図解塾:「情報社会における芸能」「唯物論政府」「ミナト神戸の運命ーー都市と情報」「情報と消防」「情報社会への対処」「情報論語録」

「図解塾」5期⑧。『梅棹忠夫著作集』第14巻「情報と文明」の図解化に挑戦中。

今日のテーマは、以下。

  • 「情報社会における芸能」:芸能のコミュニケーション化。無意味芸能。活字のカラオケ。プロとアマのあいだ。芸能フリーター。先生としての芸能者。大衆社会と芸能。過剰芸能。
  • 唯物論政府」
  • 「ミナト神戸の運命ーー都市と情報」:神戸とモダニズム。灘の生一本。見かけこそは本質。ミナト神戸。情報港。
  • 「情報と消防」:情報化社会という言葉。知識と情報のちがい。情報の経済的意味。「情報産業」の由来。情報とお役所。情報か物質か。消防も情報を火災からまもる。法隆寺の火事の場合。10年後には大きな変化。
  • 「情報社会への対処」
  • 「情報論語録」:語録1「体験的・放送文明論」:教育者。進学率。編成部長。語録2「情報産業の新局面」:パイプそうじ。経営論。性生活。放送料。聖職者。プ語録3「放送料とその性格」:プレスティジ。精神的再生産。電波料。NHK。語録4「実業と虚業のあいだ」:お布施。バランスシート。BGM。精神と物質。思想。語録5「創造的価値のゆくえ」:創造性の条件。ビジョン。構想力。アークタイプ。人間学。経済主義。公務員。パーティ学。語録6「放送人の機能と理念の確立を」:フロンティア。自覚。地方性。

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以下、終了後の塾生の学び。

  • 久恒先生、塾生のみなさん、本日もどうもありがとうございました。今回印象にの残ったのは、「あらゆる専門学は実は問題解決学である」、「洋服の体系はTPO、和服の体系はSTPO」「論理を鵜吞みにするのではなく、具体的なことをあてはめて考えてみる」などです。そして毎回驚くことですが、梅棹先生の分析の細やかさとそれに伴う提案内容の先見の明。まるで預言者のようです。これからもワクワクしながらパワポを作成していきたいと思います。また、「図解Web」がリニューアル版が公開されたことが改めて紹介されました。先生の現在の取組みがよりわかりやすく表現されているのはもちろん、これまで蓄積された膨大な資料を拝見する際、すごく簡単に取り出せるのでとても便利だと実感しました。どうもありがとうございます。これからも活用させていただきますので、よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。はじめに新しく衣替えとなった「図解WEB」のご紹介がありましたが、たくさんのリンクが張られた知的生産物の集合体という感じで圧巻でした。当「図解塾」をはじめ、「幸福塾」や「遅咲き偉人伝」「人物記念館の旅」などが一堂に集められていて、縦横無尽に閲覧できるところが、とても良いと思いました。「情報と文明」のパワポ化では、今回も梅棹先生の情報社会に対する考え方の先見性を感じました。情報社会の進展により、プロとアマ、本業と副業、などの区分がなくなり、「ひとつの職業に一生」という職業観から「いくつもの仕事をこなしていく」へ変化する、というあたりは、まさに最近の職業に対する意識や環境の変化を言い当てている感じがしました。パワポ化もいよいよ終盤、仕上げに向けて取り組んでいきたいと思います。
  • 本日もありがとうございました。「情報産業」のシリーズが始まってからずっと、梅棹忠夫先生の先見性の確かさに驚いています。工業社会から情報産業社会への移行にともなって、「自分でする芸能が主流」になるとか「職業概念のゆらぎ」とか「大衆教養社会」とか。「展示学」については、非常に納得できます。現在でも展示学という名の分野はありませんが、科学コミュニケーターの方々や動物園教育の方々と接していて、それらの方々が実質的に展示学を体現し研究されていることを感じます。展示学は、プレゼンテーションについての学問といってもいいでしょうね。全ての社会活動にも必要だと思います。また、「問題解決」も今でこそ主流になりつつありますが、半世紀近く昔にその重要性を提唱されたのはすばらしいです。
  • 久恒先生、本日もありがとうございました。図解WEBサイト、リニューアルオープンおめでとうございます!1年目から23周年の現在までの変遷の実例から、最初に作るのは目標ではなく、原形という手法の良さも感じることができました。梅棹先生の情報の文明学、前回レクチャーのパワポ化での復習では、「ほんとうの学問は問題解決学」「情報産業社会は消費と享楽の社会」「洋服はTPO、和服は”S”TPO(Sはステータス)」というフレーズが今日のお気に入りです。また、具体例を自分で考えることで論理のあいまいさに気付くという理解の深堀り法も表面的な言葉でわかった気にならないために身につけたいと思いました。次回もよろしくお願いします。
  • 本日もみなさまお疲れ様でございました。今回は、梅棹先生の講演されてきた跡を追うようなお話でした。前回のパワポで清書した図をもとに、展示学についてお話を詳しくききました。実際に美術館や博物館などいくと、テーマが明確で雰囲気があるお部屋や、中央に椅子があって一番よい場所で座って鑑賞できたり、また音響や映像や体を動かして体験する展示。休憩したいときに椅子があったり、お茶するスペースがあったり、、、と、すべて今回の展示学のお話につながるなと思いました。展示学が、心理学や人間とは何か、というところまで発展し、むしろ芸術工学、とても大きな学問だと言えると思いました。次回は放送についてお話になりますね。今日説明いただいたのをもとにパワポにしてさらに説明できるようにしていきたいと思います。次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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「名言との対話」7月20日二宮忠八「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見、この頃でも時々見るが、今始めて空を飛んだ気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった」

二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 1936年(昭和11年)4月8日)は、明治から昭和期の軍人、航空機研究者、実業家。
愛媛県八幡浜市出身。

漫画『日本人の航空創成期  孤独な空の挑戦者 二宮忠八』(たなかてつお)は、人類初の動力飛行を成し遂げるはずだった孤独な挑戦者・二宮忠八を描いている。この漫画の参考資料は、吉村昭「虹の翼」(文春文庫)と「そのとき歴史は動いた12」(NHK取材班)だ。

二宮忠八は、忠八凧、カラス型飛行器、タマムシ型飛行器を発明した人だ。「凧を斜めにするように、、風を受け止めて風に乗っているんだ!」、カラスの羽根を真似て大きな翼を作れば、、、「人が乗って飛べるかも知れない、、、」

それから1年半かかって1891年「カラス型飛行器」を作成し飛ばした。飛行距離は9m、世界初の動力飛翔体であった。そしてカブト虫、その中でも玉虫が飛行に性能を持っているという結論に達した。明治26年両翼の長さ2mの玉虫型飛行機の大型模型が完成する。陸軍で長岡外史大佐に具申するが却下される。

陸軍を退職し大日本製薬で頭角を現し、余裕ができた二宮は飛行機の設計に乗り出す。発動機付自転車、翼の羽布には絹を採用。

ところが1903年ライト兄弟による史上初の有人飛行が成功したというニュースが届く。それで気落ちした二宮は夢をあきらめる。世界初の有人動力飛行という快挙を逃し、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしまった

1922年、陸軍省航空本部では白川義則中将による「二宮式飛行機」についての研究資料が提出され長岡外史中将から、上申書を却下して大発明を台無しにした不明への許しを請う手紙が届いた。陸軍が採用していれば、人類初の有人飛行は日本人の手でなし遂げられていたはずだったのだ。忠八は後に数々の表彰を受けている。

二宮忠八は京都の自宅内に「飛行神社」を建立し、空の殉教者を慰霊した。この飛行神社には10数万人の航空殉難者の魂がまつられている。1937年から小学校の国定教科書に「飛行機の発達」と題して玉虫飛行器設計の話が掲載されている。
1954年、英国王立航空協会は、二宮忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。日本でも近年「日本の航空機の父」として評価が高まっている。
晩年、忠八は一度だけ飛行機に乗っている。「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見、この頃でも時々見るが、今始めて空を飛んだ気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった」と感想を述べたそうだ。日本人の二宮忠八が世紀の大発明の偉業を逃したことは、まことに残念だ。

 

 

図解ウェブ、本日、大リニュアル!ーー基本コンセプトは「集大成と新世界」。デザインは「航空母艦と戦闘機」。

久恒啓一図解ウェブ、本日、大リニュアル! https://www.hisatune.net/index.html

基本コンセプトは「集大成と新世界」。

中心:「集大成」公人・私人・個人のデータベース。基地。航空母艦の役割。

周辺:「新世界」新しい情報を収集。データベースに供給。SNSは戦闘機の役割。

 

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久恒啓一図解WEB これまでの歩み

https://www.hisatune.net/html/etc/ayumi.htm

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「名言との対話」7月19日。鯨井恒三郎「研究の自由と各人の独創性を尊ぶ」

鯨井恒太郎(くじらい つねたろう 1884年7月19日〜1935年7月22日)は、日本の電気工学者。

東京京橋生まれ。1907年東京帝大工科大学電子工学科を卒業。逓信省電気試験所に入る。1908年、帝大助教授、1918年教授。

無線通信工学に取り組み、1911年に無線電話機、1915年に周波数変換装置を発明した。整流器、電気集塵機、白熱電球利用の光通信機など多くの発明と特許がある。

1928年、日本大学工学部電気工学科設置に尽力。1929年、東京工大創立時に電気工学科主任教授を兼務。1916年、学士院賞を受賞。

「鯨井」という苗字は珍しい。東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国高麗郡鯨井村がルーツ。 戦国時代に記録のある地名で、「久志羅井」とも表記した。

「研究」という仕事で大事をなすには、師匠、友人、弟子が揃うことが必要だ。鯨井の場合を調べてみよう。

師匠:帝大で鳳秀太郎1872年2月9日 - 1931年9月16日)に師事した。電気研究所初代所長で「鳳ーテブナン定理」で有名な学者である。実の妹が歌人与謝野晶子1878年12月7日 - 1942年5月29日)。

友人:鳥潟右一(1883年 4月25日- 1923年6月6日)との電気試験所での共同研究「無線通信に使用する電気振動間隙に関する研究」で鯨井は学士院賞を受賞した。それは完全に通信の秘密が保たれる技術の開発だった。鳥潟はTKY式無線電話機を発明、世界で初めて無線に音声を載せた人である。2017年に秋田県大館を旅行したとき、鳥潟会館を訪問する機会があった。鳥潟は41歳で夭折

弟子:門下生に仁科芳雄1890年12月6日 - 1951年1月10)がいる日本量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげ、日本の現代物理学の祖と呼ばれた。また、八木秀次1886年1月28日 - 1976年1月19日)には無線分野に進むよう示唆し、八木は八木アンテナを開発した。八木は大阪帝大理学部長、東京工業大学学長 、内閣技術院総裁 、大阪大学学長 をつとめた大御所になった。鯨井の回想では、八木秀次の「平凡な動物だけを集めても誰も見に行かない。理学部も、動物園のような事が望ましい。一芸一能に長じた人達の集団であってほしい。世間の噂を気にしないで、自分の専門に精進すべきだ」との発言に感激している。

理化学研究所の危機に直面して選ばれた第3代所長の大河内正敏の改革は際立っていたことを思いだした。ピラミッド構造を粉砕し、主任研究員制度を導入。大学教授との兼任も認めた。学問の垣根を取り払う。女性の研究員を増員。組織改革のテーマは「自由と平等」だった。そこで得たエネルギーを技術移転による製品開発に向け、一大コンツエルンを築くいた。

 鯨井恒太郎自身も知的生産の巨大技術ともいうべき大学の研究には「自由と独創」が重要だと認識していた。そういう思いで、日大や東工大の研究環境を整えたのであろう。一流の学者たちは、独創の鬼であった。その源は「研究の自由」だったのだ。

 

 

寺島実郎の「世界を知る力」(7月17日)ーー「民主主義」「ロシア」。

寺島実郎の「世界を知る力」(7月17日)。「民主主義」「ロシア」。

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7月
  • 英国ジョンソン首相の退任。閣内・党内の離反から。英国の民主主義の成熟を感じる。
  • 安倍暗殺:民主主義への挑戦ではない、テロの時代の到来ではない。新しい次元のテロか。時代の反映。

民主主義とは何か。別次元からの考察。『人間と宗教』を書く過程で考えたこと。

  • 民主主義の敵:「力こそ正義」という暴力、軍事力による強制支配。王権・権力者による専制国家主義
  • 民主主義の基軸:多数決の受け入れと少数意見の尊重という高度な意思決定。
  • 日本のジレンマ:与えられた民主主義(マッカーサー民主主義)。民主主義を大切にする心の弱さ。

人間のポテンシャルへの信頼

  • 着眼1:2500年前、アテネの民主主義の誕生と世界宗教の誕生が同時だった。ユダヤ教2500年前(旧約聖書)・キリスト2000年前(絶対平等。愛によるマネジメント。心の意識の台頭)、ブッダ2500年前(内なる苦悩を深め悟りへ。主知主義)。儒教2500年前(心を制御から天下を制御へ)
  • 着目:意識の芽生え。自分の内省力と他人への共感・共鳴。自己決定力へ。
  • 学説:ジュリアン・ジェインズ(プリンストン大学)の『神々の誕生』「3000年前には人間には意識はなかった。右脳による神々との対話中心で生きていた。BC8世紀2800年前のホメロスイリアス」は神々の意思で動く存在。4000-5000年前のシュメール(文字の誕生)の神話。懲罰。

大衆民主主義の課題

  • アテネの民主主義、西欧の近代民主主義のうねり、アメリカ流民主主義の発展、そして現代の大衆民主主義は「最大多数の最大幸福」。
  • 問題1:ポピュリズムへの傾斜:アテネの衆愚(ソクラテス)。現代でもヒトラー登場、大衆迎合と世論操作、お得なデモクラシーへの傾斜(バラマキ、消費税減税、、)
  • 問題2デジタル民主主義:SNSによる囲い込み、アルゴリズム検索エンジン。マニアックへ。バーチャル環境下での「思考の外部化」。物事を考えなくなってくる。自己決定力のポテンシャルの維持。全体知を磨こう。

ロシア史。

プーチンピョートル大帝礼賛はロシア史をゆがめている。ピョートル大帝とは?

  • ロマノフ王朝の中興の祖。バルト海制圧までのスエーデン戦争(カール12世)の勝利。3代目。オスマンと和解して後顧の憂いを絶っていたのがプーチンと違う。異母のイワン5世。ソフィアという姉、このしたたかな女性は共同皇帝で摂政。
  • 西欧にとりつかれた皇帝。大使節団の一員、オランダのアムステルダムの大工研修など。ウイリアム王と接触。パリ訪問。大ロシア主義を標榜するプーチンと違う。30年戦争から国民国家へ踏み込んだ時代をみつめた。
  • ピョートルはロシア正教を国家機関に取り込んだ。宗教と権力の一体化。

ケンペル:ピョートルと綱吉に会った男。ドイツ人の医者、博物学者。1651年生。1727年初版の「日本誌」。

  • 11歳のピョートル大帝と面会:30数歳。スエーデン国王使節。大変利発な少年という印象。
  • 5代将軍の徳川綱吉と面会:インド、タイ、バタビア東インド会社の一員として長崎出島。2回江戸へ。大奥で歌を歌った。ドイツの恋の歌。長崎の通詞しずきただおが「鎖国論」と訳した。

ロシアと日本の関係史。ロマノフ王朝のアジアへの関心と野心が日本の扉を叩いた。

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東京富士美術館ムーミンコミックス展」

デメケン・力丸・深呼吸学部事務局。

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「名言との対話」7月18日。浅田常三郎「なんでだんねん?」

浅田常三郎(あさだ つねさぶろう 1900年7月18日〜1984年3月7日)は日本の物理学者。

大阪府出身。東京帝大理学部物理学科卒。長兄の浅田長平は京都帝大卒で、神戸製鋼所の社長になった「鉄鋼の巨人」であり、三郎はこの兄の感化を若い頃から受けている。

浅田は帝大で理論物理学の大御所である長岡半太郎に師事した。卒業後は長岡の助手として理化学研究所に入り、長岡の配慮でノーベル化学賞受賞者のフリッツ・ハーバーのもとでの2年間のドイツ留学後に、長岡が初代総長をつとめた大阪帝大で職を得た。

長岡半太郎初代総長のもとには、長岡半太郎大阪大学初代総長時代は、若手研究者の中に湯川秀樹(1907-1981年)や朝永振一郎を入れている。二人とも弟子の仁科芳雄の弟子にあたる。後にノーベル賞候補者の推薦委員になり、「湯川はオリジイナリティがある」として「初めて十分な自信を持って、同国人を推薦できる」と湯川を推薦し、湯川秀樹は日本人初の受賞をしている。

東北大の八木秀次が理学部のトップとして、最初は兼務で後に専任として赴任している。八木アンテナで有名な八木は初代理学部教室主任であった。後に京大から参加した論文を書かない20代の湯川は叱責され、半年後に書いた初めての論文がノーベル賞という金的を貫いた。

大阪大学理学部創立当時の思出」で、浅田は八木からは「研究者は単調な計算などに精力を集註すべきではない。今に計算機人形が出来るだろう」と言った。また「平凡な動物だけを集めても誰も見に行かない。理学部も、動物園のような事が望ましい。一芸一能に長じた人達の集団であってほしい。世間の噂を気にしないで、自分の専門に精進すべきだ」と説いて深い感銘を与えたと述懐している。

浅田常三郎は、物理学を現代社会に応用し、役に立てようと実験物理学を推進した。実感の現場である産業界とも親しくつきあった。産学連携の祖という評価がある。教え子にソニーを創業した盛田昭夫が出ている。盛田は浅田に教えをこうため阪大理学部に入り師事する。浅田はソニーに決定的な危機を3度も救っている。盛田は「何かすべての思考の道筋を先生から受け継いだような気がしてならない」と感謝している。浅田の人柄に惚れこんだ弟子たちで構成する「浅田会」の初代幹事は盛田であった。

浅田常三郎は、「2秒おきにあっちゃこっちゃ振れてると思うとくなはれ」という堺商人の出らしい関西弁で講義しし、講義の途中で疑問が生じると、「なんでだんねん?」を連発した大阪弁の庶民派物理学者であった。

 
 
参考。
湘南化学史懇話会掲載の猪野修治の『産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子)の書評。
『町人学者』(浅田美香子編)

「世界を知る力」「決断」「遅咲き偉人伝」


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午前:東京MXテレビ寺島実郎の「世界を知る力」。内容は明日書く予定。

午後:8月末締め切りの「決断」の原稿に着手。

夜:「遅咲き偉人伝」の収録。新田次郎森繁久彌。1時間。

新田次郎『富士山頂』(文春文庫)。作家の新田次郎は、気象庁測器課長として富士山気象レーダー設置工事の技術責任者であった。二足のわらじを履いていたこの人物の考え方と組織への対応、そして出処進退に対してどういう考え方をしていたのか興味がある。

新田次郎は、作家の副業を持ち、俸給よりも多い収入を原稿によって得ており、組織内において野武士的な言動で、存在感のある人物として自らを描いている。

  • 経済的安定感は、彼を職場において孤立させた。
  • 昇格を求めていない。
  • いつ辞めても筆で食っていけるという自信があるから強い。怖いものなしっていうんでしょうね。ああいう役人は御しがたいってね。
  • レーダー完成という終着点を頭に描き、ほとんど同時に、全く偶然に彼は退職ということを考えたのである。
  • 人事院はぼくに気象庁を辞めろと言ったのですか。
  • 辞めると決めた心の隅に、もしも村岡が強硬に辞職を反対したらという気がないでもなかった。

富士山レーダーの建設という一世一代の大仕事を引き受ければ、3年間は小説が書けない。その間に世間から忘れられるという恐怖のはざまで彼は迷った。

自宅の書斎から見える富士山を見ながら、「もし逃げたなら、逃げたという悔恨は富士山を見るたびに彼を責めるだろう」という考えに至り、10年になっていた補佐官を卒業し、測器課長を引き受けることにした。そして上司や同僚、関係する業者などで構成された一大事業に邁進し、「オリンピックで金メダルを取ることより、もっとむずかしい仕事」を完成させる。

実際に役所を辞めた53歳から14年間、毎年のように大型話題作を発表し、新田次郎は大作家になっていった。この文庫の表紙には、冬の富士山の真正面に木製の机に陣取って事務をとっている人物の後ろ姿が描かれていて、印象深い。この人物こそ、新田次郎本人である。

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「名言との対話」11月13日。江戸英雄「「経営者は人間として部下と対峙できるか。その時、自分を支えるのは公私のけじめをはっきりさせた身辺の清潔さである」

江戸 英雄1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本実業家

茨城県つくば市出身。全寮制の旧制水戸高校から東京帝大法学部卒。帝大時代に関東大震災に遭遇する。卒業後、三井合名に入社。不動産課から文書課に移る。団琢磨理事長暗殺事件、財閥解体では三井高公社長のあいさつ文を書いている。財閥の商号・商標の護持に奔走し政令を廃止させた。1955年、社長に就任。三井不動産が三井本社を合併し、名跡を継ぐ。結束が弱まっていた三井グループ二木会という社長会を発足させる。中核会社の連携が加速する。

筑波研究学園都市の建設にも力を注いだが、江戸が行った最大の事業は東京ディズニーランドだろう。朝日土地興業、京成電鉄が経営不振で降りてしまい、三井不動産が開発の主力になった。漁業補償の責任者を推薦するなど尽力した。TDLは1983年にオープンし、大成功をおさめる。江戸英雄が高橋政知を、浦安の漁民たちとの交渉役にしなかったら今の東京ディズニーはない。高橋がディズニーとの交渉を断念していたら今の東京ディズニーはない、といわれる。

政治家では、自民党池田勇人田中角栄ら、社会党の成田知己委員長とも親しかった。家族の縁で桐朋学園理事長、東京家政学院理事長を引き受けるなどしている。また日本野鳥の会に入会し、財政危機時には再建に協力している。

「人脈が広いなどと言われますが、もともと人と人の触れ合いを大切にすることを人生の一つの指針としてきましたし、人の相談にはできるだけのことをするよう心がけてきました。それでいつしか人脈が広がったんでしょう。日常の人の世話が仕事に生きてくる」。世話好きであること、そして水戸高校の人脈も折にふれて登場する。人の縁を大事にするという心がけと、運をつかむ努力が江戸英雄の真骨頂だ。

「経営者としての肩書きを取り去ったあとの人間の中身を、部下の社員の目にさらしたとき、恥ないだけの自信があるかどうか」という言葉も残している。冒頭に掲げた、部下と「対峙する」という言葉には惹かれるものがある。互いに一人の人間として、真正面から向かい合う、にらみ合う。この気力と器量なくしては、人を心服させることはできない。その源は公私のけじめ、身辺の清潔さである。

 

 

 

 

 

 

 

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の第10回目は「人物記念館1000館」の後半。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の第10回目は「人物記念館1000館」の後半。

www.youtube.co

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NHKカルチャーラジオ日曜カルチャー「人間を考えるーー「今」学ぶということ」。以下の2人講演がよかった。

高橋源一郎(作家)

鴻巣友季子(翻訳家)

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「名言との対話」7月16日。ロアール・アムンゼン「僕は行動の最中に死にたいものだ」

ロアール・アムンセンRoald Engelbregt Gravning Amundsen [ˈruːɑɫ ˈɑmʉnsən] ( 音声ファイル), 1872年7月16日 - 1928年6月18日前後)は、ノルウェー探検家

アムンゼンは少年時代から探検家になろうとし、スキーを練習し、野外生活で体を鍛え、学術探検隊に参加するなどの準備をする。そして大学では海洋学、気象学、磁気学を学んだ。そして満を持して探検の世界に入っていく。

北西航路1903年グリーンランドとカナダの間を通り、アラスカ、ベーリング海峡を経て東洋へ到る最短航路の航行を47トンの小型船で5人の乗組員を率いて成功した。

南極探検。1911年。当初は北極探検隊として出発したが、他の探検隊が北極点に到達したという情報を知り、急きょ目標を南極に切り替えた。イギリスのスコット隊とのし烈な競争に勝利した。アムンゼン隊は犠牲者はいなかった。

日本の白瀬隊もライバルだった。ノルウェーアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備の貧弱だった。このため遅れをとった。

北東航路北ヨーロッパから北氷洋、ベーリング海峡、アラスカへの航路を800トンの船で9人の乗り組み員と2年かけて調査。

北極探検飛行。1925年。2機で出発。他の1機の故障で乗組員を収容。氷上に500mの滑走路をなんとか完成させ、帰り着いた。

北極横断飛行。1926年。飛行機でなく飛行船ノルゲ号を採用。5月12日午後1時30分に北極点に到達。テラー岬まで飛行距離4100キロ、飛行時間は71時間であった。

アムンゼンはかつての同志ノビレ少将の北極探検の遭難の救助に向かい、海中に墜落し遭難した。

アムンゼンは「僕は行動の最中に死にたいものだ」と語っていたのだが、救助の最中に55歳で亡くなってしまう。探検の最中ではなかったが、本人の希望通りの死に方だったといってよいだろう。

「準備10年成功5分」を信念としたアムンゼンは人類史上南極点・北極展の両方へ到達した極地探検家である。今なおノルウェーの国民的英雄であり続けている。

「世界探検物語」(新潮社)の豊島与志雄「北極のアムンゼン」を読んだが、私は子どもの頃に、アムンゼンとスコットの南極一番乗りの競争の物語をワクワクしながら読んでいる。アムンゼンは、北極も征服していたことを知った。

20世紀は探検の時代であった。南極、北極という地球の極点、地球最高峰のエベレストなどが、数々の物語を生みながら征服されていった。

日本の白瀬矗は11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。アムンゼンも若い頃から同じように自らを鍛えていたのだ。

20世紀、多くの英雄が生まれたが、その中でもアムンゼンの業績は群を抜いている。英雄中の英雄であった。

 

参考:「世界探検物語」(新潮社)の豊島与志雄「北極のアムンセン」(青空文庫

 

 

 

 

朝:寺島文庫。昼:中国人実業家の蔡君。夜:知研幹部会・知研セミナー仲谷淳「野生動物対策における知的生産の技術」

19時:知研幹部会:年内のセミナーの講師選びなど。

20時。知研セミナーは仲谷淳「野生動物対策における知的生産の技術」。17名。

野生動物対策におけるいくつかの事柄を紹介しつつ、誤解やミスリードを防ぐ知的生産技術の可能性について議論。グラフ化、数理モデル、複数の偏見、学際的議論等の有効性など。
野生動物対策で検討したい事柄の例。・特定鳥獣保護管理計画における捕獲の限界。  (生息数の何割の捕獲が可能か)・狩猟者の減少は深刻だ(時間軸を考える)・イノシシの分布拡大の原因は地球温暖化(環境要因と人的要因) ・捕獲数の増加は望ましい   (対策の強化か、生息数の増加か)・オオカミを放したい(数理モデルを考える) 

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以下、私のメモから。

  • イノシシの分布と生態:広がりつつある。島嶼・都市・東北(北上中)。対馬藩の対策。供養塔。狩猟の時代、作物栽培の時代、人間優位の時代、2100年?。
  • 農作物被害の動向:捕獲補助金100億規模。会計検査院。西日本減少・東日本増加。
  • 被害対策の方法:1・捕獲(年60万頭を捕獲処分。生息地が広がっている。100万頭が生息。。2・防除(「柵の設置。柵だらけで街に誘導)。3・環境整備(箱罠。忌避剤。評価?。処分をどうする?牧場化。人間を恐れさせる)
  • 知的生産の技術:間違った対策が見えるように。グラフ化、、。

生息の半分を処分している。しかし減少しない:シカやサルと比べ多産。猟銃会と報奨金。生息面積を狭める。市町村に丸投げが実態。専門家不足。ジビエ(冬肉)。

専門家はどこにいる? 内外の共同研究グループ? 福島、夕張?

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以下、参加者のコメント、

  • 仲谷様 本日は、イノシシをテーマに興味深いお話を頂き、有難う御座いました。単にイノシシの話に留まらず、イノシシ駆除に関連した行政の問題から、生態系の話まで、色々、考えさせられ、非常に勉強になりました。
  • 本日は、野生動物対策における知的生産技術というテーマで大変興味深いお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。イノシシは、自宅の周りや職場の近辺によく出没し、見かけたり、被害や駆除の話もよく出ますが、イノシシについてどのような歴史や背景や状況になっているかよく知らなかったので大変参考になりました。特に印象に残ったのは、人口減少により、今でさえ、イノシシの対策が大変なのに、今後はどうなるのか?という事です。今後どうすればいいのかなど改めて考える良い機会になりました。捕獲すればいいというわけではなく、なぜ増えるのかを考えなくてはいけないということも印象に残りました。被害のあるところにただ箱罠を設置するだけでは効果がなく、また箱罠の外に餌があるときそれだけを食べるため、気を付けないといけないということも中谷様のお話をお聞きし、よくわかりました。狩猟者を増やせばイノシシが減って解決する問題でないこともグラフ化することでわかりました。グラフ化すると、常識と思っていたことが、間違いであることに気づき、将来に向けた予測もしやすいことがわかりました。中谷様のお話しをお聞きし、イノシシや鹿の野生動物の対策が、そう簡単ではないことを実感致しました。イノシシや鹿などによる作物の被害や鹿が木の皮を食べることによって酷い場合は土砂災害までも引き起こし、様々な悪影響をもたらすのに、未だに決定的な解決策も見つかっていない。  解決のために、更なる知的生産技術や他者(海外)の視点、専門家とのつながりその他あらゆる方法やネットワークを駆使して解決していかないといけないことがわかりました。 
  • 今日は、仲谷淳さん(イノシシ総合研究所)から、非常に興味深いお話をうかがうことができました。日本人がイノシシやシカなどの野生動物と向き合い場所によっては藩の力により皆無にしたという歴史が示されました。緻密な調査結果と分析には頭が下がります。捕獲に対する補助金の問題、捕獲数が多いほど実は深刻であるという事実、など思い込みが多かったことを知らされました。印象的だったのは、イノシシは自分から人を襲うことはないということ。「With イノシシ」という道もあるのかな、と考えたりしました。海外の研究者や実践者との連携や、生態学・経済学・地方行政学・過疎対策など専門の枠を超えた総合的なプロジェクトが必要だとも感じました。いろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
  • 昨晩は普段殆ど気にしていない野生動物に関するお話を伺い、イノシシが街中に出て来たニュースを、別の角度から考える事が楽しみになりました。 野生動物の対策についても、世界的に情報交換しながら今後の方針を考え,しっかりと対処していかないと、10年後が不安になります。国内においても,産官学が協力しないと,全国的に大きな社会問題になりそうです。 最後に言われた,茨城県と千葉県が今後イノシシ被害が大きくなるという事ですが,千葉県民として丘陵地に行くときは、気を付けます。 興味のある話をありがとうございました。
  • 前回、セミナーのテーマは、メタバース、今回は、プリミティブな、イノシシのお話でした。今春、私は千葉で解剖実習をし、先月は、地獄谷モンキーパークで野生の猿を見てきました。それもあって、楽しみにしていました。知的生産の元となるフィールドワークは、文化人類学などに使われてきました。今では、京大総長の山極寿一さんのゴリラ研究などが、つながるのかと思いつつ、拝聴。イノシシやシカは、もう身近な問題ですね。中谷さんの研究の仕方から発想の広げ方、問題提起と幅広い勉強になりました。野生の動物も、猿、鹿、猪などは、人間のつくったところ、つまり、生きるのに楽なところに行くようになるのですね。、人間と同じく、一度、知った便利さは手放せない、ある意味で文明化です。環境や私たちの接し方によって、個々に変わるのですね。有性生殖は無性生殖より進化が早い、、結婚どころか子供をつくらない若者も増え、30年後、心配な日本です。相変わらず、役所では、害獣対策にも予算丸投げ、将来的視野も世界的なスタンスもなく取り扱われているようで、勿体無いことです。中谷様のこの分野での今後のご活躍を期待いたします。

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10時:寺島文庫で寺島実郎さんと面談し近況報告。

  • 「図解全集4巻・5巻」「記念館1000館」「新HP(集大成と新世界)」「知研再建」「ZOOMの塾」「世界を知る力(安倍・ロシア)・朝日新聞」「多摩大」「大企業人病」「友人たちの動向」「互いのテーマ」「世界宗教者会議・玉城デニー」、、、、。
  • 寺島実郎の時代認識2022年夏号」「脳力のレッスン244特別編:近代史におけるロシアと日本の相関」をいただく。

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12時:中国人の蔡君(宮城大学1期生の実業家)と新宿ヒルトンホテルで食事。青島の実業家・蔡社長も同席。母の遺歌集、コロナ、豊洲、事業、、、。超高級なお茶のセットをいただいた。

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「名言との対話」7月15日。永野重雄東京裁判によって日本人の精神はすっかり骨抜きにされてしまった。このままでは日本人の精神はやがて崩壊し、日本は必ず壁に突き当たる」

永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日)は、日本実業家新日本製鐵会長・経済同友会代表幹事日本商工会議所会頭などを歴任した。戦後日本を代表する経済人の一人。

島根県松江市出身。広島市育ち。兄は、政治家の永野護衆議院議員参議院議員)。弟に、永野俊雄五洋建設会長)、伍堂輝雄日本航空会長)、永野鎮雄参議院議員)、永野治石川島播磨重工会長)。長野6兄弟と呼ばれた。10歳上の兄の護が渋沢栄一の息子の勉強相手として受領した金が弟たちの教育費となった。5人が東大、一人は東北大に進んだ。

岡山の六高から東大法学を卒業。1925年に、倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となり、再建を果たしたことから、鉄鋼業界を本業とする。1934年、富士製鋼は日本製鉄に統合され、日鉄の中枢を歩む。戦後、片山内閣の経済安定本部次官となり、ここで池田勇人佐藤栄作と親交を結ぶ。日鉄に戻るが、八幡と富士に分割されて、永野は富士製鉄の社長に就任し、躍進を続けた。

1970年、八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鉄が誕生。独禁法違反だとする若手学者のが反対押し切り、八幡製鉄と富士製鉄の世紀の大合併の立役者となった。「鉄は国家なり」の時代に、世界一の鉄鋼会社をつくりあげた。合併後は社長を八幡に譲り会長となったが、むしろ下位にあった富士の方が主導したといわれる。「僕の長い人生でも、富士・八幡両製鉄の合併は、まさに心命を賭した大仕事だったな」と述懐している。

私は生前から永野の動きをメディアで知っていたが、改めて手がけた事業のスケールの大きさと、案件の膨大さに舌を巻いた。剛腕、人脈、信用、、。本物の財界人であった。単なる経済人ではなかった。後に財界四天王の一人、戦後の財界のドンと呼ばれたのもうなずくことができる。政治の世界での総理の職を争いの調停も行っている。そして日本財界のトップとして、アジア太平洋、インド、ソ連、オーストラリア、アラブ、インドネシアなどとの懸案の推進するなど八面六臂の活躍をしている。

永野の言葉を聞こう。

「小さな租小さな租織に入って門前の小僧で何でもやったことが、どんなに役に立ったかわかりません織に入って門前の小僧で何でもやったことが、どんなに役に立ったかわかりません」というように苦労人であった。

「人は後ろから声をかけられると、相手に親しみを憶えるものらしい」

「私の悪口はすぐに報告しなさい。しかし、言った人の名は言わないでください」

「永い時間に耐えるものは「真実」、「誠実」これにつきますね」

様々な人が永野重雄に感謝している。大谷米一は「ホテルニューオータニは永野さんのおかげで建てることができた」加藤巳一郎中日新聞社社長は「中部地区の産業界にとっても永野さんは大恩人です」、、。こういう声は枚挙のいとまがない。

頼まれるとほとんど引き受けるので、スポーツ、趣味の肩書約200を合わせると、肩書は600を越えるといわれた。

その永野重雄は、「占領下にあったが故、公には何も言えなかったが、東京裁判によって日本人の精神はすっかり骨抜きにされてしまった。このままでは日本人の精神はやがて崩壊し、日本は必ず壁に突き当たる」と重大な予言をしている。

現今の政界、財界、官界、言論界、学界などで頻発する不祥事、トップの人たちのスケールの小ささ、発言の軽さ、精神の堕落などをみると、永野重雄の予言が現実のものになってきたと思わざるを得ない。「日本人の精神」の復権が、21世紀の日本の一番重要なテーマである。

 

 

 

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の番外編(前編)をリリース。

「遅咲き偉人伝」の番外編「「人物記念館の旅」1000館を達成して」の前半。

www.youtube.com

1館「福沢諭吉」。100館「寺山修司」。200館「野上弥生子」。300館「西田幾多郎」。400館「相田みつを」。500館「臼井吉見」。600館「大宅壮一」。700館「大岡信」。800館「土屋文明」。900館「勝海舟」。1000館「ドラえもん」。

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「久米橘対談」第2部に参加。週刊誌の企画「オトナの夏の歌」について語った。

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「名言との対話」7月14日。里見弴「文章の極意は、過不及なし」

里見 弴(さとみ とん)、1888年明治21年)7月14日 - 1983年昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。享年94。

横浜市生まれ。学習院から東京帝大文学部英文科へ入学するが、すぐに退校。1910年雑誌『白樺』に参加。1914年、志賀直哉島根県松江市に暮らす。同年、朝日新聞に『母と子』を連載。1915年、中央公論に『脆い恋』を書く。1916年、『善心悪心』と題した短編集を刊行。1919年、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊。1932年から明治大学教授。1940年、菊池寛賞。1945年、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加。1956年、短編集『恋ごころ』で読売文学賞。1959年、文化勲章。1971年、2度目の読売文学賞

電話帳をペラペラめくり開いたところを指でトンとしたこところが、たまたま里見という姓であったことから、里見弴をペンネームとしたというから謹厳実直な人ではなかったことがわかる。

里見弴は10歳年長の有島武郎、6つ上の有島生馬の末弟である。祖母の実家を継いだために山内姓となったが、武郎、生馬と一緒に育っている。小説家の有島武郎、画家の有島生馬、作家の里見弴の3兄弟は若い頃から有名だった。そろって「書」でも優れていて、武郎は品位、生馬は玄人はだし、弴は力強い書だったと、別冊「住近代芸術家の書」で紹介されている。

長兄の有島武郎が、美人で婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と心中し46歳で亡くなったとき、「兄貴はあんまり女をしらないからあんなことで死んだんだ」と里見がいう。里見は若い頃、吉原などで5歳上の志賀直哉と遊興している。18歳で大阪の芸者宅の2回に下宿して、芸妓・山名まさと周囲の反対を押し切って結婚している。そして赤坂芸妓・菊龍(お良)を市川猿之助から奪い愛人とする。そのお良は後に密通する。里見弴は浮名が高いから、そう語る資格があったのだろう。ちなみに代表作の『多情仏心』の「主人公は一夫多妻主義者である。

NHK人物録「文章の極意は過不足なし」で里見弴が語っている。『白樺』創刊時の写真がある。武者小路実篤高村光太郎志賀直哉らはすでに青年の顔だが、同学年の柳宗悦と里見弴はまだ少年の風貌である。

ありのままの自分を肯定。自分自身に誠実に。世間が何と言おうとかまわない。したいことはしたい。著書の中で語っているようにそれが里見弴の方針であり、そのとおりに94年の生涯を送っている。

里見弴は明治・大正・昭和と70年以上にわたり作品を発表し続けた。同じく長命であった志賀直哉は「小説の神様」と称されたが、里見弴は絶妙な語り口で「小説家の小さん」と称讃された。その文章の名人が文章の極意を語っている。文章は分かるように書くことが大事で、そのためには、口で語るとおりに書きなさい。「過不及なし」、つまりくどくどと書きすぎない、そして肝心なところを抜かさない、それが極意だそうだ。この文章論は、小説だけではなく、ビジネス文書にもあてはまる。文章全般にわたる極意なのであろう。