄(元)。山梨の果樹園。古典ラジオのポッドキャスト。寺7.7万。コンビニ5.5万。学と行の一体。オンラインで学び、お寺で修行も。オンライン座禅会。カルチャーセンター化。アニメに救われた。
  • ルーム2。横田。真野。、、、、、。

エア寺「勧学院」で学びたい:横田いたる(亮介を紹介)。勉強会。瞑想会。お話会。VRお位牌。オンライン墓地。FBで参加者に友達申請。ポッドキャスト古典ラジオ。

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朝は、立川。
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「名言との対話」4月8日。露口茂芝居はふつう目でやると言われているが、口もとでやるもの」

露口 茂(つゆぐち しげる1932年昭和7年4月8日 - )は、俳優。

東京生まれ。戦時中、両親の故郷である愛媛県疎開した。県立松山東高校から愛媛大学に進むが2年で中退。1955年俳優座養成所に7期生(田中邦衛山本学と同期)として入り1958年卒業。劇団新人会を経て1960年、劇団俳優小劇場の創立に小山田宗徳らと参加、1971年に解散してフリーとなる。

山田洋次監督の『霧の旗』、今村昌平監督作品、日活映画などやテレビドラマで、悪役、犯人役、好青年まで幅広く演じる、個性派の性格俳優として売れっ子になった

太陽にほえろ」第1話から第691話まで、名刑事「山さん」役で一話も休むことなく、足掛け12年も続けた。「太陽にほえろ」は14年間718回続いた人気番組で、私も見ていた。露口茂が演じた刑事「山さん」は、惜しまれながら殉職することになった。「僕は一つの事に時間をかけてコツコツやるのが好き「みたいですね。だから、『太陽に・・・』も諦めずにやり続けてきたんでしょうね」と語っている。

49話「そのとき時計は止まった」では、「なんとなく虫が好かん奴はたいていの場合、どこか自分にそっくりなんだ。だから、俺たちに反発しているあの娘が隠し事をしているならば、それを打ち明ける相手もこの俺しかいない!」という名リフを迫真の演技とともにしゃべっている。

太陽にほえろ!』を終えた時点で、挑戦したい役として、「適当にカッコ悪くて、ズッコケていて、一生懸命やればやるほど何かおかしくて、どっかほろ苦い。そういう人間をやりたいですね」と抱負を語っている。以降は2時間ドラマの主演やスペシャルドラマなどに多数出演したので、その渋い演技はよく知られている。

「芝居はふつう目でやると言われているが、口もとでやるもの」と露口茂は言ったそうで、それを確かめてみた。向田邦子原作「阿修羅のごとく」、NHK劇場「三十六人の乗客」、時代劇の「文五捕物絵図」「鞍馬天狗」などをみてみた。確かに口もともいいが、目の表情もいいと思った。露口茂は「いい役者」である。

 

 

 

 

 

 

図解塾⑦「日本文化2」ーー文楽。和服。カラオケ。琉球。アイヌ。 ファミコン。受験戦争。インスタントラーメン。鮨。粋。

図解塾⑦「日本文化2」を開催しました。2時間強。

文楽。和服。カラオケ。琉球アイヌ。 ファミコン。受験戦争。インスタントラーメン。鮨。粋。

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以下、終了後の感想から。

  • 本日もありがとうございました。皆さまの図がどんどんわかりやすくなり、頭に入ってくる量は増えました。大きな流れを取り入れると図を理解しやすい。読み手がストレスなく読めるということは、読み手に敬意を払う優しさだなと感じました。それぞれお忙しい中課題をこなしていく皆さまと戦友のような気持ちになっております(笑)また次回も楽しみにしております。ありがとうございました。
  • 今夜もありがとうございました。「日本を知る」の二回目。当たり前すぎて意識もしなかったこと(カップラーメン)。日本独自ではあっても、自分には縁がないと思っていたこと(和服)。日本人として知らなきゃいけないけど、声を大にして言う人の意見に違和感があって、距離を置いていたこと…(琉球アイヌ)。課題図書の「日本を知る105章」は、執筆者(章)によって表現が変わっているため、おそらく本屋で出会ったとしても、私はページをめくるだけで棚に戻している予感しかしません(苦笑)。異なる課題にそれぞれ取り組んで聴くことで、理解を深めることが出来ました。どんな理解が深まったか。各章に対する久恒先生の深い知識と、仮説を聴いていると、もしかしたら「日本のことをまだ全然知らないということを理解した」、というのが正しいかもしれません。自身の図解は、思いつく単語が溢れ出た結果技術が後回しになってしまいましたので、図形やフォントなどの技術を再度身につけたいと思います。(全集技術編も遅ればせながら届きましたので!)次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。いかに自分が日本のいろいろなことを知らなかったか、つくづく思い知りました。「日本を知る105章」のような本は、「読む」というより「目を通して」、「わかったつもり」になっていても結局何も残っていない、ということになりがちです。きちんと図解することによってよく理解でき「腑に落ちる」ことを体験しました。また、久恒先生の、筆者についてのコメントから派生する様々な人物の名前や業績、それを聞くことによって一気に知の世界が広がりました。図解にする時間もだんだん短縮されてきました。時間がかかると取りかかるまでのハードルが上がってしまうので、今後も大筋を見抜いて短時間でできるように心がけたいと思います。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。今回の課題はホントに苦しかったです。時代錯誤で否定ばかりの論調からどのようなストーリで作図するのか見えず大苦戦でした。一方、塾生の皆さまのプレゼンには更なる実力upが実感され、更に「知らなかった事」だらけだった為、ひたすらメモに追われた次第です。「インスタント…」の項で先生が話されていた「インスタントとは時間の創出」というコトバはものすごく腑に落ちる思いで非常に痛快でした。次回も新たな発見楽しみにしています。宜しくお願いします。
  • 久恒先生、みなさま、図解塾Ⅱ期第7回、今晩も有難うございました。また、お疲れ様でした。※宿題の件、、、すいません!でも、宿題あったほうが、やってる感あって、いいですよね。。。冷汗(^^;;;  回数を重ねて、なんだか、大学のゼミみたいな感じがしてきて、アットホーム感があるなーと、しみじみしております。また、年度初め等でお忙しい方々の再参加や新しい方の初登場なども楽しみにお待ちしております!第7回の感想です。・図解を使って語ること・プレゼンするパートのみなさんの熱量が上がってきた印象があります。図解によって、理解が深まることの効果・作用・影響の現れと感じます。・図解技術としては、ディテールから全体構図まで、みなさんの技法、表現を拝見することで、表現すること・構造化すること・関係性を考えることなどのヒントが散りばめられていると感じます(が、、、宿題やるときには、抜けちゃっていることが多い。。ので、反復しないとですが。)・前回、今回の日本文化はもともとの原稿が書かれた年代とのギャップも含め、図解により、これまで自分の関心が向かなかった領域やものごとへのアンテナが立つ、という久恒先生の言葉が、いかに的を得ているか、ということを実感します。図解は、記憶に残りやすいんだなということかと。記憶力の衰えは否めませんが、、それを補うためにも図解必須!苦笑・最後に、今回も各話題に対する、「ドラえもんポケット」か!!ばりな、久恒先生の怪人的博覧強記は、凄まじかったです。勉強になりました。・来週4/14は、課外授業「続ける技術」シリーズで、「最初の一冊、最後の一冊」です。誰もが本を一冊書くべきだ、ということで、従前、久恒先生が著名本著者の方3名と日経ホールで対談された際の議事録を基に、最初の一冊を書くハードルをクリアする秘訣を、共有してくださるそうです。GIRLS and BOYS, BE ZUKAIcious!
  • 本日もありがとうございました。日本文化、内容もさまざまで、2回目も楽しみました。特に、文楽、きちんと観た(聴いたですね)ことないので、興味を持ちました。機会があったら観たいと思いました。みなさんの図解は、迫力のあるものや楽しそうなものとはてながつまったもの、みなそれぞれなのが良いですね。文章を図解して、何を作者は言いたいのか、つながりなどが分かると嬉しいのを感じております。続けていけたらと思います。それにしても久恒先生の知識の多さに、毎回驚かされております。毎日のブログのたまものですね!素晴らしいです。また、次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 今日もありがとうございました。図解をすると、漫然と読んでいた文章の道筋がくっきりと見えてくるような手ごたえがあります。また、日本文化についての先生の文章のチョイスが秀逸で、皆さんの図解を見るだけで、日本文化について詳しくなれる気がします。無学な私にはとてもよい道しるべです。フルで出られない日が多く申し訳ないのですが、毎回楽しみです。いつもありがとうございます。

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「名言との対話」4月7日。團伊久磨「「人はさまざまであって、さまざまである事こそ、人が人であり、世の中が世の中である所以なのだろう」

團 伊玖磨(だん いくま、1924年4月7日 - 2001年5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト。

祖父の團琢磨は三井合名会社理事長で男爵。男爵を引き継いだ父の團伊能の子。伊能は私は好きな箱園ハイランドホテルをつくった人だ。

東京音楽学校作曲部に入学。音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊した。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当した。1950年代にはイギリスに留学。

作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。「豊かな音楽で世界中を暖かくしたい」という願いを持っていた。

 クラシック音楽から童謡、映画音楽、校歌まで幅広いジャンルで今も親しまれる曲を残した作曲家。代表曲はオペラ『夕鶴』、童謡『ぞうさん』『おつかいありさん』『カタツムリ』『やぎさんゆうびん』、『ラジオ体操第二』など多数ある。また、皇太子だった明仁親王(令和時代における上皇陛下)の成婚を記念して『祝典行進曲』を作曲したことや1964年の東京オリンピックの開会式および閉会式に『祝典行進曲』を演奏したこ。。同じく昭和を代表する作曲家・山田耕筰に師事し生涯の師と仰いでいた。

エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2001年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。そして雑誌休刊の翌年に死去する。

 『パイプのけむり』は、1974年から2001年までの36年間で、1842本の名随筆があり、刊行順に計27巻の単行本になっている。「続」「続々」「又」「又又」「まだ」「まだまだ」「も一つ」「なお」「なおなおあ」「重ねて」「重ね重ね」「なおかつ」「まあyたして」「さて」「ひねもす」「よもすがら」「明けても」「暮れても」「晴れても」「降っても」「さわやか」「じわじわ」「どっこい」「しっとり」「さよなら」という言葉が「パイプのけむり」についていて、ファンがついていることがわかる。パイプのけむり』『続パイプのけむり』は第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞している。

そして、結果論ではあるが、その内容をあるテーマで編集すれば、たちどころに本ができあがるようになっている。「食」、「話」、「旅」、、、。私はたまたま「食」を読んだ。團伊久磨の博識とこだわりが日常の中に見えてくる名エッセイ集だ。毎回分量が少し違うが、4000字詰原稿用紙で7枚から15枚ほどの内容である。

楽家として、大きな仕事は八丈島にこもって仕事をする。その時は、鮭の中骨の水煮、燕スープ、銀杏の水煮、モランボンの特製参鶏湯の中缶、野田岩の鰻の蒲焼の冷凍パック、ラーム・チョップ用の子羊の骨付き肉の冷凍、泰国産の米、、、、などを選んで送るそうだ。

美食家の檀一雄と一緒に八丈島に住んだこともある。ちなみに「解説 ダン違いの團さんのこと」は、檀一雄の娘の檀ふみである。

食べない食べ物もあげている。鮨は好まない。殆ど蕎麦を食べない。味噌汁はほとんど飲まない。火の温度が残っているものを食べる。

食に関する蘊蓄が楽しい。外郎のいわれ。「食べ合わせ」では、魚の鮨に大蒜、鰻に銀杏、林檎と砂糖、蒟蒻と胡瓜、蕎麦と納豆、天婦羅と氷など意外な組み合わせについても指摘している。

以下の主張がある。「人間が美食を追求するために、動物に特殊飼育を施こす事に興味を持っている」「味覚は、本来、危険なものが口を経て体内に入ることを防ぐための大切なチェックが役目だったと思う」「西洋人の動物愛護精神というものは頭から信用していない」「旅人として訪ねる国の言葉が出来無いという事は、既にその事が向こうの人から見て、「無教養」であり、「落ち度」なのである」「江戸から明治・大正の味が本命であろう」「昼御飯のためにも、勝鬨のにオフィスを移して良かったと思う」「今流行の薄っぺらなグルメ人種などではない」

しかし、結局は「人はさまざまであって、さまざまである事こそ、人が人であり、世の中が世の中である所以なのだろう」と達観している。しかし食に対する覚悟と執着には恐れ入った。

仕事のスタイルについては、作曲中は一切の来信は読まないそうだ。八丈島に籠城するのも外界からの邪魔を避けるのだろう。オペラのオーケストラ総譜など大きな仕事が終わると「産後休暇」と称して一週間ほど頭と手を休める習慣がある。産休が一ヶ月以上だと、次に筆を執る時に気が重くなりすぎるし、勘も狂うと語っている点は参考になる。倦まずたゆまずライフワークに取り組んで行けという団伊久磨のメッセージを聴いた感じがする。

「作曲と文章」が生活の中心だが、それ以外で大切にしているのは、日本芸術院第三部部長職、神奈川県芸術文化財団の芸術総監督、日本中国文化交流協会会長、放送文化基金楊議員、東京動物園協会理事など。

蓄積の醍醐味を十便に堪能した。自分は自分と考えて、自分のテーマに沿って、いつまでも続けること、それが蓄積となっていくこと、いつか代表作となることがある。團伊久磨から学ぶべき教訓はそれだろう。

 

パイプのけむり選集 食 (小学館文庫)

パイプのけむり選集 食 (小学館文庫)

  • 作者:團 伊玖磨
  • 発売日: 2009/05/08
  • メディア: 文庫