コロナは全国で感染爆発、東京五輪はメダルラッシュ、このコントラスト。メダリストたちの言葉を追う。

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オニユリ花言葉は、「華麗」「愉快」「陽気」「誇り」「賢者」。

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コロナは東京中心に全国で感染爆発。東京オリンピックメダルラッシュ。この矛盾。

メダリストたちの言葉が面白い。オリパラのアスリートの言葉を採集しながら楽しみます。

  • 柔道の大野将平「同じ”ショウヘイ” 大谷に、負けないように活躍したい」
  • 女子自転車ロードレースのキーゼンホファー「自転車競技の戦略を計算するには高レベルの数学は必要ない」「トレーニングを行うに当たり分析というものを重んじている」 「今日のレースも、自分の栄養バランスを考える時のように組み立てた」
  • 体操の橋本大輝 「夢が目標になり、そして現実になった」
  • ソフトボール上野由岐子 「ただただオリンピックをやってよかったなと、全国民にそう思ってもらえるような試合にしたい。やっぱりスポーツの力というものを見てくれるたくさんの人たちに伝えたい」
  • 女子ストリートの西矢椛「金メダル獲得は人生の中で、まだ一番かは分からないけど、今のところは一番良い思い出」

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「名言との対話」7月27日、塩田丸男「「人間くささが決め手になるのが21世紀だ」

塩田 丸男(しおだ まるお 1924年7月27日 - )は、日本の作家・評論家。

1山口県下関市生まれ。國學院大學中退。読売新聞記者、文化放送ニュースキャスター、テレビ朝日ニュース解説者などを経て、執筆活動に入り、作家・評論家となった。

サラリーマンをテーマにしたエッセイやテレビ出演で人気になった。プロ級のトランプ手品など、趣味は多方面にわたる。

代表作は「臆病者の空」(第89回直木賞候補作)、「天からやってきた猫」(新潮社刊、NHK銀河テレビ小説原作)など。1992年(平成4年)、日本ジャーナリスト大賞受賞。小説、エッセイなどに食をテーマとした諸作品があり、グルメとしても知られる。

サラリーマンをテーマにしたエッセイやテレビ出演で人気になった。プロ級のトランプ手品など、趣味は多方面にわたる。小説、エッセイなどに食をテーマとした諸作品があり、グルメとしても知られる。

代表作は「臆病者の空」(第89回直木賞候補作)、「天からやってきた猫」(新潮社刊、NHK銀河テレビ小説原作)など。1992年に日本ジャーナリスト大賞受賞。

塩田には名言やことわざに関する著書が多い。

『朝礼のネタ365日―賢者の名言・名句でつづる 内容・人物・日付でひける不朽のキーワード』 (NKビジネス)。塩田丸男鈴木健二監修『人を動かす 名言名句大事典』(世界文化社)。

『思わずニヤリ。チョット知的なことわざ学』(技術評論社には、「病気をしたことのない奴とは友達になるな」(ロシア)、「美人というも皮一重」(日本)などがある。

塩田丸男『人間大好き、雑談大好き』(リクルート出版)を読んだ。1989年の刊行だ。雑談に役立つエピソードや小話が満載で、楽しめる。

O氏(大宅壮一)「「うん、それは問題点が3つあるんだ」。某国の首相「嘘には3つある。よい嘘と悪い嘘。それに数字だ」。岡本綾子「こういうふうに年をとっていくのかな」。運転手「人間、頭を使う商売をしなくちゃいけませんなァ」。伊庭貞剛「事業の進歩発達を阻害するには老人の跋扈以上のものはないからね」。A君「歴史のある会社ではでは、終身どころか、歴代雇用なんだよ」。川柳「あな嬉し隣の家が夜逃げする」。「消耗はショウコウと読むのが正しい」。「共食信仰」。「総領の甚六」。陳舜臣「やや逆境」。塚本忠「花筵往生際の話など」。山川静夫「明日は東南(トンナン)の風」。大庭哲夫「ゼンニッコウ」。「裁判沙汰」「ネオン街」「お灸をすえる」地球の裏側」「勤賀新年」「パ・セ両リーグ」「朝毎読」「慶早戦」「三越下」「猫犬病院」「女と男のティーチイン」「父校」、、、、、。

それでは、丸田本人は何と言っているのか。

「仕事はなんでんもそうだが、ほんとうに好きでやっているのとそうでないのとでは、出来ばえが天と地ほど違う」。「すぐれた人物には感化力がおのずから備わっている」。「ちゃんと性根をすえて見ているのと、そうでないのとでは大きな違いがある」。「逆風の鷹」。、、、、、

この本の趣旨は「いい友達になれるかどうかは、いい雑談ができるかどうかにかかっている」ということであり、「人間くささが決め手になるのが21世紀だ」から、「人間大好き、雑談大好きーーーこれを21世紀をらくらくと生きるためのモットーとしたい」が読者への提言だ。

塩田丸男は本日で97歳となるから、100年近く生きて、21世紀を20年以上見ていることになる。人間研究に今もいそしんでいるだろうか。

 

 

 

 

 

 

「知の冒険」にでかけよう! 「名言との対話」を書くための8月分の本が届きました。

「名言との対話」を書くための8月分の本が届きました。

「知の冒険」にでかけましょう。

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多摩大の長島先生、松本先生と南大沢の「バーゼル」で昼食会。

近況交換:大学の様子、総研の状況、、、。

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「名言との対話」7月26日。牧野茂「強いから勝つんじゃない。勝つから強いんだ!」

牧野 茂(まきの しげる1928年7月26日 - 1984年12月2日)は、プロ野球選手プロ野球指導者・野球解説者 

香川県高松市生まれ。明治大学卒業後、中日ドラゴンズに入団。通算打率は2割1分7厘。1958年、コーチに就任する。

退任後、解説者、評論家として6年間活躍する。歯切れの良い解説と鋭い理論は好評だった。舌鋒鋭く巨人の長所短所を批評する牧野の書いたデイリー・スポーツの記事を読んだ巨人監督・川上哲治が、その内容に感銘を受け、コーチとして迎えることを決意し、1961年シーズン途中の7月25日に巨人にコーチとして入団した。川上から要請があったとき、巨人以外の人がコーチになったことはなく固辞した。川上は執拗で、2軍ならと引き受けたが、昼は2軍、夜は1軍、地方遠征にも同行することになり、ついに1軍コーチにされたというのが真相だった。

牧野茂は日本のプロ野球を変えた男である。個人プレー中心の野球を、アメリカ大リーグのドジャーズの戦法を取り入れ、チームプレー中心の野球に変えた。そして9年連続日本一となる「V9」を達成し、名参謀の名を欲しいままにした。川上は「牧野がいなかったら、V9は達成出来なかっただろう」と後に語っている。牧野は「強いチームを作るには、監督と首脳陣が絶大な信頼感で結ばれることが必要なのだ」と言っている。

1981年、藤田監督、王助監督、牧野ヘッドコーチのトロイカ体制が見事に当たり、8年ぶりに日本一を奪取。王が監督に就任した1983年オフに、リーグ優勝を置き土産に巨人を退団した。

巨人の作戦担当コーチとして日本シリーズは12勝1敗という見事なものだ。川上監督下で11勝、藤田監督下で1勝である。

2度目のコーチはON(王と長島)がいないチームで今一度やったらどうなるか、それをみたかったのである。 

その後、悩む監督に就任した王貞治に、コーチ就任時、スコアラーを総動員し、前年度の全試合総点検をやり、1点差ゲームの詳細な点検を行ったとアドバイスしている。その結果、「守備練習こそが勝利への直通路だ」との結論を牧野は出していたのだ。

牧野茂・牧野竹代「パパ、もう一度ユニフォームを着て」(光文社)を読んだ。夫と妻の闘病記である。

ガンの闘病生活の中で公式戦のように克明なメモを残した。夫人に症状、治療経過を記録させた。このことを川上哲治は「君らしいなと思う」と言っている。

 「俺はやりたいことを全部やった。だからもう何も惜しくないんだ。何があっても悔やむなよ、俺は全部、やりたいことをやったんだから」

この本の中で、評論家時代は年収5000万円以上で、巨人コーチ時代はコーチとしては破格ではったが、半分になった。こんな馬鹿げた事は無いとコーチの待遇に憤っている姿もみえた。

コーチには、投手コーチ、打撃コーチ、守備コーチなどが思い浮かぶ。ヘッドコーチという立場は、川上監督下で活躍した牧野茂が棹最初である。分野別の専門コーチではなく、作戦を担当するコーチである。その役割をつくった川上哲治という名監督と、それを支えた名参謀という新しいフォーメーションが、不滅のV9の原動力だったのだ。1984年に56歳で亡くなった牧野茂は、1991年に野球殿堂入りを果たした。

牧野茂は徹底して勝つことにこだわった。マスコミの評判は悪かったが、それが強い巨人をつくった。強いチームをつくったら、勝てるだろうというような甘い考えは牧野にはなかったのだ。1点差でも試合に勝ち続けるなかで、自他ともに「強い」ということになる。長島と巨人に熱狂したクチである私は、その陰に牧野茂という人物の光貢献が大きかったことを改めて知った。

 

牧野茂・牧野竹代「パパ、もう一度ユニフォームを着て」(光文社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京MXテレビ「寺島実郎の世界を知る力・対談編」ーー中国の柯隆、アメリカの渡辺恒雄。

東京MXテレビ寺島実郎の世界を知る力・対談編」。

相手は、中国の 柯隆(京財団主席研究員)アメリカの渡辺恒雄笹川平和財団上席研究員)。

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柯隆

  • 共産党100周年大会をどう見たか?「強気だった。弱さをみせると批判される。2021年1月のコロナでのロックダウン、5月解除で経済活動。これは7月の100周年大会を意識」
  • 中国経済をどう見るか?「中国のみ2020年はプラス成長(2.3%)、2021年は8%成長。エンジンは公共投資だが、中身は変化。5Gnに1.5兆円、高い貯蓄率で個人消費が堅調、アメリカへの輸出のクラッシュはなかった(日用品)。問題は雇用だ。サプライチェーンの再編中でリストラ。2020年の党大会で習近平は政権継続したいため強硬。G7との関係に問題がある。日米ともに中国を警戒(約87%)。人心が離れる。好かれる存在にならねば。

渡辺:

  • バイデンの6か月をどう見るか?「世界のNO2は常に経済・貿易の脅威。中間層のための対外政策は高く評価したい。中国には厳しい」
  • バイデンの対外外交は?「国際協調路線に戻る。ネットワーク。人権、香港などをテーマとして欧州に接近。ロシアにはサイバー攻撃ランサムウェア)には対抗。中国には厳しい。米中ともに内向きになっている。米中のデカップリング(切り離し)はできない」

寺島「米中貿易は5592億トンとプラス、日米は1833億トンとマイナス。米中は選択的対立だ。アメリカの分断は深刻。フォーリンアフェアーズ7月号の中国の台湾進攻は近いとの特集)

  •  柯隆「台湾問題は歴史的使命」。香港をみて人心は離れている。大洪水時に華僑は寄付しなかった。強国復権には条件がある。経済力、軍事力よりも、文化力だ。好かれるか。自由が必須だ。それがなければ持続不可能。科学者はグーグルにアクセスできない。次のステージは好かれ、尊敬されることだ」
  • 渡辺「日本は真珠湾攻撃、1989年頃の日米経済摩擦。米中ともに余裕がなくなってきた」

寺島「抑圧的寛容。嫉妬心、猜疑心、憎悪へ」

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日本が持つべき外交構想力。

  •  柯隆「政策の前に勉強が必要。中国研究のクラッシュ、シンクタンク格差などの情報格差がある。落ち着いて、多元的に。結論がなかなか出せない。日本人は理屈、中国人は情」
  • 渡辺「日本は存在感を出せるかも知れない。憲法9条だけではダメだ。独自の軍事力を持つとバランサーになれるかもしれない。でなけけば苦労する時期になる。アメリカとの関係を土台に、東南アジア、インドを巻き込む、その上で中国と向き合う」

寺島「日米中トライアングル。米中2極論。松本重治は日米関係は米中関係だと言った。太平洋戦争は中国をめぐる日米関係だった。戦後は中国が二つに割れたことが日本に幸いした。主体的に考えるところに来ている。台湾にはアメリカの基地はない、沖縄・日本が巻き込まれる。松本の遺言ー米中戦争を回避するのが日本の役割」

これからの日本が持つべきビジョン

  • 渡辺「米中は大国同士でスケールが大きい。オバマのG2論は失敗した。気候変動などグローバール課題に日本は入っていくべきだ」

 寺島「日本の貿易はアメリカ14.7%、中国26%台。政治的には中国封じ込め、経済は中国依存で迷走中。単純なアメリカ周辺国では中国とは向き合えない。他の国がついてこない。米中は頭越し外交の可能性がある。日本はルール形成する側にまわるべきだ。アジア目線(中国・インド・アセアン)で代弁する目線が必要。人材の質とスケール感など日本の中身を変える必要がある。

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「名言との対話」7月25日。喜屋武真栄「核になろう、自ら爆発して職場に、組織に、地域に広がろう」

喜屋武 眞榮(きゃん しんえい、1912年7月25日 - 1997年7月16日)は、日本政治家

 沖縄県出身。「沖縄革新共闘」の候補者として、革新統一運動の象徴的存在だった。参議院議員(5期)を務めた。また、琉球舞踊など、沖縄の伝統文化を普及・継承する活動も行った。

喜屋武真栄『政治を人間の問題として』(あゆみ出版)を読んだ。この人の歩みを羅列するよりも、言葉を並べる方が人物が見える気がする。

誰かがやるだろうということは、結局誰もやらないことである。

人生はリズムである(処世訓)

人間の阿修羅の姿を目撃。戦争は鬼畜の世界である。沖縄の地上物件は96%壊滅。

小指の痛さは全身の痛みさであることを感ずる同胞であってほしい。

空手の精神「先手なし、受けて立つ」

政治の要諦「ひもじい思いをした者には飯を与えよ、寒い思いをした者には着物を着せよ」

信は力なり。

沖縄の教育は、日本国民の教育でなければならない。

座右の銘「機を見るに敏であれ」

ほんとうの人間の平和は、自由の保障です。

好きな言葉「春風をもって人に接し、秋霜をもておのれを律す」

文武両道の太田道灌のような人物になりたかった。

少年よ夢を描け、夢は希望の温床である

核になろう、自ら爆発して職場に、組織に、地域に広がろう。

人間にとって、一番の苦痛は差別されるとういうことです。

権利なく、力もない者の生きる道は団結以外にない。団結は勝利につながり分裂は敗北につながる。

不用意に語る言葉に人間の真実がある。

信は信を生み、不信は不信を生む。

核を枕に毒ガスを吸っての復帰はいやだ。

本土の一億同胞は沖縄県民が24年間にわたって差別待遇を受け、人命、人権、財産など、すべての面で犠牲をこうむったことをよく考えてもらいたい。

得意冷然、失意泰然

屋良朝苗「沖縄とは? 喜屋武真栄を見よ」。中野好夫「一つの歴史をつくってこられた人だ」。

それぞれ、血を吐く思いで絞り出した言葉であり、それぞれに感銘を受ける名言だ。その中で、「核になろう、自ら爆発して職場に、組織に、地域に広がろう」を抜き出したい。本土復帰にあたって、「核を枕に毒ガスを吸っての復帰はいやだ」という演説をした喜屋武真栄は、沖縄の同胞に向かって、その「核」になって爆発しようと呼びかけたのだ。その悲痛さに感じ入った。

 

 

 

オンラインニュースの威力とアマゾンの順位の関係を追う。映画『マイ・インターン』に感動。

 『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)のアマゾン全順位の推移をメモってみました。 プレジデントオンラインで流れ、YAHOO!ニュースなどで取り上げてくれました。その影響はいかに?

  

12‐17日:都内の大型書店に並び始める。丸善(丸の内)。紀伊国屋。ブックセンター、天狼院書店、、、、。丸善(丸の内)では大型ポスターも。

以下、アマゾンでの売り上げの順位を追いました。

18日:20000位‐12000-3200位(プレジデントオンライン1発行。11時)

19日:1700-1400-880-1057-720-714(プレジデントオンライン2。9時)

20日:790-606-554-465-531-585-523(プレジデントオンライン3。9時)

21日:730-362-134-144-192(人生論・教訓、自己啓発でそれぞれ50位前後まで上昇)

22日:423-415-369-390

23日:565

24日:800-496-352

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映画 マイ・インターン』(原題: The Intern)をみました。2015年アメリカ合衆国で製作されたヒューマンドラマ映画。主演はロバート・デニーロ。退職後の人生を描いた、実にいい映画だと感動。ハッピー・リタイヤを喜ぶ人だけでなく、働く喜びを求める人もいる。日本人と同じだったのが、発見でした。

ニューヨークでファッション通販サイトを運営している女社長のジュールズは、短期間で会社を拡大させることに成功し公私ともに順調な毎日を送っていた。彼女の会社にシニア・インターン制度で採用された70歳の老人ベンがやってくる。いつしか彼はその誠実で穏やかな人柄によって社内の人気者になっていくのだった。

一方その頃、ジュールズには公私ともに大きな問題が立ちはだかっていた。双方において大きな決断を迫られた彼女は、誰にも自身の気持ちを打ち明けることができず苦しい日々を送っていたが、救ったのはベンだった。ベンの温かな励ましを受けていくうちに、いつしかジュールズも彼に心を開くようになっていく。ベンの言葉から勇気をもらったジュールズは、目の前に立ちはだかる数々の難問に立ち向かっていく決意をする。

 I read once , musicians don't retire. They stop when there's no more music in them. Well ,I still have music in me.(音楽家の引退は、自分の中に音楽が消えた時。私の中にはまだ音楽があります。)

 I love the idea of having place I can go every day. I want the connection, the excitement. I wanna be challenged, and guess I might even wanna be needed.(毎日通う場所ができる。人と接し、刺激を受け、挑戦し、誰かに必要とされたい。)

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5人のインタビューの資料整理:7月中に最初のかたちにしたい。

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「名言との対話」7月24日。金子徳好アメリカのベトナム侵攻に反対の意思を示すぞ!!」

金子 徳好(かねこ とくよし、1924年7月24日 - 2007年11月26日)は、反戦活動家・平和活動家・ミニコミ研究家である。

東京都渋谷区生まれ。東京高等農林学校(現・東京農工大学)中退。戦後渋谷でローカル新聞を主宰する。労組書記(全銀連)を経て、日本機関紙協会に勤務した。

1965年、同僚との飲み会で、「アメリカのベトナム侵攻に反対の意思を示すぞ!!」と、酒の勢いでベトナム戦争反対を宣言する。同僚もいいぞ!と盛り上がる。反対してくれると思った妻からも激励されてしまう。「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンをつけて8年間にわたり通勤するはめに陥った。通勤途中も職場でも奇異の眼で見られたが、メディアも取材も相次ぎ、本家ベトナムでも英雄視される。その記録として『ゼッケン8年』(朝日新聞社)を1974年に刊行している。現在、ベトナムホーチミン市の戦跡博物館の入口に、ゼッケンとベトナムのVIPとの写真と金子の紹介が大きく出ている。

2014年には息子の金子修介『ゼッケン8年: ベトナム戦争反対のゼッケンをつけて8年間通勤した男の手記』がkindle版で復刊している。修介は平成『ガメラ』シリーズ『デスノート』の映画監督である。

1981年10月には核廃絶を訴え再びゼッケン通勤を始め、1984年の広島原爆忌まで続けた。退職後は地域のミニコミに力を入れ、地域からの平和運動を続けている。その成果である金子徳好編『自分たちのネットワーキング メディアのつくり方』(広樹社)を読んだ。

初心者が知っておくべきメディアづくりの基本ーー企画・編集、レイアウト・レタリング・版下づくり、印刷・製本などが記載されている。そしてミニメディアのオン冊・出版関連者のネットワークでつくりあげている。

1987年発刊だから、金子は63歳。「このところ私は埼玉県内のいくつかの公民館でPTA新聞のつくり方の講座にとびまわっています」とあり、忙しそうだ。メモをとれ、人間が「まめ」であれ、などの励ましがある。「自叙伝とじぶん史」という項がある。自叙伝は立志伝であり、成功史、自慢史だ。じぶん史は正直で率直な「思い出」を読み物にしたもので、著者の人となりとその時代を知ることができるものと説明している。この時代にこんな人間が生きていた、というあかしなのだ。

この本の最後に「じぶん史」を書けとすすめている金子徳好は、50歳で『ゼッケン8年』を書き、死後に息子が『ゼッケン8年: ベトナム戦争反対のゼッケンをつけて8年間通勤した男の手記』として復刊している。この本こそ、金子のいう「じぶん史」だろう。1960年ー1970年のベトナム戦争時代には、こんな人間がいたことがわかる。「じぶん史」の効用である。

 

 

 

 

 

 

国立近代美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展

国立近代美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展。

「彫刻の宇宙」「かろみの世界」「石の庭」の3勝立ての本格的な企画展だ。石の彫刻とちょうちんの展示を堪能した。

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イサムノグチの言葉を聞こう。

  • 自然石と向き合っていると、石が話を始めるんですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。近頃は彫ったりm磨いたりする量が少なくて済むようになりましたね。
  • 自然が、木や石ががどのように一体となっているか見る、これは命を鑑賞することです。彫刻がこういうものの一部としてあるのは、私にとって大いなる喜びです。
  • 私たちはみんな発見の過程にいるわけだ。

安藤忠雄は、イサム・ノグチの最高傑作は、未完に終わった「原爆死没者慰霊碑」を挙げている。地上4mの高さで屹立する重厚な黒御影石のアーチ。死没者名簿を納めた地下へと続く。この地中の空間は、生命を育む子宮、再生の象徴であった。

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 図録の最期の松岡正剛の解説がいい。さすがだ。

  • 重い石に興じたいイサムは、他方では軽い「あかり」にも興じた。勁い石とと柔らかい光の両方にアーティストとしての生涯を捧げたことは、イサムノグチの真骨頂だった。
  • すばらしいコラボレーターとの共感を自在に生かしたアーティストだった。選んだ相手が格別だ。…、その都度時代に応じて相手を選び、場所と素材に向かい、その制作作業を通してなにがしかの新たな「発見」に取り組んだ。その発見はことごとく「関係の発見」だった。
  • 私は初めて気にいった「あかり」を買って、仕事場の一隅に置いた。暖かいものに包まれた。ふいに気がついた。これは拉致されないのだ。そこで数日後にまた買って、書斎にぶらんと吊した。そこで気がついた、イサムノグチの「上あかり」が一切の光源を見えなくしているということを。そして合点した。これって「石の光」だと言うことを、…。

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「名言との対話」7月23日。磯崎新「境界線、いいかえると閾の所在を見つけること」

磯崎 新(いそざき あらた、1931年昭和6年)7月23日 - )は日本建築家

大分県大分市出身。 1954年東京大学工学部建築学科卒業。 59年同大学院修了。丹下健三氏に師事。 1963年独立。東京大学ハーバード大学客員教授、国際コンペの審査員などをつとめる。 1970年代から 80年代にかけて近代建築批判を展開、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」などさまざまなキーワードを提示して日本建築界をリードした。

主要作品は大分県医師会館 (1963) 、群馬県立近代美術館 (74) 、北九州市立美術館 (74) 、北九州市立図書館 (74) 、古典様式を用いてポスト・モダン建築として注目を集めたつくばセンタービル (83) 、水戸芸術館 (90) など。

ロサンゼルス近代美術館 (86) 、バルセロナのサンジョルディ・スポーツ・パレス (90) など国際的に活躍。日本建築学会作品賞 (67、75) 、芸術選奨新人賞 (69) 、RIBA (イギリス王立建築家協会) 金賞 (86)、,朝日賞 (88) など多数受賞。著書に『空間へ』 (70) 、『建築の解体』 (75) 、『建築の修辞』 (75) 、『建築という形式』 (91) などがある。  

磯崎新の思考力』(王国社)を読んだ。

師の丹下健三がつくった広島の原爆慰霊碑についての記述がある。アメリカは、慰霊碑を作るのは反対。日本はアメリカがアメリカ人のつくったもので死者の魂が慰めらえるか、と慰霊碑をつくるのは許さない。イサム・ノグチははずされる。丹下は「平和への祈り」にシフトしていく。その結果が広島平和記念館だ。

「工事中の広島ピースセンター」という丹下健三の撮った圧巻の写真がある。広島平和記念館の位置はかつて墓地だった。写真の下半分は墓碑が林立する墓場で、その先には建築中の平和記念館がある。原爆の死者たちとその先祖がいるそこに、あらためて死者をまつる施設をつくろうとする建築家の視点がわかる。磯崎はが学生のころ、この撮影者と同じ位置に立って、生と死が重層してみえる過程にかかわる仕事があると知った。そして丹下に弟子入りする。

この本では、丹下健三論が多い。弔辞も弟子を代表して磯崎が読んでいる。磯崎は近代国家日本の最初の建築家であり、最後の人でもあった。ピロティの高さ、プロポーションの長方形は畳や障子に近いという分析をしている。丹下は20世紀の廃墟に直面した世界でただ一人の建築家だという。

磯崎は大阪万博丹下健三の大屋根のアイデアをだした。そこに岡本太郎太陽の塔で大屋根をぶち抜くと主張して大騒ぎになった。磯崎はアナクロなデザインで驚く。理解不能な不気味な姿を磯崎は、日本の地霊だと感じる。結果的には太陽の塔だけが生き延びた。1970年の大阪万博は日本の最後のイベントだ。国家的祭典は終わったと喝破する。愛知万博も意義を認めない、そして本日開会式を迎えた「東京五輪2020」も同じようにおもっているのではないか。

9・11世界貿易センターに自爆機が突っ込み崩壊させる。テクノロジーの極致といえる産物が同じテクノロジーの別の産物によって破壊されたとみる。その結果、「グラウンド・ゼロが冗長性(リダンダンシー)を増加させる?」との予想もしている。「10年後、上海と東京には大きな差が現れる」「首都移転ーー志なく動機も見えず」、、。
磯崎の作品は国内、海外にも多い。私がみたことがあるのは、二つの建物だ。福岡相互銀行本店は、福岡のまちに降り立つときはかならずみている建物だ。大分ビーコンプラザは2005年に別府市で医師会設立の看護専門学校50周年記念総会で、医師・現役看護師・看護学生ら700人を前に大ホールで講演したときに、そのスケールの大きさに驚いた記憶がある。

磯崎新は建築そのものもいいが、その根底にある思考とそれをあらわす言葉も心に刺さる。この本の「あとがき」に「真に今日的な文化上の問題の所在は、さまざまな専門化された領域間の境界線上に発生しており、この境界線、いいかえると閾の所在を見つけること、そこに錯綜する視線をときほぐすこと、それがいちばん緊張感の生まれるところで、私の思考もここに集中している」と書いている。

境界線、閾、錯綜する視線、緊張感、思考の集中。分断化された専門領域をまたぎ、横断的、総合的、全体的な把握と思考の営みが求められているという主張には共感する。

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東京国立近代美術館『隈研吾展「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」』

東京国立近代美術館の『隈研吾展「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」』を先日みてきました。

 今話題の「東京五輪2020」のメインスタジアムを設計した時の人です。東京在住者にとって身近なものでは、他には根津美術館や、丸の内のKITTEが隈の作品があります。

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  • 国立競技場のプロポーザルでは伊東豊男と隈の両者が競った。伊藤は主要構造部に木を使おうとし、隈は二次構造に木を使った。深いの際太陽光をカットすると同時に自然の風を取り込む。巻の上部には東京の野草が30種余り植えられている。そのことによって外苑の森と湖の競技場と柔らかくつなぎ合わせたのである。馬が用いた木材は日本の47都道府県の様々な色合いと緑を持つ子下剤を用いている。日本の多様性を示すスタジアムである。塩対応した大屋根の下には木漏れ日で満たされた森のような空間が生まれた。その下にモザイク状の椅子を配置し落ち葉が敷き詰めてあるような柔らかな観客席が生まれている。 大きなスタジアムを小さい器の集合体としてデザインをした。日本の伝統的建築の様式を用いて。サスティナブルの循環思想を現代の巨大建築にも適用した。ローカルな生で巨大なスタジアムを作ったのである。
  • 800年後の方丈庵と言う作品が目についた。鴨長明の没後800年を記念した現代のモバイル型住宅である。透明な超軽量の移動式住宅が出来上がっていた。
  •  JPタワーKITTE。東京中央郵便局の内装リノベーションも担当している。
  • 和の巨匠、吉田五十八の第4代歌舞伎座の後継たる第5代歌舞伎座のデザインを担当した。屋上日本庭園、隣接する形でカフェとミュージアムを併設してして、劇場の上部にも都市の回遊性を立体的に延長させた。地下鉄と直結する地下広場は通常は屋台を中心とする賑わいの空間であり災害時には防災広場として機能するように設計されている。

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この企画展は5つに分かれていた。孔。粒子やわらかい。斜め。時間。隈は世界中を旅行するときにiPhoneで写真を撮る。

孔: モニュメント的建築(オス的建築)に対して洞窟的建築(メス的建築)に分類される。

粒子:粒子があるからこそ、世界に住むことができる。粒子のサイズに於いてより小さなものを追求しより自由を希求するのだ。

やわらかい:猫は素材の柔らかさやざらざら感に対し極めて敏感である。仮説的なものは柔らかい。

斜め:写真にして造園家の小堀遠州。様々な斜めのデザインを作った。公家文化と武家文化のアウフヘーベンであった。斜めとは折衷でも止揚でもなく農業以前の大地への回帰である。

時間:物をボロくsるるための時間概念。未来にも過去にも自由に働くかけることができる。

小さくする。粒子。柔らかくする、斜めにするという手法はボロくすることである。それはエイジングと言う手法と同様だ。

コロナ禍は、ハコが人間を少しも幸福にしないと言うことを教えてくれた。猫ちゃんの建築5656原則。半ノラ猫にiPhoneをつけて自由にさせた。多くのヒントを与えてくれた。近所にいくつかの拠点を持つ半ノラ猫的な習性。ざらざら感。隙間。猫は地形のかすかな変化に応答してふらふらと揺れながら街を歩く。自由であり個性的である。「猫の環世界」から考える都市計画。地に足をつけて生きる多様な主体の視点から見た都市計画。猫の目線に立つ。

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次の本の締め切りは7月末ではなく、8月末。

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明日から始まる東京五輪は日本の「没落と衰退」の象徴となるであろう。

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「名言との対話」7月22日。浜口庫之助「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う]

浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本の作曲家、シンガーソングライター。

兵庫県神戸市生まれ。音楽を愛する一家に生まれ、5才で楽譜を読めるようになる。東京府立第四中学校卒業。一高受験に失敗し働く。後に青山学院大学商学部を繰り上げ卒業する。ジャワ島で農園経営をする商社に就職しマランに赴任。帰国後は音楽活動に入り、ラテンバンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。

1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を「演奏」するのではなく日本の曲を「創作」することこそが重要だと覚睡する。

40歳、「日本人として誇れる日本の歌を作りたい」と、すべてを投げ捨て作曲家への道を歩む。30代の新人作詞家・星野と、40代の新人作曲家・浜口は、レコード会社の指示で無理矢理コンビを組むことになる。育った音楽環境が全く違う二人であり、戸惑もあったが、「黄色いさくらんぼ」のヒットが生まれる。

NHKアーカイブス「人物録」の映像をみた。1960年に守屋浩が歌って大ヒットとなった「有難や節」(作詞・作曲)について語っている。「腹が減ったらおまんま食べて、寿命尽きればあの世ゆき」という驚くべき歌詞とリズムだった。私の子ども心に響いた記憶がある。安保騒動で世の中が騒然としていた雰囲気を吹き飛ばすような歌を作ろうとしたのである。世相を感じ、つかむ力が飛び抜けていた。

日本の詩に西洋音楽のリズムとメロディーをドッキングさせ、ホップで明るい曲想が特徴だ。西郷輝彦「星のフラメンコ」、マイク真紀「バラが咲いた」もヒットしていく。石原裕次郎との出会いがあり、「夜霧よ今夜も有難う」「粋な別れ」「恋の町札幌」などの名曲をつくっていく。浜口庫之助は「ハマクラ」と呼ばれた。時代をつかみ、大衆のための歌づくりをする、「ハマクラ・メロディ」の誕生である。

僕は泣いちっち(歌:守屋浩)(1959年)。涙くんさよなら(歌:坂本九、ジャニーズ、和田弘とマヒナスターズ、ジョニー・ティロットソンの競作)(1965年)。愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)。星娘(歌:西郷輝彦)(1965年)。星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)。バラが咲いた(歌:マイク真木)(1966年)。夕陽が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1966年)。風が泣いている(歌:ザ・スパイダース)(1967年)。夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎(1967年)、吉田拓郎(1977年))。粋な別れ(歌:石原裕次郎)(1967年)。エンピツが一本(歌:坂本九)(1967年)。空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)。恋の町札幌(歌:石原裕次郎(1972年)、、、、。

こうやって並べてみても、その多彩さに驚いてしまう。作詞作曲した歌も多いのも特徴だ。そしてほとんどは今でも私は歌えるから、心に長く残る名曲だらけなのだ。

浜口庫之助は40歳という遅い出発で、しかも比較的若い73歳で亡くなっているにもかかわらず、生涯で5千曲をつくっている。古賀政男古関裕而も5千曲であり、歴代最高クラスの作曲数である。最近では2020年9月20日放送のNHK「ザ・偉人伝」をみてこの作曲家への理解が深まった。

妻と死別した10年後、華麗なる恋愛遍歴に終止符を打ち、女優・渚まゆみと結婚し、57歳で愛娘が誕生し、子育てに目覚める。晩年にはがんが発覚し、凄まじい闘病生活を経て、島倉千代子に「人生いろいろ」を贈っている。1990年に叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退している。

「大衆の中にあるものを拾うのが流行歌を作る人のいちばん大事な観点じゃないかと思う」というハマクラは、「流行歌は作るものではなく、生まれてくるもの」との名言も吐いている。大衆で構成された時代という怪物が要求する歌、口ずさみたくなる歌は、必ずあらわれる。ハマクラは、「流行歌」という言葉をよく使っている。時代感覚に優れた人だったのだ。とらえどころのない時代の心にヒットした歌が流行する。歌というものは長く生き続けるとつくづく思う。作曲家という職業は時代を生きる人々の心を描き出し、生きる勇気を与える神聖な仕事だ。

 

 

 

 

 

 

「ZOOM読書会」にチャレンジーーー反省と収穫と。アマゾンの順位。

『50歳からの人生戦略は「図」で考える』のZOOM読書会を開催しました。

30代から80代の男女10名の参加がありました。30代2人、40代3人、50代2人、60代2人、80代1人。主に図解塾の塾生と多摩大の社会人大学院生で、この本の編集者にも参加いただきました。1時間半。

途中で、2班に分けて話し合うブレークアウトを試してみましたが、活発に交流が行われているのを、両方を往復しながら聞くことができました。

この本は家庭に入っている女性については当てはまるのか、という鋭い質問をもらいました。この点は深く考えてはいなかったのですが、人生100年時代をにらみながら、子育てと介護を軸に整理すると、「青年期・壮年期・実年期・熟年期・大人期・仙人期」というライフステージの考え方は使えることもわかりました。反省をするとともに、私にとっても収穫もありました。読者とのつながりができること、そしていただく意見は実に貴重です。

ZOOM読書会は新たな、そして豊かなフィールでだと改めて感じました。続けていきたい。

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以下、全員が初体験のZOOM読書会の感想です。

  •  久恒先生、皆様、本日もお疲れ様です 今回はブレイクアウトセッションを初めて体験。なんと今朝丁度読み終えた久恒先生の新刊本「50歳からの人生戦略は図で考える」の編集担当の方と同じグループに居合わせるという好機に恵まれることが出来ました その本のクライマックスである「起承転転人生の事例」に登場する人物像のあまりのリアルさ展開のすごさに大変感銘を受けたのですが その事をお伝えするとなんと本当に実在する方の本当のインタビュー取材であったとの事。夫々の主人公が普段はきっと語りたがらなかったであろう自分の失敗や私生活までも克明かつ生き生きと語らせてしまうその質問の極意をお尋ねしました。プロのインタビュアを立てて進めたとの事ですが、やはりベースには「人生鳥瞰図」のフォーマットが有り、事前のリサーチで埋めきれない部分にフォーカスして行われたとの事、なるほど。加えて、読者の心を鷲摑みするなんと「起承転転」に富んだ経歴の方々を発掘するのはなんと編集の方々の人物交流ネットワークによるもので あらゆる切り口のドラマチックをしかも3例。よくも発掘したものだ…その引き出しの多さはとても今の自分ではまねができない すごい人とのひと時を過ごすことが出来ました。「人との出会い」が自分の生活にとても大事であることを認識できた場となりとても有意義でした。次回も宜しくお願い致します。
  • 読書会のお誘いありがとうございました。図解塾の方々との交流も刺激を受けました。新・孔子の人生訓の解釈について意見交換をしたり、個・公・私の「個」にフォーカスした活動を共有しあったり、豊かさと自由のバランスから優先順位の変化について納得したりと、私の読書会初体験は、とても濃い90分間となりました。
  • 久恒先生の読書会に参加しました。『50歳からの人生戦略は「図」で考える』はまだ買っていないのですが、久恒先生に新・孔子の人生訓、人生=公人+私人+個人など解説いただき、皆さんでディスカッションしました。大学院の授業とは違う雰囲気で、年齢層も30代~80代までと幅広く楽しく意見交換できました。仕事をしていると、公人と私人だけになってしまいます。人生100年時代と考えると、個人としてのライフワーク、社会活動など幅を広げたいと思いました。久恒先生の図解塾に参加されている皆さんは年齢を問わず個人としての幅も広げられているようです。学ぶこと、チャレンジすることに年齢は関係ないのかなと改めて感じました。
  • 読書会参加にて。本日は初めて読書会に参加させていただきました。久恒先生著書の「50歳からの人生戦略は「図」で考える」をテーマに行われました。実際に編集をされた編集者の方のお話はこの本がどのように作られていったのかという経緯がわかってとても興味深かったり、既に読まれた方はあっという間に読み終わったと話されていて、まだ購入前でしたが、早く購入しなくてはと思わされる読書会となりました。最後に先生がおっしゃってましたが、30代〜80代の地域も違う方々がzoomを通して繋がりを持てるということはとても面白く感じました。コロナ禍でもこのような繋がりで知り合う事ができることを知り、あらたな楽しみ方を見つけた気がいたしました。本日はどうもありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。様々な世代の方と交流でき、とても有意義な時間になりました。個人としての時間を有意義に過ごしている方は年齢を重ねて輝きを増すのですね。そして、自分の置かれている状況をしっかり納得して向き合う、楽しめる人が人生を豊かにできるのではないかなと感じました。ありがとうございました。
  • 読書会、急遽参加させていただきました。書店で目に入り立ち読みし、読書会があるとのことで迷わず購入し参加して良かった!そう感じています。ブレイクアウトルームでは書籍ができあがるまでの背景をおうかがいすることが出来ました。文章を元に図表で補足するこれまでの本と、図解を軸に文章が展開される久恒先生の著書との違い。インタビューの人選から準備、当日の様子まで、久恒先生をはじめ関係者の方の動きが垣間見えた気がしました。もうひとつのルームの「個って、具体的になにをしていますか?」も面白そうでした。人生鳥瞰図、理解は易く書くは難し?。本を片手に少しずつ書いてみようと思います。貴重な時間をありがとうございました。
  • 読書会、ありがとうございました。全部読み終わっていませんでしたが、楽しく参加させていただきました。2つに分けてのブレークアウトルーム、新鮮でした。初めての方々もいらっしゃいましたが、楽しくお話を伺えて、とても良い時間でした。今は個の時間をじっくり楽しく蓄えながら壮年期を過ごし、実年期、熟年期、大人期、、、へ向けての楽しみが、見えてきそうで、前向きになれてよいお話でした。そのためには、身体に気をつけなければ。ですね。みなさまくれぐれもお体を大切に。また次回もよろしくお願いいたします。
  • 本日は、久恒先生のご著書の読書会の参加させていただきまして誠にありがとうございました。おかげさまで、久恒先生が考案された「図解」コミュニケーションがご縁となって先生とご縁ができた皆さまと、久恒先生や、ご著書、『50歳からの人生戦略は「図」で考える』に関連するお話しをおうかがいしたり、逆に制作側のお話を聞いていただいたりする機会を得ることができたのは、貴重であり得難い体験でした。すでに本書をお読みくださった方から、「この本は最近の本の中では、活字が大きく、太く、大変読みやすい本でした」とのお言葉を頂戴したので、さっそく装幀や本文レイアウトを担当していただいたデザイナーさんに、いいお土産ができたと、ありがたく思っております。また、久恒先生が、本書に登場された事例取材のときなど、どのようなご様子で、お相手のお話しを聞かれていたのか、とのお尋ねがありました。実際にご自身がリサーチやヒアリングされる際に、どのように図を使ってメモを取ればいいかを知りたいのだな、と感じられて、ご自身が図解の技術を、お仕事や日常生活で活かそうとされていることが、よく理解でき、とても興味深かったです。あるいは、事例として登場されておられる方々のこれまでの人生、今後の生き方に対する姿勢について興味や共感を持つことができ、興味深かったとのご感想や、こういった取材対象者をどのように見つけてくるのか、とのご質問をいただきました。ノンフィクションの場合は、お読みいただく方々が、いかにリアリティーや共感を感じ、「自分ごと」と捉えていただけるかは、大切にしていることなので、ご興味を持ってお読みいただいたご様子で、とても励みになりました。先生もご指摘されましたように、わたくしたち作り手は、普段、お客さまである読者の方々のご感想やご意見を直接うかがう機会はあまりありません。特に出版社で現役で働いている編集者は常に締め切りに追われているので、期日までにつくるので精一杯というところがあります。現在のわたくしのような時間に余裕のある立場の者が、もっと積極的に読者の方々のご意見やご希望をおうかがいできる機会を持ち、それを本づくりに活かしていくことが大切だな、と痛感いたしました。このたびは、本当に貴重な機会にお声をかけてくださいましてありがとうございました。今後とも、このような機会がございましたら、お声をおかけくださいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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アマゾンの順位。

18日:20000位。12000位。3200位。

19日:1700位。1400位。880位。1057位。720位。714位。

20日:730位。606位。554位。465位。531位。585位。523位。

21日:362位。134位。144位。192位。

 人生論と自己啓発分野。

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「名言との対話」7月21日。高瀬将敏「技闘師」

高瀨 将敏(たかせ まさとし、1923年7月21日 - 1992年1月28日)は、日本の殺陣師。

 名古屋市出身。生家はいくつもの劇場を経営して興行をおこなう博徒だった。その環境下で剣劇映画に魅せられ、1937年に市川右太衛門プロに入社、殺陣師・市川桃栗の弟子となって修行。右太プロの後身である全勝キネマに引き続いて所属、結貴昌三郎を名乗って俳優として活動する。

1941年に上京、大都映画に移籍するも大東亜戦争で応召、復員後に実演で地方巡業を経て、1951年に東映東京撮影所に入所。『魚河岸の石松シリーズ』(1953年)で出演と格闘の振り付けをおこない、その縁で主演の河津清三郎の義弟となる。

翌1954年、製作を再開した日活撮影所に移籍、ラインナップの核となった現代アクションの格闘振り付けを任される。その際、殺陣に代わる名称として、演技の格闘の意をこめて「技斗」を考案、以後日活以外でも現代アクションを示すクレジットとして使用されるようになる。現代劇における殺陣師に変わる言葉として「技闘師」を名乗った。時代劇で刀や武器を使ったシーンや乱闘の場面を演技したり、現代劇では喧嘩シーンなどで演技指導をするため卓越した運動神経が要求される。

1959年には日活俳優クラブ・技斗部を設立、石原裕次郎小林旭宍戸錠二谷英明らの技斗を指導、アクション路線に貢献し、『都会の空の用心棒』(1960年)における技斗構成で撮影所々長賞を受賞している。

1971年、日活が一般映画製作を中断したことにともない退社し、時代劇の殺陣や現代劇のアクションを教える高瀨道場を府中に創立し、俳優の殺陣と技斗の稽古場として広く門戸を開放した。日活時代の友人である二谷英明招請で「特捜最前線」の技斗を担当している。高瀬道場は実子の高瀬将嗣に譲る。

 代表作は斉藤武市監督〈渡り鳥〉シリーズ、松尾昭典監督〈男の紋章〉シリーズ、ラストの「白兵戦」が語り草になっている鈴木清順監督「けんかえれじい」。

もともとは「殺人」(サツジン)という言葉だったが、物騒だというので、ジンという同じ読み方の「陣」を使った。それを「タテ」と呼んだ。「殺陣師」(タテシ)という職業があることは知っていたが、どういう仕事なのか、どういう人が従事しているのかは知らなかった。この分野のスターの生涯を追いかけて、少し理解ができた感じがする。アクションスターの元祖・千葉真一の「ジャパンアクションクラブ」も、この流れの中にあるのだろうか。多摩大の学生でこのクラブに入ったものもいたことを思い出した。