「集大成と新世界、そして継続」ーー起業。再建。再生。継続。完遂。挑戦。並走。総合。展望。

30歳から続けている「毎年の計画」の立案、総括のサイクル。2022年の「今年の計画」に着手。テーマは人生100年時代を睨んだ「集大成と新世界、そして継続」としたい。正月休みの間にぼちぼちと、具体策をかんがえていくことにします。

キーワード:起業。再建。再生。継続。完遂。挑戦。並走。総合。展望。

以下、書斎に掛けている額など。

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ホームページの大幅改定を考えることにして、実態に合わせて見直しを行うことにします。こちらも「集大成と新世界」で構想を具体化していきたい。未来へ向けて大がかりなものになりそうです。

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今日のヒント。清水雅『続・みやぎざれごと』

小さな幸せをたくさん集めましょう。大きな幸せがそうたくさんあるとは思えません。たくさんの小さな幸せを身近に拾ってご覧なさい。大きな幸せになりますよ。

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娘夫婦と孫2人、息子夫婦が全員そろって、計8人の賑やかな午後となった。

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今日の川柳

 大戦を 語れぬわれらに コロナあり

 幸せは 小さな方が 安心だ

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「名言との対話」1月2日。石山賢吉「仕事と道楽とを一致させる人がいちばん幸福だ」

石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。

新潟県生まれ。慶応義塾に学び、野依秀市の知遇を得る。雑誌、新聞の記者を経て、1913年(大正2年)に経済雑誌『ダイヤモンド』を創刊。ダイヤモンド社の経営に携わり、社長、会長を歴任。東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。

石山賢吉『先人に学ぶ』(ダイヤモンド社)を読んだ。1965年(昭和40年)5月の刊行だ。石山はその前年の7月に82歳で没している。没後、石山の著書数冊から抜粋したもので、人物評論の趣がある。

石山賢吉は、先人の長所を学ぶのが一番の近道だと考え、先人の言行を観察し続けた。雑誌はそのための格好の場となった。

53歳で書いた短い文章が「前記」になっている。そこには人間はたいていは、他の人の長所美点を採り、自らの短所欠点を補うという修養を心がけ、長い精進によって、偉い人になる、と記されている。以下、石山の言葉を拾う。

  • 数学、文章、簿記の3つができたことで、毛色の変わった経済記者となることができたと述懐している。
  • 43歳あたりまでは、相当に働いたが、それは自分のためであり、人のために働いたことはなく、ある人との出会いで考えを改めている。
  • 政治家と違って事業家は小さなことでもこまかく目を配り、万事が行き届いていなければ成功は難しい、細を穿ち、微を積むことが成功の条件だ。石山の観察眼は鋭い。
  • 事業においては家系が連綿と続くのは少ないが、うまくいっているケースは、必ずといってよいほど番頭に経営を任せている。所有と経営の分離ができている事業は継続できるという見立てである。。
  • 有能の士を集め、上手に働かせることが最も大切である。これは事業経営の鉄則だ。
  • 基礎は自分で築く。大成させるのは時勢である。人の成功、不成功は時勢をみる目の如何にある。半分は自力、半分は運となる。つまり運とは、時勢の助けのことだという。
  • 上の下か、中の上の成績の人が第一線で成功する。自分の才智と他人の才智を用いる雅量がある。上の上の人は智恵がまわりすぎて臆病になるから、参謀にはむいている。こういう観察は面白い。

人智無極」を座右の銘としていた石山は「偉い人」という言葉をよく使う。経済雑誌の主宰者らしく、事業家、経営者としての成功者を意味しているのだが、実は人間を観ている観がある。

上野の寛永寺にある石山賢吉翁の顕彰碑文では、「早暁床を蹴ってペンを執る習慣は晩年まで続けられた。生涯に執筆した原稿の字数は優に3000万字に達する」との顕彰されている。この分量は、計算すると単行本250冊に相当する分量だ。そのうちの一部が『決算報告の見方』『会社経営と株主報告ーー米国および欧州の実例ー』『雑誌経営五十年』など30数冊の著書に結実している。

石山賢吉は、自力で経済誌『ダイヤモンド』を創刊し、同時代の多くの優れた経済人の知遇を得ながら、『東洋経済』と並ぶ『ダイヤモンド』という一流雑誌に仕上げたことが一番の業績である。一歩一歩進んでいく小林一三、人を上手に働かせる野間清治、人の話をよく聞いてくれる藤原銀次郎、誠意と熱意の人・武藤山治、知能の勇将・鮎川義介、本と人の話で日々成長した松永安左ェ門、服従と個性の調和を論じた福沢桃介などのエピソードを語っている。中でも恩人、師匠は人に金をわたす場合には細心の注意をしてそっと渡してくれる、福沢桃介であった。

冒頭の言葉は「仕事と道楽」というタイトルの小論の中にあったものだ。この二つの関係をどのように考えるか、これは職業人の永遠のテーマであろう。今まで、目覚ましい業績を残した人々は、どのようにこの大問題を解決しようとしたのでだろうか。

夏目漱石道楽である間は面白いに決まっているが、その道楽が職業と変化するとたんに今まで自分本位であったはずが、一気に他人にゆだねることが多くなる。道楽は快楽をもたらすが、同じことをしているようにみえても職業となれば苦痛を伴うことになる」。梅棹忠夫「何かにはまる人のランク。通、好き者、道楽者、極道者」。安岡生篤「学ぶという行為には「知る、好む、楽しむ、道楽、極道」というコースがある。極道は普通は悪い意味に使うが、道を極めるという意味がある」。太田黒元雄「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」。本多静六「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある」。笹崎龍雄「仕事は道楽、勉強は趣味だ」。曽野綾子「仕事が道楽になったとき、その道の第一人者に近くなれる」。

以上、職業、仕事の道楽化が肝であるということは共通している。

石山賢吉は「私の趣味は仕事である。仕事は道楽であるからやめられない」というまでになっている。仕事に入れ込むことで趣味になり、やがて道楽になった人だ。その延長線上にある極道にまで至らないことも成功の条件だろうか。

 

 

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あけましておめでとうございます。ーー「幸え給え」

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近所の小さな神社に、昨年はほぼ毎日、朝の散歩を兼ねてお参りしてきました。神社に掲げてある「祓え給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え」と唱えながら、二礼二拍手一礼をしています。「お祓い下さい、お清め下さい、神様のお力により、お守り下さい、幸せにして下さい」という意味ですが、まとめると「幸え給え」に尽きると思います。

この神社では、2009年から、毎年元旦におみくじを引いています。小吉、中吉、中吉、末吉、大吉、大吉、吉、大吉、吉、大吉、大吉、そして2020年は吉、2021年は小吉でした。悪いものがでないので、ありがたい神社です。

2022年の今年は「大吉」を引きあてました。コロナ禍になってからは、初めての大吉だったので、晴れやかな気持ちになりました。ところが家に戻ってポケットを探ると、「ない」ではありませんか。途中でどこかに落としたらしいのです。

2022年は幸運が約束されているが、その幸運を自ら捨ててしまう可能性があるから、慎重に行動しなさいという神様のはからいということにしておきましょう。

神社の入り口の掲示は、写真では「令和三年」となっているところがあるので、明日にでも社務所に知らせることにしましょう。

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「名言との対話」は2016年から開始し、今年で7年目に入ります。昨年は「大正から昭和」へかけて生まれた人たちの人生の軌跡をたどりました。大正12年生まれの父と昭和2年生まれの母と同世代の人たちです。学徒動員世代であり、大東亜戦争で人生に大きな傷を負った世代です。戦後は高度成長の波にのまれながら生きた人々です。

今年は「明治生まれ」の人を取り上げようと思います。明治19年生まれの大野清吉など私の祖父母と同世代の人たちになります。どういう時代が見えてくるでしょうか、楽しみです。

2021年は、noteの「世界の美術館」から画像を採用していたが、2022年はこだわらずにさまざまの写真を使おうか。

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今日のヒント。神社でのお参り。

「祓え給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え」

「お祓い下さい、お清め下さい、神様のお力により、お守り下さい、幸せにして下さい」

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・夜は、娘と孫、息子夫婦と歓談

・深呼吸学部の今年初回にも参加

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「名言との対話」1月1日。中島知久平「何よりも大切なこちは、精神的にまいらないことだ」

中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年明治17年)1月1日 - 1949年(昭和24年)10月29日)は、日本海軍軍人実業家政治家。享年65。

群馬県太田市出身。海軍機関学校に入学し、飛行機に関心を持つ。任官後もその重要性を主張して、航空機関係の職務を歴任した。

1917年、海軍を大尉退官し、郷里の群馬県太田市に飛行機研究所を設立した。この研究所は、中島飛行機株式会社に改組される。名機といわれる九一式戦闘機、有名な「隼」や「紫電改」をはじめ126種の飛行機を開発し、太平洋戦争終結までに約2万6000機を生産した巨大な航空機メーカーとなった。
1930年、中島は衆院議員に当選し、政友会の幹部となる。第1次近衛内閣では鉄道相、東久邇内閣で軍需相(のち商工相)に就任した。戦後はA級戦犯に指定されたが、のちに解除された。

海軍兵学校出身の豊田穣『中島知久平伝 日本の飛行機王の生涯』(光人社NF文庫)を読んだ。中島は大艦巨砲主義を時代遅れとし、空軍独立などを唱えたが、容れられないとみると、自身の手で飛行機を開発する挙にでて成功している。中島の考えは、以下の通りだ。

・貧乏国日本が列強並みに建艦競争をつづけるのは、国費のムダづかい。そんなことをしていてはやがて行き詰る。
・能率的軍備に発想を切り替え、二艦隊(軍艦八隻)をつくる費用で、八万機の航空機を作るべし。

・米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる

・経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない。

不肖、爰(ここ)に大いに決するところあり・・・海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以ってこれが進歩発達に尽くす」

中島知久平をあらわす言葉は、この本の中に散りばめられている。不羈奔放。気宇壮大。巨視的で先見の明がある。雄大な構想を持つ愛国者。決断と断交。異才。大器。飛行機王。予言者。リアリスト。ロマンチスト。統率力とバイタリティ。、、、、

中島飛行機の創業者・中島知久平は、戦後は大型旅客機をつくり平和に貢献したい、と語っていたが、その時間は与えられなかった。またアメリカと同じように自動車の時代がくると予言し、自動車工業を盛んにすべきだと説いている。中島飛行機の技術と人材は、富士産業、富士重工業、そして現在のSUBARUにつながり、今日の自動車産業の隆盛に一役買っている。

日本は焼け野原となったが、日本の科学技術は欧米に劣るものではなく、「日本の復興は意外に早いと思う」と予言している。心理的敗北感をいつまでも持たないで、精神的にまいらずに、気持ちを復興させることを提言している。2022年現在の日本は1990年代初頭からの30年間で、デジタル時代に対応できず、精神的にまいっている状態になっている。中島のいうとおり、精神の復興から始めよう。

 

 

 

 

2021年は自分にとってどんな年だったかーーー過去・現在・未来

2021年は自分にとってどんな年だったか。

社会はコロナに明けコロナに暮れた一年だったが、個人的には収穫の多い一年でした。

大学の研究室を引き上げて(春は大学院の講義)、自宅中心の生活のパターンとなりました。以下、モデル。

早朝5時起床。7時頃までブログの日誌と「名言との対話」を執筆。テレビ体操、神社まで往復ウオーキング、朝食。9時から午前中は書斎。

午後は、自由(都心・散歩・昼寝)。トイレと入浴は大事な読書の時間。今月、来月の読むべき本をトイレでは「拾い読み」。風呂では線を引きながらの「一浴一冊」の習慣。

晩酌付きの夕食後はテレビをみながら休養。寝る前に明日のブログの仕込みを少しして、寝ている間に発酵させる。11時から12時にかけて、ユーチューブを聴きながら就寝。

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2021年の方針「集大成と新世界」は、どの程度進んだか。

集大成(過去):著書の刊行は史上最多の14冊。

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  • 「図解コミュニケーション全集」第2巻、第3巻、第4巻。
  • 単行本『50歳からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)。
  • 『名言の暦 戦後命日編』は「名言シリーズ」の5冊目。
  • ディスカバー社のe-book新書で9冊の電子書籍を刊行。

新世界(未来):YMAI大学・深呼吸学部(橘川幸夫学部長)に「つねちゃん」として参加し、一回り、二回り若い世代と交流した。

  • ZOOM、クラファン、VR、未来フェス、デメケン、新聞、、、
  • 人物や名言に関する雑誌取材が増えてきた。

継続(現在)

  • ブログ「今日も生涯の一日なり」:2004年9月28日以来6303日連続記入。
  • note「名言との対話」:1年完走。2016年1月1日以来6年。2190日連続記入。
  • メルマガ「久恒啓一の学びの軌跡」:200年5月8日以来ほぼ毎週で1310号。
  • 人物記念館の旅:コロナ禍でも41館(企画展中心)。2005年以来累計976館。
  • 図解塾:2020年9月以降ZOOMで継続。「課外授業」を実施。「幸福論」へ。
  • 身体:テレビ体操(毎朝)。ヨガ(土曜日)。オステオパシー(定期的にケア)
  • 兄弟会(弟夫妻。妹夫妻) 

大事な人の訃報

  • 母、94歳で天寿を全う(「遺歌集」の編集)。
  • 恩人・八木哲郎さん、90歳で永眠(知研を継続)。

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今日のヒント

倉本聰「数えきれないほど書いてきて、まだ書きたいことが山ほどある。それってずいぶん幸せな物書き人生ですよ」(倉本聰碓井広義『ドラマへの遺言』(新潮新書))

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温泉で入浴とマッサージと食事。

9200歩。

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「名言との対話」12月31日。倉本聰「神様が書かせてくれている間は書きつづけたいですね」

倉本 聰(くらもと そう、1934年12月31日 - )は、日本脚本家劇作家演出家

3浪して東大文学部に入学し、美学科で学ぶ。24歳、ニッポン放送入社。28歳、退社しシナリオ作家として独立。30歳『青春とはなんだ』、31歳『これが青春だ』。42歳、北海道の富良野に移住。46歳の『北の国から』は、67歳の『北の国から 2002遺言』まで続く国民ドラマとなった。82歳、『やすらぎの郷』、84歳、『やすらぎの刻ー道』。

倉本聰はテレビドラマ界の巨人である。数え上げればきりがないほど、この人のつくったテレビドラマを私も楽しんでいきた。

その秘密に迫った後輩のインタビュー本、倉本聰碓井広義『ドラマへの遺言』(新潮新書)を読んだ。実家の屋号の「蔵元」と、妹の名の「聰子」を組みあわせて、倉本聰というペンネームができあがった。

「生涯に一本、映画化されるシナリオを書きたい」という控えめな志から出発している。まずは脚本の職人になろうとし、どんな注文も請け負ったが、一点だけ、短編小説の核みたいなものは入れていこうと決意する。そして成功する。

この巨人のテレビドラマ観を聴こう。

「倉本脚本は一言一句変えてはならない」という伝説がある。それは「語尾を勝手に変えられると人格が変わってしまうんですよ」という趣旨からだ。。

「映画はドラマだけど、テレビはチックが大事だ」。ドラマチックとは、「細かなニュアンスを面白く描くのが神髄じゃないかな」と説明している。

「ドラマっていうのはキャラクターとキャラクターのぶつかり合いの化学反応なんだ」

倉本聰は49歳で富良野塾という、脚本家や俳優の養成塾を開いた。75歳で閉塾するまでの26年間で380名が学んでいる。この塾は2年間は授業料は無料、地元農家を手伝うことで生活費を稼ぐというスタイルだったのはユニークだ。

倉本聰は「これが最後という覚悟がいい仕事を生む」という決意のとおり、優れた作品を作り続けている。私は若い頃は「青春もの」をよくみたが、最近では『やすらぎの郷』という意表をついたドラマを楽しんだ。

「数えきれないほど書いてきて、まだ書きたいことが山ほどある。それってずいぶん幸せな物書き人生ですよ」と生涯を総括しているのだが、「神様が書かせてくれている間は書きつづけたいですね」という希望を述べてこの本は終わっている。本日、87歳を迎えたが、この心意気ならまだまだ私たちをたのしませてくれそうだ。

 

輪廻転生。老年的超越。100年前。寂聴は仏。1万歩。白隠・南冥・福沢・梅棹・富田。

週刊文春』(12月30日・1月6日合併号)。

池上彰のそこからですか?!」の新春スペシャル対談。
相手は小林武彦先生(1963年生。国立遺伝学研究所を経て、東大定量生命科学研究所教授。九大大学院医学系研究科卒)。先日、三島で開催された富士箱根伊豆国際学会でお会いした方だ。

  • 回りまわって、何かしらの生物の材料になっていく、だから、進化のプロセスは輪廻転生ですよ。
  • 寿命を制限する遺伝子があって、これが実はピンピンコロリ遺伝子だった、、、生命には死なせるための仕組みが備わっているんだと気付きました。
  • 人間の思考回路は、年を取るほど洗練されます。、、脳細胞が意味のある死に方をして、有用なニューロンだけが残るので、ショートカットで答えが出せます。
  • 人類はやりすぎちゃったかな。
  • 一番ありがちなシナリオは絶滅です。今のままだと百年もたないかもしれません。

10万部を超えている小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)を注文。

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今日のヒント。「老年的超越」

小林武彦「若い時に幸福感が少ないのは欲があるからです。、、、一方で年を取って欲しい物を手に入れていくと、ある程度の達成感が得られて満腹になる。、、、60代、70代を乗り越えたら、逆に体調が安定して幸福感が増す。その状態を老年的超越と言うそうです」

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東京新聞「本音のコラム」(2021年12月30日)。三木義一(青学大名誉教授)。

「第1回国勢調査1920年大正9年)では平均年齢は男性42.0歳、女性43.2歳、女性の合計特殊出生率は5.1(今は1.3)」「1920年に始まった箱根駅伝は4校出場」「大学は16校」。

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テレビで今年亡くなった方々の番組を流していた。瀬戸内寂聴もその一人だった。93歳の寂聴は、人々を励ます「仏」になっていた。

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書斎の片づけ:白隠禅師。亀井南冥。福沢諭吉梅棹忠夫富田勲

1万300歩。

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「名言との対話」。12月30日。ユージン・スミス「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」

ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカ写真家。享年59。

ユージン・スミスは1918年、アメリカ・カンザス州⽣まれ。母からもらった14歳から写真を撮り始め、16歳で地元紙に写真が掲載される。18歳になった37年、プロの写真家を⽬指しニューヨークへ移り、『ニューズウィーク』誌のスタッフ、『ライフ』のカメラマンを経て、1943年、『フライング』誌の戦争特派員として太平洋に向かう。その後『ライフ』誌と契約し、サイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄などの戦場を撮影する。しだいにたたかいの渦中のおかれた人間を撮るようにある。沖縄では砲弾の破片をうけて負傷する。この負傷でユージンは生涯で32回の手術を受けることになる。戦いで名翻弄される人間を撮った写真によって、40年代から『ライフ』専属のの花形カメラマンとなっていく。「医学」「科学」「芸術」をテーマとしたフォト・エッセイと呼ばれる報道スタイルは高い評価を得ていく。1958年には「世界でもっとも偉大な十人の写真家」に選ばれた。

1961年には日立の仕事で日本に滞在。31歳年下のアイリーン・美緒子を妻としたユージンは1971年からは熊本県⽔俣市に移り住み、3年にわたり有機⽔銀による公害を取材する。後の「水俣病」である。「水俣でくりひろげられている、公害をめぐるドラマがおわるまでこの土地をはなれない」と決意する。1972年に東京駅近くのチッソ本社まえに坐り込む。それは1年8ヶ月にわたった。チッソ五井工場で暴行を受けて負傷する。1972年6月2日号の『ライフ』での「排水管からながされる死」、続いて「アサヒカメラ」10月号の水俣特集で写真を発表する。

帰国したユージンはアリゾナ大学で教鞭をとることになる。そして大学ではユージンの写真を保存する機関をもけてくれた。

第41回産経児童出版文化賞を受賞した『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』(佑学社)に加筆した偕成社の新装版を読みながら、ユージンというカメラマンの生涯を追う中で、東京のチッソ本社で座り込むシーンをみつけた。1972年から翌年にかけてのことである。私が1973年に就職した日本航空の本社はチッソが入っている同じビルだった。確かに最初に本社を訪ねた時から何度か、水俣病の患者側の人たちの抗議ともめている様子を覚えている。あの中にユージンがいた可能性がある。

若い頃、「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」と決意したユージンは、人間の生のユーモラスな面や悲劇的な面を、かっこうをつけずに現実的に撮ることをめざした。テレビ時代になって速報性で勝負できなくなった写真家たちは苦悩する。「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」(ユージン・スミス写真集1934-1975)というユージンは人間の素顔の表情をとるために、長い時間をかけて被写体と接することで、人間を描きだしたのだ。ユージンが亡くなったとき、世界中の50以上の新聞が死を報じているころからわかるように、写真という表現方法の革新者だったのだ。

 

 

 

 

 

 

母と同じ1927年(昭和2年)生まれの10人の女性たちーーこういう人たちと同じ時代の波をかぶったのか、、。

今年の「名言との対話」は、「大正から昭和へ」がテーマでした。大正12年生まれの父と昭和2年生まれの母と、同世代の人たちがどんな時代と向き合ったのか、を知るためです。母が生まれた当時の日本の人口は6200万人。40人中女性は10人。今年取り上げた人に加え、この6年間の「名言との対話」に取り上げた人々を並べてみました。こういう人たちと同じ年に生まれたのか、、、。

女性:森山真弓(労働官僚)。野上照代(映画スクリプター)。緒方貞子(国連難民高等弁務官)。高橋久子(最高裁判事)。尾崎左永子歌人)。石牟礼道子(作家)。佐々木久子(編集者)。渡辺和子(修道女)。横井美保子(横井庄一夫人)。宮城まり子(歌手)。

男性:山田政男(養蜂場)。小山田宗徳(俳優)。辻信太郎(サンリオ)。童門冬二(作家)。馬場のぼる(漫画家)。琴ヶ浜(力士)。長新太(漫画家)。寺田小太郎(絵画コレクター)。島桂次NHK)。小山宙丸(早大総長)。岩井半四郎(歌舞伎俳優)。観世栄夫能楽師)。ジョージ・川口(ドラマー)。太田敏郎(ノーリツ)。塚本三郎民社党)。ハンチントン政治学者)。加山又造日本画家)。富永光行(マルトミ)。小泉文夫(民俗音楽)。神坂次郎(作家)。森政弘(工学者)。青木日出雄(航空評論家)。勅使河原宏(芸術家)。江川卓ロシア文学)。辻井喬(作家)。倉田洋二(海洋生物)。上田耕一郎共産党)。ラーマ9世(プミポン国王)。山内傳(任天堂)。長谷川慶太郎(経済評論家)。金泳三(韓国政治家)。小西和人(釣り師)。児島襄(伝記作家)。市川健夫(人文地理学者)。吉村昭(作家)。渡辺晋ナベプロ)。北杜夫(作家)。藤沢周平(作家)。城山三郎(作家)。野田一夫(経営学者)。

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目黒:橘川さんと盟友のと妹尾みえさんと食事。AIノベリスト文学賞。深呼吸新聞創刊号。旅。miro。会社。、、、。

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今日は1万1000歩。

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今日のヒント。日刊ゲンダイ新春特別号(2022年1月1日)

奥田瑛二(俳優)「98歳と決めていた自分の寿命をコロナで3年延ばして、101歳としました。最後を迎えるとき、幸せだったら右手を上げる。そう家族に伝えているのです」

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「名言との対話」12月29日。三遊亭円楽(5代目)「毎度お運びでありがたくお礼申し上げます」

五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年12月29日 - 2009年10月29日[1])は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。

長身で端正な容姿を持ち、若い頃から、7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。1962年、真打に昇進し、三遊亭圓楽を襲名する。

1966年、日本テレビ笑点』の放送が始まり、大喜利の回答者として出演。1978年、落語家協会の分裂騒動で師匠の六代目圓生と協会を脱退。

1983年、「笑点」に復帰。南伸介の急死で司会者となり、以後、2005年に桂歌丸に交代するまで歴代最長の23年間続けた。日曜日夕方の「顔」として、「笑点」でテレビと落語を結びつけた功労者で、最も知名度のある落語家の一人となった。私もファンだった。

『五代目 三遊亭圓楽 特選飛切まくら集』(竹書房)を読んだ。圓楽の落語の「まくら」だけを集めた本だ。

「まえがき」では、六代目円楽は、「博識の人」「アドリブが苦手」「不器用」「稽古と努力の人」「映画マニア」と評している。

落語家協会の分裂時は、年間200日以上地方回りをやっている。歌丸から「俳句を詠まねぇ松尾芭蕉」と言われている。地方ではかならず村長が出てくる。「あんなバカが、よく幹事長になったね」と地元の人の言葉を紹介している。バカは自民党の金丸幹事長だ。「小才の利く奴は、大物になれません」と談志を笑い、返す刀でボーとしてる自分は大物だと笑わせる。プロ野球の意外性の男「山倉」はナマクラだ。野村のいう裏の裏をかけ、については裏の裏は表だといって笑わせる。直木賞は伸びるが、芥川賞は伸びない。世の中は二ついいことはない。外套を脱げと言われて、「外套(街頭)演説」と返した吉田茂の逸話。笑うと横隔膜を刺激し五臓の働きを活性化する。、、、。

講談は「読む」、浪曲は「語る」、そして落語は「話す」という。落語は「枕」と「本題」と「落ち」で構成されており、マクラは最初に場を温める役割がある。この本を読むと、圓楽の「まくら」は、「一杯の」「毎回の」などもつくことがあるが、必ず「毎度お運びでありがたくお礼申し上げます」から始まっている。

講演などでも、本題に入る前に、私もその土地の名所、名物、偉人、自分との縁などの話題から入ることがある。それは、注意を引き付け、親しみをもってもらうための「つかみ」だ。落語のマクラと同じである。

講演では最後は「落ち」というわけにはいかない。本題のまとめ、教訓、あるいは結論、今後の展望などを話すことになる。論文を書く場合も、「序論」「本論」「結論」という3段階で書くのが常識となっている。みな同じである。

圓楽のマクラの源の一つは、映画であった。時間があると映画館で映画を観るという習慣があった。地方公演でも必ずそうしている。その映画の話題をマクラで使っている。この本のマクラでも、映画「ハスラー」のパート2をみてきたことから始まっていたものがある。読書と映画という独自の泉が、豊かなマクラにつながっているのだ。後継者の6代目円楽は、それを「博識」と評したのであろう。

それでは、お後がよろしいようで、、。

 

父と同じ1923年(大正12年)生まれの人々ーー「名言との対話」より

今年の「名言との対話」は、「大正から昭和へ」がテーマでした。大正12年生まれの父と昭和2年生まれの母と、同世代の人たちがどんな時代と向き合ったのか、を知るためです。父は学徒出陣世代。生まれた当時の日本の人口は5800万人。関東大震災の年。65人中女性は4人。今年取り上げた人に加え、この6年間の「名言との対話」に取り上げた人々を並べてみました。こういう人たちと同じ年に生まれたのか、、、。

遠藤周作(作家)。高瀬将敏(殺陣師)。猿谷要アメリカ史研究者)。福田歓一政治学者)。高城聖鶴(書家)。武田喜之助(人形師)。江見絹子(画家)。キッシンジャー(米国務長官)。外山滋比古(英文学者)。池宮彰太郎(小説家)。千玄室(茶人)。隆慶一郎(小説家)。船越英二(俳優)。原田泰夫(将棋棋士)。石濱恒夫(作家)。鈴木萬次司(実業家)。桃井真(学者)。西村晃(俳優)。李登輝台湾総統)。上羽秀(空飛ぶマダム)。マリア・カラス(オペラ歌手)。海部八郎(商社マン)。三波春夫(歌手)。加島祥造(詩人)。根上淳(俳優)。辻勲(料理人)。竹内実(中国文学者)。流政之(彫刻家)。虫明亜呂無(作家)。ジャック・オニール(実業家)。千石イエス(宗教者)。飯田義国(彫刻家)。田村義也(編集者)。宮崎勇(エコノミスト)。白井義男(ボクサー)。田英夫(ジャーナリスト)。利光松男(実業家)。中村秀一郎(経営学者)。下河辺淳(官僚)。田淵節也(実業家)。鏡里喜代治(横綱)。西丸震哉(官僚)。大山倍達(空手家)。江頭匡一(実業家)。永井道雄(新聞記者)。鈴木清順(映画監督)。永谷嘉男(実業家)。大山康晴(将棋名人)。森嶋通夫(経済学者)。佐藤愛子(作家)。司馬遼太郎(作家)。渡辺美智雄(政治家)。有島武郎(作家)。リー・クアンユー(政治家)。池波正太郎(作家)。

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ウオーキング:1万歩越えの10532歩。。以下のラジオを聴きながら。

NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」で、「なかにし礼」を聴く。満州、戦争、国家。『兄弟』、『長崎ぶらぶら節』(直木賞)、、。

・NHK高橋源一郎飛ぶ教室」2021年1月1日「瀬戸内寂聴」(数え99歳)との対談を聴く。三島由紀夫川端康成との関係。河野多恵子(1926年生)と大庭みな子(1930年生)という二人の天才と寂聴(1922年生)との関係。『場所』『命』。、、、。実に面白い掛け合い。

立川:福島さんと打合せ。

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今日のヒント。「幸福の木」。

幸福の木(ドラセナ・マッサンゲアナ):ドラセナ・フラグランスの枝変わりによって生まれたマッサンゲアナという種類の観葉植物で、祝い事の贈答品として胡蝶蘭と共に親しまれている。幸福の木は愛知県渥美半島にあるナーセリーが日本で初めて輸入し、国内に流通させたと言われており強健な性質も相まって現在も人気の高い観葉植物。

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「名言との対話」12月29日。曽根幸明「やぁー命がけで審査させて頂きました」

曽根 幸明(そね こうめい、1933年12月28日 - 2017年4月20日)は日本の作曲家、アレンジャー。 

東京都世田谷区出身。日本大学文学部中退。「藤田功」の名で歌手・俳優活動の後、本名の「曽根幸明」で作曲家としての活動を始め、1960-70年代に活躍した。

勝新太郎の「座頭市子守唄」「いつかどこかで」、山川豊の「流氷子守歌」、森進一の「銀座の女」、藤圭子、園まりらの「夢は夜ひらく」、藤圭子「命預けます」(編曲)などが代表作。

象印スターものまね大合戦』など、1980年代にかけて審査員等としてテレビ番組にも登場し、親しみやすいキャラクターで人気を博した。特にアール・エフ・ラジオ日本では昼の歌謡ワイド番組を中心に様々な番組を担当した。病気治療などのため一線を退いたものの、晩年まで創作活動を続けた。審査員としての曽根の顔は私も覚えている。

スポニチアネックスというサイトの2019年4月19日で、妻で女優の太田きよみ(67)が19日放送のTBS系「爆報!THEフライデー」(金曜後7・00)に出演し、曽根とは泥沼不倫の末の略奪婚だったと告白したことを記事にしている。

ヒットメーカーだった曽根には下積み時代を支えた妻と2人の子どもたちがいたが、37歳の曽根は太田と出会ったことで人生が激変する。人気の若手女優だった19歳の太田と不倫関係となる。太田は2人の子供を妊娠、出産。出会ってから14年後、第2子を妊娠した後に2人は結婚した。

結婚から1年半後に曽根の母が直腸がんとなり、太田は育児と義母の介護をする生活になる。そして曽根が脳梗塞を発症しその介護も加わり、曽根は死去。遺産相続問題が起こる。楽曲の印税収入は少なく見積もっても月に30万円。死後50年間で推定1億8000万円になる。太田は非難されることを覚悟で、前妻と遺産相続問題の話し合いをするため直接対面する。前妻の直美は著作権相続を放棄する。離婚後に月100万円の仕送りをもらっていたからだ。太田に「当時はいい感情は持ちませんよ。でも、彼のお母さんの介護もしてくださった。彼の介護も必死にしていて偉いなあと。5年、10年も大変だった。この人は本当に曽根を愛していると思って。だから印税は当てにしなかった。気を楽にしてください」と語った。前妻からの言葉を受け取った太田は号泣している。

「やぁー命がけで審査させて頂きました」は、『童謡の謎』『神社の謎』シリーズの作家で歌手の合田道人のブログで以上が紹介されている、群馬テレビの歌謡番組の審査委員長をしていた時の名言である。『童謡の謎』『神社の謎』シリーズの作家で歌手の合

田道人のブログで以上が紹介されている。(うたこん大歌謡祭審査員の一日 - お元気ですか?合田道人です)

曽根幸明という人は、本業の作曲も、私生活の恋愛も、そして歌謡番組の審査員としての仕事も、何ごとも「命がけ」で行った人のようである。

「命がけ」という言葉は最近はあまり聞かなくなった。この言葉を使った例をランダムにあげてみよう。鈴木修「軽自動車の電動化を命がけでやる」。棚網良平「ショートパットは命がけで打て」。沢田政廣「人間というものはどんな場合でも、自分を見限ったらもうそれでおしまい。命がけになれば、どんなことでもできる」。島岡吉郎「命がけで当れ」。淀川長治黒澤明はどんな場合でも命がけで撮ってるね。あの齢になって。まだ撮ってるから、86でも映画つくるんだね。偉い人だ」。ロッキー青木「ビジネスで成功するのも、冒険で成功するのも、つきることは同じだと思う。それは「夢を持つ」「手段を徹底的に考え抜く「命がけでやる」の3つである」。大川功「新しい産業には、必ず『予兆』が「あるという。その『予兆』をのがさずにとらえ、これを命がけで事業化しようとする人に対して、天は『時流』という恩恵を与え、そして、『使命』という社会的責任を負わせるのだと思う。私の人生は、それに尽きる」。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」。実相寺昭雄「おれたちは空想に命がけなんだからさ、あほなおとなといわれようといいじゃねえか」。

極め付きは白洲正子の「今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう」だ。

 

 

 

東京MXテレビの寺島実郎の「世界を知る力」対談篇ーー相手は、アメリカの渡部恒雄と中国の柯隆。

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇(東京MXテレビ)12月26日。

相手は、アメリカの渡部恒雄と中国の柯隆。テーマは「日米中知来アングル」。

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寺島:前回7月からの変化は? 中国。

柯隆「中国経済は急減速。第四四半期は4.9%成長(18.3%、7.9%)になり雇用が難しい。豪州からの石炭輸入停止で自分の首を絞めて大停電など、政策立案が混乱し、社会が混乱」「バブル崩壊か。不動産。経済は逆風」

渡辺「豪州の石炭輸入停止で代わりにアメリカから天然ガスを買っている。歩み寄る面も」

寺島:米中は選別的対立か? なぜ土地が公有の中国に不動産バブルがあるのか?

柯隆「中国は6%成長か。2022年はもっと厳しい。富裕層のお金は海外に逃げている。▲2000億ドル」「1970年に日本が宅地借地権という知恵を教えた。地方政府はこの使用料を財源にした。地方は地上げを行いバブルになった。中国の家計貯蓄は30%で不動産を購入できた。バブルで年収の50倍以上になった」

寺島:「共同富裕」。アリババ、テンセントなどの富を分配か?

柯隆「高級幹部には所得調査ができないから固定資産税、相続税などの課税はできない。寄付をせよということになるが毎年はできない。富裕層は海外に逃げる。格差の縮小はできない」

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寺島:中国6中全会。習近平毛沢東化。下放体験。newsweek文化大革命2.0」。

柯隆「躍進を始めた40年前との違いは情報が入ってきていること。マインドコントロールが効かなくなっている。効果がないから共産党幹部は焦る。経済成長しないから分配もできない」

渡部「交渉相手は一人がいい面はある。リスクはある。外に抜けて強く出てくる」

寺島:アメリカ。8月のアフガン陥落。

渡部「バイデン政権は計算違い。1:アフガン撤退が早かった。2:国内経済:物価インフレ。景気刺激策でガソリン価格が上昇し備蓄放出(サマーズ長官の警告)。支持率は支持40%、不支持50%と逆転。裏切られたとして失速」

寺島:習近平とはコミュニケーションチャンネルを維持。プーチンからはウクライナ問題で恫喝されている。アフガンの例もあり、台湾も守らないのではないかという疑念がある。渡部「ウクライナ、台湾は同盟国ではない」

寺島:アメリカはイラク、アフガンでネイションビルディングに失敗。台湾海峡? バイデン・周会談で「一つの中国」の原則を確認した。レッドラインを越えなければいい。台湾は独立はしないだろう。

柯隆「ケンカはしたくないがレッドラインは越えない。混沌とした国際情勢になる」

渡部「アメリカは軍事力、経済力は弱くなった。緊張を高めたくない。アメリカも中国もあいまいなまま現状を安定化させるちからはあり。2022年は中間選挙もあり難し年になる」

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寺島:安倍元首相「台湾有事は日本有事」発言。米軍は沖縄にいるから日本は自動的に巻き込まれる。それを避ける知恵が必要だ。台湾も一枚岩ではない。与党、野党、軍にも中国より勢力もある。台湾に提供した軍事技術が中国に抜けていく可能性もある。尖閣については台湾は中国と同じ姿勢。

渡部「日中のラインが緊張緩和に生きる可能性がある。自動参戦にならないようにしておくべき。無力感と男気の中間を」

寺島:東アジアの安定について

柯隆「日米中のトップの能力が問われる。首脳同士が実際に会えていないのが困る。対面が重要だ。知恵が試される場面がくる。日本も単純に考えないように」

渡部「岸田外交への期待。安倍意向で軍事のハード面はパワーアップした。ソフトパワーを使って外交を。

寺島「平和強調外交を再設計すべきだ。日中韓、アセアン、ロシアを含めた新しい制度設計を。それが日本の課題の集約点」

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日誌。

・立川でカラダのケア。

・1万1000歩。

・デメケンのミーティング

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今日のヒント。

デジリウス・エラスムス「本来の自分であろうとすることが、最も幸せなことである」

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「名言との対話」12月27日。岡部冬彦「漫画というのは毎回毎回の一枚ずつが発明であり創造」

岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト

東京美術学校図案科を卒業。学徒出陣でフィリピンへ。内地勤務で敗戦を迎えた。1947年、サン・ニュース・フォトスに入社。1952年、『週刊朝日』の『オヤカマ氏』など週刊誌連載のサラリーマンまんがを描く。1956年から『アッチャン』(『週刊朝日』)や『週刊文春』連載の『ベビーギャング』などを描く。ブラックユーモアの作品で人気を得た。1961年第7回文藝春秋漫画賞を受賞。

皮肉のきいた文章も得意だった。杉浦幸雄と組んだ『図解・淑女の見本』(1969)は好評だった。旅行や乗り物に関するエッセーでも知られ、『岡部冬彦のヒコーキ万歳』などの著書がある。1989年紫綬褒章、1995年勲四等旭日小綬章を受章。 

岡部冬彦『男の学校』(産業労働調査所)を読んだ。

「男は人生の終りまでが、勉強の連続だ。勉強の努力をし続ける人生を男の学校」「酒は先輩にオゴられて飲むことに始まって、自分のポケットで飲むことで完結する」「妻と母親と職業婦人の三つを、一生やりとげるつもりで就職する女性はほとんどいない」。以上は、いかにも昭和の匂いがするが、この本は今から40年前の刊行だからしょうがないか。

「コッキョウの長いトンネル」というのは間違いだそうだ。日本国内には国境はない。言われてみれば確かにそうだ。クニザカイという言葉は今でもある。例えば、多摩境。例えば武蔵境などの駅名に残っている。「クニザカイの長いトンネル」と読もう。

「熟年」という言葉は、堺屋太一が言ったとある。45歳から65歳であり、岡部は「中年」と呼ぶと言い張っている。私はこの時代を「壮年」と呼んでいるのだが、岡部に寄れば、良き中年の持つ資質は、活力、思慮、豊かな経験であり、好奇心、ヤル気、思いやりを持とうと主張している。そのためには、情報の小銭、つまり小噺やジョークを用意しようと呼びかけている。

本職の漫画についてはどう考えていたのか。「漫画というのは毎回毎回の一枚ずつが発明であり創造であって、、、。」「漫画商売というものは、今までにないものを自分で創り出すということが根本」「漫画は自分の生活に密着したものの中から材料を探せば、それこそプロの描けないものが描ける」。、、、。

岡部冬彦は、漫画は発明と創造の世界であることを強調している。その源は好奇心と違いを発見する目だろう。その姿勢が、エッセイの名手にしたのだろう。「中年よ!(壮年よ!)、好奇心を持て!」というメッセージを受け取ろう。

 

男の学校

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