『文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』ーー2023年まで14冊という大がかりな企画。

文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』。

文芸春秋』は大正12年1月30日に第3種郵便物認可を受けている。その1923年から100年近く刊行が続いている菊池寛が発行した総合雑誌だ。「創刊100周年記念特別号」は2023年2月号まで14冊続く、その第1号だそうだ。記念特別号が1年以上続くという大がかりなこの企画は、この100年を総ざらいするものになるだろう。毎号、楽しみにしたい。

「文春」を買うと、いつも読む項がある。各界で成功したいろいろな学校の同級生たちが登場する「同級生交歓」。トップが阿川弘之立花隆藤原正彦と続いている「巻頭随筆」。経済界の人事情報を明かす「丸の内コンフィデンシャル」。官僚社会の人事を説明する「霞が関コンフィデンシャル」。最近亡くなった人物を悼む「蓋棺録」(今月は中根千枝。古場竹識ら)。

「巻頭随筆」のトリは、いつもローマに住む塩野七生だが、載っていなかった。病気かなと思って中を覗くと「ローマでの大患」というタイトルの闘病記が載っていた。

この号の注目は、以下。

  • 激突!「矢野論文」バラマキか否か。小林慶一郎VS中野剛志
  • 100年の100人
  • 新連載「菊池寛 アンド・カンパニー」鹿島茂

ーーーーーーーーーーーーーーーー

今日のヒント 東京新聞2021年12月24 今年1年の「幸せなエピソード」

「新聞のチラシで健康ボウリング教室を見つけ、ワクワクしながら応募しました。大人気だった頃は子育て中で見ただけ。少しずつ投げられるようになり幸せです。」(愛知県リングばば(80))

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」12月24日。阿川弘之「私の『履歴』を一と言で記せば、『地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る』、これだけである」

阿川 弘之(あがわ ひろゆき1920年大正9年)12月24日 - 2015年(平成27年)8月3日)は、日本の小説家、評論家。 1999年文化勲章

広島市生まれ。東大国文科を繰上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。戦後、志賀直哉の知遇を得て師事し、1953年、学徒兵体験に基づく『春の城』で読売文学賞を受賞。同世代の戦死者に対する共感と鎮魂あふれる作品も多い。主な作品に『雲の墓標』『舷燈』『暗い波濤』『志賀直哉』のほか、『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の海軍提督三部作がある。

まだビジネスマンだった40歳頃のこと、この阿川先生にお目にかかったことがある。広報の責任者をしていたときに、頼んだ原稿の件で、部下の対応に問題があって謝りにご自宅に伺った。ご本人も自ら「瞬間湯沸かし器という綽名をもらっている」とこの本の冒頭の「老人の不見識---序に代えて」で述べているように、怒りっぽいことは知られていた。
電話でアポイントをとろうとしたら、体調を崩されて入院から戻ってこられたばかりだったことがわかったので、まずお見舞いの花束を贈っておいた。そして数日後、約束の時間の5分前にご自宅の呼び鈴を押した。阿川先生の本では海軍の習慣である「五分前の精神」のことを書いておられたので、私もこれにならった。応接間でお詫びを申し上げて、先生の本の話題をする中で、五分前の精神のことを話題にしながら、日本海軍について話していたら、「あなた海軍ですか?」と嬉しそうに言われて驚いた。「いえ、私はそんな年ではありません」と答えて大笑いになった。前の職場で人事関係の仕事をしていたので、海軍の人事制度の勉強をしていたのが役に立ったのだ。
その後、会社の創立40周年記念の論文募集の審査委員長をお願いしたが、このときは、担当課長である私の意見と社長の意見が食い違っておかしな雰囲気になったが、阿川先生にうまくおさめてもらった記憶がある。

その後、アメリカに居た長男の阿川尚之さんから電話をもらって何かを頼まれたことがある。尚之さんは1951年生まれで、ジョージタウン大学ロースクールを卒業した弁護士だった。『アメリカが嫌いですか』という本を書いて話題になり、慶応義塾大学の教授、その後は日本政府のアメリカ公使を引き受け、「憲法で読むアメリカ史」で2005年度の読売・吉野作造賞を受賞している。

長女の佐和子さんはエッセイストとして大活躍していて、同世代の独身の壇ふみとのやり取りの本も面白い。仙台で阿川先生の末っ子(三男)に出会ったことがある。この本では高校一年生になったときに「五分間論語」を強制されている。晩飯の前の五分間、親子差し向いで論語素読をするという趣向だったが、お互いに忙しくなって途中で終わっていて、阿川先生は「惜しかった」と悔やんでいる。この末っ子は私の勤務していた会社に入って一時仙台支店にいた。まだ20代半ばの青年だったが、阿川生先生のご自宅を訪問した時のことを話題にして一緒に飲んだことがある。

文芸春秋」の「巻頭随筆」に毎月身辺雑記を書き継いで、2009年9月号で149回目になっているから、12年以上にわたって続いている。数えてみると1908文字ほどだから、毎回原稿用紙5枚弱という長さだ。文春を書店で手に取ったり、買ったりするとかならず読むことにしているエッセイである。このコーナーは小泉信三など著名人の枠であり、司馬遼太郎の後を「蓋棺録」まで書いて欲しいという言葉に惹かれ引き受けたのだ。2010年9月号まで13年で、『葭の髄から』4冊になっている。その後は、立花隆、そして現在は藤原正彦が毎月書いている。

2009年9月号は「カキがつく」というテーマだった。カキが船底にこびりつくと航行のスピードが遅くなるため、時々ドックでカキを落とす必要がでてくる。同じように作家にも虚名が生じるとそのカキガラが本人をいい気にさせて、言動がおかしくなる。司馬遼太郎の手紙を引き合いにだし、自分にも若干の虚名がついた事件があり、その時の人々の反応を記した文章である。一人は医者で老人性鬱病になる話だった。

もうひとつ、息子との電話の平成11年秋の会話が記されている。航空会社の仙台支店に勤務する当家の三男26歳が電話を掛けて来た。取引先の業者に「君のお父さん、今度勲章貰ふんだって?」訊ねられたので、「はい。もう貰っちゃったようですけど」さう答えたら、「お父さん、何をする人?」「作家です」「ああ、Jリーグの関係か」と言はれて、それ以上は説明しませんでしたが、よかったでせうか、一応ご報告までといふことであった。久しぶりに私は声立てて笑ひ出した。まことに結構。これなら「虚」も「実」もありはしない。一般社会へ顔を出してみたら殆ど「無名」だったわけだ。落ち込んでいた気分がよほど楽になった。、、、カキガラがらみの身辺雑記として、読者にちょっと聞いてもらひたかったのであるとしめている

この三男とは仙台で、酒を飲んだことがある。平成11年ころだったから、ちょうどこのエッセイに書かれてあるようなことがおきた時期だったと思う。童顔の少年っぽさを残した青年だった。

「語りおろし」の『大人の見識』(新潮新書)は、大人の見識を持った人々のエピソードで、洒脱に語っていて共感する部分も多い。「序」が「老人の不見識」というのも面白い。オビによると「軽躁なる日本人へ 急ぎの用はゆっくりと 理詰めで人を責めるな 静かに過ごすことを習え、、」「作家生活六十年の見聞を温め、人生の叡智を知る。信玄の遺訓と和魂・国家の品位・幸福であるための条件・ユーモアとは何か・大人の文学・われ愚人を愛す・ノブレス・オビリージュ・精神のフレクシビリティ・ポリュビオスの言葉・自由と規律・温故知新」となっている。「大人の見識」を読みながら、上記の懐かしい思い出がよみがえってきた。刊行された2008年当時の和服を着た著者近影を見るとまだまだお元気の様子だった。

2011年には阿川弘之「南蛮阿房列車」を読了している。阿房列車は、内田百けんの名作シリーズで、その衣鉢を継ごうという人が誰も現れないので、試みに自分が書いてみるということで、汽車に乗る旅を好む阿川弘之が書いた本だ。列車の旅は道中をともにする相棒が必要だ。相棒は同年代の孤狸庵・遠藤周作とまんぼう・北杜夫。乗物狂でせっかちな阿川と躁病・遠藤と鬱病・北の三人を中心とする弥次喜多道中は愉快だ。

阿房列車』の内田百閒を継いだ阿川弘之は『南蛮阿房第2列車』を書いた。その阿川は宮脇俊三に衣鉢を譲ると言っており、宮脇は『時刻表2万キロ』を書いた。この3人の活躍で鉄道紀行文学紀行というジャンルが確立した。「その宮脇も鬼籍に入った今、誰がその衣鉢を引き継ぐのだろうか」という文章を 2011年に私も書いたこともある。そのとき私の頭にあった知人・野村正樹さんは若くして亡くなってしまった。

今回、『空旅・船旅・汽車の旅』(中公文庫)を読んだ。「私は国鉄の電車運転士です」から始まる「機関士三代」、「わたくしはN航空のスチュワーデス第X期生でございます」から始まる「スチュワーデスの話」などを楽しく読んだ。この本の解説で関川夏央は乗り物好きの阿川について、知識自慢の嫌味がなく、ユーモアを忘れないと評している。

冒頭の言葉は、『私の履歴書』(日経新聞)の中にある。さっぱりとしていてすがすがしい。教養や思想に、ユーモアをからめて阿川弘之が書く短いエッセイには、いつもほのぼのとさせられる。こういうエッセイを書けるようになるといいのだがなあ、、、、。