あまりに天気がいいので、妻と外出することに。今日は上野。
東京国立博物館で開催中の「法然と浄土宗」展。法然による浄土宗の開宗850年。国宝、重文を含む文献、絵巻、仏像のオンパレード。詳しくは「図録」を読んでから。
上野の仲間地通りの蕎麦屋「蓮玉庵」で昼食。池波正太郎が通った店だ。上野の街も外人が多いが、この店はすいていた。まだ、人気作家が好んだそば屋までは情報が深まってはいないようだ。
この店の初代八十八が不忍の池の蓮を眺め、その葉の上にまろぶ玉のような露に因んでつけたのが店の名前である。「はちすはのにこりしまぬこころもてなにかはつゆをたまとあさむく」(古今和歌集の僧正遍照)
斎藤茂吉「池之端の蓮玉庵に吾も入りつ上野公園に行く道すがら」。そして鴎外「雁」、一葉、逍遥の文章にも登場する店だ。店頭の「石額」は久保田万太郎の筆。こういう「いわれ」を知ると、歴史の中に生きている感覚がするなあ。
「鈴本演芸場」。
昼の部のトリは「金馬」。夜の部のトリは「一之輔」。
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「名言との対話」5月17日。平賀淳「僕をヒマラヤに連れて行ってください」
平賀 淳(ひらが じゅん、1978年9月13日 -2022年5月17日 )は、日本の山岳カメラマン。享年43。
山梨県甲斐市出身。少年時代にカメラ撮影に目覚める。韮崎高校では山岳部で登山に熱中。日本映画学校で映像や写真を学ぶ。
2003年からの10年間は、ヒマラヤ山域を撮影した。この10年間の登山リストを眺めると、毎年凄まじい頻度で500mから600m級の山々に挑んでいることがわかる。2007年には野口健のエベレスト登山に帯同し登頂を果たす。「僕をヒマラヤに連れて行ってください」は、「野口健エベレスト清掃登山」にカメラマンとして参加を懇願したときに野口健に言った言葉だ。平賀は野口の弟分という存在となっていく。
世界50カ国以上の秘境や自然を舞台に撮影活動を行った。その成果は主にテレビ番組で報道されている。2022年5月のアラスカで滑落死。野口健は「平賀さん、早く帰ってきてください」と語っている。
冒険、探検の分野の植村直己、星野道夫、長谷川恒夫、そして平賀淳も43歳の若さでの死である。角幡唯介は「冒険系表現者に43歳で死ぬ者が多いのは」、男の厄年としたうえで、「43歳が人生のある種の頂点を形成しているからだ」と述べている。
五大陸の最高峰登頂、犬ゾリによる単独北極点到達などを成し遂げた「不死身」といわれた植村直己の「植村直己冒険館」、「長い旅の途上」でヒグマに襲われて客死した星野道夫の企画展などを思いだした。
さて、43歳という年齢である。冒険家たちの精神と肉体の頂点という角幡の見立てには納得感がある。この年齢は彼らにとっての厄年で、頂点であり、下降に向かう出発点であるかもしれない。
山田風太郎『人間臨終図鑑Ⅰ』で43歳を引くと、植村直己以外には、滝田樗陰、若山牧水、直木三十五、西竹一、田宮二郎などが並んでいる。彼らのあげた業績は、それまでのものだったのかと驚く。
自分の場合の43歳はどういう時代だったのだろうか。会社の危機に際して設置された社長直轄組織で、早朝から深夜まで奮闘していた頃だ。精神的、肉体的な頂点の時代だったから乗り切れた感じもする。
思い返せば、その年齢で転職の誘いがあった。それからの30年は思いがけない新しい世界の光景を見ることができた。あのまま進んでいたら、クレバスに落ちていたかも知れない。そういう難しい年齢だったのだろう。
1978年生まれの平賀淳は、もし生きていたら、どういう生涯を送ることになっただろうか。見てみたい気がする。