兄・徳富蘇峰からみた弟・徳富蘆花

徳富蘇峰と弟徳富蘆花は5才違いの兄弟であるが、蘇峰が「予は一家に於いて、恩愛の中心であるよりも、むしろ尊重の中心であり、蘆花弟は尊重の中心であるよりも、むしろ鐘愛の中心であった。」と述べているように、年齢差以上の意識の違いがあったようだ。天才と同時に問題も抱えた「難物」である弟を、兄蘇峰は冷静に、しかも愛情を持って見まもっていたように感じる。

私にも弟がいるが、蘇峰と蘆花に関する本を読むと、常に兄蘇峰の側に立ってしまう。石原慎太郎が二つ違いの弟裕次郎のことを書いた「弟」」を読んだときも同じような気持ちになった。「蘆花弟は一般人よりも、より多く多情多恨の性格の持主であった」と述べた蘇峰は自身が見た実例をあげているが、その蘇峰も同じような性癖を自覚していたがゆえに、自らを励まして剛健不屈の生活をしようと心がけた。

「弟 徳富蘆花」(中央公論社)より

  • 予は、彼に向かって如何なる貢献をなしたか、自ら之を審にする事は出来ない。併し順縁にも逆縁にも、彼の兄貴として兄貴たる丈の役目を自ら尽し得たといふ事を喜んで居る。
  • 彼は嘗て人に向かって、「兄貴は日本国民史を書くが、予は兄貴以上に重大なる人間の記録を書く」と言った。
  • 蘆花夫人は予に向かって嘗て、「我夫は非常なる兄様思ひである」と言うたが、予は素直に之を肯定するものである。同時に予も亦同様である事を今ここに告白して置く。
  • 私は私が人心付いてから今日に至るまで、弟に対する感じと言ふものは毛頭変わりませぬ。
  • 是まで私の書いた著作の中に、弟の悪口などと言ふ様な事は、一言半句も書いた覚へは無いのであります。
  • 此間は我等の兄弟は、僅に二里位の距離を隔てたる青山と千歳村に住みつつ、一切没交渉で過ぎた事は、余儀なき行きがかりであったとしても、予としては遺憾であった。
  • 殊に予が妻は平生かかることを容易に口にせぬに拘わらず、其時は我弟に向かって、「日本一の善き弟である:と言うたが、病人は「いや、日本一の善き兄貴である」と言った。
  • 併し病人も其病が結局落着く所を自覚したと見えて、「後は宜しく頼む」と言ったから、予は「左様の事は一切心配するな」と言った。

徳富蘇峰日記」の蘇峰の年表を眺める。
56才「近世日本国民史」1巻「織田氏時代前編」を刊行。以後毎年数巻づつ刊行し、敗戦の年以降若干の途切れはあるものの、90才においてついに「近世日本国民史」100巻を完成する。その執念の源を探りたい。