天台の教えの根本経典は「法華経」。中国の隋時代の天台大師智顗(538-597)大成。鑑真がこの経典をもたらし最澄は比叡山延暦寺を創建。さらなる研鑽を積むために中国にわたる。「法華経」は、悟りに至る門は法華の教えただ一つ、あらゆる道を歩んでも最後はみなすべて同じ門を通ってブッダ(覚者)になれると説く。
悟りを開くものは限られるという小乗戒の南都仏教に対し、生きとし生ける者すべてが救われると信じた最澄は大乗戒により授戒制度を新設しようとした。認められたのは亡くなる前日に遺言として届けられ、死後7日目に許しがでた。
良く行うは実践に秀でた者で「国用」、良く言うものは学識に優れた者で「国師」、学識と実践の両方に秀でた者を「国宝」と称した。
九州の山々で天台が広まり、神と仏が融合した独特な信仰と造形が生み出された。宇佐宮。弥勒寺。大楽寺。長安寺。両子寺。富貴寺。求菩提山。英彦山神宮。宝満山。筥崎宮。大興善寺。、、、。11世紀の宇佐宮の神宮寺である弥勒寺を中心に天台宗が広まる。国東半島が天台宗の一拠点となる。
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最澄(767-822)
「一燈照隅 万燈照国」(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)
平安時代の僧。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。6月4日、55歳で入寂。伝教法師。
超人的オーラを放ち日本最初の私学ともいうべき技芸を学ぶ学校を創設した空海と、大きな度量を持ち人を育ててきた最澄。この同時代の二人が日本仏教を高見に導いた。
空海は812年に胎蔵界・金剛界の両部の結縁灌頂を行っているが、そときの参加者名簿の筆頭は天台宗の最澄だった。最澄との交流は長く続く。「風信雲書」という書き出しから始まる「風信帖」と名付けられた空海から最澄への手紙も見ることができた。
空海は密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまった。最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗などの新仏教は最澄の比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。空海と最澄、それぞれの役割があった。
「国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を国の宝となす」。「私には私にしかできないことがあり、あなたにはあなたにしかできないことがある。」。「忘己利他」
一人ひとりが自分の身近の一隅を照らすことが大事である。その明かりは小さいかもしれないが、その一隅を照らす人が増えていき、それが万のあかりとなれば、国全体を照らすことが出来るのだ。最澄は何世代にもわたって人を育てた。一隅を照らす人を育てることは尊いことである。
最澄に関し、今まで収集した言葉。
- 最澄の「自利トハ利他ヲイフ」とする哲学。
- 最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗などの新仏教は比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。 これに対し空海は密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまったという説がある。
- 宗教家の没年齢という資料がある。イエス31歳。フランシスコ・ザビエル46歳。一遍50歳。道元53歳。カリヴァン55歳。最澄55歳。日蓮60歳、空海61歳。マホメット62歳。ルター63歳。孔子73歳。法然78歳。仏陀80歳。親鸞90歳。
- 「私には私にしかできないことがあり、あなたにはあなたにしかできないことがある」。
- 天才・空海。凡庸・最澄という見方もあるが、比叡山は多くの歴史的人物を輩出した。
- 国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を国の宝となす
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午前:南方熊楠研究会に参加。和歌山田辺からの南方顕彰館からの実況中継も。専門家の学者の講義。対話会。
:偶然。必然。縁。すい点。運命。縁起。人生。曼荼羅。関係。。
夜:深呼吸学部の授業に参加。B面。田中克人。村木厚子。田島良昭。アナログユニバース。デジタル宇宙。地下視聴室。屋根裏。新聞。フロナカ書店。カタチ。運動論。言葉。
:「全集」。文庫「テーマ別」「職業別」「人国記」「悠々」「記念館シリーズ」「プラン」、、。
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「名言との対話」10月30日。宮田雅之「気がついたことーー私は自分が完璧に良しとする作品をまだ一枚も切り上げていないこと、だからこれを続けていく事しか人生にないことーー」
宮田 雅之(みやた まさゆき、1926年10月30日 - 1997年1月5日)は、東京都出身の切り絵画家。
1963年谷崎潤一郎「雪後庵夜話」の挿絵を手掛け、挿絵画家としてデビュー。「鋭」と「艶」でかもし出す独自の切り絵を創り出す。「刀勢画」という独創の世界を確立する。サンパウロ美術館、リオデジャネイロ近代美術館他で個展を開催。1980年作品「日本のピエタ」をバチカン近代美術館に収める。この他四天王寺宝物館、トラピスト修道院他に作品が所蔵されている。1984年「谷崎源氏」54帖の切り絵を完成させた。
1994年国連協会世界連盟(WFUNA)から切り絵「赤富士」が国連50周年記念版画のデザインに選ばれ、日本人初の国連公式認定画家になる。1995年中国の北京中央工芸芸術学院客員教授。2000年中国・上海市に刀勢画・宮田雅之芸術記念庁がオープンした。
1枚の紙を1本の刀で切り出していく独特の刀勢画は、研ぎ澄まされた感性の上に躍動する刀の勢いが、大胆・鋭利、繊細・優美な線を織りなす。「切り絵」の概念を一変させた。
切り絵はもともと中国で考案され発展した芸術である。上海図書館内に「刀勢画・宮田雅之芸術記念庁」、中国美術学院内に「宮田雅之刀勢画研究室」が開設されるなど、本家中国においても第一人者として高く評価されている。
作品は国連、ホワイトハウス、バチカン美術館、中国国家迎賓館釣魚台など各国の主要施設に収蔵されている。特にブラジルにおいては、日伯移民70周年記念特別企画として、州立サンパウロ美術館をはじめ各地の美術館を巡り6ヶ月の長期に及ぶ個展を開催。「宮田雅之切り絵の世界・日本」は日系人の郷愁にふれる大きな反響を得た。
「別冊太陽」の『切り絵の世界』を手にした。「刺青」という谷崎潤一郎の挿絵は、背に巨大な女郎蜘蛛の文身(いれずみ)が書かれた悪女になった女を描いた。常に「谷崎先生はどう思うだろう。亡くなったという意識はない」という。尊敬する人の評価に耐えるかどうかを常に意識する。こういう感覚は、芸術家からも聞いたし、また尊敬する上司にも同じ感覚を覚えることがある。
川端康成「雪国」。芥川龍之介「藪の中」。瀬戸内晴美「中世炎上」。泉鏡花「高野聖」。室生犀星「舌を噛み切った女」。森鷗外「雁」。吉行淳之介「砂の上野植物群」。田村泰次郎「肉体の門」。吉川英治。山田風太郎。「三国志」「水滸伝」「史記」、「西遊記」も死ぬまでには、100枚くらいになるだろうが、取り組みたいと語る。「万葉集」「源氏物語」「おくのほそ道」「竹取物語」「八犬伝」、、。
「最後まで一本の刀で作品全部を切り上げてしまう。刀勢というリズムがあるから」。
宮田は音楽を流しながらの作業を行う。疲れた時には重厚なブラームス、マーラーを聴きたくなるそうだ。
宮田雅之は弟子はとらない主義を貫いている。「自分が独学なもんだから、教え方がわからないんです」。40代半ばにサンパウロ美術館のバルジ博士は「この絵にはオーソドックスな美術教育を受けていないおもしろさがある」といい応援した。宮田が影響を受けたのは挿絵画家の小村雪たいとビアズレーの絵である。独学の面白さと強みを感じさせる逸話である。宮田にして完璧な作品はないという。こういう言葉は富士の写真をを撮り続けた岡田紅陽なども言っている。小説の林真理子もそうだ。私にもそういう感覚があることを白状しよう。
宮田雅之は「切り絵」という宮田独特の刀で、日本の同時代の作品、歴史的作品、中国の古典などを総なめのにしようとしている。芸術の多くの分野のトップがかならず試みる道である。「西遊記」は完成したのだろうか、気になるところだ。