『世界を知る力』対談篇のテーマは「教育」:田中優子と竹中千春。

26日の『世界を知る力』対談篇。テーマは「教育」。相手は法政大学前総長の田中優子立教大学元教授の竹中千春。田中は「江戸」の専門家、竹中は「インド」の研究者。

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寺島:『近世アジア漂流』。唐天竺。2010年に中国に抜かれた。今後10年以内にインドに抜かれる。なぜ江戸か? なぜインドか?

  • 田中:石川淳との出会い(石川淳全集)。『江戸の創造力』。循環型社会。ものをつくることで人を救う、日本化する。
  • 竹中:マハトマ・ガンジーの非暴力との出会い。インドは14億人。平均年齢が20代後半(29.7歳)という若い国。

寺島:『世界はなぜ仲良くできないのか』(竹中)は善意識のかたまり。多摩大生の良心は安定志向、公務員か安定した企業をすすめる。若世代のポテンシャルは感じる。SNS社会でも地頭を鍛えて次元をあげて課題解決力にしていく事が重要。

  • 田中:若者の可能性。ボランティア活動で地域や世界に関心を持ち対象を選んでいく。自分の言葉で話すこと。本の中に在る言葉を探す。「会読」というやり方は、同じ教科書だが一人一人が講義して批判や質問を受ける。自分で消化しなければならない。
  • 竹中:「朝日小学生新聞」の連載を本にした。知識欲、国際感覚、人権感覚は鋭い。「未来はある」という感覚を持っている。100歳まで生きる時代。問題を自分で解いていくという学び方。

寺島:考え込む力。アナログであること。思考の外部化現象。価値や思想。教員も切ない。高校の「歴史総合」は近代史に焦点。意図せざる革命か?

  • 田中:学校、大学のありかた。少数で議論する場をつくる。
  • 竹中:大教室での講義は19世紀型。パンデミックが大きかった。丁寧、じっくり、多くの先生とという流れがエリート校でやっている。二極分化。人はヒューマンコミュニティの中で成長。

寺島:ジェンダー。80万人を割るという少子化固定観念からの脱出。高齢化をコストと考えずに少子化から脱する戦力として活用し、女性の社会参画を後押しする。そういう柔らかい社会システムに知恵を。

  • 田中:女性が下に押し込められた。家庭のイメージの固定化。今の女子学生はみな職業に就こうと考えている。キャリア、人生に不安。選択的別姓の否定というアナクロニズム。大学までの教育の無償化。
  • 竹中:1975年の男女雇用均等法から40年たって今、ここか。後輩たちに申し訳ない。変えられなかった。日本を住みやすい社会に。

「図解コミュニケーション」の有効性(新しい会読)。「未来」への確信(子ども、女性、若者)。「学び方」の革新(参加型)。少子高齢化という「課題解決」策の提示(総合設計力)。キーワードが浮かぶ。「出会い」の重要性を改めて感じる。田中優子石川淳。竹中千春はガンジー

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メルマガの発行。書斎の片づけ。「名言との対話」の3月分の人選。「野田一夫語録」の編集プロセスの考案。知研:司法書士との連絡と印鑑証明の取得。「全集」第7巻のまえがき。1万歩。デメケンミーティング。

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「名言との対話」金子直吉「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は、日本の実業家。 

高知県出身。10歳から丁稚奉公。質店で働く傍ら、質草の本を貪り読み、独学で経済や中国古典に関する膨大な知識を身につける。1886年、20歳で神戸八大貿易商に数えられる鈴木商店に入る。番頭として経営を切り盛りし、1900年には台湾樟脳の販売権の65%を得るまでになった。「生産こそ最も尊い経済活動」という「工商立国論」をもとに、鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまでの80社を超える生産工場中心の一大コンツェルンを形成した。

『幕末商社考2』(姉崎慶三郎)を読んだ。また「鈴木商店記念館」の記述を読んだ。

「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」。そして第一次世界大戦時のロンドンの高畑誠一支店長への打電「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(金に糸目をつけず、ありたけの鉄と物資を買え)。この判断で鈴木商店は、三井物産を超えて、日本一の総合商社となった。

鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店)に金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせものだ」。直吉は「無欲恬淡」で、念頭にあるのは「事業」のみ、私利私欲はなく、終生借家住まいで、私財も残さなかった。

倒産の報告に対してオーナーの鈴木よね「しかたおまへん。わてはあんたが生きていてくれはったらそれでええ」。オーナーの信頼の厚さがよくわかる逸話である。

福沢桃介は「財界のナポレオン」と讃えた。渋沢栄一は「事業家としては天才的だ」と評した。北村徳太郎(鈴木商店佐世保支店長、大蔵大臣)は「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった」。

鈴木商店は無くなったが、高畑誠一らは直吉の精神を継承し、日商をつくり、現在では双日となっている。また1967年に開催された神戸開港百年祭では当時の市長から「あなたは神戸に一大総合商社を育て上げ、今日の港都繁栄はあなたの功績によるところまことに顕著なものがあります」と讃えられた。事業を展開するということは、国を富ますことになる。直吉の功績は国に対しても大きいものがある。

直吉は俳句を趣味としていた。「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」という気宇壮大な句を詠んでいる。学校に行けなかった自分を、農民から太閤にまで出世した秀吉に、また一兵卒から皇帝にまで昇りつめたナポレオンになぞらえて邁進したのだろう。

鈴木直吉という傑物は、日本独特といわれる総合商社を育て、近代日本の成長に大いなる貢献をしたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニ・ニ六事件ーー背景には陸士出身の皇道派と陸大出身の統制派との敵対関係

1936年の今日、日本を震撼させた大事件が起こった。それは29日まで続いた。ニ・ニ六事件である。陸軍「皇道派」の尉官クラスの青年将校下士官・兵1483名を率いて、「昭和維新」を掲げて政府要人を襲った。

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陸軍では二つの派閥的グループが存在していた。皇道派は「天皇」を中心とする国体を奉じ、反共で、ソ連を仮想的としていた。北進論だ。陸軍士官学校出身者が中心。北一輝日本改造法案大綱』がバイブルである。荒木貞夫、真崎甚三郎らがリーダー。「君側の奸」によって政治が乱れているとみていた。「尊王討奸」が合言葉だった。

一方「統制派」はドイツ寄りで、中国での権益を重視していた。南進論である。陸士を出た後、陸軍大学校まで進んだ者たちが中心。近代戦には国家総動員が必要と考えていた。永田鉄山東條英機らが中心。

陸士出身者は、部隊付きの参謀等に任じられ、陸大出身者は大本営などに勤務するという人事コースがあった。この二つのグループの敵対は、学歴面からみれば、エリートと準エリートの対立であった。

岡田首相や鈴木貫太郎侍従長は難を逃れ、高橋是清蔵相と斎藤実内相が惨殺された。もしこの蜂起が成功していたら、総理は真崎甚三郎、内大臣あるいは参謀総長荒木貞夫で、大蔵大臣には結城豊太郎との予想もあったと記録にある。

事件後の裁判は迅速にかつ秘密裏に行われた。軍人は、自決は2名、叛乱罪による死刑は16名(現役軍人の首魁は、香田清貞大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀大尉)。背後関係者は、北一輝西田税の二人が死刑。民間からは1名が死刑。

陸軍とライバル関係にあった海軍は、蜂起の情報を事前に知っていたが、傍観してた。

この二・二六事件の結果、陸軍は統制派の天下となり、テロによる政府への恫喝と統帥権をたてに、勢力を拡大し、大東亜戦争へと向かうことになった。

以上、一応の整理。

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午前:「世界を知る力」対談篇。「江戸」の田中裕子と「インド」の竹中千春との教育をテーマとした1時間。

夜:ユーチューブの「遅咲偉人伝」の録画「東山千恵子」「小野寺百合子」。

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「名言との対話」。2月26日。高橋是清「 その職務は運命によって授かったものと観念し精神をこめ誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ」

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日嘉永7年7月27日〉 - 1936年昭和11年〉2月26日)は、日本幕末武士仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚政治家立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣。

1854年に芝で生まれ、仙台藩士の高橋家の養子になる。横浜でヘボン夫人から英語を学ぶ。14歳、藩からアメリカ留学。明治維新を知り帰国。森有礼の書生、教員、翻訳業、駅逓寮の役人を経て、39歳で日銀に入り日清戦争で戦費調達に尽力した川田小一郎総裁に鍛えられ頭角を現す。1904年の日露戦争の外債募集を成功させる。1927年の金融恐慌では支払い猶予令(モラトリアム)を3週間敷き沈静化、、、。後に高橋財政と呼ばれるほど評価が高い仕事師だった。

私は2010年に江戸東京たてもの園旧高橋是清邸を訪ねた。赤坂にあった政治家の高橋是清邸の主屋部分を移築した建物だ。1902年に完成してから1936年(昭和11年)に2・26事件で暗殺されるまで30年あまりを高橋はこの家で過ごした。総栂普請の和風邸宅。「不忘無」(無であることを忘れるな)という書がかかっていた。2階の部屋で寝間姿で布団に座っていた高橋是清青年将校達は、銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死だった。2・26事件である。

高橋是清『随想録』 では、「仮にある人が待合へ行って、芸者を呼んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。、、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価およびそれらの運搬費並びに商人の稼ぎ料金として支払われる。、、芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。、、、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く」と経済をわかりやすく語っている。
 「精神を磨いて、一身の品性を高め、引いて、感化を周囲に与え、結局は国民の品性を高め、更に子々孫々の品性を高めむる点に出来るだけの力を注ぐことが、我々のこの世に生存する第一の面目であることに先ず考え至るべきものである。」

高橋是清は若い頃にアメリカに渉っている。学費や渡航費用の着服、ホームステイ先の両親にだまされ、奴隷同然の生活を送っている苦労人である。この間に習得した英語が身を助けた。その高橋是清は、職務は運命として観念して奮戦激闘せよと言う。「いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力するので(することで)はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである」、というその心構えが高橋自身を大きくし、日銀副総裁として日露戦争という国難を救い、また金融恐慌、世界恐慌、を沈静化させるなど6度の大蔵大臣を担当し、2・26事件で斃れるまで長く国難にあたった。常に「運命」と観念して奮闘する姿が目に見るようだ。

 

 

 

 

 

「友達の友達は友達だ」

昨年リニュアルした図解Webのテーマは「集大成と新世界」としました。

久恒啓一図解ウェブ (hisatune.net)

「集大成」は過去にやってきたことを、記録としてまとめること。

「新世界」は未来に向けて今まで知らなかった世界に入っていくこと。蜃気楼大学などはその一つですが、ソーシャルネットワーク(SNS)という宇宙の中での生活の革新も含まれています。

フェイスブック(FB)では毎日、「友達」としてつながっている人たちの日々の動向が流れてきますので、どういう生活があり、そこでどういう感慨をもって皆が生きているかを目にすることができます。

このFBではつい先日まで「友達」の数は意識していませんでしたが、2000人を少し下回る程度でした。新しい世界とは、今まで知らなかった人たちとつながることでしょう。コロナ禍ではZOOMという新手のコミュニケーション手段によって、人脈が一気に若返り、未来がここにあるという確信を得るようになりました。

そこで、「友達」を意識的に増やそうとここ1週間ほどやってみて、本日現在で2050人となりました。この「友達」が増えることが、「新世界」に直結することになるはずです。そのための指針は「友達の友達は友達だ」でしょうか。少しづつ、いい友達の友達に声をかけていくことにしてみたい。この1年が終わるころには、どういう数字なっているか楽しみです。

久恒 啓一 | Facebook

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ヨガを1時間。

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「名言との対話」2月25日。後藤武夫「現地現認」

後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日明治3年8月18日) - 1933年昭和8年)2月25日)は、日本の実業家帝国データバンクの創業者。

福岡県久留米出身。旧制福岡中学、東京英語学校、同志社などを経て、故郷で代用教員をする。21歳で結婚。1894年の日清戦争での友人の死で目覚め、大阪の関西法律学校に入学しトップクラスで卒業。福岡日日新聞記者を経て1898年、28歳で上京。母校の関西法律学校(後の関西大学)出身者と同郷の九州出身者の支援を得て1900年、30歳で「帝国興信所」を起業した。

帝国興信所は3つの方針を掲げた。「脱俗」はもっともすぐれたという意味。「至誠努力」は詐欺師から守るためにひたすら努力せよ。「大家族主義」。そして「現地現認」を原則で、現在に赴き自分の目と肌で確認することを徹底した。1920年代の後半には、3大興信所の一角に食い込んだ。その後も、後藤は1916年に日本魂社を創業し、雑誌『日本魂』を刊行している。

2020年に帝国データバンク史料館を訪問した。市ヶ谷の防衛省の向かい側の10階建てのビルが帝国データバンク本社ビルだ。そのビルの9階に帝国データバンク史料室がある。帝国データバンクは企業情報を扱う企業と漠然とは知っていたが、この企業や業界の歴史と現在の姿を、よく整理された情報と最新の動画情報などで知ることができた。

「信用調査業」の始まりは1810年のイギリスのペリー社から始まる。もう200年以上の歴史がある業界だ。産業革命で経済取引が盛んになり、当事者による信用調査の限界を補うことが必要となったのだ。

日本では19世紀の末に大阪で外山脩造の商業興信所、東京の渋沢栄一らによる東京興信所ができ、そして1900年には後藤武夫が民間で初めて帝国興信所(後の帝国データバンク)を設立した。 1929年の雑誌「講談倶楽部」で「全国金満家大番附」のデータ調査を請け負っている。後藤は8ヶ月、2000名を動員した。それによると、横綱は三井八郎衛門(三井)と岩崎久弥(三菱)、大関以下にも住友、安田、大倉らの4大財閥が並んでいる。

大正から昭和にかけて、帝国興信所は北は樺太(サハリン)から中国、韓国、そして南は台湾まで29の海外支所を展開していた。この会社に関係した人々を展示していた。作家の山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所で過ごしている。玄洋社頭山満は後の人力車夫時代の贔屓の客だ。「浪聖」とうたわれた浪曲師・桃中軒雲右衛門とは兄弟分の盃を交わした仲だ。また徳富蘇峰与謝野晶子直木三十五は機関誌「日本魂」に寄稿している。小説家の三島由紀夫は「豊饒の海」の第4部「天人五衰」のために綿密な取材をしている。こうやって並べてみると、後藤武夫という人は、一筋縄ではいかない、ふところの深い傑物だったことがわかる。

帝国データバンク」となったこの企業は、最近では周年行事のための印刷物も業務内容の一つになっている。「広報誌型企業史制作」である。A4で36pで150万円、6か月、500部。2020年で創立400年は鳴子温泉ホテルと虎屋本舗。130年はクボタとイトーキ、120年はいなげや、日新製粉グループ。110年は日立製作所不二家。100年はマツダスタンレー電気、イトーヨーカ堂リンナイキーコーヒーとなっていた。

個人の身元や経歴は「日本紳士録」や「人事興信録」がある。企業については「帝国信用録」「帝国銀行会社要録」などをこの会社が発行してきた。企業活動にとって「倒産情報」は貴重だ。直接の取引先はもちろん、その先の関係企業も破綻する恐れも出てくるからだ。一刻も早い情報が企業の命運を左右する。そのための企業情報を担ってきたのである。

 「TDB24時」というビデオがよくできていた。83カ所の拠点があり、海外はニューヨークとソウル。企業価値の評価モデル。「倒産速報」で社会に貢献。法務経。コンサル。電子化。ネットショッピング時代。個人向け企業情報サービス。データベース事業コスモス。人事調査の廃止。1980年代以降は総合情報サービス業へ。1000人超の調査員。110万件の調査。、、、、私の就職活動時代にも活動していた「興信所」もすっかり様変わりしている。

現在の帝国データバンクのホームページをみると、企業理念の「行動指針」に「現地現認」という言葉がある。説明は、「何よりもまず動き、自分の目と耳で確かめます」だ。調査員が現地に行って直接確かめ周辺に聞き込み収集した詳細な情報をまとめているので、信用がある。ここを徹底している。

トヨタの品質管理は「現地・現物・現実」である。製造業と同じく、「データバンク」事業と名前を変えている信用調査業も、「現場」を大切にしている。こういった「現場主義」は仕事の基本だ。人からの又聞き、数字で構成された統計などは、信用ならない。自分の眼で確かめなければ、間違ってしまう。私もいくつかの組織を経験してきて、現場をみないで失敗を重ねてきたから、その大切さは身に染みている。どこにいても、何をするにしても、現地・現認・現物・現実、そして「現場」感覚を大事にして、間違いを減らさなければならないと思う。

信用調査業は、「信用」というものに上に成り立っている資本主義にとっては、土台である。こういった業態は、19世紀の初めに英国で誕生し、日本でも19世紀の終りになって誕生して、後藤武夫は1900年に創業している。後藤は近代資本主義の発展に貢献した人なのだ。

「知研読書会」の8回目ーー7人が参加。

知研読書会の8回目。

7人の参加者のうち、3人が新しい人という珍しい会となった。書評家として有名な橋本大也さんも参加。女性は二人。


以下、紹介された。司会の都築さんのまとめ。

茨木のり子は、戦前から戦後にかけて愛知県西尾市に住んでいました。茨木のり子は都築にとって高校の先輩にあたります。都築と同世代の同窓生が立ち上げた「詩人茨木のり子の会」の10周年記念が行われたとFacebookに投稿がありました。それをきっかけに今回はこの本を取り上げました。この会で朗読された「私がいちばんきれいだったとき」と、「自分の感受性くらい」を紹介しました。

ヘルマン・ヘッセ『ヘッセ詩集』新潮文庫
10代の多感な時期にヘッセの詩「困難な時期にある友だちたちに」に出会い、特にその中の「日の輝きと暴風雨とは 同じ空の違った表情に過ぎない。」という一節に救われた、と語ってくれました。
◆秋岡秀夫『食事とうつわ』サンレイライフムック
食器の歴史の本です。特に、箸について紹介されました。箸を使うようになったのはそれほど古いことではなく、それまでは手を使って食べてきた。ヨーロッパ人も手で食べていたが、日本は木の椀があったので温かい食物に直接触れずに食事ができた。また、ちゃぶ台のような全員が食べ物を囲む他に、日本はめいめい膳に食事を並べるという伝統もある。今まで気が付かなかった日本の文化の特徴を見直すことができました。
井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫

井筒俊彦は30もの言語に精通していました。その天才的な語学力を駆使して、世界の様々な哲学、思想を研究してきました。特に、イスラーム学、東洋思想、神秘主義哲学を専門としている人で、この本は理解するまでなかなか大変で、3回目にようやく少し理解できるようになったと紹介されました。

◆『判例タイムズ』2022年10月号

民事上のトラブルに話し合いで解決を図るという調停制度が始まって2022年でちょうど100周年にあたるそうで、式典には天皇、皇后両陛下も参列されたそうです。日本では江戸時代から話し合いによる解決が行われてきて、日本独自のものだそうです。

◆John Irving "Prayer for Owen Meany" (訳書)ョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』

人生で一番感動した小説、としてこの本が紹介されました。翌日仕事ができないくらい圧倒されたそうです。内容はネタバレになるので詳細は省略されましたが、通常の小説と違って注意深く読んでいくべき本だそうです。

永田耕衣『耕衣自伝ーわが俳句人生ー』沖積舎

城山三郎の『部長の大晩年』にも書かれた永田耕衣の自伝。1900年生まれで工業学校を出て三菱製紙に入社し、55歳で退社。そこから97歳まで俳人として大活躍した。会社勤めよりも退職してから俳人として生きた42年間の方が長い。これから人生100年時代を生きていく我々にとって「大晩年」をどう生きるかが課題となり、また大いに励ましとなる。

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「名言との対話」2月24日。直木三十五「芸術は短く、貧乏は長い」

木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年明治24年)2月12日 - 1934年昭和9年)2月24日)は、日本小説家である。脚本家映画監督でもあった。

2011年に大阪谷町の直木が通った小学校の跡地に建っている、直木三十五記念館を訪問した。この記念館は下町の一角にある小さな建物の二階にあった。気をつけていないと通り過ぎてしまう。この界隈で生まれたという縁を大事にして、有志が努力して街づくりの一環として小さな記念館をつくった。推進している人にも挨拶をした。

黒い部屋がモチーフとなった建物は、横浜市金沢区にあった自宅のイメージを模している。驚いたのは畳張りだっだことだ。執筆時はいつも寝そべっていたということから、同じ気持ちになってみて欲しいという配慮だそうだ。

菊池寛が制定し、この人の名前をとった直木賞は有名だが、本人がどの様な人かは知られていない。本名は植村宗一。ペンネームは植という字をバラして直木という苗字にして、その時の年齢が三十一歳だったので、直木三十一と命名。毎年三十二、三十三と増やすというふざけたアイデアだったが、最終的には三十五で止まった。

若いころから直木は色々な仕事に手を染めるがうまくいかない。1923年の関東大震災以後は、大阪のプラトン社で川口松太郎と仕事をしている。因みに、死後に設置された直木賞の第1回の受賞者は川口であったことは縁としか言いようがない。

映画監督のマキノ省三とも一時に一緒に映画をつくって迷惑をかけている結果的に直木が書いた原作の映画は50本近くある。
38歳で書いた『由比根元大殺記』でようやく大衆作家となり、39歳で書いた『南国太平記』で流行作家になる。43歳で亡くなるが残した本は多い。「私程度の作品を一日三十枚平均で書けないやうなら、作家になる資格はない」(産経新聞2004年10月15日)。短い期間ではあったが、怒濤の仕事量の人であった。

直木は1934年に亡くなるが、翌年には友人の菊池寛文藝春秋社の事業として、芥川賞とともに直木賞を制定している。今では直木賞文学賞では日本の最高峰になった感がある。作家の肩書に「直木賞作家」はあこがれのまとである。紹介されるとき、亡くなったとき、この肩書で語れることが多い。

直木賞の選考会は料亭・喜楽で、1階が芥川賞、2階が直木賞というかたちで行われる。直木賞は新人による大衆小説という趣旨だったが、現在では実力のある中堅作家にも与えられている。

芥川賞との違いはわかりにくくなっているが、司馬遼太郎は「自己意識の強い人が芥川賞、他者との関係に目を向けたものが直木賞向け」という名言を吐いている。この方が純文学と大衆文芸というよりもわかりやすい感じがする。

最年少の20代では、朝井リョウ平岩弓枝山田詠美、三浦しおんらがいる。最高齢の60代は、古川薫、青山文平がいる。デビュー作での受賞は中村正䡄、初小説では青島幸男がいる。筒井康隆などこの賞が欲しいが何度も落選している作家も多いのだが、山本周五郎は受賞を辞退し、伊坂幸太郎は候補になることも辞退している。

直木三十五は、命名秘話もそうだが、無頼で破天荒人物だったようで、エピソードが多い。直木賞の地位が上がっていることを知ったら、菊池寛が「おい、賞をやったんだから分け前をよこせ。なんて無茶を言いそうな気がする」と言ったという話もある。愛すべき人でもあったのだろう。

長く貧乏だったこともあり、名言も多い。「貧乏の無い人生はいゝ人生だが、貧乏をしたつて必ずしも、人間は不幸になるものではない」。そして「人生は短く、芸術は長い」をもじった「芸術は短く、貧乏は長い」という警句も味がある。38歳で認められてからわずか数年後の43歳での死去であったから納得させられる。しかしその短い間に、怒涛の仕事をしたのである。直木三十五という名前より、「直木賞」が有名になったというのは不思議だ。人徳であろうか。

 

 

 

 

JAL時代の仲間との食事--川崎の「ともだちのいえ」

JAL時代の仲間たちとの食事会。13時から17時まで。川崎の「ともだちのいえ」にて。

向かって右から浅山さん、中西さん、奥出さん、松岡さん(喫茶経営)、私。

主に客室本部関係で一緒に仕事をした人たち。奥出さん、中西さんとは本当に久しぶりだ。奥出さんは勤労部、浅山さんは国内乗員部、中西さんは訓練部、国内乗員部、松岡さんは国内客室乗員部。当時の私は国際客室乗員部、客室本部業務部。

それぞれの人生模様を聞いた。この「ともだちのいえ」には、『戒語川柳』を3冊置いて来た。関係者が集まったときにみてもらおうか。

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少し早めに着いて、小黒恵子童謡記念館を訪問したかったが、今回は叶わなかった。

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帰って、風呂で色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を再読した。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかる。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。

  • 庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
  • その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
  • 人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
  • 個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
  • 黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
  • 地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)

私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。

今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、そこを意識していこう。

今週発売の『週刊文春』では、社会学者の上野千鶴子(1948年生)は色川大吉との婚姻関係があったとのことだ。

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「名言との対話」2月23日。波多野鶴吉「宥座の器」

波多野 鶴吉(はたの つるきち、安政5年2月13日1858年3月27日)- 大正7年(1918年2月23日)は、明治・大正期の実業家

グンゼ創業者 波多野鶴吉の没後100年記念、社員らが演じる寸劇「波多野鶴吉物語」上演

京都府綾部市生まれ。波多野家の養子となる。京都に遊学。18歳で花と結婚。28歳、小さな資本をかき集めて何鹿群養蚕業組合の組合長になり大資本に対抗した。キリスト教に入信。38歳、郡是製糸株式会社を設立。43歳、社長。

『宥座の器』(あやべ市民新聞社)を読んだ。綾部は、歌人吉井勇が「綾部川の水のひびきの中にきく人の心の高きしらべを」と詠んだ土地である。。「鬼は内、福は内」とする大本教出口なお出口王仁三郎、そしてグンゼ創業者の波多野鶴吉などが高きしらべを持つ人なのだろう。グンゼの本社は今も綾部にある。

グンゼは、もともとは郡是であった。国には国是があるように、市町村にもそれぞれ郡是があるべきだ。郡には郡是が要る。そこから波多野鶴吉は社名を「郡是」にしたのだ。アパレルを中心とした100年企業のグンゼ(1896年創立)は、2022年年3月期決算では、売上1243億円(連結)、従業員は1662名(単体)、5692名(連結)となっている。

以下、波多野鶴吉の言葉。「皆是中糸国 今以上争鳴 経営幾歳月 終始啻一誠」「よい人がよい糸をつくる」「信用のある人が信用のある糸をつくる」「一、心が清ければ、光沢の多い糸が出来る。一、心が直ければ、繊度の揃うた糸がで出来る。一、心に平和があれば、ふしのない糸が出来る。一、心に油断がなければ、切断のない糸が出来る。一、自ら省みて恥ずるところがなければ、力の強い糸が出来る」「第一になくてはならなぬものは中心人物の信である」

鶴吉は、計数能力が高く、書がうまかったそして記憶力が抜群だったという観察がある鶴吉は60歳で亡くなったが、3歳年下の妻の花は96歳の長寿だった。鶴吉に「心を治してもらいたい」と訴えて成功させた糟糠の妻であり、事業と人生の伴奏者であった。

鶴吉については、山岡荘八が伝記を書いている。また、綾部には、グンゼ記念館、波多野鶴吉記念館がある。『宥座の器』には波多野花についても詳しく書いてある。

さて、今回読んだ『宥座の器』の宥座とはどういう意味だろうか。平生は傾いている不思議な器があり、わたしも見たことがある。水を注いで器の半分に達すると真っ直ぐになる。いっぱいにすればひっくり返る。中庸の大事さ、足るを知ること、求めすぎるてはいけない。この器を身近において自分を戒めようとする。宥座とは身の回りという意味だ。孔子は「宥座の器」を題材にして「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て」と説いたされている。自らの器を考えよということだろう。鶴吉もこの考えに賛同していて人にアドバイスしていた。

『宥座の器』の著者の四方洋は「この本でおわりとせず、さらに充実した鶴吉伝を目ざしたい」と「はじめに」で書いている。四方の父の生家は綾部の大本教の開祖、出口なおの家の隣だった。父は死の直前まで大本教の2代目・出口王三郎と鶴吉のことをよく語っていた。四方は大学の卒論は「郡是」を取り上げていた。「趣味は人間」「人観光」ツーリズムを提唱していた。ある人物の伝記を書くには相当なエネルギーが必要だが、この人には波多野鶴吉を書く理由が確かに存在していたのである。

 

「図解塾」第6期⑩:「蜃気楼大学」「鳥瞰・俯瞰」「専門知・総合知・全体知」

「図解塾」第6期⑩を行いました。少し趣向を変えて久しぶりの実習を取り入れました。

1:「蜃気楼大学」の報告。

2:「鳥瞰・俯瞰」を標榜する著名人たち20人を紹介。出版・政治・経済・芸能・絵画・写真・学問・作詞。

3:「専門知・総合知・全体知」(寺島実郎)を図解するという実習。発表。

4:本日の感想の述べ合いによる学び。

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以下、塾生の学びから。

  • 久恒先生、皆様、本日もおつかれさまです。図解塾、先ずは「蜃気楼大学」が先週末成功裏に無事実行されたことについて久恒先生よりお話を伺いました。授業や催しをリモートで参加する事が当たり前となった今、『リアルに集う』事の価値に改めて気付きが有った。自主的な「持ち寄り」により事を成し遂げるパワーを感じた。「何かやりたい」という主催者の思いに賛同し集結した人々の志がシンクロし現場を支えてくれた。「リモート」で知り合った仲間が全国から集結、グループに『現場で何とかする』マインドが自然醸成された。『リアル』が楽しく、だれも帰ろうとしなかった。『成功時の達成感』 『PJT推進の醍醐味  』が味わえた。蜃気楼に未来が有る事を確信した。等と、当日参加できなかった当方もお話を伺い大変ワクワク致しました。早くも来年は2月4日に実施し、セミナーハウス全体を借り切るくらいに規模を拡大する計画が進行中との事、ぜひ次回は参加したいと思いました。続いてブログ記事に基づき、「鳥瞰」「俯瞰」についての深掘りについて久恒先生より引き続きレクチュア頂きました。下中弥三郎氏(平凡社創業者)元教育者、「出版は教育」との思いで百科事典を編纂、国民が知りたい知識をおおつかみに「鳥瞰」できるものを目指した。他にも、出版、経営、芸術、芸能、あらゆる業界で「俯瞰」「関係性」「全体の流れを見る」「自分の領域を外の世界より眺める」「知の構造と関係」など、久しぶりに言葉のシャワーを堪能しました。どの様な世界でも成功者は「今の自分」「将来ありたい姿」そして「周辺の環境」夫々の関係性を俯瞰~理解し、「次どうする?」と冷静な判断を積み重ねて来たのだという事を改めて認識致しました。とかく重要な岐路に立たされた時こそ一旦立ち止まり、これを行う事によりピンチを未然に防ぐ経験を社業で体験したので大変身に沁みました。一方相変わらず引き出しの多い久恒先生レクチュアの秘訣は「考え方が同調できるヒトの言動を常にウオッチしている」との事、原動力は「ヒト」への好奇心か?また成功する仕事の秘訣は、「見えるところだけ図解する。細かいところを見せるから突っ込まれる 、余計なことはしない、ゴールをイメージして俯瞰、 自ずから課題が選別( 優先付け)する 。デジタル思考を身に付けたアナログ人間が強い!…ぜひ実践したい!。そして本日のメイン課題は、先日放映された寺島先生の「世界を知る力」より「課題解決能力」を分類する3つの「知のすがた」の図解で、久々の実戦形式に脳汗カクひと時を過ごしました。①「専門知」は様々な方向性の異なる分野が混在混沌としており互いに関係がない為、自ずから課題達成への能力に限界がある。②「総合知」はあらゆる構成要素を集約(足し算)するが、要素同士は単に並列に存在するだけなので応用が無くその為限界がある。また足し算だからむしろ「集合知」と称する方が妥当。最後は③「全体知」で、関連要素同士が「繋がり」「構造化」する(=掛け算)。繋がりは「空間」と「歴史」夫々の認識のもと生じ、全体を見る事で「はじめ」「終わり」と「それらを結ぶ優先だて」が出来「体系化」されることにより新たな課題への「応用」が利き解決に導く。というものでした。ブログ文章に基づき5分程度のthinking timeを経て塾生個々が作成した図解を説明し合いました。当方図解は漫画チックな仕上がりで「喝!」。課題解決のはじめ~終わりを夫々の図に配したものの、図解の基本ルールである「〇□△を線と矢印で結び関係を表現する」事がすっかりお留守になっていました。こういった点は定期的に学び直しが必要である事を痛感、大反省の回と相成りました。年度末で社業では様々な「締め切り」に追われ、心身ともに疲労気味ですが、こうして「知の刺激」を注入する場がリフレッシュに大いに役立っております。年度末に向けてハツラツと突っ走りたいと思います。本日もありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日の図解塾ありがとうございました。今日伺ったテーマは3つ。ひとつは先週開催された「蜃気楼大学」の様子と感想。私はあいにく都合つかず参加できなかったのですが、久恒先生のブログやフェイスブックも含め、参加された方の思いやリアルイベントの熱気を感じることができました。すでに来年の開催日も決まっている(2/4)とのことで、次回は是非参加したいと思いました。二つ目は「俯瞰する」「鳥瞰する」「全体をみる」ということについて。出版社の創業者や会社社長、大学総長、画家、イラストレーター、芸能、詩人、カメラマンなど幅広い分野の第一人者の言葉の中から、俯瞰・鳥瞰することについて語っている部分をご紹介いただきました。どの分野でも、全体を見る視点が大切であることと、とかく細かい部分に気がとられ、全体をみることが疎かになっていることに気づかされました。そして最後は、寺島実郎さんの番組「世界を知る力」で言われていた「専門知」「総合知」「全体知」について。三つの「知」の違いを参加者全員で図解で考えるというものでした。久々の図解ワークでもあり「キーワードを丸で囲む」「矢印でつなぐ」という図解の基本を改めて認識するとともに、「俯瞰」「全体知」はいずれも「図解」に繋がっているという点がとても興味深く印象に残りました。次回も楽しみです。ありがとうございました。
  • 本日も図解塾、どうもありがとうございました。はじめに先週の土曜日に開催された「蜃気楼大学」が大成功であったことが話題になりました。参加した鈴木さんと私が感想を述べ、久恒先生からその意義についてお話がありました。既成の組織的な発想でない「参加型社会」がこれから広がって行くことを実感したイベントでした。本題に入る前に平凡社下中弥三郎から始まって出版社の創始者の思いというものが何人か紹介されました。一つの出版社の成したことは大学を一つ作ったようなもの、とありましたが確かにその通りだと思います。そして、そこから発展して、「鳥瞰する」という姿勢を持ち続けた各界の人々・・・・政界、経済界、学者、芸能界、芸術家、文学などあらゆるジャンルに非常に多くいたことに驚きました。データベースを検索したのでなく、久恒先生ご自身の中で人物記念館などのフィールドワークと考え方が結びついているからこそ、このように次々と出てくることをすばらしいと思いました。今日は後半で、久しぶりに図解の演習を行いました。「専門知・総合知・全体知」を図解で表すというものでした。私は植物の例を考えましたが、なまじ絵を使うことはごまかすことにつながると指摘され、気を付けないといけないと思いました。時間軸(歴史)と空間の広がりの中でトータルとして捉えることは大切です。森林でいえば、個々の木についてとか、木に集まる鳥や昆虫との関係だけでなく、森林の土壌や空気、水、そして森林ができてきた過程(歴史)なども含めて森林を見るということが全体知かな、と思います。
  • 本日もありがとうございました。最初にお話しされていた蜃気楼大学は、とても充実して達成感があった会だったことがよくわかりました。また、下中弥三郎さんからの”俯瞰”について、こんなにもたくさんの言葉を一度に聞かされると、切羽詰まっているときこそ、俯瞰して遠くから眺めることが大切だということ忘れないようにしようと改めて思いました。樹木希林さんの「俯瞰でみるクセがついているのでわりと思い違いはないです」こんなに自分に自信が持てるようになりたいなぁと思いました。専門知・総合知・全体知について、久しぶりに講義内で図解しましたが、焦りましたし、身体が暖かくなりました。図を短時間で手書きするのは、頭もそうですが体力も使う気がします。みなさんそれぞれの図を見てから、先生の図を見て、集合知という言葉の方が腑に落ちると思いました。さらに5識6識・・のお話が加わっていくとのこと、難しそうですがイメージできるといいなぁと思います。次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、今回もどうもありがとうございました。
    今回は内容が大きく3つに分かれていて、1つ目は、2月18日(土)に開催された蜃気楼大学について、参加者(久恒先生、都築さん、鈴木)から簡単な報告と感想、今後の予定などを発表。私は、短期間の呼びかけにもかかわらず、「時代の最先端で活躍する講師陣」と「何が始まるかわからないままだけどワクワク感にあふれた多様な老若男女」が集い、自主的にフォローしながらプロジェクトが進められていくのを現場で体験したことで、主催者がめざす「参加型社会」や人のつながりの大切さ、誰とつながるかの重要性に改めて気づきました。 次に、平凡社を創設した下中弥三郎氏をはじめ、いくつかの出版社の創始者の思いについて紹介があり、そこから「鳥瞰・俯瞰の視点(思考すること)」というテーマで、十数人の著名人の名言を紹介していただきました。各名言を聞きながら、図解塾の講義の中で久恒先生がいつも「図解を見ると、物事を全体から、俯瞰して見ることができる」とおっしゃっていたのを思い出しました。やはり、大きなことを成し遂げるこ方は、足元を気にしながらではなく、全体を捉えながら前に進んでいくんだと思いました。3つ目は実習として、「専門知、総合知、全体知」を図解で表し、発表しました。私は、積み木の形で表現することしか思い浮かばず、図解の基本である「〇(丸)」と「→(矢印)」を使った図にすることができませんでした。でも久しぶりに短時間作成にチャレンジしたので、緊張感が心地よく、また、他の参加者の図解を見せてもらうことで図解の描き方のポイントなどを具体的に学べたので楽しかったです。
    今後も、突然に短時間実習があるかもしれませんので、普段から短時間で書き上げる練習をしてみます。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。本日は、久恒先生から、蜃気楼大学や俯瞰や鳥瞰について演習を交えてのお話しや皆さまと感想を共有しました。 私は、細かいところにこだわるところがあり、そこから抜け出せず、迷ったり、前に進まなくなることが、よくあるので、俯瞰したり、鳥瞰することの大切さを知り、これからは、意識していきたいと思いました。また、専門知、総合知、全体知などについて実際に、図解する演習があり、図解する事で、理解しやすくなることを実感しました。他の方の図解も、大変参考になり、同じ課題でも、さまざまな答えがあることがわかりました。 今回学んだことは、いろんな場面で応用できるので、日々の生活の中で活かしていきたいと思います。次回も楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
     
     

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「名言との対話」2月22日。柳原白蓮「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」

柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人

柳原前光伯爵の次女。15歳で結婚し、一子をもうけるも破婚。その後に東洋英和女学校編入学し、村岡花子らと交流。佐々木信綱に師事し、短歌の道を志す。25歳年上の福岡の炭鉱王と再婚。帝大生・宮崎龍介と恋に落ち、夫への絶縁状を新聞に発表し、出奔するという「白蓮事件」を起こす。龍介との結婚後は、文筆活動、平和運動にかかわる。また、龍介の政治活動、アジア諸国との交流も支える。

『白蓮自叙伝 荊棘の実 柳原白蓮』は、龍介に出合うまでの日々を小説にした著書だ。43歳の時の作品。事実をそのままに写しだすのは困難な面があり、「それゆえにこれを小説体に綴ることにしました」。どこからどこまでが本当だか、作り話だかわからないようにしている。

この445ぺーじに及ぶ大著には、貴族社会のしきたりなどが詳しく書かれており興味深い。関係した人たちとのやりとり、感情の起伏などが細かに記されている。最後の「天国か地獄か?」の章では、「一人の青年宮川を知った。彼は口に貴族を蔑んだ。富豪を罵った。そして今日に飢えている多くの貧しき人々のために、この身を捧げるのだともいった。澄子の胸にはいつしか宮川の俤がしきりに動いていた」とある。宮川、本名・宮崎龍介は白蓮より7つ年下である。2011年に訪問した熊本県荒尾市宮崎滔天ら兄弟の資料館では、近代日中交流史の原点ともいえる宮崎兄弟の生家を復元しており、宮崎兄弟資料館がその一角にある。八郎、民蔵、弥蔵、寅蔵。末子の寅蔵が、宮崎滔天で、孫文を助けた。滔天がいなければ辛亥革命はならなかった。この龍介は中国革命を実現した孫文を助けた宮崎滔天の長男である。白蓮36歳、龍介29歳。この当時、この不倫騒動は大いに世間を騒がせた。その後、白蓮は81歳で天寿を全うするまで龍介と仲むつまじく暮らしている。

「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」

2014年のNHK連続テレビ小説花子とアン』は、『赤毛のアン』の翻訳者の村岡花子の半生を描いた作品で私もよくみた。平均視聴率22.6%は、大ヒットした『あまちゃん』『梅ちゃん先生』を超える人気となった。この中で仲間由紀恵が演じたのが柳原白蓮だった。第82回「ザテレビジョンドラマアカデミー賞」で村岡花子を演じた吉高百合子は主演女優賞、仲間由紀恵助演女優賞を受賞している。この番組をみていたおかげで、白蓮のことを多少知っていたので、自叙伝も興味深く読んだ。

以下、白蓮の歌から。

我歌のよきもあしきものたまはぬ歌知らぬ君に何を語らむ

 天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ

思ひきや月も流転のかげぞかしわがこし方に何をなげかむ

ああけふも嬉しやかくて生(いき)の身のわがふみたつ大地はめぐる

子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月

女とて一度得たる憤り媚に黄金に代へらるべきか

そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ

「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」と境遇を語り、そして「踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故(ほご)いだき立てる火の前」と火のに飛び込まんとする心境。自叙伝を手伝った村岡花子の「数奇をきわめた一女性の半生の物語」、ひいては生涯のドラマは、歌を並べることで輝いていく。歌の力は大きいと改めて感じた。

 

 

 

 

「遅咲き人伝」の「ゴッホ篇」(28)をリリースーー「偉大なことは弾みで為されるものではない。小さなことの積み重ねによって成し遂げられるものである」

https://youtu.be/NxVsAsW-Ldk

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明日の「図解塾」の準備。面白い企画を考えついたので試してみよう。

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「名言との対話」2月21日。下中弥三郎「出版は教育である」

下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合創始者、また労働運動農民運動の指導者。

兵庫県生まれ。小学校前期3年を終了後、代用教員から出発。1914年に平凡社を創業。「現代大衆文学全集」「世界美術全集」「新興文学全集」「社会思想全集」「大辞典」「国民百科事典」、、、とヒットを飛ばした。平凡社という名前は「名前は平凡でも、やる仕事は非凡だ」と田中館愛橘博士が絶賛している。

百科事典をつくった男・下中弥三郎は、「出版は教育である」という信念を持っていた。教育者を志して教壇にたった。教員時代の弥三郎の国語教育の目標は「本を読むことをすきにする。本を読んで考えるようにする」ということだった。その延長線上にもっと多くの人たちに影響を与える出版事業に邁進したというわけだ。

出版とは何か。平凡社を創業した下中弥三郎は、「出版とは教育である」と喝破している。また、講談社創業者の野間清治の理念は「面白くてためになる」であった。この真意は興味を引くような顔つきの本ではあるが、実は読み進めると知識がつくということである。学校教育を補おうとしたのであり、野間にとっては出版事業は教育事業だった。

和田芳恵筑摩書房の三十年』(筑摩選書)には、「岩波書店のなした仕事というものは、ひとつの大学をぶっ建つぐらいの寄与を、日本文化にしているんじゃあないか。ひとつ、どうだい」 「それはいいじゃないか」との旧制松本中学の同級生の臼井吉見との会話が記されている。岩波茂雄のなした壮大な出版事業を、古田らは教育事業とみなしていたことがわかる。当時の大学は権威があった。7つの帝国大学に加え、原敬内閣の大学令で、1920年には慶應、早稲田など10大学が誕生している。「ひとつの大学」といっても、そのスケールは現在とは比較にならないほど大きかった。筑摩書房の創業者の古田晃は、教育事業として出版を志し、その志を完遂した人であった。

下中弥三郎の出版事業をながめると、ある分野の全体を鳥瞰的にわしづかみして全集という形で世の中に提供しようする姿勢は一貫している。「出版は教育である」という信念を実現させた下中弥三郎の人生は、莫大なエネルギーに満ちている。大いなる人生であったとの感を深くする。

「人物記念館の旅」や「名言との対話」などで気がついたことの一つは、俯瞰や鳥瞰という視点で仕事をしているということだった。以下、例をあげてみましょう。

政治家の田中角栄元首相は、「政治家として大切なことは、ものごとを鳥瞰的、俯瞰的にみることだ」と語っている。ソフトバンク孫正義は、「自分は発案して全体を俯瞰する役割。いつもまず全体を考える」と語っています。コンサルタント梅田望夫は「世の中を俯瞰して理解したい。関係性に興味がある。俯瞰してものを見て全体の構造をはっきりさせたいという志向がある人はこれからの時代は有利になる」と総合的視点を持つことの重要性を指摘している。東大総長をつとめた小宮山宏は、「知の構造」の重要性を語り、実際に大学で「学術俯瞰講義」を展開した。セコム創業者の飯田亮は、私が取材した時に、「東京を俯瞰する高層ビルの最上階」から東京全体を見ていると語ってくれました。平凡社を創業した下中弥三郎は、「分野全体をわしづかみ」にするという鳥瞰思考によって百科事典事業を成功させたわけだ。

芸能の世界でも同じだ。女優の樹木希林は、「俯瞰で見ることを覚え、どんな仕事でもこれができれば生き残れる」「俯瞰で観るクセがついているので、わりと思い違いはないです」と述懐していた。能楽師野村萬斎は、「狂言を俯瞰してみるために、、他のジャンルに挑戦している」と芸能の世界とそれ以外の世界についても挑戦することにしている。

絵描きたちはどうか。鳥瞰図絵師を名乗った「大正の広重」こと吉田初三郎の画法は、一番多く「構図に時間を割く」とし、中心の周辺は湾曲させた独特の鳥瞰図絵で人気を博した。現代の大和絵画家の山口晃は、「超絶的な鳥瞰図法」で、中世、近世、現代という広大な時間と空間を配置した大いなる鳥瞰図を描いた。イラストレーターの真鍋博は、鳥瞰的視点で「絵地図から国家計画まで」ジャンルを軽々と越えていった。複眼、データ、数字、記号を用いると結論をひきだしてしまうとし、虫の目もさることながら、全体、昨日今日より明日を見る鳥瞰的視点を大事にした。不染鉄はマクロの全体構造にミクロの細部を組み合わせる画法だった。代表作の「山海図絵(伊豆の追憶)」では富士山、日本海、太平洋を描きながら、伊豆近海で泳ぐ魚も描いているなど、俯瞰と接近の相まった独特の視点、マクロ視点とミクロ視点の混淆の絵を残している。横尾忠則は、「超越者の視点」を得たいといっていうそして「たまに寝込むと、世の中を俯瞰して見ることができる」とtwitterで発信している。安野光雅は俯瞰的な風景画を描き人気があるが、顕微鏡でようやくわかる細部にイタズラ心がある。
写真家も同様だ。白川義員は「〇〇鳥瞰」というタイトルの写真が多い。「天地創造」という最後の写真集は神の目も感じる出来栄えだ。

学者たち。心理学者の宮城音弥は、「心理学の鳥瞰図」を意識した傑作を上梓している。考現学者の今和次郎は、透視図と俯瞰図という手法を使って現代を描くという優れた仕事をした。
歴史学者の磯田直史は、「司馬遼郎で学ぶ日本史」という司馬の全作品を鳥瞰的に論じた納得感の高い本を書いている。文芸評論家の加藤典洋の「戦後入門」は、高い山から100年前の1914年の第一次大戦から鳥瞰した名著だ。

詩も同様である。作詞家の阿久悠の「日記力」を読むと、時代、変化、アンテナ、数字、観察、名前、メモ、短歌などを一日一ページの日記を毎日書き続けて、時代を俯瞰しながら優れた詩を書きつづけた。詩人の谷川俊太郎は、「詩というのは俯瞰して、上からいっぺんに「今」を見ようとする」と詩の本質を説明している。そして、全世界を1枚の図にあらわす「曼荼羅のすみっこみたいな、それが詩じゃないか」という。

以上にみるように、ジャンルにかかわらず、優れた仕事師たちは、「鳥瞰」「俯瞰」という視点を持っているという共通項がある。

2021年。NHKラジオで下中弥三郎インタビューを聴く機会がった。自国中心ではない世界大百科事典完成の翌年に死去。著者中心から出版社中心の企画へ転換。編集には自由がありそれが面白さ。世界連邦。アジア会議。平和7人委員会。国民百科事典7巻はベストセラー。世界国家、民族、、共存自治。偏らない、囚われない。人に後ろ指をさされない生き方を母から学ぶ。母の教え一筋。、、、、

下中はパール判事(1886-1967年)と深い親交を持った人物だ。この二人は兄弟の交わりをしている。2013年に箱根のパール下中記念館には二人の言葉が記された石碑があった。パール「すべてのものをこえて、人間こそは真実である。この上のものはない」。下中「世界連邦 平和の道 外はあらし 国人すべて ここにあつまれ」。

現在の四谷の主婦会館の土地は、清水鳩子が平凡社下中弥三郎社長から安く買ったものだ。募金をしたところ、目標額600万円だったが、建設資金1億2千万円が集まった。建て替えのときは清水が会⻑のときであったのだが、企業の人が寄付をくれた。当時から応援してくれる人が多くいたのである。

下中弥三郎という知の巨人は、「出版は教育である」との信念のもと、あらゆる分野を大づかみにしたが、それは自分のためであり、人のためであった。そしてその鳥瞰精神は、出版にとどまらず世界にむかったのである。まことにスケールの大きな人物だった。