「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展ーー忘れられた花鳥画の大家の出現という事件

上野の東京芸大美術館で「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥画」展。これほどの画家が忘れられていたのは驚きでした。本人は文展などには出展せずに、注文に応じた作品を描いていたことが、その原因でした。

渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画-

1852年生。1866年、 16歳で歴史画家の菊池容斎(1788-1878年)に入門。3年間の修行時代は文字を書く練習のみで、「自然をよく観察し記憶し写生せよ」といわれた。

起立工商会社に入り輸出工芸品の下図、図案制作に従事。1787年のパリ万博でパリに。美術商の林忠正に先導されて、日本の画家や、印象派の画家との交遊。エドーガー・ドガは省亭の絵を生涯手もとにおいた。

30代から40代は、挿絵、口絵、そして「美術世界」「省亭花鳥画譜」など、多色摺木版本にかかわった。1889年のパリ万博、1890年の内国勧業博、1893年のシカゴ・コロンブス世界博にも出品している。「牡丹に蝶の図」、「龍頭観音」、「七美人之図」。「塩治高貞妻浴後図」、「小松曳」などが印象に残った。絹に薄ぬりで描く作品は素晴らしい。

波川惣助(1847-1920年)との無線七宝の共同開発はパリからの帰国後に開始されている。360種類の釉薬を使い複雑な色合いを実現した無線七宝の原画は省亭だった。迎賓館赤坂離宮で30枚の「七宝絵画」をみることができる。

忘れられた画家である。1898年に創設された日本美術院には参加を辞退し、それ以降は競争の場には出品しなくなった。画壇政治に巻き込まれるのを避けた。四季折々に床の間を飾る省亭の花鳥画後藤象二郎など当時の大物が愛した。海外では横山大観竹内栖鳳以上に馴染みがある近代日本画家だった。

花鳥風月と並んで江戸情緒を描く画家でもあった。「四季江戸名所では、春の上野清花、夏の不忍池蓮、秋の瀧の川の楓、冬の墨堤の雪で、景色と人物を描いている。

小説の挿絵・口絵も画業の重要なジャンルだ。山田美妙、坪内逍遥尾崎紅葉、らと仕事をした。山田美妙の著では裸婦を描いて注目された。また雑誌「美術世界」でも活躍した。40代以降は二つの家庭を往復する二重生活を送っている。

68歳まで、市井の画家を貫いた。これほどの花鳥画の大家が知られていないには不思議だ。商業美術として軽んじられたことと、欲しい人にのみ描いたからだからだが、この初の企画展を機会に、名が高まることを確信した。 

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14日の「名言との対話」では岡田良雄をとりあげた。

今日の収穫

魯迅の名言を拾う。

魯迅「墨で書かれたタワごとは血で書かれた事実を隠しきれない」

・もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

・自己満足しない人間の多くは永遠に前進し、永遠に希望を持つ。

・目的はただ一つしかない。それは前進すること。

・うしろをふり向く必要はない。あなたの前には、いくらでも道があるのだから。

・天才なんていない。僕は他人が休んでいる時間も仕事をしていただけだ。

 

松尾雄治「何でも練習すれば絶対にうまくなる」

・「まん延を見届けてから防止措置」(東京新聞の川柳)

・見合い、恋愛、なれ合い。

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「名言との対話」4月17日。藤城清治「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」

 藤城 清治(ふじしろ せいじ、1924年大正13年〉4月17日 - )は日本の影絵作家。

師の一人である「暮しの手帖」の花森安治から「影絵は、光と影、自然と人間、絵画とカメラなどのコラボによる新しい時代の美術」だといわれ、舞台を与えられ、大活躍する。その結果、1996年には長野県白樺湖に影絵美術館、1998年には北海道生田厚町に影絵美術館が誕生している。

そして2012年には名前を冠した美術館が那須高原に誕生している。2014年に訪問したのだが、素晴らしい美術館で、おそらく那須リゾートの名物となっていくだろう。1924年生まれの影絵画家は当時は美術館が開館した当時は89歳だった。「ぼくも今年で90歳になる。今の僕なら、賢治童話と四つに組んでも真正面から勝負できるような気がした。「風の又三郎」に全身全霊を打ち込んで作れば、いままでにない、新しい影絵作品が出来るかもしれない」と。宮沢賢治の世界に取り組んだ「ぼくの影絵は賢治童話の中で触発され、進化していった」。

「僕の影絵はモノクロの時代に培った構成や細密さ、形にあくまでもこだわりますから、カチッとした電気の光源で照らしたほうが活きる。そこへ光の色を重ねるわけです」

「影絵は、光と影の祈りの芸術」であるとし、影絵という武器で、童話、神話、自然、寺院、聖書、震災、、、などあらゆるものをどん欲に表現していく。影絵というキーワードで進化と深化を重ねていく姿に感銘を受けた。表現者は、自分独自の武器で世界と歴史、そして生命と宇宙を表現しようとする、と改めて思った。この美術館を訪ねた折に、「はだか木も 影絵のごとき 美術館」(吐鳳)という句ができた。 

2016年には、山梨県の昇仙峡を訪ねた折に、昇仙峡にある影絵の森美術館を発見した。藤城清治は1948年に花森安治から「暮らしの手帖」に影絵の連載を依頼されのがデビューとなった。この美術館は1992年に開館しているが、まだ藤城が有名ではない時期なので藤城清治の名前はついていない。そこでは山下清の企画展をやっていた。旅先ではスケッチはしない。帰って記憶をもとに描いた。43歳から東海道五十三次の取材を始めた。49歳で没。

キリスト教旧約聖書『創世紀』は世界の創造を描いている。その壮大な世界には、ハイドンが音楽で、白川義員が写真で挑戦している。「光と影による聖書画こそ、今日にふさわしい聖書画であり、歴史的に見ても影絵は聖書画に最も適した技法であると信じたからです」と語っている藤城は自らが開発した「影絵」という武器で11年の歳月をかけて完成している。アダムとイブ、カイントアベルノアの方舟バベルの塔など33の作品が那須の美術館におさめられている。表現者は、「日本」に向かった場合は、最後は「古事記」などに、そして「世界」に向かった場合は「天地創造」に向かうような気がする。

那須高原にぼくの美術館ができる。それは若い頃から、ずっと持ち続けていた夢だった。その夢が夢でなく、ほんとに実現して、こんなうれしいことはない」と喜びを語っている。しかし、同時に「誰もぼくを叱る人はいない。おこる人もいない。、、、自分で好きなように都合のいいようにしてしまえば、それですんでしまう。ぼくが恐れて いるのもそのことだ」との言葉もあった。89歳の藤城はすでに大御所となって、また老境でもあり、誰も意見をしてくれなくなったことを嘆いていた。だが仕事を続けるために、毎日2時間の散歩を課していて、自宅から駒沢オリンピック公園まで往復1時間半をのウオーキングを課していたように、本人は意欲満々であったことが印象に残っている。その藤城も本日で97歳を迎えた。異次元の高齢化の時代に、生涯にわたって進化を続けようと志す人にとって、藤城清治の心構えは大きな励ましになる。