高橋源一郎「飛ぶ教室」ーー関川夏央『人間晩年図巻1995-99年』

高橋源一郎飛ぶ教室の24日分をウオーキングしながら聴く。

「秘密の本棚」は、「90年代後半に晩年を追い来た人たちから学ぶ」というタイトルで、関川夏央『人間晩年図巻1995-99年』(岩波書店)を紹介していました。戻って私の本棚からこの本を取り出して再読しました。

1995年からの5年間は、90年代初めのバブル崩壊を受けて、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件から始まる。21世紀直前に亡くなった人の晩年を中心に描いた意欲作だ。各年の亡くなった人を並べている。

1995年は、公文公など。1996年は司馬遼太郎、難波康子、フランキー堺渥美清など。1997年は藤沢周平、鄧小平、勝新太郎伊丹十三など。1998年は村山実木下恵介など。1999年は芦田伸介江藤淳など。

このシリーズは1990-1994年版、1995-1999年版、2000-2003年版、2004-2007年版、2008-2011年まで出ているようだ。関川はずっと続けるのであろう。

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関川が参考にしている山田風太郎『人間臨終図鑑』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ(徳間文庫)は15歳で死んだ八百屋お七から121歳の泉重千代までの日本と世界の923人を、死んだ年齢別に取り上げて臨終の様子を描いた列伝である。1986年9月から1987年3月までの刊行作品だ。

関川夏央山田風太郎の衣鉢を継ごうとしている。3冊を本棚から取り出して構成を確認する。

人間臨終図巻 1-3巻セット (徳間文庫)

各年齢(一部年代)ごとに、主として医学を学んだ山田風太郎が「死」についての自身の箴言を載せている。それらを順に列挙してみよう。山田風太郎の死生観がわかる。

「死をはじめて想う。それを青春という」「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだのと同然になる」「路傍の石が一つ水に落ちる。無数の足が忙しげに道を通り過ぎてゆく。映像にすればただ一秒」「人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る」「もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう」「敵を隔てて痒きを掻く。生を隔てて死を描く」「臨終の人間「ああ、神も仏も無いものか?」 神仏「無い」」「また臨終の人間「いま、神仏が無いと言ったのは誰だ?」 答え無し。--暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやって来る」「自分と他人との差は一歩だ。しかし人は永遠に他人になることは出来ない。自分と死者との差は無限だ。しかし人は今の今死者になることも出来る」「この世で最大の滑稽事は、自分が死ぬことだ。にもかかわらず、およそ人間のやることで、自分の死ぬことだけが愚行ではない」「臨終の人間「神よ、世界の終りの日の最後の審判などいわないで、いま審判して下さい。まぜ、いま、私が、、、、」 神「では、いおう、最後の審判がいまだ」」「あの連中も待ってゐることを承知の上で、それでも君は「死後の世界」があることを望むのか?」「最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う」「死の一秒前の生者「おれを忘れるな、忘れてくれうな!」 死の一秒後の死者「おれを忘れろ、忘れてくれ!」」「性の快楽と死の苦痛は万人平等である、しからば、なぜそれ以上の平等を求める必要があるのだろうか」「みんないう。…、いつか死ぬことはわかっている。しかし「今」死にたくないのだ」「…、いろいろあったが、死んでみれば、なんてこった。はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、皆の衆」「死が生にいう。「俺はお前がわかっている。しかし、お前には俺がわかっていない」」「死の瞬間に、何びとも悟るだろう。…、人生の目的なるものが、いかにばかばかしいものであったかを」「自分の死は地球より重い。他人の死はイヌの死より軽い」「どんな臨終でも、生きながらがらそれは、多少ともすでに新曲地獄編の相を帯びている」「いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることができない。いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることができない。何と言う絶対的な聖域」「生は有限の道づれ旅。死は無限のひとり旅」「幸福の姿は一つだが、不幸の形はさまざまだ、とトルストイはいった。同じように、人は、生まれてくる姿はひとつだが、死んでいく形はさまざまである」「人間は、他人の私には不感症だ、と言いながら、なぜ「人間臨終図鑑」など書くのかね」「…、いや、私は解剖学者が屍体を見るように、さまざまの人間のさまざまな死を見ているだけだ」」「自分が消滅した後、空も地上も全く同じ世界とは、実に何たる怪事」「老いても、生きるには金がかかる。…、人間の喜劇。老いても、死ぬには苦しみがある。…、人間の悲劇。地上最大の当然事、、、他人の死。地上最大の意外事、、、、自分の死」「人間は青年で完成し、老いるに従って未完成になってゆき、死に至ってとって無となるのだ」「人間「うまいものは、一番あとにとっておこう」。癌「食物の話なら、それもよかろうが。、、、ワハハ」「人間たちの死は「臨終図鑑」のページを順次に閉じて、永遠に封印してゆくのに似ている」「これこそまさに昼と夜の戦いだ、と死床のユゴーはいった。しかし夜の次にもう昼は来ない」「長命者は大空に残った薄雲に似ている。いつまでも消えないな、と眼を離すと、いつのまにか消えている」「人間には早すぎる死か、遅すぎる死しかない」「…、意味があって、長生きするのではない」「災いになるかな老いて痴呆と病苦に陥らざるもの、彼は死の憧憬を持つ能わざればなり」「残り少ない余命の死が、残り多い余命の苦痛において同量だとは」「人間の死ぬ記録を寝ころんで読む人間」「別れの日。行く人「やれやれ」 送る人「やれやれ」」「人は、忘れられて死んだ方が幸福である。なぜなら、彼はもう音もなく死んでいるのだから」

この2つの本は、大いに参考になった。

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テレビ

  • 全日本柔道選手権(令和3年)の準々決勝から決勝までをみた。準決勝、決勝は「旭化成」の選手のみで驚いた。全日本王者は太田彪雅(24歳)が連覇を目指した羽賀龍之介を破った。紙一重の実力差の猛者たちが繰り広げる試合だが、それでも決勝は昨年と同じ2人の対決だった。太田は昨年負けた原因を研究し尽くして王者になった。
  • フィギュア全日本選手権羽生結弦(27歳)が圧巻の優勝。異次元の境地にいる感じがした大谷翔平も27歳、29歳の松山もいる。スポーツの世界での若い世代の活躍は素晴らしい。
24歳の太田彪雅フィギュア全日本選手権羽生結弦(27歳)が圧巻の優勝。
  • NHK大河ドラマ「青天を衝け」最終回。渋沢栄一については記念館も訪問し、自伝も読み、各所にのこる事績もみてきたが、このドラマでさらに知識が深まった。

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今日のヒント

ジェームス・オッペンハイム「愚かなる者ははるかに遠いところに幸福を探し求め、賢い者は足元で幸福を育てる」。

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年末年始にやるべきことを書きだす。1日1万歩を目標とするか。今日は9200歩。

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「名言との対話」12月26日。山田政雄「娘を元気に育てたい」

山田 政雄 (やまだまさお 1927年12月26日〜2015年1月21日)は、日本の経営者。 山田養蜂場 創業者。

徳島県出身。1960年、娘が先天性の心臓疾患をもって誕生し、山田は「何とか元気に育てて、心臓の手術をさせたい」と決意する。ローマ教皇ピウス12世が危篤状態から奇跡的に回復したのにあずかったのがローヤルゼリーということを知って、ミツバチを飼い、独自にローヤルゼリーを大量生産する技術を習得する。娘は大切な命を落としはしたが、多くの人の健康を守るためにもっと研究し、ローヤルゼリーをたくさんの方に届けなければならないという使命に目覚める。

その後、家族経営で生産した蜂蜜やローヤルゼリーを卸や催事で販売していた時代を経て、通信販売による健康食品や化粧品の事業へと拡大・発展していく。

山田養蜂場のホームページによれば、元々は同じミツバチの幼虫であるが、女王蜂となる幼虫のみがローヤルゼリーを与えられて育ち、体の大きさは働き蜂の約2~3倍となり、寿命は働き蜂の1ヶ月に対して3~4年となる。そして毎日約1500~2000個もの卵を産み続けるという驚異的な生命力を支えているのがローヤルゼリーだと紹介している。

2019年に河口湖庭園に建つ「ふじさんデッキ」訪問したことがある。高さ13メートルの展望台で富士山のきれいな全貌を目におさめることができる新しい名所だ。この庭園は春には桜やツツジ、初夏にはラベンダー、秋には紅葉、冬には大温室で育成中のハーブと花を楽しむことができる。

この庭園の園主は志村忠良という人だった。3歳の孫がアトピー性皮膚炎になる。ローズゼラニウムというハーブの乾燥葉をすすめられて風呂に入れて試すと痒がらなくなる。サトウキビのアルコールで抽出液をつくり孫に持たせる。同じ悩みの人たちに分けてあげると大きな反響があった。化粧品として認められたが、原料の供給が間に合わなくなる。考え抜いた末に「大きい会社でなくていい、信頼される会社にしていこう」「主原料は自分たちの手で栽培していこう」と決心する。ナチュラル倶楽部のマークは、「おじいちゃんの愛情」の姿だ。

この物語には感銘を受けた。この園では、ふじさんデッキの女性スタッフ、温室の青年、ナチュラル化粧品の販売所でハーブティを出してくれた女性店員など、誰もが親切に声をかけてくれる。「いい仕事をしている」という意識を感じる人たちだった。園主の理念が隅々まで浸透していると感じた。

私が通っているオステオパシーという体の施術をする院長からは、自分の体の不調をなおすために試行錯誤を重ねて、資格をとり、多くの人を救う仕事をることになったと聞いている。

どれも自身だけでなく、娘、孫という肉親の治癒のために、必死で独自に研究を重ねていく中で、自然な形で事業にいき着くというケースである。こういう創業の物語をもつ企業は良心的な商品やサービスを継続的に提供しているケースが多いように思う。

                         (参考:山田養蜂場のHP)

 

 

 

幸福論。幸せのカタチ。小さな幸せ。至福の時間。

今日のヒント「幸福」「幸せ」。

小椋佳「酒も小半(こなから)、欲望も小半にしておきましょう。それが幸福という状態だと思いましょうと。これは慢性現状不満症の僕の戒めを込めた幸福論です。」(小半は4分の1合。『文芸春秋』2022年1月号)

清水良典(文芸評論家)「自粛と緩和が繰り返される中で、重苦しい忍従の閉塞感慣らされてしまった我々の内部で、人間関係や幸福の概念が静かに変質しているように思われる。(日経2021年12月25日)

東京新聞12月25日。こちら特報部「幸せのカタチ」

コロナ禍は日常生活を大きく変えた。そんな中で市井の人たちはどんな幸せを望むのか。イブの東京を巡り、コロナ禍の幸福論を聞いてみた。(中山岳、木原育子)

  • 「私の幸せ?お金がたくさんたまることかな」(ガールズバー店員21歳)
    「趣味が合う人や職場の同僚たちなど仲間に恵まれていることが幸せ」(大阪市の警備業。46歳)
  • 「今の幸せは独りでも多くのリスナーから応援してもらうこと」(自撮りでネットで観光紹介のする派遣社員38歳)
  • 「自分と、ペットを含めて家族や身近な人たちが健康なことが幸せ」(主婦。47歳)
  • 「自分は何とか仕事をこなして減給もない。日々、心配事がない状態を幸せと言うのかな」(会社員男性52歳)
  • 「何が幸せって、生活が平穏無事に続くことじゃないの」(社長74歳)
  • 「やっぱり三食、食べられることが幸せでしょう」(経営者男性62歳)

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買い物途中で、通りがかりのUP LIFTのミニ公演を楽しみました。これも小さな幸せか。

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夜は深呼吸学部の今年最後の講義。

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赤田祐一。衣。中国。深呼吸新聞社。深呼吸マガジン。AIのべりすと。2022年。

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「名言との対話」12月25日。江藤淳「最後の最後まで仕事が続けられるように心がけ、そしてひと握りの理解者に囲まれて生を全うしたいものだ」

江藤 淳(えとう じゅん、1932年(昭和7年]12月25日 - 1999年(平成11年)7月21日)は日本の文芸評論家、東京工業大学慶應義塾大学教授等を歴任した。明治国家を理想とする正統的な保守派の論客として論壇で異彩を放つ。

江藤淳、この人の本は評価も高く読者も多いのだが、何十年作家家業をやっていても、自分の本を読者が読んでいる姿を見たことがなかったそうだ。ところが、山手線に乗って座ったら向い側の紳士が自分の最新刊(山本権兵衛を描いた「海は甦る」だったか)を熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、またその姿と表情ををじっと感動を持って眺め続けたとのことである。勇気がなくて「その本の著者の江藤淳です」と声をかけることができなかたことを悔やんでいる。
「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」平成11年7月21日 
「家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまったいまとなっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである」
結局は、仕事と仲間、ということになるのだろう。


以上は、2016年に書いた「名言との対話」だ。その後、いくつかの情報を得ているので、それを加えたい。

2019-06-19 神奈川近代文学館で「江藤淳展」をみる。近代日本の先駆者の評伝、史伝、GHQ占領史などを手掛けた論客。1982年以来、当財団の理事をつとめたこともあり、没後20年を期して企画展を開催した。

1932年(昭和7年)誕生。少年時代と晩年に鎌倉に住んだ。21歳、慶應義塾大学文学部に入学。22歳、自殺未遂。23歳、三田文学に『夏目漱石』を書いて文壇デビュー。本名は江頭淳夫、ここからペンネームを江藤淳とした。『夏目漱石『』(下)は後の妻・三浦慶子(1933-1998)が清書。ピョンヤンで母子で収容所に入れられ、脱出し、米軍に保護されるという体験を持つ。25歳、大学院にすすむ。三浦慶子と結婚。26歳、1958年、「若い日本の会」を石原慎太郎大江健三郎らと結成。『奴隷の思想を排す』(文芸春秋新社)を書く。学生の身分で商業雑誌に寄稿することが問題となり、退学勧告がでる。授業料は払うが、1年間授業には出ない。27歳、1959年、『作家は行動する』(講談社。装丁は石原慎太郎)を書き、予定通り自主退学。1961年、29歳『小林秀雄』(講談社)。30歳、ロックフェラー財団研究員として夫婦で渡米。『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞。31歳、プリンストン大学客員助教授となり、日本文学史を講義。「アメリカと私」。「私が東京の生活の中では意識の底にかくされていた自分をとり戻すにつれ、私は遂に米国の社会に、より深くうけいれられはじめたのである」。35歳、『江藤淳著作集』全6巻。38歳、『漱石とその時代』第1部、第2部刊行。菊池寛賞野間文芸賞。39歳、東京工大助教授。41歳、教授。41歳、『江藤淳著作集 続』全5巻。42歳、『江藤淳全対話』全4巻。43歳、慶應義塾大学に学位申請し、文学博士号を取得。44歳、1976年、『海は甦る』全5巻(1983年まで)。50歳、鎌倉に転居。52歳、『新編江藤淳文学全集』全5巻(1985年まで)。59歳、慶應義塾大学環境情報学部教授。61歳、『漱石とその時代』第3部。64歳、大正大学大学院教授。66歳、妻・慶子死去。1999年、自殺。享年66.『漱石とその時代』第5部(未完)。

福沢諭吉の文体」。「特徴は著者の肉声が聞こえる文体にある」。福沢諭吉「学問のススメ」が座右の書。「心身を労して私立の生計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり」に共鳴し、たびたび引用した。江藤淳の原稿には書き直しがない。「漱石とその時代」がライフワーク。38歳から66歳までの28年間。全5巻(最後の巻は未完)。

日本の有識者は、「無条件降伏ではなく、有条件降伏と考え、保証占領、先例を発見するに苦しむ新種の占領と考えていたこと」を発見する。

書斎が再現、座り机。座布団が2枚。論文は万年筆、エッセイは鉛筆。

遺書「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う。諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」。河出書房新社江藤淳』、『海舟余波』を購入。勝海舟福沢諭吉の考えの相違についても江藤は分析している。勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。 

2019-07-09 『江藤淳ーー終わる平成から昭和の保守を問う』(河出書房新社)を読了。2019年5月発刊。神奈川近代文学館で買った本。論争家。批評家。講演の名手。占領史研究。1956年に刊行された批評家・江藤淳の第一作『夏目漱石』は生活人としての漱石という新しい漱石像を提示した。代表作は『漱石とその時代』であった。第5部まで書かれた。しかし、不思議なことに、江藤の自死によって、このライフワークは未完に終わっている。

・完璧な原稿を編集者に渡すことが誇りだった。(福田和也)・漱石の次には谷崎潤一郎を書くと決めていた。・意図的な自死は人間の(最後の)表現活動なのだ(西部邁)・漱石はあまりに著者である江藤淳に似ていたのだ(高橋源一郎

以下、江藤の言葉。

「創造性があるとか、ないとか、そのようなことは問題ではない。ぼくは創造せねばならないのだ」(高校3年生の時の書きつけ)

「死ぬときにはどうしたら一番効果的かを考え、それには「憂国」を演じるのがいちばんだと思ったのではないか。練りに練った末の三島自作自演の一幕ではないか。そういう気持ちをどうしても拭えないのです。」

「みんなを「敵」としておいて、そのどの敵とも時と場合に応じて「正心誠意」合従を企てる。それが海舟のよって立つフィロソフィーであった。」(江藤淳『海舟余波』)

「どんなに出来の悪くて、やる気のない生徒であっても、教員が本気で取り組んでいるかは、驚くほど敏感に感じる、だからこそ、われわれ教員は、常に本気で生徒に接しなければならない。」(慶應SFCの教え子)

アメリカ人は何でパーティなんてやるんだろう、寂しいからだなと思ったんです」(上野千鶴子との対談)

最初の「名言との対話」以前の江藤淳についてのブログから。

2016-02-16。 文藝春秋3月号の「最後の言葉」という特集が目についた。「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」「家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を1人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまったいまとなっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである」「最後の最後まで仕事が続けられるように心がけ、そしてひと握りの理解者に囲まれて生を全うしたいものだ」
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この人の本は評価も高く読者も多いのだが、何十年作家家業をやっていても、自分の本を読者が読んでいる姿を見たことがなかったそうだ。ところが、山手線に乗って座ったら向い側の紳士が自分の最新刊(山本権兵衛を描いた「海は甦る」だったか)を熱心に読んでいる姿をみた。江藤は驚き、そのまま食い入るようにその紳士の表情と目線を追い、その姿と表情ををじっと感動を持って眺め続けたとのことである。
考えてみれば、小説や評論を書き続け読者がたくさんいるということは知ってはいたが、実際に読んでいる人を見たのは初めてだとそのエッセイで述懐していた。勇気がなくて「その本の著者の江藤淳です」と声をかけることができなかたことを悔やんでいる。話しかけようと思ったが、江藤ですら固まってしまったというエピソードを紹介していた。たしか文春だった。
私にも同じような体験がある。2011年。立川の駅ビルで昼食を食べて、そのフロアにある書店に入った。私の新著『人生の道を拓く言葉130『』(日経ビジネス人文庫)がどこに並んでいるかを見ようと軽い気持ちで書棚を眺めたら、一番前面の文庫のコーナーの上の方に面を出して並んでいるのを見つけた。一緒に並んでいるのは、右隣は「戦略の本質」、左は「28歳の仕事術」と「人事部は見ている」で、いいところに置いていただいていた。ふと隣に女性が入ってきて、いきなり私の『人生の道を拓く言葉130』本をつかみあげた。驚いて少し下がって静かにその光景を確認する。この女性は買うのだろうか、買わないのだろうか。右手で2回ほどめくって内容を確認していると思ったら、それを片手に他のコーナーへ行ってしまった。そして実際にレジで購入するという一連の流れをまじかでみた。

この女性はキャリアウーマンと思しきはっきりとした顔立ちであったが、雑誌のコーナーなどを身軽に飛び回って物色している。私の本は肩にかけるようにしているので、私の位置からは遠目に表紙が見て取れる。こういう光景に出合うことはまずないと思い、バッグの中から小型カメラを取り出して構えることなく、さっと撮影してみた。

この女性は新著に最初から関心があったのだろうか、題名にひかれたのだろうか、、。この短い時間は、今でもありありと思い出すことができる。この間の時間はどのくらいだっただろうか、長い時間だったような気もするが、実際は一瞬の出来事だったと思う。この時間は、今になってみると至福の時間であったと思う。こういう読者の顔を意識して次の仕事にあたらねばならないとやや興奮して考えてしまった。

自分の著書を実際に買う光景を見たのは、これが2回目だ。書店で手にする人は何度も見ているが、人は簡単には買わないものだ。最初は宮城大学時代に、仙台の大型書店で、これも女性が手にして買おうか迷っていた。そして買うことに決めたと思われるその瞬間に、思い切って「それ買いますか。私が著者です。」と話しかけてみた。相手は一瞬びっくりして少し後ずさった感じだが、「そう、今は仙台にいらっしゃるんですね」と返事をしてもらった記憶がある。

 

妻の死に衝撃を受けて自死を選んだ江藤淳は、多くの理解者に囲まれて素晴らしい仕事をなし遂げたから幸せな生涯であった思う。そして作家として読者の姿を初めて見たときに感動して固まってしまたっという江藤のエピソードに私は共感する。その短い至福の時間こそ、永遠の時間だったのではないか。幸せというより、「至福」という言葉が似合う。

 

 

 

 

 

『文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』ーー2023年まで14冊という大がかりな企画。

文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』。

文芸春秋』は大正12年1月30日に第3種郵便物認可を受けている。その1923年から100年近く刊行が続いている菊池寛が発行した総合雑誌だ。「創刊100周年記念特別号」は2023年2月号まで14冊続く、その第1号だそうだ。記念特別号が1年以上続くという大がかりなこの企画は、この100年を総ざらいするものになるだろう。毎号、楽しみにしたい。

「文春」を買うと、いつも読む項がある。各界で成功したいろいろな学校の同級生たちが登場する「同級生交歓」。トップが阿川弘之立花隆藤原正彦と続いている「巻頭随筆」。経済界の人事情報を明かす「丸の内コンフィデンシャル」。官僚社会の人事を説明する「霞が関コンフィデンシャル」。最近亡くなった人物を悼む「蓋棺録」(今月は中根千枝。古場竹識ら)。

「巻頭随筆」のトリは、いつもローマに住む塩野七生だが、載っていなかった。病気かなと思って中を覗くと「ローマでの大患」というタイトルの闘病記が載っていた。

この号の注目は、以下。

  • 激突!「矢野論文」バラマキか否か。小林慶一郎VS中野剛志
  • 100年の100人
  • 新連載「菊池寛 アンド・カンパニー」鹿島茂

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今日のヒント 東京新聞2021年12月24 今年1年の「幸せなエピソード」

「新聞のチラシで健康ボウリング教室を見つけ、ワクワクしながら応募しました。大人気だった頃は子育て中で見ただけ。少しずつ投げられるようになり幸せです。」(愛知県リングばば(80))

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「名言との対話」12月24日。阿川弘之「私の『履歴』を一と言で記せば、『地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る』、これだけである」

阿川 弘之(あがわ ひろゆき1920年大正9年)12月24日 - 2015年(平成27年)8月3日)は、日本の小説家、評論家。 1999年文化勲章

広島市生まれ。東大国文科を繰上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。戦後、志賀直哉の知遇を得て師事し、1953年、学徒兵体験に基づく『春の城』で読売文学賞を受賞。同世代の戦死者に対する共感と鎮魂あふれる作品も多い。主な作品に『雲の墓標』『舷燈』『暗い波濤』『志賀直哉』のほか、『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の海軍提督三部作がある。

まだビジネスマンだった40歳頃のこと、この阿川先生にお目にかかったことがある。広報の責任者をしていたときに、頼んだ原稿の件で、部下の対応に問題があって謝りにご自宅に伺った。ご本人も自ら「瞬間湯沸かし器という綽名をもらっている」とこの本の冒頭の「老人の不見識---序に代えて」で述べているように、怒りっぽいことは知られていた。
電話でアポイントをとろうとしたら、体調を崩されて入院から戻ってこられたばかりだったことがわかったので、まずお見舞いの花束を贈っておいた。そして数日後、約束の時間の5分前にご自宅の呼び鈴を押した。阿川先生の本では海軍の習慣である「五分前の精神」のことを書いておられたので、私もこれにならった。応接間でお詫びを申し上げて、先生の本の話題をする中で、五分前の精神のことを話題にしながら、日本海軍について話していたら、「あなた海軍ですか?」と嬉しそうに言われて驚いた。「いえ、私はそんな年ではありません」と答えて大笑いになった。前の職場で人事関係の仕事をしていたので、海軍の人事制度の勉強をしていたのが役に立ったのだ。
その後、会社の創立40周年記念の論文募集の審査委員長をお願いしたが、このときは、担当課長である私の意見と社長の意見が食い違っておかしな雰囲気になったが、阿川先生にうまくおさめてもらった記憶がある。

その後、アメリカに居た長男の阿川尚之さんから電話をもらって何かを頼まれたことがある。尚之さんは1951年生まれで、ジョージタウン大学ロースクールを卒業した弁護士だった。『アメリカが嫌いですか』という本を書いて話題になり、慶応義塾大学の教授、その後は日本政府のアメリカ公使を引き受け、「憲法で読むアメリカ史」で2005年度の読売・吉野作造賞を受賞している。

長女の佐和子さんはエッセイストとして大活躍していて、同世代の独身の壇ふみとのやり取りの本も面白い。仙台で阿川先生の末っ子(三男)に出会ったことがある。この本では高校一年生になったときに「五分間論語」を強制されている。晩飯の前の五分間、親子差し向いで論語素読をするという趣向だったが、お互いに忙しくなって途中で終わっていて、阿川先生は「惜しかった」と悔やんでいる。この末っ子は私の勤務していた会社に入って一時仙台支店にいた。まだ20代半ばの青年だったが、阿川生先生のご自宅を訪問した時のことを話題にして一緒に飲んだことがある。

文芸春秋」の「巻頭随筆」に毎月身辺雑記を書き継いで、2009年9月号で149回目になっているから、12年以上にわたって続いている。数えてみると1908文字ほどだから、毎回原稿用紙5枚弱という長さだ。文春を書店で手に取ったり、買ったりするとかならず読むことにしているエッセイである。このコーナーは小泉信三など著名人の枠であり、司馬遼太郎の後を「蓋棺録」まで書いて欲しいという言葉に惹かれ引き受けたのだ。2010年9月号まで13年で、『葭の髄から』4冊になっている。その後は、立花隆、そして現在は藤原正彦が毎月書いている。

2009年9月号は「カキがつく」というテーマだった。カキが船底にこびりつくと航行のスピードが遅くなるため、時々ドックでカキを落とす必要がでてくる。同じように作家にも虚名が生じるとそのカキガラが本人をいい気にさせて、言動がおかしくなる。司馬遼太郎の手紙を引き合いにだし、自分にも若干の虚名がついた事件があり、その時の人々の反応を記した文章である。一人は医者で老人性鬱病になる話だった。

もうひとつ、息子との電話の平成11年秋の会話が記されている。航空会社の仙台支店に勤務する当家の三男26歳が電話を掛けて来た。取引先の業者に「君のお父さん、今度勲章貰ふんだって?」訊ねられたので、「はい。もう貰っちゃったようですけど」さう答えたら、「お父さん、何をする人?」「作家です」「ああ、Jリーグの関係か」と言はれて、それ以上は説明しませんでしたが、よかったでせうか、一応ご報告までといふことであった。久しぶりに私は声立てて笑ひ出した。まことに結構。これなら「虚」も「実」もありはしない。一般社会へ顔を出してみたら殆ど「無名」だったわけだ。落ち込んでいた気分がよほど楽になった。、、、カキガラがらみの身辺雑記として、読者にちょっと聞いてもらひたかったのであるとしめている

この三男とは仙台で、酒を飲んだことがある。平成11年ころだったから、ちょうどこのエッセイに書かれてあるようなことがおきた時期だったと思う。童顔の少年っぽさを残した青年だった。

「語りおろし」の『大人の見識』(新潮新書)は、大人の見識を持った人々のエピソードで、洒脱に語っていて共感する部分も多い。「序」が「老人の不見識」というのも面白い。オビによると「軽躁なる日本人へ 急ぎの用はゆっくりと 理詰めで人を責めるな 静かに過ごすことを習え、、」「作家生活六十年の見聞を温め、人生の叡智を知る。信玄の遺訓と和魂・国家の品位・幸福であるための条件・ユーモアとは何か・大人の文学・われ愚人を愛す・ノブレス・オビリージュ・精神のフレクシビリティ・ポリュビオスの言葉・自由と規律・温故知新」となっている。「大人の見識」を読みながら、上記の懐かしい思い出がよみがえってきた。刊行された2008年当時の和服を着た著者近影を見るとまだまだお元気の様子だった。

2011年には阿川弘之「南蛮阿房列車」を読了している。阿房列車は、内田百けんの名作シリーズで、その衣鉢を継ごうという人が誰も現れないので、試みに自分が書いてみるということで、汽車に乗る旅を好む阿川弘之が書いた本だ。列車の旅は道中をともにする相棒が必要だ。相棒は同年代の孤狸庵・遠藤周作とまんぼう・北杜夫。乗物狂でせっかちな阿川と躁病・遠藤と鬱病・北の三人を中心とする弥次喜多道中は愉快だ。

阿房列車』の内田百閒を継いだ阿川弘之は『南蛮阿房第2列車』を書いた。その阿川は宮脇俊三に衣鉢を譲ると言っており、宮脇は『時刻表2万キロ』を書いた。この3人の活躍で鉄道紀行文学紀行というジャンルが確立した。「その宮脇も鬼籍に入った今、誰がその衣鉢を引き継ぐのだろうか」という文章を 2011年に私も書いたこともある。そのとき私の頭にあった知人・野村正樹さんは若くして亡くなってしまった。

今回、『空旅・船旅・汽車の旅』(中公文庫)を読んだ。「私は国鉄の電車運転士です」から始まる「機関士三代」、「わたくしはN航空のスチュワーデス第X期生でございます」から始まる「スチュワーデスの話」などを楽しく読んだ。この本の解説で関川夏央は乗り物好きの阿川について、知識自慢の嫌味がなく、ユーモアを忘れないと評している。

冒頭の言葉は、『私の履歴書』(日経新聞)の中にある。さっぱりとしていてすがすがしい。教養や思想に、ユーモアをからめて阿川弘之が書く短いエッセイには、いつもほのぼのとさせられる。こういうエッセイを書けるようになるといいのだがなあ、、、、。

 

 

 

寺島実郎「世界を知る力」(2021年12月19日)のまとめ。

寺島実郎「世界を知る力」2021年12月19日。

  • 2022年の世界:ロンドンエコノミスト「ワールドアヘッド2022」。欧州の視界と論点の集約。「新しいリアリティへ調整する必要」。ポストコロナと中国の台頭。民主主義対専制パンデミックからエンデミックへ。貧者の風土病へ。世界全体での解決が必要。日本はわずか半ページで異次元の高齢化のみ。埋没する日本。
  • 21世紀の日本:マクロ(GDP)「世界GDPに占める日本は2000年14%(1994年18%)。2020年6%。2割圧縮」。セミマクロ(産業)「粗鋼▲21.9%、エチレン▲22.0%、自動車(国内)▲20.4%、自動車(販売)▲22.9%。産業力は2割圧縮」。ミクロ(国民生活)「現金給与総額:2000年593.8万円、2020年543.5万円で▲8.5%。全世帯消費支出2000年31.7万円(月)、2020年27.8万円で▲12.3%。プラスは光熱・通信(スマホ)+13.4%、食+8.6%。マイナスは衣▲47.1%、教育・娯楽▲28.0%(学ばなくなった、学べなくなった。地域大学化)、住▲11.3%。流通業:百貨店394から196、SC2658から3195、コンビニ38774から55924へ(生活インフラ)。新聞発行部数(一般紙)4740万部から3245万部(▲1500万部)」
  • どうするか:工業生産力モデルから「イノベーション」と「ファンダメンタルズ」へ。工業生産力モデル「通商国家・国際貿易。鉄鋼・エレクトロニクス・化石燃料原子力。思想はPHP(繁栄による平和と幸福)、産業人の時代(松下・本田・盛田・井深・土光)。
  • イノベーション:創造的破壊。DX(産業のデジタル化とデジタルの産業化)とGX(グリーンイノベーション:環境技術と脱炭素エネルギー体系。思想はSFGsと成長を通した分配の拡大と公平。総合エンジニアリングがカギ。国産ワクチンの遅れとMRJ(国産ジェット機)の挫折。総合化し、組み立て、完成する。
  • ファンダメンタルズ:原点回帰の産業基盤強化。基幹産業は「食と農」「医療と防災」「文化と教養」。国民の安全と安定のための産業創生(経世済民)。生産・加工・流通・調理のサイクル、バリューチェーンの強化。臨床研究の強化と防災拠点の強化(道の駅)。人間を育てるという基盤強化。分配と給与の話でななく、産業の育成と経済基盤をつくりことが重要。
  • 日米関係史:生身の人間ドラマ。1860年の万延元年の遣米使節小栗上野介ら77名はサンフランシスコ、パナマ地峡カリブ海、ニューヨーク、ワシントン。帰りはアフリカ、インド洋、バタビア、香港、横浜。世界一周。随行の咸臨丸の勝海舟37歳、福沢諭吉25歳。アメリカが太平洋に達した1848年から100数年後。
  • 秋山真之は1897年に29歳でワシントンの公使館付留学生。1898年の米西戦争を観戦。1900年パリ万博「日本のインテリは狭い意味での小専門家」。「私が一日怠ければ日本が一日遅れる」。1894年の日清戦争勝利後、中国に進出する日本と、南北戦争(1861-1865年)米西戦争で勝利しアジアに展開するアメリカ。日米の不幸な関係のはじまりだった。
  • 秋山の時代は個人と組織と国家が一直線のある意味幸せな時代だった。寺山修司「マッチ擦る束の間に霧ふかし身捨つるほどの祖国ありや」の対照。

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今日のヒント。日経新聞文化欄12月22日「厄除けと招福の日本絵画」(矢島新

有卦絵:生年で決まっている7年間の有卦(7年間の幸運な時期)に入る日に贈る風習が江戸時代にあった。終わると5年間の無卦に入る。この繰り返しが人生。陰陽道起源の考え方。人の運命は12年周期。

福神・福助を描く歌川芳藤(国芳の弟子)の「福助の有卦絵」(日本銀行金融研究所貨幣博物館蔵)。眉は筆、目がフグ、鼻は「ふ」の字、耳はふくべ(瓢箪)、口は房、着物の線は「かのをふくすけ」の文字の組み合わせ。画面には「むつまじふふうふ仲よく暮しなは ふろうふろうきにかなふふくすけ」(睦まじう夫婦仲よく暮らしなば不老富貴に叶う福助)とある。

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「名言との対話」12月23日。浜田知明「戦争の残酷さや悲惨さ、軍隊の野蛮さや愚劣さを描きたい」

浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年大正6年12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家彫刻家

熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。16歳で東京美術学校に入学し藤島武二の指導を受ける。20代の大半は軍隊で過ごす。戦後の1951年から1954年までの銅版画「初年兵哀歌」シリーズは国内だけでなく海外でも話題になった。浜田知明オーストリア、英国、イタリアでも回顧展や展示なども多く、世界的な評価を得た版画家である。イタリアフィレンツェのウフィッツイ美術館では日本人初の個展を開いている。

「冷たく、暗い、金属的な感じ」をだすため、エッチング(腐食銅版画)を採用している。浜田の作品は、ブラックユーモア、風刺、アイロニーなどの言葉で紹介されることが多い。皮肉、諧謔、あてこすり、反語などをユーモアの衣でくるんだ表現で見る人の心に刺さる作品をつくる。

テーマは、「戦争の残酷さや悲惨さ、軍隊の野蛮さや愚劣さを描きたい」とした戦争など「時代」であり、「自分自身」であり、「人間」であった。時代と自分に向き合った版画家である。65歳以降は彫刻にも舞台を広げている。

「初年兵哀歌(歩哨)」では、塹壕の中で銃に足をかけて引き金を引こうとする姿を描き、戦争の実態を描いている。「ボタン」という作品では原爆のキノコ雲を頭に描きながら次の人の頭のボタンを今まさに押そうとする人間が、その次の人のからだのボタンを押そうとし、その人が核のボタンを押そうとする不気味な姿が印象的だ。

2018年3月から4月にかけて町田市立国際版画美術館では「浜田知明 100年のまなざし」展が開かれるなど、浜田知明は100歳近くまで創作に励んでいたセンテナリアンだ。

今年みた小早川秋聲の「国の盾」は、将校の軍服姿で顔に白い布がかぶせられた荘厳な死体、そして浜田の「初年兵哀歌」では、自ら死を迎えようとする末端の兵隊の姿、「ボタン」では世界を破滅に陥れる核のボタンを押そうとする為政者がの姿が具体的にみえる。この3つの作品は、ずっと頭から離れないだろう。

 

 

 

 

 

 

野田一夫先生!。94歳、お元気です。

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私の恩師・野田一夫先生にお会いしました。仙台から野田一夫ファンクラブ会長の富田秀夫さんがみえて、広尾のレストランで、ご一緒しました。先生は94歳です。藤村さんもお元気でした。

まずは、食事の前に再会を祝して乾杯! 

野田先生は多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長、日本総合研究所初代所長、ニュービジネス協会初代会長など、多くの肩書に「初代」がつく異色の人です。日本へのドラッカーの紹介者でもあり、翻訳書『現代の経営』を刊行しドラッカーブームを起こしました。

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図解塾・課外授業「幸福論」の3回目。「異国の人」編。

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以下、参加者の感想から。

  • 今回もどうもありがとうございました。外国の著名人が語る「幸福」について、その背景も含め、たくさん教えていただきました。中には聞き覚えのある言葉もありましたが、誰の言葉なのか知らなかったので、意外な組み合わせに驚きながら聞くとともに、これまでの講座で教わった日本の著名人が語る「幸福」と共通するものがありましたので、興味深かったです。「幸福」を定義付けすることは難しいことですが、国や時代は違っても、「幸福感」には共通するものが多いのではないかと思いました。そうして、今回印象に残ったのは、ツルゲーネフの「時の過ぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけ幸福なのである。」でした。何かに没頭する時間を持てるっていいなぁと思ったからです。これを来年の目標の一つにしたいと思います。久恒先生、これからもよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れ様です。本日の図解塾は課外活動「幸福論」の3回目「異国の偉人達」に焦点をあて、例のごとく言葉のシャワーをたっぷり浴びさせて頂きました。「他人(ヒト)との出会いにインスパイア」「没頭」「チャンスは前髪をつかめ(準備しておけ)」「心を込めて…」「本腰を入れろ…好きになる」「倖せは結果=副産物」といった言葉が心に残りました。今回「異国の偉人」編ではエキゾチックな何かを期待していましたが、①愚直に取組む→②好きになる→③続ける→④達成し世界観(モノサシ)を持つ→⑤視座が上がり更なる難課題に没頭…この様に「倖せが見えてくる」プロセスは世の東西を問わず共通している事を噛みしめることが出来ました。一方、講義冒頭に伺った「幸先良し」「七福神」のお話では、「ヨソ物であろうといいモノは取り入れる」という良き日本人気質を再確認する事も出来、今回も倖せな2時間があっという間に過ぎて行きました。とかく「核」だの「先制」だのと物騒なワードが飛び交う昨今ですが、今日も学ばせて頂いた人類共通の「倖せの科学」をこの日本で盛り上げ、世界をアイスブレイクで巻き込んで行く…そんな未来展望を夢見つつ今後の学習意欲が益々湧き出た次第です。1月からはいよいよ「幸福塾」がスタート、先だって年末の「フェス」(そういえば次はどんなネタが良いか…)もあり、引き続き怒涛の課題に舳先を向け取り組んでいきたいと思います。今後とも宜しくお願い致します、ありがとうございました。
  • 今日もありがとうございました。3回の幸福塾で、いろいろな人々の生き方を知ることができました。今日紹介された中で最も印象に残ったのは、ヘレン・ケラーで、三重苦を克服されたということや彼女を辛抱強く導いたサリヴァン先生の生き方そのものももちろんですが、来日したときのことや、影響を与えた人々など、人々の関係性や時代背景など非常に興味深くうかがうことができました。来年のテーマ別もまた楽しみにしております。
  • 本日もありがとうございました。たくさんの方の幸せな言葉の数々。ありがとうございます。自分のこれっというものを見つけ進めていける過程の幸福感と、そして一緒に回りの人たちを明るくさせていけるような幸福感を持てるように過ごしたいなと思いました。自分へは、トルストイの、年頭よりも一年の終わりにより良くなったと感じられるように、しようと思いました。今年は、この幸福論の講義に出会えたことでしょうか。先生の名言のシャワーを浴びている毎日なので、せっかっくですので、幸福、幸せ、明るい未来、ゆったり、やさしさ、笑顔、、、に注目していきたいと思います。残りあと9日ですね。早いです。先生、みなさま、本年はいろいろとありがとうございました。図解塾、参加できてよかったです。お健やかにクリスマスと大晦日とお正月、お過ごしください。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
  • 幸福塾3回目ありがとうございました。今日はバーバラ・ブッシュ、トルストイ、ヘレンケラー、ブラームスアンドレ・ジイド、ツルゲーネフスタンダールベンジャミン・フランクリンなど、多くの外国人の幸福に関する言葉をご紹介頂きましたが、どの言葉も味わい深く、あっという間の90分でした。レオナルド・ダ・ヴィンチの「『幸福』が来たら、ためらわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね。」というのは、準備をしておけチャンスをのがすな、との意とのことですが、動きのある言葉にユーモアも感じ、ダ・ヴィンチの人柄にも触れられたような気がしました。また、ツルゲーネフの「時の過ぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に人はとりわけ幸福なのだ」という没頭の境地や、ジョン・スチュアート・ミルの「幸福になる唯一の道は幸福ではなく、何かそれ以外のものを人生の目的に選ぶことである。」という意味深い言葉も印象的でした。全3回、古今東西いろいろな人の「幸福」に関する言葉に触れましたが、力強いもの、腑に落ちるもの、目から鱗のもの、など、心に響く言葉が多く、豊かな時間を過ごすことができました。年明けからの幸福塾も楽しみしています。どうぞ宜しくお願い致します。
  • 久恒先生 本日はありがとうございました。 幸福自体を目的に選ぶものではなく、結果として幸福であることが大切なんだと、強く思いました。 また、フランクリンの「いつでもあるような小さな日常の積み重ねで(幸福は)生まれる」も、まさにそうだなと、思います。幸せの青い鳥は身近なところにいるんだな

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今日のヒント。「遺教経」(「ブッダの最後の説法」)より。

知足:今ある状態のありがたさを知る。

「もし、諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす。不知足の者は天堂に処すといえどもまた意にかなわず。不知足の者は、富めりといえどもしかも貧し」

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「名言との対話」12月22日。三本和彦「金口木舌(きんこうぼくぜつ)」

三本 和彦(みつもと かずひこ、1931年12月22日 - )は、日本のモータージャーナリスト。

東京都出身。東京商工学校機械工学科を経て、1954年、國學院大學政経学部経済学科卒業。1956年、東京写真大学(現:東京工芸大学)写真技術科卒業。、1970年多摩美術大学の講師を経て、フリーのフォトジャーナリスト、モータージャーナリストとなる。

自動車ジャーナリスト。辛口のコメントが多い。衣着せぬ毒舌的な表現で人気を博した。これらは「三本節」と称された。

愛車遍歴も凄い。1948年 17歳 たま電気自動車。1950年 19歳 ダットサン トラック。1954年 23歳 オオタ KC。1957年 26歳 シトロエン 2CV。1958年 27歳 スバル 360。1960年 29歳 マツダ R360 クーペ。30代~40代:日産 ブルーバード。トヨタ パブリカ。日産 セドリック。日産 ブルーバード SS。日産 ブルーバード SSS。日産 サニー。ホンダ N360。日産 ブルーバード。日産 フェアレディZ。日産 サニー。日産 スカイライン 2000GTいすゞ フローリアン。トヨタ カローラ。シムカ 1000。1975年 44歳 日産 セドリック。1981年 50歳 ダイハツ ハイゼット アトレー。1982年 51歳 三菱 パジェロ。1990年 59歳 ホンダ NSX。1992年 61歳 トヨタ クラウン。1993年 62歳 トヨタ クラウン マジェスタ。1994年 63歳 メルセデス・ベンツ・Cクラス。1996年 65歳 メルセデス・ベンツ・Cクラス。1997年 66歳 メルセデス・ベンツ・Cクラス。1998年 67歳 トヨタ プリウス(初代)。1999年 68歳 スバル レガシィ。2000年 69歳 トヨタ プログレ。2003年 72歳 ホンダ FIT。2004年 73歳 トヨタ プリウス(2代目)。2006年 75歳 トヨタ プリウス(2代目)。2007年 76歳 トヨタ プリウス(2代目)。2009年 78歳 トヨタ プリウス(3代目)。2010年 79歳 ホンダ FITハイブリッド。2012年 81歳 フォルクスワーゲン ポロ。

いわゆる名車ばかりではないラインナップだ。私が乗っていた日産サニーや、フォルクスワーゲンのポロも入っていて驚いた。

三本和彦は「ベストカーweb」というサイトで「金口木舌」というタイトルの連載を持っていた。2018年8月26日号の最終回では、特に思い出深い車として、スバル360、ホンダN360、ブルーバード510型SSS、ベンツ190D、NSXをあげている。そして頼まれた色紙には「金口木舌」と「一期一会」と書いている。「今はネット社会。読者の反応がダイレクトに、すぐに帰ってきます。ニセ者はすぐにバレますが、反面ホンモノはより輝くことができます」。ホンモノの車をつくれ、これが自動車業界へ向けてのの遺言だ。

「金口木舌」という言葉に初めて接したので調べてみた。「古代中国では、官吏が法律や政令などを民衆に宣布するときに、木鐸を鳴らしました。木鐸の「鐸」は大型の鈴のようなもので、口=鈴の下部の切れ込み部分が金属、舌=鈴の中に入っている玉が木製とも、また文事には木の舌(木鐸)、武事には金の舌(金鐸)を用いたとも言われています。 諸国遊説を続ける孔子一行に、国境の小村の役人が「天下に道なく乱れた世を導くよう、天は師を木鐸として下さったのです」と孔子を労ったのが始まりとされ、以来すぐれた言論・著書で、社会を教え導く人の例えとされました」。「『揚子法言・学行』を出典とし、朱子学を大成させた朱熹によって編纂された『論語集注』にも取り上げられています」。(日本歯科医師会 広報委員会)

今は死語になっている「社会の木鐸」という言葉があった。世の中を教え導く新聞記者を指していたことを思い出した。2017年1月29日の「カービデオマガジン 三本和彦の新車を斬る!」という動画をみると、三本和彦は「実用性、ユーザーの立場、安全でいい車を紹介したい」とポリシーを語っている。自動車業界の木鐸を意識していたのだ。

 

 

 

九段下。竹橋。東京。有楽町。品川。渋谷。成城学園前。仙川。--1万4千歩

都内8カ所をまわりました。1万4千歩になっていました。

  • 九段下の寺島文庫:寺島実郎さんと面談。近況報告。サイン入りの『人間と宗教』(岩波書店)と『資料集 寺島実郎の時代認識』をいただく。

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  • 有楽町の出光美術館:休館で入れず。
  • 品川のカイロプラクティス」:カラダを整える。

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  • 成城学園前:20代前半からの親友のプリ君(インド人)の自宅訪問。

仙川の「サルバドーレ」にて食事。

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今日のヒント。「菜根譚」。

天が幸福を授けてくれないなら、自分で磨いて幸福を得よう。

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「名言との対話」12月21日。森下泰「ケチでがめつくてゲスというのは、ほめてくれるんやな」

森下 泰(もりした たい、1921年12月21日 - 1987年11月14日)は、日本の実業家、政治家。

大阪市出身。森下仁丹創業者森下博の孫。京都帝国大学に進学するも、在学中の1943年3月に祖父の死去に伴い森下仁丹社長に就任。大学を繰り上げ卒業し海軍主計見習尉官に採用されて海軍経理学校に籍を置いた。戦後復員すると東京帝国大学法学部に再入学。口中清涼剤だった「仁丹」から体温計・医薬品・製菓へと業を拡大した。1974年から死去するまで参院議員を3期つとめた。

『どケチで鍛えなおせ』(実業之日本社。1981年刊)を読んだ。大阪の三ケチ大集合ということで、サントリー副社長の鳥井道夫(ケチ井)、大阪マルビルオーナーで大日本どケチ教教祖の吉本晴彦(ケチ本)との捧腹絶倒の鼎談集だ。森下は、ケチ下だ。3人は大阪青年会議所を立ち上げたときの仲間だから、遠慮がない。

どケチ人間誕生の源流、子弟教育への提言、伝統的大阪商人の神髄、世の中への批判と提言を大いに語り合う実に面白い掛け合いだ。まるで常に笑い声のある漫才名人の会だ。

1973年に創立された「大日本どケチ教」の8年後には2800人の会員がいた。御経は「勿体ない、勿体ない、勿体ない」である。「タクシーは先に乗ったら損でっせ」「接待の代わりに現金で5万円おくんなはれ」「お金はためるもんで使うもにゃおまへん」「親や先生には子に「ケチ教育」をする責任がありまっせ」「出ずるを制して守りに徹するのがどケチ商法でっせ」、、、。

森下泰は仁丹創業者の森下博から「男はケチといわれるようになったら一人前」という教育を受けている。ご飯の食べ残しはダメ、こづかい帳つけの習慣をつけさせされた。東京は金を払いたがる見え坊。タクシーは左側か助手席に乗る。、、、

森下泰は当時剣道五段の教士であった。「剣道の道はケチ精神に通ず」というエッセイがこの本に載っている。剣道は50年続けている。一つのものをずっとやってきて大変良かったと述懐している。面をかぶると孤独、孤高になるから、独立心を養う、付和雷同しなくなる。ファイティングスピリットを養う。礼に始まって礼に終わる、のも日本的でいい。

そして面、胴、籠手、垂れなどの剣道具は会社の全従業員から40年前に贈ってもらったものをずっと使っているという。「私はケチに達したといえるかもしれない」というオチが最後についている。さすが、だ。

「ケチ」は、始末のできる、もののあたたかみとか、もったいなさということを知っている人間。「がめつい」は、ひとのやらんことをやる人。「ゲス」は見えをはらんこと。これが3つ重なっているから最強になる。そして森下泰は「理屈に合ったことを実行するのがケチ精神」と言っている。大日本どケチ教はその後、どうなったのだろうか。

 

 

 

『図で考える技術が身につくトレーニング30』を発刊。連載『50歳からの人生戦略は「図」で考える』の15回目「幻冬舎オンライン」(「ヤフーニュース」に転載)。

デュスカバー「e-book選書」として図で考える技術が身につくトレーニング30』を発刊。

日常のビジネス現場のリアルな30題を通じて、「図で考える技術」=「図解」を実践的にトレーニングできる!仕事で役立つ図解スキルが身につく。

目次:第1章 図解の基本を学ぼう 第2章 入門問題 第3章 基本問題 第4章 実践問題

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幻冬舎オンラインの連載の15回目。タイトル:50代から「やりがいのある仕事」が次々と出てくる…「人生テーマ」の見つけ方。

  • 「豊かさカード」の優先順位をつける。経済的豊かさ(経済的自由)精神的豊かさ(精神的自由)時間的豊かさ(時間的自由)肉体的豊かさ(肉体的自由)
  • 「価値観」のイメージを言葉に表してみる。暗黙知形式知

yahu-nyu-sudeo ヤフーニュースに転載されました。

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昼:近所にオープンした「星野珈琲」で昼食。

夜はZOOM。

・デメケンのミーティング

・元祖「ザ・倶楽部」のズーム飲み会。

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今日のヒント。栗原すみ子新宿の母

「自分の言葉で悩める人を励ましたい、一緒にしあわせになる方法を考えたい」

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「名言との対話」12月20日堀内誠一「仕事中はスコッチ。眠くならないから。ワインは眠くなる」

堀内 誠一(ほりうち せいいち、1932年12月20日 - 1987年8月17日)は、日本のグラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー、絵本作家。 

東京府生まれ。小学1年生の時に私家版雑誌を作りはじめる。日本大学第一商業学校中退。1947年4月に14歳で伊勢丹百貨店に入社。1948年、現代美術会展激励賞。1955年アド・センター株式会社設立。1968年から1969年にかけて澁澤龍彦とともに季刊誌『血と薔薇』を編集した。

1974年、フランス・パリに移住。パリ在住日本人向けミニコミ誌『イリフネ・デフネ』創刊に参画。1981年まで定住する。帰国後、死去。享年54。

堀内がデザインした平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』では現在もなお、そのロゴが使用されている。後期には絵本作家としても多数の作品を残した。

ほぼ日刊イトイ新聞』が前編と後編の2回で堀内の2人の娘へのにインタビュ―で堀内誠一を追悼している。

「挿絵の。雑誌の。宣伝の。パリの。地図の。ロゴの。先輩の。東京の。絵本の。絵本の。お家の。旅人の」という形容で「「デザインを旅した人」という紹介をしている。実に多彩な活動をした多才な人である。新しもの好きで、取材、絵、文章、地図などぜんぶ一人でやれる人だった。そして仕事が早いのが特徴だった。

パリ時代の1975年『マザー・グースのうた』(草思社刊。谷川俊太郎訳)がヒットすることで、日本からの仕事が多く忙しかった。しかし、フランスにいる方が大事な人とゆっくり会える、日本だと互いに忙しいという。これは私もよくわかる。仙台にいたときに同じ思いをした。わざわざ訪ねてきた人には時間をとって対応できたし、近所の温泉にも一緒につかった。京都も同じで、学者たちは夜遅くまでだべって、そこでユニークな発想が生まれたと聞く。仙台も京都もタクシーで帰れるのがいい。東京だとこうはいかない。

面白いのは自宅では「仕事中はスコッチ。眠くならないから。ワインは眠くなる」とウイスキーをのいながら仕事をしていたと二人の娘から回想されている。これは強弁のように聞こえるがそうではない。

蒸留酒醸造酒の二つがあり、どちらを選ぶべきか。若き日から知的生産を志した私には、酒は知的生産の敵であるがやめらえないから切実な問題だった。醸造酒は、アルコール発酵のままの状態のもので、ワイン、ビール、日本酒などがあり、その醸造酒を蒸留器で加熱し、純度を高くしたもので、ウイスキー、焼酎、ウオッカなどだ。

「奥州・羽州には、しばしば 人間の蒸留酒 とおもわれるような人がいる」と述べた司馬遼太郎は、人間の蒸留酒は、「透きとおった怜悧さ、不都合なものへの嫌悪、独創性。精神の明るさ。独立心。名利のなさ。もしくは我執からの解放といった感じである。明治の薩長型のように、閥をつくってそれによって保身をはかるというところがいっさいない。」との説明をしている。

醸造酒は収穫祭などのお祭りで飲む酒で、気分が楽しくなる酒だ。知的生産には向かないから、どうしても酒を飲みたいなら、蒸留酒にしなさい、と何かの本に書いてあった。それ以来、私は自宅で机に向かっているときは、蒸留酒にするようにしてきた。

佐々木久子の お酒とつきあう法』(鎌倉書房)によれば、醸造酒は上半身から酔う。蒸留酒は下半身に酔いがくるそうだ。醸造酒は頭が解放されるから知的活動に向かないのだろう。蒸留酒はシンシンと頭が冷えてくるような感じがある。酒は知的生産の敵でもあるが、薬であるかのように強弁して私も飲んできたが、そういうことだったのかと納得できる面がある。

「仕事中はスコッチ。眠くならないから。ワインは眠くなる」と言っていた堀内の言葉は正しかったのだ。憂さを晴らし、気分を楽しくしたいときは醸造酒、頭を怜悧に保ちながら、心の中を掘り下げていくには、蒸留酒蒸留酒を友として知的生産に励んでいこうか。強弁に過ぎるかな。