「佐藤栄作」と「黒沢明」

「名言の暦」(2022年)を編集中。「佐藤栄作」と「黒沢明」を書き足す。

  • 佐藤栄作」の日の最後。、、、、、「 60歳を過ぎなければ、人の上にはたてない」、「内閣は解散するたびに求心力を増し、改造するたびに求心力が低下する」。これらの言葉も納得できるが、冒頭の言葉には大いに共感する。「議論をしましょう」という人が多いが、それではだめだ。私も職場では「議論より対策」ということをスローガンにして改革を進めてきた。問題を見つけ、原因をさぐり当て、一つずつ有効な対策を打ち、新らしい平衡状態をつくりだす。次の問題が起これば解決し次の高い平衡状態にたどり着く。平凡だが、このスパイラルを切らさないことが組織の成長の源であると思う。日記を読んで、佐藤栄作という人物への印象を変えることになった。
  • 黒沢明」の日の最後。、、、、「サラサラとしたお茶漬けでなくて、お客にたっぷりとしたご馳走を食べさせたい。ビフテキの上にバターを塗って、その上に蒲焼を載せるような、誰も食べたことのないようなご馳走をね」は、「俺は豆腐屋だ。がんもどきや油揚げは作るが、西洋料理は作らないよ。」と言った1903年生まれのローアングルの小津安二郎監督とは対象的な作風だった。「世界のクロサワ」と呼ばれた名監督の心意気が伝わる言葉である。映画監督という職業にも、その人の性格が如実に出るのだ。日本の映画監督の中で世界の評価では常に3人に名前があがる。溝口監督と、黒沢と小津である。西洋料理派と日本料理派と対照的なのが興味深い。

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「事業構想」について、事業構想大学院大学の松行教授、デジタルファシリテーション研究所の田原代表と1時間の濃い議論。2回目。以下、キーワード。

ソーシャルサイエンス。アクション・リサーチ。関係学。不易と流行。リベラル・アーツ。術と道。因果。歴史と地理。主体者と研究者。アプローチ。合意術。武器。方法。人。属人的。一業。鳥瞰。

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「名言との対話」5月16日。北村透谷「恋愛は人世の秘鑰なり。恋愛ありて後人世あり

北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日明治元年11月16日〉- 1894年明治27年〉5月16日)は、日本評論家詩人。享年25。

神奈川県小田原市出身。1883年に東京専門学校(早稲田大学)政治科に入学。1887年にキリスト教の洗礼を受ける。1888年自由民権運動家・石坂昌孝の長女ミナと結婚。1891年、新渡戸稲造坪内逍遥と出会う。

1892年『女学雑誌』に「厭世詩家と女性」を発表。日本平和会の機関誌『平和』の創刊編集者・主義津となる。この時、4つ年下の島崎藤村と知り合い、影響を与えた。

1893年、『文学界』に「人生に相渉るとは何の謂いぞ」を発表。山路愛山徳富蘇峰との論争になる。日清戦争前夜の時勢の中で精神に変調をきたす。評論『エマルソン』を脱稿後、自殺未遂。1894年、自宅の庭で自殺。

島崎藤村『北村透谷の短き一生』では、不羈磊落さは父から、神経質と功名心は母から受け継いだとみている。そしてあるテーマを定めると、何度も考え抜いて、作物の味が深くなっていくという感じがすると言っている。そして死ぬ3、4年あたりから急に光ってきたという。テーマを才能のままに移っていくというタイプではなく、あたためながらじっくりと育てていき、それをまとめるというやり方であろう。

『北村透谷詩集』を読むと、まるで藤村の詩集を読んでいるような気がする。「地龍子」は、「行脚の草鞋紐ゆるみぬ。胸にまつはる悲しの恋も 思ひ疲るるままに衰へぬ。と見れば思ひまうけぬところに 目新しき花の園。、、、」。透谷は藤村を育てたのだ。

『厭世詩家と女性』を読む。「恋愛は人世の秘鑰なり」から始まる。恋愛がなければ人生には色や味はない。詩人という怪物は多くは恋愛で罪業をこしらえる人だらけだ。しかし、恋愛経験を通したのちに、人生の奥義を入っていく。恋愛は各人の胸に一生消えることのない印を残すと書き、思想と恋愛、想世界と実世界などを論じる。恋愛は「己れ」を写し出す鏡という。

『北村透谷集』は、没後に島崎藤村が編んだものだ。「もろもろの学芸は実にライフを解釈するが為に成立す」。「われは花なき邦に生まれて富める人にならんよりも、花ある邦に生まれて貧しき世を送らん事を楽しむ」

この本のなかで、福沢諭吉中村正直(敬宇)の比較を論じていたのに興味を持った。『西洋事情』で一世を風靡した福沢は平穏なる大改革家である。しかしこれは外形の改革である。福沢は旧世界を嫌い、新世界に身を捧げた。一方、内面を扱う思想界では、中村正直がいる。彼は適用家、保守家である。儒教的思想をもってスマイルズ『自助論』から選び取った書を書いた。中村は旧世界と新世界の調和を保っていた、との評価をしている。透谷は「福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の尤も視易き標本なり」と結論している。

福沢は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から始まる『学問のすすめ』など、人間の内面をみがくことについても論陣をはり、前代未聞の大ベストセラーになっている。この書は福沢が故郷の中津に市学校を開くにあたり、旧友に示した小冊子を、5年にわたり書き継いだものだ。明治人の人心を啓発した名著であり、『西洋事情』が外形なら、『学問のすすめ』は、内面の生き方の啓蒙書である。透谷は「吾人は極めて疎略なる評論を以て此二偉人を去らんとす」と最後に書いている。

『厭世詩家と女性』の冒頭の「恋愛は人世の秘鑰ひやくなり、恋愛ありて後人世あり」の後には、「恋愛をき去りたらむには人生何の色味かあらむ、然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、如何いかなることわりぞ」と続く。ギヨオテ、バイロン、ミルトン、マルロー、エマルソン、ダンテ、そして露伴などの恋愛についての言説と実人生を縦横に論じている。最後は、「恋人の破綻はたんして相別れたるは、双方に永久の冬夜を賦与したるが如し」とバイロンは自白せり、と結んでいる。

これは23歳で書いた『厭世詩家と女性』という論考である。同時代の島崎藤村をはじめ、この後世に与えた影響力と存在の大きさと、わずか25年の生涯との対比には驚くほかはない。