「名言との対話」12月08日。諸橋轍次。
「無理をしない」
諸橋轍次(1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学および都留文科大学の(四年制大学としての)初代学長。三男の諸橋晋六は静嘉堂文庫理事長のほか三菱商事社長・会長も務めた。
諸橋は小学校の代用教員、師範学校、そして帝大に次ぐと言われていた東京高等師範学校(嘉納治五郎校長)国語漢文科に入学し漢文を学んだ。群馬県師範の教諭から高師付属中学で教鞭をとる。その時に「もともと自分は気のきかぬいなか者だ。いそこれからは地金を出して真裸でいこう」と決心する。27歳から35歳まで思い出深い教師生活をおくる。37歳、諸橋は文部省から2年間の中国留学を命ぜられる。経費は岩崎小弥太や渋沢栄一が面倒をみている。帰国後は、岩崎から静嘉堂文庫長を委嘱される。そして東京高師、国学院大学講師になり、5年後には大東文化学院教授、駒沢大学講師を兼任する。
「大漢和辞典」は1955年第一巻が配本、5年後に最終の第13巻総索引が刊行された。開始以来35年の歳月と、のべ25万8千人の労力と、9億円(時価換算)の巨費を投じた近代有数の大出版であった。諸橋は1944年の朝日文化賞、1955年の紫綬褒章、1965年の文化勲章、勲一等瑞宝章。大修館の鈴木一平は1957年に菊池寛賞、勲四等瑞宝章などを受賞。この大プロジェクトへの高い評価をうかがうことができる。
三浦しをん「舟を編む」という小説を読んだ。映画も観た。15年の歳月をかけて「大渡海」という辞書が完成したとき、壮大なプロジェクトを一緒に戦った仲間たちは、「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と振り返る。素晴らしい物語だった。辞書の編集という一大事業の苦難と栄光を垣間見ることができる。
さて冒頭の「無理をしない」である。このような事業は無理をしないと完成までにはこぎ着けないのではないかと思うが、さに非ず。辞書の編集という事業は根気と体力を要する仕事であり、諸橋自身も肺炎、肋膜炎、百日咳、白内障、そして失明同然になっていく。そういう健康状態の中で、使命感にかられながらも、無理をしないで長期戦、持久戦でライフワークに挑んだのである。99歳という長寿はそれが正しかったことをうかがわせる。
「副学長日誌・志塾の風161208」
- その子先生・渡辺先生の授業の講師で見えた三越・伊勢丹ホールディングズの大西洋社長(渡辺客員教授の友達)の講義を聴く。「リーダーはイノベーションを起こせる人」「私にやらせて下さいといえる人は偉くなる」「手を挙げて仕事をすると志が高くなる」「美容と健康」、、、。終了後、名刺交換と歓談。謙虚な人柄にも感銘を受けた。
- 渡辺先生・その子先生と打ち合わせ
- 金先生
- 十市先生
- 事務局との定例会議:宮地局長、川手課長、水嶋課長。
- 入試の添田さん:「志」入試センター会議の議事録修正
- 梅澤先生のゼミ生だった大熊啓朗君(美作市地域起こし協力隊)に紹介される。
- 奥山先生
- 学長報告:改革総合の結果。入試・就職状況。フットサル。河村先生。JAL、、、。
- リレー講座「EU離脱とトランプ」「民主主義は資本主義をコントロール出来るのか」「「エスタブリッシュメントへの拒絶感と格差と貧困への苛立ち」「「グローバル金融資本主義の横暴と圧力」「17世紀オランダ論」「科学技術革命」「コスモス(宇宙観)の崩壊(印刷技術・宗教革命)」「魔女狩り(長い尺度で歴史を見よ)」「デカルトからAIまで(目的合理性と課題設定力)」
- 飯田先生:古本
- 金、趙、大森映先生と歓談
- 杉田先生