加山又造ーー「世界性に立脚した日本絵画の創造」。「倣北宋墨山水雪風景」、「雪月花」、「猫」。

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 今週、多摩美術大学美術館の「タマビ DNA 現代日本画の系譜」をみた。「多摩美」の源流をつくった加山又造について記します。

加山又造日本画科、版画家。1927年生まれ。多摩美には7000点の索引と資料のあるアーカイブがある。この企画展では、加山の「倣北宋墨山水雪風景」、「雪月花」、「猫」の3点をみました。多摩美大教授、東京芸大教授を歴任した。

日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。2004年に76歳と画家にしては比較的早く亡くなっている。その前年には文化勲章を受章している。

加山は平面的装飾的な画面で構成される日本画に、ピカソなどが提唱したキュビズムなど西洋絵画の手法を加えた新しい日本画を目指した。華やかで優美ではあるが、どこか近代的な命も持っている、そういう絵である。

「伝統と革新」は加山の生涯のテーマだった。日本には「倣」(ほう)という考え方がある。これは単なる写生ではなく、本質を取り出し、それを制作の目標とする積極的な芸術行為である。「倣北宋墨山水雪風景」はその傑作だ。

加山は「飛行機の室内装飾」を手がけている。1968年(昭和43年)、加山41歳の時に、日本航空の依嘱によりボーイング747LRの機内コート、クロゼット、壁画面に「銀河の図」「「日輪草花図」などを制作した。よく見かけた機内の壁の絵は加山又造の作品だったのだ。

「日本独自の何かをつくってみようとね。できなければ、その芽だけでもつくっておいてやろうと思う」と語っている言葉は、生涯のテーマの源を示している。日本独自の何か、とは加山又造のいう「世界性に立脚した日本絵画の創造」であろう。

参考:『加山又造 アトリエの記憶3』(多摩美術大学美術館)

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NHKラジオ。ユーチューブ。

下中弥三郎インタビュー:自国中心ではない世界大百科事典完成の翌年に死去。著者中心から出版社中心の企画へ転換。編集には自由がありそれが面白さ。世界連邦。アジア会議。平和7人委員会。国民百科事典7巻はベストセラー。世界国家、民族、、共存自治。偏らない、囚われない。人に後ろ指をさされない生き方を母から学ぶ。母の教え一筋。

磯田道史波頭亮の対談:100年前のスペイン風邪島村抱月、マックス・ウエーバーが罹患死。アメリカのウイルソンもか。

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宮城大学で私のゼミ(顧客満足ゼミ)のゼミ生だった菅原正之君が日経新聞の「新社長」欄に出ていました。丸東産業の社長になっている。久光製薬に入社し、宮城のどこかで講演した折に、MRとして大活躍していると父親から消息を聞いたことがあります。2003年卒で40歳、顏写真も出ていました。おめでとう!

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「名言との対話」4月16日。団鬼六「運命は性格の中にある」

団 鬼六(だん おにろく、1931年4月16日(戸籍上は9月1日)- 2011年5月6日)は、日本小説家脚本家演出家エッセイスト・映画プロデューサー・出版人。

滋賀県彦根市生まれ。関西学院大学法学部卒業。1957年「親子丼」で文藝春秋オール読物新人賞に入選。バーを経営したり、教師をしたりしたが、60年代『花と蛇』が人気を博し、官能小説の第一人者となる。

一時断筆していたが、1995年に『真剣師 小池重明』で復活。『花と蛇』『肉の顔役』『夕顔夫人』『鬼ゆり峠』『肉体の賭け』『美少年』『不貞の季節』 などの官能小説をはじめ、『真剣師 小池重明』『蛇のみちは』『悦楽王』『往きて還らず』『落日の譜ー雁金準一物語』などの文学作品を多く手掛けた。
エッセイの名手としても知られ、『牛丼屋にて』『死んでたまるか』『快楽なくして何が人生』『生きかた下手』『我、老いてなお快楽を求めん』『愛人犬アリス』『手術は、しません』など多数ある。

アマ将棋連盟が投げ出した『将棋ジャーナル』を買い取り、将棋界と深くかかわり、その縁で50歳前の米長邦雄と懇意になる。50歳で名人位に就いた棋士米長邦雄をテーマとして団鬼六米長邦雄の運と謎』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んだ。

「異常小説を主眼にした異質の軟派小説を書いていて、この種のマニアからは暗黒文学の帝王などといわれていた」と自らを語る。

この本のテーマは「運命と性格」である。米長は常に「勝利の女神は謙虚と笑いを好みます」と語る。さわやか流女神教とでも呼ぶべき米長教の信者となった団鬼六が、この言葉の意味を追いかけた本ともいえる。

「謙虚」とは謙遜することではない。無邪気の上に成り立つ謙虚さである。私が知っている言葉では「素心」を持っているということだろうか。「野心も私心もない。あるのは素心だけ」と評された石田礼助と同様に米長は「卑」を嫌った。小林陽太郎にも「素心深考」という言葉がある。素直な心で、しっかり考えよ、という意味だ。また「菜根譚には、「人と作るには一点の素心が存することを要す。人と交わるには須く三分の侠気を帯ぶべし」とある。素直な心、それを素心というのではないか。一点の素心を持つ人とは、ものごとから目ををそらさない、逃げない。そして真正面から向き合う姿勢を持つ謙虚な人のことだろう。渥美清立川談志は、無邪気の上に成り立った謙虚な人であると団鬼六はいう。

「笑い」とは、ユーモアを持つということだが、滑稽さも含んでいるのではないか。周囲に笑いが渦巻く人である。その明るさを運命の女神が好きになる。

米長は6度名人位に挑戦するも夢を果たせなかったのだが、悔しさはなかった。「細部にとらわれず、全体を見る」という姿勢を米長は持っていた。時世、時流をみている人だった。敗れ続けた間、米長は名人となる運気に恵まれなかったと解釈し、時機の到来を待ち、50歳で念願の名人位を獲得する。

 米長邦雄『人間における勝負の研究』は名著だった。ユーチューブでも米長のインタビューを最近も聴いて、感銘を受けている。

「人はその人にふさわしい事件にしか出会わない」という小林秀雄の言葉を見つけて膝を打ったことがある。つまり、性格が事件を呼ぶ。事件の積み重ねが運命につながっていく。 芥川龍之介も「運命は性格の中にある」「運命は偶然ではなく、必然である」と言っている。「勝利の女神は謙虚と笑いを好み、才能ではなく性格こそが運気を呼び込む」という米長の人生哲学に団鬼六は深く共感する。そのテーゼを米長は実力と運が複雑に絡みあう将棋というフィールドで追究していった人だ。団鬼六は随伴者として描いていく。

団鬼六という人を、主たるフィールドの本ではなく、この本で知ったことは幸運だったような気がする。「謙虚と笑い」を身に着けた性格は、運命の女神を引き寄せる。私も同感する。さわやか流を信奉していこう。

米長邦雄の運と謎―運命は性格の中にある