京王線蘆花公園駅で降りて徒歩15分で蘆花公園に着く。蘆花は「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送った。蘆花が恒春園と名付けた自宅の後でが現在では公園になっていて、私鉄の駅の名前にまでなっている。兄の蘇峰の住居後も公園となっている。蘆花が植えたモウソウチクの林やクブギ、コナラなどの雑木林が紅葉で美しく、武蔵野の面影が残っている。この公園には、20年間住んだ徳富蘆花旧宅と蘆花記念館がある。蘆花記念館には、身辺具、小説などの作品、原稿、農工具などの遺品が並べられている。
徳富蘆花(1868−1927年)は、本名は健次郎。熊本県水俣の惣庄屋兼代官をつとめる名家に生まれた。5つ違いの兄が蘇峰(徳富猪一郎)である。少年期に京都同志社に学び、いったん熊本に戻った時期にキリスト教に入信する。後に同志社に復学したが、新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、上京する。兄蘇峰の経営する出版社・思想結社、民友社に加わる。同社の「国民新聞」「国民之友」などに原稿を寄せ、1898年(33歳)に書いた代表作の不如帰(ほととぎす)は、実に50万部の大ベストセラーとなり一世を風靡した。この本は、大山巌の長女信子とその嫁ぎ先との不和を題材としたもので当時の人々の共感を呼んだ。
日清戦争を契機に、蘇峰が平民主義的な立場から国家主義へと思想的立場を転じていく中での思想対立があり、1903(明治36)年には民友社を去り、自費出版した「黒潮」の巻頭に、兄との決別を告げる「告別の辞」を掲げる。その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験する。
パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問などを経て世田谷の粕谷で半農生活に入る。1906年(39歳)にはトルストイ邸には5日間滞在し、農業生活をすすめられている。晩年のトルストイと一緒に馬車に乗った貴重な写真も見ることができる。トルストイから「君は農業をして生活できないか」と助言を受けている。「世を照らす光はこれと人知るや 翁が窓のともし火のかげ」との歌も詠んでいる。
1911年には一高(新渡戸稲造校長)において「謀反論」を講演し、物議をかもす。そして1919(52歳)年には愛子夫人を伴い世界一周の旅にも出ている。
1911年の一高弁論部の河合栄次郎・河上丈太郎らの要請で行った演説「謀反論」の資料をみると、「幸徳君(幸徳秋水)らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。、、、」から始まっている。そして「新しきものは常に謀反である」との言葉が続いている。この講演は大きな問題となり、校長の新渡戸らは処分を受けている。
「人間は書物のみでは悪魔に
労働のみでは獣になる」
ベストセラー作家、文豪という名声が負担になって、納得のいく作品を書くこと、自分にしか書けないものを探し回った。「トルストイは30代で『戦争と平和』を書いた。おれは50代でやっとおれのモニュメンタルワーク(金字塔)に着手しようとしている」
蘆花は1927年に永眠しているが、療養先の伊香保において絶縁していた蘇峰と対面し、和解する。そしてその夜に永眠する。享年は数えで60歳、満58歳だった。兄蘇峰は95歳までの長寿を全うしたのに比べるといかにも若い死である。
この蘆花記念館でも、資料らしきものは売っていない。わずかに、蘆花恒春園の絵葉書、「急がじな楽しみ積まむ父の秘す いのちの書(聖書のこと)を日に一葉づつ」という短歌、そして「天皇陛下に願ひ奉る」と題した幸徳秋水らの大逆事件の首謀者とされた12名の助命を嘆願した書を売っているのみである。