「幸福塾」は「公人」起業家の2回目ーー江頭匡一。小倉昌男。岩谷直治。永谷嘉男。能村龍太郎。鬼塚喜八郎。江副浩正。

「幸福塾」は「公人」起業家の2回目。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は7名の創業者の方々をご紹介いただきましたが、一番印象に残ったのは、 「事業というものは植林と同じです」という 岩谷直治氏(岩谷産業)の言葉でした。 「 苗を植えて肥料をやり、草をむしり、丹精をこめて育てなければいけない」 「小さくはじめて、だんだん大きくしていく」 など、コツコツと時間をかけて 必要な商品やサービスを 足腰の強い事業に育てていくところに魅力を感じました。また、 「知識の組織化が一番大事」 という能村龍太郎氏(太陽工業)。テント という一つの分野をあらゆる側面から探求していったとのこと、知的な感じも受けます。(東京ドームは「テント」から来ていたことには改めて驚きました)。ほか創業者の信念が伝わってくる味わい深い言葉がたくさんありました。ありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。冒頭久恒先生より「人物研究者としての第一歩を踏むこととなった」旨宣言があり、百数十人に及ぶ著名人たちの名言を集めた「全集」パンフレットのゲラから、その大作ぶりが大いに感じられました。今秋発売との事、今から反響が楽しみです。さて本日「幸福塾」のお題は「公人:起業家」の2回目で、比較的近代を生きた身近な「ブランド」を創った人々の名言コレクションを堪能する事が出来ました。そこには様々なスタイルが。①熱血漢、これと決めた分野一本で勝負、②事業は大成功も家庭では失敗、ビジネス引退後は償いの人生、福祉財団、③小さく始めて、丹精込めてコツコツ。問題解決は草むしりと同じ、ヒトを育てる、④「局地戦」⁼食卓で勝つ、「味&手軽さ」から「健康」へ、⑤ひとつの分野にこだわり、「組合わせて新しい」ものを次々と。⑥出来上がったら注目の場で勝負、「頂上決戦」…等様々でしたが、なかでも当方が特に惹かれたのは、⑦「自ら機会を作り出し、機会によって自らを変える」というモノでした。常に「危機感」をもって自分から積極的にチャンスを取りに行く、自分が変わらないと周りが変わらないという姿勢に、丁度先日放映された「世界を知る力」で加藤登紀子さんが仰っていた「革命とは、自分を変える事なのです」という鮮烈な言葉と戦中生まれとは思えない実にエネルギッシュな姿が重なり、本日ひときわ腑に落ちたなと感じいった次第です。社業大忙しの為、足掛け4か月にわたり塾への出席が叶いませんでしたが、本日久しぶりの出席が実現でき、皆様とお目に掛かりながら「ちょっと前の日常」を取り戻し「幸福」なひと時を過ごすことができた事が本日イチバンの収穫となりました。大変有難うございました。
  • 本日もありがとうございました。創業者という共通項で経営や生き方について学ぶということは、これまでほとんど経験した来なかったので新鮮で、かつとてもためになりました。永谷園、佐川急便、ロイヤルホスト岩谷産業、アシックス、リクルートなどよく知っている企業もあれば、テントなどほとんど意識したことのなかった業種など興味深かったです。しかも迷いの連続の後半生だったことなど、勉強になりました。「人生は自分の才能を励ましてくれる師をもとめて歩く。」というのもいいですね。永谷園の「ぶらぶら社員」というのも興味深いです。たしか、アカデミアの世界でもサバティカル休暇というのがあったと思います。いいアイディア、クリエイティブであるためにはそういった時間も必要ですね。今後も楽しみにしていますし、できるだけ友人を誘いたいと思います。
  • 先生、みなさま、お疲れ様でございました。今日は、名前を知っている企業の方々のお話が多く、想像しやすく親しみやすかったです。江頭匡一さんの、「目標を作り計画をたてそれを確実に実行するときは間違いなく目標に到達する」これはその通りなのですが、「確実に実行する」、それがなかなかできなくて難しい。他ご紹介くださったみなさんも、一つ一つ達成し掘り下げ、目の前のことを着実にこなしていかれてることが、この言葉と重なりました。あとは、みなさんからたくさん本や映画やドラマなどご紹介いただいたので、手に取ってみたいと思いました。本日もありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさん、本日もありがとうございました。「公人」の幸福について、今回は企業家7人をご紹介いただきました。有名な企業の創業者であるみなさんでしたから、親しみやすかったです。どなたもそれぞれの理念を大切にし、その実現に向けて取り組んだ結果、大企業となっているわけですが、業を継続する、盛り立てる方法などは全く違っている点が興味深かったです。また、公人として幸福であっても、私人として幸福であったかどうかは別というお話もありました。 人が感じる「幸福」とは何だろうかと、もっと知りたくなりました。これからもいろんな方の幸福感を学ぶことで自分の幸福感の幅を広げられたら、私の人生がもっと楽しくなるんじゃないかと思いました。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。昨日もまた刺激をいっぱいいただきました。身近な企業の創業者の方の事業化へのアプローチに方法、一点集中・きりもみ作戦、勉強になりました。リクリートの定年が38歳、結果として人材育成の場となっていることは、今後の日本の成長のための指針ではないでしょうか、と感じました。それにしても、宅急便・テントといい新規の取り組みに対しての一番の障害がお役所というのは考えさせられます。最後に、幸福度ランキング一位のフィンランド、首相の発言も含めもう少し調べてみます。次回も宜しくお願いします。

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「名言との対話」7月27日。山本有三「「たった一人しかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間生まれてきたかいがないじゃないか」

山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年明治20年)7月27日 - 1974年昭和49年)1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家政治家

栃木市出身。山本有三は、劇作家、小説家、教育者・文化人、政治家という4つの活動を行い、それぞれの分野で一流の価値ある仕事をしている。

第六高等学校合格後の父急死による断念、第一高等学校学科試験合格後の体格試験での不合格を経て、第一高等学校文科に入学したときは、すでに満22歳になっていた。一高での落第、2年終了で東京帝国大学逸文学科入学などで、同級生に多くの優れた友人を持つことになった。近衛文麿土屋文明芥川龍之介菊池寛久米正雄、新関良三、三井光弥、、、。落第を含む変則的な人生にも、そういう効能がある。そして有三は生涯にわたってその縁を生かしている。

二度目の結婚で得たはなは、近代的なセンスと文学的素養があり、有三にとって理想の人であった。はなは生涯にわたり、妻と秘書の一人二役を精魂込めてはたした。はなの助力がなかったら、あれほど幅の広い勝利は不可能だっただろう。

山本有三の思想の核には、自然的事実としての生存闘争と、道徳的善の要求がある。題材に応じて戯曲と小説に書き分けたのである。

有三の教養小説は、人間の外的成長に内的発展をからませて、主人公が何らかの人生の知恵に到達する過程を描く小説だ。「路傍の石」、「真実一路」などがそれである。現実の社会を一大劇場に見立てて、普通の人の群像を登場させ、人生の喜怒哀楽を描く。左右のあらゆる主義も単なる社会現象として著述する視野の広い作風である。

明治大学文科専門部文芸科長に招聘されたとき、教授陣は山本有三の厚みのある人脈が動員されている。里見弴、岸田国士横光利一土屋文明久保田万太郎小林秀雄獅子文六萩原朔太郎、谷川徹郎、長与善郎、舟橋聖一今日出海、、、。山本は「人をつくる」「人物を養成する」「子どもを育成する」という表現を好んだ。教育方針は「作家を作る」ために、「自ら会得させる」「芽を伸ばさせる」ことを重視し、見学、座談という体験学習にも力を入れた。

国語改革についても功績がある。GHQが日本語のローマ字化を目指す案を持っていたが、山本有三に「日本語の問題は自分たち日本人の手で解決するから口を出さないでもらいたい」と拒絶している。「国民の国語運動連盟」は、日本国憲法の口語化を実現した。国語審議会の「常用漢字表」の主査委員長となり、「当用漢字表」案を提出する。当用とは「当面使用すべきもの」という意味である。参議院議員に出馬したのは「国語研究所」をつるためだった。。「新しい国家を築きあげてゆこうとする時、文化人みずからが引っ込んでいて、どうして、本当の文化国家を建設する事ができましょう」。参院では「緑風会」を田中耕太郎らと結成している。有三命名のこの名前は、参院を理性の場にしたいという念願ならであった。仮名交じり文ではなく、漢字交じり文を主張し、耳で聞いてもわかる文章、文体を作りあげようとした。また山本有三は国語教科書を責任編集している。山本有三は文壇的存在よりも、社会的存在になっていく。山本有三文化勲章を受章している。

「今ここで死んでたまるか七日くる」が辞世となった。猛烈な仕事師であった山本有三らしい。戯曲『米・百俵』では、小林虎三郎を題材に「人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ない」ことをテーマとしている。山本有三は幅の広い活動を生涯行ったが、私の見るところ、この人は教育者であった。教育者的資質が、様々な方面に生かされたのだと思う。

 三鷹の洋館である山本有三記念館には2006年に訪問したことはあるが、それほど強い印象は受けなかった。2017年に栃木市に訪ねたふるさと記念館は、「蔵の街」栃木の日光へ続く列弊使街道に接している。蔵を記念館に改造した建物だった。
冒頭の言葉はかつて私も読んだ『路傍の石』の中にある言葉である。貧しい家に生まれた吾一が、純真な心を失うことなく、ひたむきに運命を切り拓いていく物語である。道端の石ころであっても、それに甘んじることなく、成長しようとする主人公の姿を描いていて共感を覚えた記憶がある。私も「路傍の石」という言葉は、折に触れて使ってきた。今回『波』を読んでみた。教え子と結婚した三並が、不貞や疑惑に苛まれながら、人道と理想を追い求めて生きていく物語だった。人道作家の面目躍如の本だった。
山本有三の人道、理想、ヒューマニズムなどを基調とした文学作品は、多くの少年や青年をはげました。私もその一人であるが、今も読まれているだろうか。ぜひ読んでほしい。
 
 
 

「名言との対話」8月の人選と本選びーー今年の対象者は明治生まれの人物(祖父母の世代)。

7月の今週で終わりになるので、「名言との対話」8月の人選と本選び。

7年目の今年の対象者は明治生まれの人物(祖父母の世代)。

6年目の昨年は「大正から昭和初期に生まれた人物」(父母の世代)だった。

木下杢太郎。速水御舟。鍛冶隆一。田島ナビ。壷井栄。長与善郎。マタ・ハリ。長谷川周重。麻生豊。藤原あき。吉川英治一万田尚登。ヒッチ・コック。荒畑寒村。内藤豊次。しょうち三郎。後藤静香。石井光次郎。ココ・シャネル。金栗四三。大井上康。中島董一郎三好達治滝廉太郎。山田美妙。マザー・テレサ岩波茂雄。川鍋秋蔵。大内兵衛国木田独歩鏑木清方

来月は、どんな人生、どんな名言に触れることができるか。

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NPO知研」関係の「定款変更」の提出書類についての問い合わせ。法務局。都庁。国税事務署所。都税事務所。府中市役所。八王子市役所。手続きの全体像がやっとみえた。銀行関係の手続きもわかった。順次やっていこう。

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明日の「幸福塾」の講義の準備。

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1万歩。

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小山内 薫(おさない かおる、1881年明治14年)7月26日 - 1928年昭和3年)12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家演出家批評家

広島市出身。府立一中、旧制一高を経て、東京帝大文科大学に進学。一高時代には内村鑑三、帝大時代にラフカディオ・ハーン森鴎外と関係している。

1907年、同人誌『新思潮』を創刊。1909年、自由劇場を結成(二代目市川左団次)。1912年から1923年にかけてモスクワ、ベルリン、ロンドンなど欧州に滞在。1916年、移動集団「新劇場」を結成(山田耕作)。1919年、「国民文芸会」を創立(久保田万太郎久米正雄吉井勇)。1920年、松竹のキネマ俳優学校校長。松竹キネマ研究所を設立。1924年築地小劇場を創設(土方与志)。1925年、日本初のラジオ演劇を演出。1928年、48歳で急死。

以上のような組織づくりを中心とした活発な活動をみると、無理な日程をこなす中で体調を崩したことが死因であるとわかる。まさに近代演劇の開拓のために駆け抜けた生涯だった。小山内薫は「新劇の父」と呼ばれる。

小山内薫の業績は戯曲、詩、小説、評論・随筆・紀行、翻訳など、実に多彩であるが、近代演劇では戯曲を正しく表現する「演出」を独立させたことが特記される。戯曲、演出、演技という流れを確立した人である。

華麗な人脈は相互に影響を与えあったことを思わせる。随筆の中で各界の著名人が現れる。「芝、麻布」では永井荷風森鴎外佐藤春夫。「明舟町」では岡田三郎助。「芝浦」では島崎藤村木村荘八内田魯庵。「森元町」では菊五郎。「竜士会」では島崎藤村柳田国男田山花袋蒲原有明。文学者、画家、役者、詩人、音楽家、などが交流をはかりながら、明治の文化を盛り上げていったことが感じ取れる。

葬儀は「劇場葬」であった。劇場とは築地小劇場である。「小山内薫先生劇場葬公文」を手にした。それによると、戒名は「蘭渓院献文慈薫居士」である。遺族の希望でデスマスクをつくっている。「三田文学」、「子分の会」、「劇と評論」の代表者も葬列に加わったというから、仲間が多かったことがわかる。

追悼文では、「時代の第一線」「不断の努力」、「日本演劇界の先覚者」と讃えられた。そして「永遠の若さと尽きざる精力」の人とされている。演出はイギリスの古典から第一次世界大戦後の新傾向まで45編であった。80人の同志は本城である「築地小劇場」を守る覚悟を披露している。この新劇運動は現在の文学座俳優座、民芸などに継承されている。

「芝居は魂だ!」の前には「形でもない、声でもない、光でもない、色でもない」という言葉がある。

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ユーチューブ「遅咲き偉人伝」第12回目は「やなせたかし」ーー「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」第12回目は「やなせたかし」。

https://www.youtube.com/watch?v=90EKkkA_vXk

 

やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

「何のために生まれてきたの?」(PHP)を読んだ。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

 

 

 

「名言との対話」7月25日。島津源蔵「事業の邪魔になる人。家庭を滅ぼす人」

2代目島津 源蔵(しまづ げんぞう、明治2年6月17日1869年7月25日) - 昭和26年(1951年10月3日)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家発明家

京都出身。島津製作所創業者の島津源蔵の長男。1894年に父の死で二代目を襲名し事業を継承した。1895年、人体模型などの標本を製造、販売。1896年、日本初のX線写真を撮影し、1897年には教育用X線装置を商品化した。

鉛蓄電池を改良したGS蓄電池(島津源蔵の頭文字)は日露戦争巡洋艦和泉が、日本海海戦信濃丸から「敵艦見ゆ」の第一報を受けて、旗艦三笠に送信した。「皇国の興亡」にあたり重要な役割を果たしたのだ。

島津製作所の発明から誕生した組織は多い。X線技術は京都医療科学大学を生んだ。発明した亜酸化鉛からつくった防腐剤を扱う大日本塗料が独立した。電池を動力とした輸送機を製造する三菱ロジスネクスト株式会社。「蓄電池の父」とされる島津源蔵は会長職を引退後も発明に専念している。生涯の発明は178件にのぼる。1930年、日本の十大発明家として真珠の御木本幸吉らと宮中晩餐会に出席している。

2007年に、京都の人物記念館を訪問した。末川博、大河内伝次郎新島襄河井寛次郎橋本関雪などをみたが、そのとき、島津製作所の創業記念資料館でを訪問した。2002年にソフトレーサーによる質量分析ノーベル化学賞を受賞した島津製作所田中耕一さんの資料の展示もみることができた。島津源蔵の発明の伝統は生きているのだ。

この資料館で面白い言葉を見つけた。二代目島津源蔵の訓語である。

「事業の邪魔になる人」:自己の職務に精進することが忠義である事を知らぬ人。共同一致の融和心なき人。長上(目上)の教えや他人の忠告を耳にとめぬ人。恩を受けても感謝する心のない人。自分のためのみ思い、他人の事を考えぬ人。金銭でなければ動かぬ人。艱難に堪えずして途中で屈伏する人。自分の行いについいて反省しない人。注意を怠り知識を磨かぬ人。熱心足らず実力なきに威張り外見を飾る人。夫婦睦まじく和合せぬ人。物事の軽重緩急の区別の出来ぬ人。何事を行うにも工夫をせぬ人。国家社会の犠牲となる心掛のない人。仕事を明日に延ばす人。 

「家庭を滅す人」:自分の一家と国家とのつながりを知らぬ人。両親及び兄姉を敬わず夫婦和合せぬ人。身分相応を忘れる人。毎日不平を言うて暮す人。相互扶助を知らぬ人。嘘を言ひ我儘を平気でする人。不用の物を買ひたがり無駄事に多くの時間をつぶす人。夜更ふかし朝寝をし実力を養成しない人。失敗したときに勇気を失ふ人。非礼なことを平気でする人。今日積む徳が明日の出世の因となることを知らぬ人。先輩を軽んじ後輩に親切に尽くさぬ人。他人の悪口を言ひ争ひを好む人。秩序を守らぬ人。今日一日の無事を感謝せぬ人。

以上の三十ケ条はいづれも処世の要諦であって充分に之を理解し且つ実行に努むる時は職務上独特の技術を発揮して無くてはならぬ人となり人格を向上し性格を円満ならしめ諸人の愛敬を受け以て立身立家立国の三大任務を完成することができる。

然るに若し之を読むも皮相にして底の真理を味解するに至らず或はただ知るのみにして之を貫き行ふの熱意を欠く者は必ず一身一家を破滅の淵に陥れるのである。

1000館ほどの人物記念館を巡ってきて不思議に思っていたことの一つは、小説家、画家、彫刻家などの記念館は多いが、実業人・経営者の記念館はあまりないということだった。書物、絵画、彫刻などは形があり、展示する方向が明確であるからだろうと考えていたが、起業家や企業家は「企業」という生き物を産み、その生き物が成長しているから、企業自体が人物記念館であるということなのだろう。
安定した大企業となった企業の中には、創業者の事績を示す記念館がある。例えば、大阪のパナソニック松下幸之助、京都の島津製作所の島津源蔵など。それぞれの企業は創業の精神を忘れないため、そして企業のDNAを確認するために立派なミュージアムを擁していることが多い。今後は、企業ミュージアムもターゲットとしよう。

「事業の邪魔になる人」「家庭を滅ぼす人」という教訓は、島津源蔵がいうように心にしみる処世の要諦である。

 

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇は歌手の加藤登紀子との対談ーー「時代と向き合い今を歌い続ける」

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇は歌手の加藤登紀子との対談。

加藤登紀子(1943年生)は時代をみつめ、体験から思考し、メッセージを歌に託して発信し続ける人だった。それは「時代と向き合い今を歌い続ける」という言葉に集約されている。この対談を「生い立ち・出会い・出来事」という私の切り口からまとめてみた。

加藤登紀子が最後に歌った「花はどこに行った」には感動した。「野に咲く花。少女。若者。兵士。墓。野に咲く花。少女」というループ。「人はいつになったら気がつくのだろう」

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生い立ち

  • 大いなる影響あり。ハルピン。ロシア人たちとも交流。父。母。兄。
  • 同じ体験でもとらえ方が違う:引き揚げ「人間の限界を知るたぐいまれな経験」(母)
  • 人生観:「人生は面白ないといかん」(父)「女は損。結婚は遅い方がいい」(母)

出会い

出来事

時代と向き合う

  • 戦争と文化力:民族、宗教。アインシュタインフロイトの交換手紙
  • CD「果て亡き大地の上に」:イマジン。花はどこに行った「野に咲く花。少女。若者。兵士。墓。野に咲く花。少女」というループ。「いつになったら気がつくのだろう」

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「名言との対話」2021年のまとめ本。母の死の前後に書くことが出来なかった日々の補充がこの週末で終わった。

6月11日。森寅雄「タイガー・モリ」

6月14日。駒井哲郎「白と黒の造形」

6月20日川田順三「自分自身の身体を使って、身の丈に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思いだすこと」

6月22日。原弘「グラフィックデザイン

6月23日。河合隼雄「何であれ、オモロイことしかしない。しなくてはならないことは、オモロクしてみせる」

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「名言との対話」金子直吉「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日1866年7月24日) - 昭和19年(1944年2月27日)は、日本実業家 

高知県出身。10歳から丁稚奉公。質店で働く傍ら、質草の本を貪り読み、独学で経済や中国古典に関する膨大な知識を身につける。1886年、20歳で神戸八大貿易商に数えられる鈴木商店に入る。番頭として経営を切り盛りし、1900年には台湾樟脳の販売権の65%を得るまでになった。「生産こそ最も尊い経済活動」という「工商立国論」をもとに、鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまでの80社を超える生産工場中心の一大コンツェルンを形成した。

『幕末商社考2』(姉崎慶三郎)を読んだ。また「鈴木商店記念館」の記述を読んだ。

「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」。そして第一次世界大戦時のロンドンの高畑誠一支店長への打電「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(金に糸目をつけず、ありたけの鉄と物資を買え)。鈴木商店は、三井物産を超えて、日本一の総合商社となった。

鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店)に金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせものだ」。直吉は「無欲恬淡」で、念頭にあるのは「事業」のみ、私利私欲はなく、終生借家住まいで、私財も残さなかった。

倒産の報告に対してオーナーの鈴木よね「しかたおまへん。わてはあんたが生きていてくれはったらそれでええ」。オーナーの信頼の厚さをよくわかる。

福沢桃介は「財界のナポレオン」と讃えた。渋沢栄一は「事業家としては天才的だ」と評した。北村徳太郎(鈴木商店佐世保支店長、大蔵大臣)は「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった」。

鈴木商店は無くなったが、高畑誠一らは直吉の精神を継承し、日商をつくり、現在では双日となっている。また1967年に開催された神戸開港百年祭では当時の市長から「あなたは神戸に一大総合商社を育て上げ、今日の港都繁栄はあなたの功績によるところまことに顕著なものがあります」と讃えられた。事業を展開するということは、国を富ますことになる。直吉の功績は国に対しても大きいものがある。

直吉は俳句を趣味としていた。「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」という気宇壮大な句を詠んでいる。学校に行けなかった自分を、農民から退校にまで出世した秀吉に、また一兵卒から皇帝にまで昇りつめたナポレオンになぞらえて邁進したのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

ユーチューブ「遅咲き人伝」第11回「安藤百福」をリリース。

ユーチューブ「遅咲き人伝」第11回「安藤百福」をリリース。

https://youtu.be/nAzGRQ-tVBU

「名言との対話」1月5日。安藤百福「「?」は、「!」のモト」

ハレー彗星の接近の年に生まれた安藤百福は48歳でチキンラーメンの開発に瞬間油熱乾燥法を用いて成功した。61歳で究極の加工食品と呼ばれるカップヌードルを開発する。直後の1971年の浅間山荘事件で機動隊がカップヌードルを食べる映像で大ブームとなった。そして永年の夢であった宇宙食ラーメン(スペース・ラム)を開発しNASAに提供し野口聡一宇宙飛行士が宇宙で食べたのは95歳の時であった。97歳の1月5日に亡くなったが、日清食品の社葬は宇宙葬であったというから徹底している。安藤の人生を眺めてみると、敬服と同時にある種の滑稽さも感じる。横浜の安藤百福発明記念館(愛称はカップヌードルミュージアム)は子供たちに圧倒的な人気があったので驚いたことがある。安藤は食産業は平和産業であると認識していた。

「社長とは権力ではない。責任の所在を示している」。「時計の針は時間を刻んでいるのではない。自分の命を刻んでいるのだ」。こういう言葉を数多く残している安藤は、単なる発明家ではない。ある種の思想家的資質もあったように思う。

最後に行き着いた「食に関する疑問(「?」)を徹底的に研究し、実験し、失敗し、少しづつ山を登っていくと、真実(「!」)に近づいていく。その作品がチキンラーメンであり、カップヌードルであり、そして宇宙食ラーメンであった。イノベーターの人生というものは、こういった道程の繰り返しだろう。小さな疑問を一生かけて解いていく。常にまず疑問を持つことから始めたい。

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  • ヨガ教室で1時間。
  • 「名言との対話」の2021年の補充の執筆「河合隼雄」「駒井哲郎」。

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「名言との対話」。7月23日。レイモンド・チャンドラータフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格がない」

レイモンド・ソーントン・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888年7月23日 - 1959年3月26日)は、アメリカ合衆国シカゴ生まれの小説家、脚本家。

父がいなくなった後、1900年に母親はイギリスのロンドンに引っ越す。それは最高の教育をさせるためであった。チャンドラーはパブリックスクールとカレッジで教育を受けた。「現在クラス」と「古典クラス」の両方を最上級まで終了している。

大学にはすすまず、公務員、新聞記者などを経験し、第一次世界大戦ではイギリス海軍に入っている。チャンドラーは友人の母であった18歳年長のシシイと恋愛し、1920年に結婚している。

チャンドラーは44歳の1932年、大恐慌の影響で職を失い、独学で小説の書き方を学んだ。そして1939年に処女長編「大いなる眠り」を発表し、人気作家になっていく。チャンドラーはハードボイルド探偵小説の生みの親である。彼の探偵小説の主人公フィリップ・マーロウは、私立探偵の代名詞となった。

映画化された作品が多い。また自身でも脚本を書いている。アメリカ探偵作家クラブ会長にもなっている。チャンドラーの墓石には「大いなる眠り」の一節「Dead men are heavier than broken hearts.」が刻まれている。

チャンドラーは「推理小説についての覚書」を書いている。

推理小説は事件発生の状況についても、事件の解決についても、信じうべき裏づけがなければならない」。「殺人と捜査解決の方法が常識的でなければならない」。「人物、舞台、環境は現実的でなければならない」。「謎の要素から離れてもストーリーがしっかりしたものでなければならない」。「その機会が来たときにたやすくを説明できるようなわかりやすい構成を持っていなければならない」。「 論理的に頭が働く知的な読者を対象から除かなければならない」。「謎が一旦解決されたなら、当然そうなるべきであったと思わなければならない」。「すべてのことを一度になそうと試みてはならない」。「犯罪者をなんらかの方法で罰しなければならない」。「読者に対して論理的に正直でなければならない」。

『高い窓』という作品を読んでみた。私立探偵のマーロウが金持ちの未亡人から、盗まれた金貨といなくなった息子の嫁を探すことを依頼される物語である。

展開が早く余計な説明がないハードボイルドタッチの文体だ。しゃれた、あるいはスパイスの効いた会話は、テンポが速く、場面の展開がスムーズだ。また、読み進めると、先に紹介した「推理小説についての覚書」が腑に落ちる感じがある。

チャンドラーは、独学で推理小説を学んだと言われるが、おそらく多量の本を読み込んだうえで、推理小説の原則を自分で見出し、それを頭に入れて、作品を書いたのではないだろうか。

チャンドラーの言葉では、「プレイバック」という作品の中で私立探偵のマーロウが言った「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格がない」が有名だ。女性から「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」と聞かれた時の答えである。

読書家で有名な平岩外四経団連会長への就任時に記者会見でこの言葉を語って、ビッグビジネスのトップの言葉としての意外性から話題になった。殺人的スケジュールをこなすタフさとお客様へのやさしい経営を志すことを述べたのだ。平岩は組織運営について言ったのだが、人びとは個人の生き方についての言葉として共感の波が広がったことを思いだす。

作者が書いた一つの言葉が読者を通じて、他国のトップにも影響を与え、それが池の水面が波紋の様に広がって、多くの人に響いていくことがある。チャンドラーのこの言葉は、その最たるものだ。生きるためには強いことが必要だ。その通りだ。だが、やさしくなければ、生きている資格がない。その通りだ。生き方に影響を与える素晴らしい教えだ。

 

 

 

 

 

 

 

「知研・読書会」の第1回目を開催ーー「センス・オブ・ワンダー」「東京落語地図」「80歳の壁」「大原孫三郎の生涯」「アインシュタイン、神を語る」「原点」「文藝春秋 創刊号」

「知研・読書会」の第1回目を開催。10人が参加。

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以下、参加者が取り上げた本。

 

 

 

 

 

 

以下、参加者から。

  • 本日、読書会「素敵な本を紹介しよう!」を終えました。参加してくださった皆様、Zoom設定などご協力くださった力丸さん、どうもありがとうございました。期待通り、参加された方々からいろいろなジャンルの、すてきな本が紹介され、自分の知らなかった世界にも目を向けることができました。文藝春秋の創刊号のように貴重な資料もありました。次の本が紹介されました。レイチェル・カーソン(上遠恵子訳)『センス・オブ・ワンダー城山三郎『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』ウイルマン・ヘルマンス『アインシュタイン 神を語る』ほかアインシュタインからみた科学・宗教・政治に関する5冊。安彦良和×斎藤光政『原点』文藝春秋創刊号。好評でしたので、また来月も開催したいと思います。
  • 本日は、知研読書会に参加させていただき、ありがとうございました。普段、読む機会がないようなさまざまな分野の本を、知る事ができ、興味の幅が広がり、楽しく参加させていただきました。紹介された本も、本を紹介された方が、今、実際に取り組まれていたり、つながりのある人が著者であったりし、本に書かれていない内容も聞く事ができ、とてもわくわくする時間を過ごしました。また、フリートークの時間では、気さくな雰囲気で、自由に気兼ねなく意見や感想が言えて、とても楽しく時間があっと言う間に過ぎた感じがしました。また、次回参加したいと思っていますのでよろしくお願いいたします。本日は、ありがとうございました。
  • 7月22日実施の知研読書会は、非常に面白かった。各人が何に関心を持っているか、どのように感じているか良く理解出来ました。伊藤さんの80歳の壁は現在の私の状況に大いに参考になると思いました。早速、読んで見ます。久恒先生の文芸春秋の創刊時の話は面白かった。菊池寛を始め、当時の著作家の人間味溢れる一面を紹介頂き、認識を新たにしました。都築さん、松本さんは恐らく、共感を覚えた尊敬する人の著作だろうと感じました。小野さんから学生時代の友人の漫画家安彦良和さんの原点という著作を紹介いただき、波瀾万丈な人生を送った人の原点を知りたくなりました。深谷さんの落語地図も落語への興味をかき立てそうです。若い鈴木さん、三沢さん、若い人達がどのように感じ、思っているのか、興味があり、是非、友人の方をお誘い頂き、次回もご参加願います。
  • 本日はオンラインイベント「素敵な本を紹介しよう」に参加させていただき、ありがとうございました。自分の読んだお気に入りの本を5分づつ紹介するという「読書会」で、大変興味深く、面白い会でした。普段は、書店に行っても、自分の興味のある本しか手にすることはなく、また、「あなたへのおススメ本」などに案内され、どうしても限られた分野の本しか目にしていないと感じます。今日は、レイチェル・カーソン和田秀樹アインシュタイン、大原孫三郎、安彦良和菊池寛などに触れる機会となり、新鮮でした。私からは「東京落語地図」(佐藤光房著)を紹介させていただきました。古典落語のあらすじと、ゆかりの場所、付随する話が書かれている本で、「『文学散歩』があるのだから『落語散歩』もあっていいだろう」という著者の言葉に感じ入り、紹介させていただきました。読書会は月1回開催とのこと。来月も楽しみにしています。
     
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    「名言との対話」7月22日。田中一村「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」
    田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家。

    南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』を読んだ。

    田中の人生は4歳から29歳までの東京での生活。30歳から50歳までの千葉での生活。50歳から亡くなる69歳までの奄美生活と3期に分けられる。

    東京芝中学では卒業式の答辞を読むなど抜群の成績であった。入学した美術学校ではわずか3ヶ月で中退している。理由は結核にかかったことと家庭の貧窮のためであった。当時の美術学校は教師として、河合玉堂、松岡瑛丘等の人物が揃っていた。同期生にも人材が多く、東山魁夷もいた。

    田中は剛直、寡黙沈着、自由奔放の性格であった。この天才児はすでに南画の領域に達した、と言われていた。しかし田中は生活の安定のための絵を選ばなかった。日本画の本道に立とうとしたのである。つまり売るための絵を描くことを潔しとしなかった。

    29歳で千葉に移る。6畳2間と10畳のアトリエに家族4人で住んでいる。農業を営みながら、絵についても勤勉な生活を行っている。

    田中は川端龍子が取り仕切っている青龍展に入ることになった。このあたりで米邨という雅号から「柳一村」に変えている。心機一転で「白い花」を描き公募展の初入選をしている。田中の入選は生涯これだけであった。このとき同時に東山魁夷は「残照」で日展の特別賞を受賞をしていた。一時、師と仰いだ川端龍子とは喧嘩別れとなる。その後院展日展に応募するが落選を続けている。

    「世界一の絵を描きこそ必要なのだ」「一日かかないと眠れないない」

    頼まれて絵を描くと、途中で緊張が途切れてなかなか元の水準に戻らないと語っていた。パンのために絵を描くことはできない。しかしこのままで朽ち果てることはできない。いよいよ集大成を作らねばならない。背水の陣をしくことを決心する。

    1958年の暮れから奄美の旅に出る。サンゴの白い砂、エメラルドグリーンの海、青い空、黒いソテツとその赤い実、パイナップル、バナナ、ハマユウ、ユリ、…。奄美を旅した後、50歳になっていた田中一村奄美諸島を舞台に生涯最後の絵を書こうと決心をした。

    田中は対象とするあらゆるものを調べ尽くしてスケッチをする。そして、絵が楽しくなると、言動が狂人に近くなると自覚していた。ゴッホセザンヌ漱石、体感も同様の狂人であったと田中は言う。

    東山魁夷ら美術学校の同期生が世に出ている時でも、「絵描きは貧乏でなければ絵はかけません」「私にあるのは絵の実力だけです」と自負していた。

    苦しい生活の中で、田中の師であり、友であったのはピカソであったようだ。常にピカソ画集を手元に置いていた。

    54歳の時田中は10年計画を立てている。5年は働く、その後3年絵を描く。2年は働き、個展の準備をする。そして千葉で最後の個展を開く。一気に勝負をかけようとしたのであるが、残念ながらこの計画通りにはいかなかった。生活苦に明け暮れた生涯であった。田中は生涯独身であった。

    この辺になると世に出る事は諦めていた。「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」と思うようになっていた。

    奄美では30点しか絵がかけなかった。最後の大作は「クワズイモとソテツ」であった。田中は生涯で600点ほどの作品がある。そのうち160点余りは奄美大島田中一村記念美術館に所蔵されている。千葉美術館も所蔵作品が100点を超えている。

    1984年、没後10年もたたずに、NHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜ー異端の画家、田中一村」が放映されて田中一村という画家に光があたる。2001年、田中一村記念美術館がオープン。その後、田中一村の企画展が数多く開催されている。 2008年、奈良の万葉文化館。2010年、千葉市美術館。2012年、沖縄県立博物館・美術館。石川県立美術館。2018年、岡田美術館。佐川美術館。2011年、千葉市美術館。

    2006年には田中一村の生涯を描いた「アダン」が公開された。出演では榎本孝明が主演している。アダンには公募によってデビューした木村文乃が当たっている。生涯にわたって一村を支えた姉の田中喜美子は古手川祐子が演じている。そして田中一村を描いた評伝も多い。

    田中一村は1977年に没している。本人の予想の50年後ではなく、死後直後からすでに田中の評価は高くなっていることがわかる。今まで、気になっていた田中一村という画家のことを少し知った。奄美の美術館を訪問したい。

     

     

     

7月20日は、日経産業新聞に久米信行先生の「図解WEB」の紹介記事、週刊現代に「夏のうた」のインタビュー記事と賑やかだった。

日経産業新聞(2022年7月20日)にIUの久米先生が「DX時代のデジタルお墓」のことを書いてくれました。

「今まで見た個人WEBで最も感動したのは多摩大学前副学長作の「久恒啓一図解WEB」だ」と紹介してもらった。「ライフワーク曼荼羅」「私の履歴書」「自分年報=人生の縮刷版」「デジタル霊園」、、、、、。

19日に「図解WEB」をリニュアルしたので、絶好のタイミングとなった。月曜日に流したこともあり、来訪者が1000を越して賑やかになった。

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週刊現代」(7月20日発売)の「おとなの夏のうた」特集で有識者の一人としてインタビーを受けた記事が掲載された。準備で「夏の歌」のいくつかをユーチューブで聴いて懐かしかった。急な電話取材だったが、気分転換になり、面白かった。

私が推したのは吉田卓郎「夏休み」(4位)、南沙織「17歳」(12位)、南こうせつ「夏の少女」(17位)の3曲。

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コメントが紹介されている人:作家の山本一力多摩大学名誉教授(経営情報学)の久恒啓一。音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠。東大名誉教授の船曳建夫。音楽プロデューサーの佐藤剛。ジャーナリストの大谷昭宏。コラムニストの中森明夫。著述家でプロデューサーの湯山玲子

リストに紹介されている人:亀渕昭信ニッポン放送社長)。斉藤孝(明治大学教授で教育学者)。崔洋一(映画監督)。森永卓郎(経済アナリスト)。

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「名言との対話」7月21日。遠山元一「だまされる幸福」

遠山元一(とおやま げんいち 1890年7月21日ー1972年8月9日)は、日本の実業家。日興証券創業者。

埼玉県川島町出身。豪農の家に生まれたが、実家が没落し、高等小学校を出るとすぐに東京に奉公に出される。15歳で兜町の株式仲買の半田商店に入る。1918年に独立し川島屋商店を創業。第一次世界大戦の好景気とバブル崩壊、昭和の金融恐慌を乗り切っていく。1944年には日興証券と合併し、初代社長に就任した。

戦後、米国証券市場視察団を結成し、他の証券会社の幹部とアメリカが大衆による株式投資の様子を知る。遠山は後に日本証券業協会連合会の会長となる。

酒もたばこもやらないが、美術品の収集という趣味を持っていた、苦労した母親のために建てた故郷の近代和風建築(国の重要文化財)が遠山記念館となっている。収集した美術品のコレクションが展示されている。源頼朝の自筆の書状、一遍上人を描いた絵巻、黒田清輝の日本最古級の裸婦像などがある。

東京証券取引所経団連東京商工会議所、日本証券連合会などさまざまの要職を歴任し、「株屋」といわれた証券界の近代化に奔走している。一介の小僧から出発した遠山は、いつしか「兜町天皇」と呼ばれるようになったのだ。

自伝『兜町から』に「だまされる幸福」というエッセイを書いている。義理人情にほだされることはやむを得ないという悟りがある。遠山はだまされることをむしろ誇りとした。だますよりもだまされるほうが後味が悪くない。だまされることは不名誉なことではない。人情家であったのだが、こういう相場師も珍しい。だから実際よくだまされたが、その姿勢が慕われることになった。

長男の回想によれば「自分に万一のことがあったら、そういう精神だけは受けついでくれ」と言われている。そういう精神とは「だまされることはあっても、人をだますことはしなかった」ということである。

生き馬の目を抜くといわれる株屋界、証券界に、人情、倫理、道徳を説く遠山元一のようなリーダーがいたことは、この業界の僥倖であったと思う。「論語と算盤」を主義とした日本資本主義の父・渋沢栄一を思いだした。遠山は証券界の渋沢だったと総括しておこう。