知研読書会:「テーマ読書」をテーマに「戦後歴代総理編」(吉田茂から安倍晋三まで)16冊を解説。

知研読書会。私は「テーマ読書」として「戦後歴代総理編」を披露した。

吉田茂から、安倍晋三までの歴代総理の回顧録、自伝、伝記、日記、評論などを16冊紹介した。

 

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16時:ファシリテーターの玄道優子さんからインタビューを受ける。

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「名言との対話」5月26日。三浦環「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」

三浦 環(みうら たまき、1884年明治17年)2月22日 - 1946年昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。享年62。

東京都中央区生まれ。1903年東京音楽学校在学中、奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演を行う。卒業後、母校の助教授。1911年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。1913年、三浦政太郎と再婚。翌年5月渡欧し、ロンドンで演奏会を開き人気を博した。1915年、ロシアの名歌手ロージンとプッチーニ作曲『蝶々夫人』を歌い大好評を得る。その歌声は、作曲者のプッチーニ自身からに「わが夢」と激賛された。以後、欧米各国で20年間にきっちり2000回にわたり「蝶々さん」を演じた。

1935年帰国。翌年、2001回目の『蝶々夫人』演奏会を歌舞伎座で開催。以後、死去までの10年間は日本で演奏・教育活動を行う。三浦環は、「マダム・バタフライ」と称され、世界で知られたオペラ歌手であった。

三浦環が「蝶々さん」に扮した姿の銅像は、プッチーニ銅像とともに長崎市グラバー園に建っている。 2006年にグラバー邸を訪問した時に私もみている。

三浦環と親しい付き合いだった吉本明光の『三浦環のプロフィール』を読んだ。吉本の見立ては、見栄を飾らない、、直情径行、そして天真爛漫な人だった。

31歳から52歳の20年間、ヨーロッパとアメリカでプリマドンナ生活を送った完全な国際人である。72歳まで歌うと言っていたが、晩年には「生きているうちだけは歌をうたって、皆さんに楽しんで頂きたいと考えています」と語っていた。

死の間際に外国人牧師は「あなたは幸福ですか」と尋ねたところ、三浦は英語で「幸福です。私は天国へ参ります」と答えた。それは最後の成句だった。

三浦環という国際人は、戦時中の空襲なども経験している。そして「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」と喝破している。

三浦環が強く感じた日本人の内向きの性癖は、今も変わっていないようにみえる。