教育--嘉納治五郎、田中角栄、大野清吉

先日、祖父・大野清吉(1886年生)が校長を務めていた旧制・大田原中学(現・大田原高校)と旧制・真岡中学校(現・真岡高校)を訪問して感じたことがある。それは明治時代以降、教育の分野に国が大いに力を入れていたことである。
祖父は東京高等師範を出ていくつもの中学校の校長を歴任し、59歳で中国・青島の日本人中学校の校長として修身の講義中に脳溢血に倒れ、59歳で亡くなっている。その青島の中学校は今では大学になっているが、そこを母と訪ねた時、事情を話すとその講堂を見せてくれて祖父が最後に授業を行った席に座った感慨にふけったことを思いだす。

(中央、軍人の隣)
以下、大野清吉が真岡高校史に残している言葉。

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 学校は精神上の故郷である。(中略)多くの教師や、多数の同窓と切磋琢磨した学校は、又偉大な感化を吾等に与へ、惹いては生涯吾等の心を支配するに至るのである。
 されば善良なる校風の下に教育された者と、然らざる者とは、其の一生を通じて幸不幸の懸隔は果たしていかばかりであろうか。(中略)故に健全なる校風の確立は、学校関係者の第一の義務であり、且つりそうであらねばならぬ。
 (良き校風の確立のために)更に肝心なのは生徒各自の心掛けである。如何に歴史が燦然と輝いてゐても、如何に教師が諄々とといても(?)、生徒自らに自覚がなく、校風発揚の意志が無かったならば、それは呵惜(あたら)無意義なものとなってしまふのである。然も校風は学校といふ協同生活の所産であるから、生徒各自は一致協力して校風の振興に努力を積まねばならないのである。

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この東京高師は、1886年に日本最初の中等教員養成機関高等師範学校として設立され、1902年に東京高等師範学校に改称された。戦前においては広島高師と並んで中等教育界に大きな影響力があった。その指導者は長期に亘り校長をつとめた嘉納治五郎であり、その薫陶は学生スポーツ揺籃の場になった。
聞くところによると、修業年限3年の間、月謝はかからず、このため貧しい家の子でも秀才であれば通えるという仕組みだった。旧制高校から大学という道以外にこういう道もあったのである。資源のない日本を興隆させるためには人材育成することが急務だという国家の要請があった。

嘉納治五郎(1860-1938年)は、講道館柔道の創始者として知られているが、その生涯は教育者としての一生でもあった。日本最初のオリンピック委員の嘉納は東京オリンピック大会招致に成功し、帰国途上氷川丸船中で逝去している。

  • 自分は若いとき大学(東大文科)を出て、総理大臣になろうかと考えた。しかし総理大臣になても千万長者になっても、たかのしれたものではないか。男一匹かけがえのない生涯をささげて悔いのなきものは、教育において他に考えられない、という結論に達して教育に向かった。
  • 教育のこと、天下にこれより偉いなるはなし。一人の徳教、広人万人に加わり、一世の化育、遠く百世に及ぶ。教育のこと、天下これより楽しきはなし。英才を陶鋳して兼ねて天下を善くす。その身、亡ぶといえども余薫とこしえに存す。(原漢文)

田中角栄首相は、1972年に54歳で政権をとった時、後藤田官房副長官に「小学校の教師の給料を10倍にする案をすぐに作れ」と指示第一号を出した。
相沢英之大蔵省主計局長には、「学校教育で一番大切なのは大学でなく義務教育だよ。小中学校にいい先生を集める。それには月給を高くしなければならない。一般公務員よりも3割高くしろ」と厳命し、年1割づつの3か年計画で実施している。
確かに県にも一般公務員の給与表と教育公務員の給与表があり、教育公務員の方が高かったのはその影響だろうか。
「小学校の先生が白紙の子どもを教えるのだからな」と日頃も語っていた。

教育界にいるものとして、心したい先達の言葉である。