野田一夫先生のライフスタイルから学んだことーー研究開発型の仕事と「秘書」

野田一夫先生から学んだことの一つは、「秘書」である。

大学卒業後、まだ間もない20代だったと思うが、ある経済雑誌のカラーのグラビをページを見ていたら、経営学者の野田一夫という人が、女性秘書を7人くらい後ろに並べて、自分は椅子に座って、カカと笑っている異様な写真が目に入った。面白い人がいるもんだと興味を持った。

40代になって、野田先生から宮城大学に誘われて、1997年からそばで仕えた。ライフスタイル、仕事のやり方が参考になった。その一つが秘書であった。気がまわる素晴らしい学長秘書の存在は、学長の仕事を円滑にしていた。

先生に聞くと、アメリカから帰った30代から秘書を雇っていたとのことだった。私も何人か会ったが、全員が有能で美人だった。

大学教授になってみると、ビジネスマン時代と違って、部下がいないので、すべて自分で処理しなければならなくなった。私は先生にならって個人秘書をもとうかと考えた。2年目か3年目だったか、ゼミ長の力丸君の結婚相手のかすみさんにお願いすることになった。そのおかげで、ようやく教授生活がまわり始めた。

野田先生によると、「人に任せるのには、自分の仕事を分析できていなければならない」ということだった。仕事の中で、何を任せるのか、自分は何をするのか、それが明確でないとうまくいかないということである。結果的に苦手で、時間がとられる事務的な作業から解放された。私は得た時間とエネルギーを教育と研究と学内業務にあてることができた。

このやり方は、ビジネスマンの管理職時代のやり方と同じだった。新しいやり方を創り出し、ルーティン化できると部下に譲り、私は新たなフロンティアに挑んでいた。このやり方は、研究開発型の仕事のスタイルである。

個人秘書なので、費用は自分でねん出することになる。当初は苦しかったが、浮いた時間を活用して、県内だけでなく、新幹線で1時間半の東京にでることが多くなり、しだいに中央での仕事が増えてきて、費用をまかなえることになっていった。

自分にしかできないものに集中するように環境を整える。そのことが知的生産性を高めることになる。結果的に、2005年の『図で考える人は仕事ができる』をはじめ、大量の本を書くことができ、秘書と2人3脚で、ビジネス雑誌を中心にマスコミにたくさん出るようになった。

大学は教育に付随するさまざまの業務があり、研究費を使うのにも制約が多く、自由がきかない感がある。特に、県立大学であり、県の規則下の活動はわずらわしい。管理事務は秘書にお願いして、自分は新規事業の開発にあたるという構図がまわり始めた。学内にいなくても、コミュニケーションをとっていれば、自動的に仕事がすすんでいく、こういったスタイルで、研究開発型の仕事に没頭できたのである。

このやり方は、大学の中では私一人だった。その後、2代目の鈴木秘書、そして多摩大学に移っても、学部長、副学長という重要な役職を、秘書の近藤さんにずっと助けてもらってやり遂げることができた。大学を辞めても、個人秘書として今もリモートで一緒に仕事をこなしている。このやり方は、私の独特のスタイルになっている。そのおかげで、活発な活動が継続している。

それは野田先生のライフスタイルの影響である。野田先生からは、マスコミ対応を含め、多くのアドバイスをいただいたが、「秘書」を持つという秘策を学んだ。振り返ると、このことは非常に大きなことだったと改めて感じている。ありがたいことだ。

野田先生のイラストは、宮城大学顧客満足ゼミ(CSゼミ)の初代ゼミ長の力丸萌樹君の素晴らしい作品。きびしく、やさしく、ユーモアがある、快男児・野田一夫先生の雰囲気が実によく描かれている。

 

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「名言との対話」9月19日。小畑勇二郎「亨けし命をうべないて」

小畑 勇二郎(おばた ゆうじろう、明治39年(1906年)9月19日 - 昭和57年(1982年)10月5日)は日本の政治家。

秋田県大館市出身。旧制秋田中学を卒業し、代用教員、故郷の役場の書記をつとめる。1939年、秋田県庁に入庁し、民生部長、総務部長。1951年、秋田市助役。1955年、秋田県知事。累積赤字の解消、八郎潟干拓、秋田経済大学(現・ノースアジア大学)の開学、老人医療の無償化など数々の業績をあげ、6期24年間知事をつとめた。

「人皆に美しき種子あり」「人よりもほんの少し多くの苦労 人よりもほんの少し多くの努力」「笑顔にまさる化粧なし」「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」「君にほれ 仕事にほれて 土地にほれ」「私は鬼になる」、、、、。

在任24年を「うぶすなの あめつち仰ぎ ひたぶるに 生きし日々 ありがときかな」とうたった。議会での最後の挨拶では「もろともに 尽くし尽くして まもとなん 秋田のあがたの つづくかぎりは」との歌を披露した。

2017年に大館を訪問し、田代の小畑勇二郎記念館で、この人の事績を追った。

秋田県知事を6期、24年つとめた小畑勇二郎を描いた「小畑勇二郎」小伝では、「信念と実行の人」であった小畑の人柄を次のように述べている。

名知事。人事の小幡。果断の人。無類の読書家。一流志向。、、、。

また、小畑の職場での垂訓や心構えも次のように紹介されている。

・今やらずして何日やる、俺がやらずして誰がやる(垂訓)

・おのれの立つところを深く掘れ、そきに必ず泉あらん

・何人も嫌な仕事を、何人が見ても正当に正しくやってのける私を見よ。

・私は鬼になる(機構改革と人員整理)

・善政は善教に及かず(孟子。生涯教育)

どんな仕事でも全身全霊でぶち当たる精神で、村役場の税金係を振り出しに、県知事までの仕事をやり遂げた人だ。秋田県知事退任後の1979年の73歳では、地方自治功労で勲一等瑞宝章を授与されている。瑞宝章とは積年の功労による。旭日は勲績のある人に贈る。勲一等瑞宝章は、現在では瑞宝大綬賞と改められている。

小畑の場合も、母シカが偉かったようだ。シカという名前は野口英世の母と同じ名前だ。「たよりにならない父だけど」と歌になっている野口と同じように、父・勇吉は俗にいう「山師」で、数々の事業に失敗して早世している。野口、小畑の場合も母・シカが偉かったのだ。

 息子の小畑伸一の小畑勇二郎伝「亨けし命をうべないて」(サンケイ新聞社)は、人間・小畑勇二郎の私的な実像を描いていて飽きさせない。伸一は新聞記者。

息子の観察によれば、ここぞという時にには、必ず誰か重要な人が現れて助けている。努力の積み上げもあるが、何か、非常に天運に恵まれている。強い星の下に生まれている。

勇二郎は読書家で、蔵書には必要な部分にはアンダーラインを引いていた。また、名小畑は名文家であった。「続・亨けし命をうべないて 県政覚え書き」では、自ら筆をとった「忘れ得ぬ人々」というタイトルで「水交通信」に連載した文章が載っている。亡くなった方の追想であるが、それぞれとの出会いやふれあいが、心のこもった達意の文章で語られている。重宗雄三、吉田季吉、蓮池公咲、、、など30人の人生とふれあいがわかる。

「人間の運命というものは判らんもんだ。ワシは、あの時、クビになったおかげで知事になったようなもんだ」と小学校の代用教員をクビになったときのことを勇二郎は述懐している。筆者は最後に一口にいって「一所懸命に生きている人」だと述べている。

勇二郎が色紙によく書いた「亨けし命をうべないて」は、すべてを天から授かった命運と思い、喜んで受諾し、全うすることにつとめるという意味である。うべなうとは、諾べなうである。積極的に喜んで受けるという気持ちを表している。

小畑勇二郎は、宿命を使命にかえて、一所懸命に生き切った人であると思う。その精神は「享けし命をうべないて」である。

 

 

参考。

小畑伸一の小畑勇二郎伝「亨けし命をうべないて」(サンケイ新聞社)

「続・亨けし命をうべないて 県政覚え書き」