山梨の旅・初日は山梨県立文学館の「金子兜太」展ーー戦い続けた99年の生涯

山梨の山梨県立文学館の「金子兜太展 しかし日暮れを急がない」を訪問。


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俳人金子兜太の生い立ちから、前衛俳句の数々、ライバルたちとの交流など、99年の生涯の軌跡がわかる実に興味深い展示だった。

俳人でもあった教育者の父の影響。少年時代の医学者をめざす野心。桑原武夫の第二芸術論などで危機に瀕した短詩界で、短歌の岡井隆との同志的な戦い。同世代のライバルであり伝統俳句の旗手。飯田龍太との交流がわかるてがみのやり取り。朝日俳壇選者に選ばれた時に大喜びする日記。書斎の様子。俳人歌人たちからのメッセージ、、、、

詳しくは図録をみながら別途詳しく書くことにする。

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山梨県立博物館の「奈良大和道のみほとけ」展(妻のリクエスト)を訪問。


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奈良の仏とそれに感動した文士たちの言葉で追体験できる展覧会。

亀井勝一郎和辻哲郎会津八一らの言葉も興味深かった。

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石和温泉の「喜仙」に宿泊。

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「名言との対話」11月20日北の湖「強くならなくても人間は頑張るのが当たり前、人間誰でも頑張るのが一番」

北の湖 敏満 (きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - 2015年11月20日)は、北海道有珠郡壮瞥町出身の大相撲力士。第55代横綱。享年62。

 湖という字は「うみ」とも読む。「北の湖」という素敵な四股名は、故郷・北海道の洞爺湖に因んでいる。

中学1年生で美保ヶ関部屋に入門に、怪童と呼ばれる。新入幕、横綱など数々の最年少記録を打ち立てた。関取8勝、大関10勝、横綱12勝が責任と考えていた。今でも大関貴景勝が10番がノルマと言っているから相撲界の常識となっているのだろう。

強すぎて憎らしいともいわれた。そして負けた相手に手を貸さない姿もそれに拍車をかけた。引退後の北の湖は「負けてみじめな思いをしているのに、手まで貸したらもっと嫌な思いをするでしょう」と心境を語っている。子どもが好きなものとして「巨人・大鵬・たまご焼き」という言葉はよく知られているが、嫌いなものとし「江川・ピーマン。北の湖」というのもある。

横綱輪島と築いた「輪湖時代」はよくテレビで千秋楽の熱戦を楽しんだものだ。ライバル決戦は、トータルでは北の湖の21勝23敗である。北の湖は輪島を「壁のような存在」「あの人がいたから私は頑張れた」と言い、輪島は「永遠のライバル」と返している。横綱時代は、関脇のつもりで周りに接し、大関にあがるころのように稽古に励んだ。

この点は稽古嫌いの輪島と対照的だ。偉大な横綱ではなく立派な横綱になろうとした北の湖横綱在位63場所は白鵬に破られるまで歴代一位だった。24回の優勝をかざり、日本相撲協会から、20回以上の優勝を重ねた大横綱に贈られる一代年寄となり、「北の湖部屋」を興した。

 日本相撲協会では引退の2年後に審判委員に抜擢され、1988年には監事 として審判部副部長、1996年には理事に昇格。1998年には事業部長、2002年に第9代理事長へ就任した。田中角栄首相と同じく「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたほど頭脳明晰で、現役時代の自身の取組の内容は全て完全に記憶していたというから、相撲界では貴重な存在だったのであろう。

辞任後、後任の武蔵川理事長、放駒理事長を一理事として支え。2012年には史上初の理事長再登板を果たす。「残りの相撲人生をかける覚悟です」と語った。そしてそのとおりに理事長現役のまま62歳で死去している。後任は八角理事長だ。北の湖理事長は、土俵の充実を掲げ、稽古、鍛錬を力士に要求した。また日本相撲協会の公益財団法人に移行させたという功績もある。墓所の川崎大師には境内に銅像がある。

 「勝つためには、とにかく前に一歩でもでる」「強くならなくても人間は頑張るのが当たり前、人間誰でも頑張るのが一番」が信条だった。「終わったら、いつまでもクヨクヨしていても始まらない」。負けた勝負のことはクヨクヨ考えずにすぐに忘れて、次に向かって前に進んでいく。それが北の湖の強みだった。現役時代は横綱、引退後は日本相撲協会の理事長を2度つとめた。栃錦若乃花と同様に、二つの頂点を文句なしの成績で担った功労者だった。実力と人望をともに備えた人だった。信条持つことの大事さと、それを貫くことのみごとさを教えてくれる「ガンバリズム」の人である。