雨と風と冷気の中、奈良で一日過ごしました。詳細は、帰宅後に記す予定。
まず近鉄奈良。
藤原鎌足「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず」
中臣 鎌足のち藤原 鎌足は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。
「輔」は助けるという意味だ。助、介、佐、亮、など「すけ」と読む幹事には「助ける」という意味がある。大化の改新の中心人物であった鎌足は、柄の大きな事柄は、助けてくれる部下が必要という。さらに国家の大事を実行するには、濃淡はあっても部下や味方や応援者がいなければ成就できるものではない。思いが強くても孤独であっては何事もなし得ない。大事を成すには、時勢という味方と、心酔する部下と、そして多数の共鳴者が必要なのだ。大革命をなし得た人物のこの言葉には広がりがある。
鎌足の息子の藤原不比等は、奈良初期の公卿。右大臣。母は車持国子の娘。大宝律令撰修に参画、養老律令を完成。平城京遷都を主唱し、氏寺山階寺を奈良に移して興福寺と改めた人である。
後室橘三千代の力で皇室との関係を深め、娘宮子を文武天皇夫人、光明子を聖武天皇皇后となして人臣皇后の初例を開き、藤原氏繁栄の基礎をつくった。死後、太政大臣正一位を贈られ、文忠公の諡号を賜わる。淡海公。斉明五~養老四年(六五九~七二〇)(日本国語大辞典)
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[701~756]第45代天皇。在位724~749。文武天皇の第1皇子。名は首(おびと)。藤原不比等の娘・光明子を皇后とした。仏教を保護し、東大寺のほかに、諸国に国分寺・国分尼寺を建立。遺品は正倉院御物として現存。(デジタル大辞泉)
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JR奈良から斑鳩へ。
法隆寺。
中宮寺。
法隆寺は聖徳太子のつくった僧寺。中宮寺はその母の間人皇后のつくった尼寺。
以下。聖徳太子について。
聖徳太子「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」
私は「日本一わかりやすい 図解日本史」(PHP研究所)という本を2014年の上梓した。このとき、近年「聖徳太子という人物はいなかった」という説が出ていると聞いて驚いたことがある。廐戸王は存在したが、それほどの政治力を発揮しておらず、聖徳太子は「日本書紀」が作り上げた人物であるという。「日本書紀」では誕生秘話、3歳、12歳、24歳、27歳、41歳での天才的な言動が記されている。最近の教科書では摂政として掲載されないことが多いのだそうだ。また「廐戸王(聖徳太子)」と掲載する教科書もある。
世界的経済学者・森嶋通夫の「なぜ日本は『成功』したか?」(TBSブリタニカ)では「聖徳太子は中国文化を前にして日本精神の台木の上に中国の能力を接ぎ木しようとした。天皇制・民主主義・官僚制を提案。大化の改新は聖徳太子の政治理論に基礎づけられた貴族革命。思想家聖徳太子と革命家中大兄皇子の合作。日本は法治国家の道を歩む」と分析紹介されている。
実在の人物でなくても、理想の人物像は確かにあったのだから、私たちは素直に彼の言葉に耳を傾けるべきだろう。「和を以って貴しとなす」は17条の憲法の第一条である。その意は集団は協調の精神を持って議論するならば、おのずから道理にかなう結論になるし、その結果どのような困難も成就することができる、ということであろう。それは1400年の歳月を経ても、真実であり続けている。10条「ふんを絶ちしんを棄てて人の違うことを怒らざれ」。「われ必ずしも聖にあらず、かれに必ずしも愚にあらず、ともにこれ凡夫のみ」。人はみな「凡夫」。それが平和の精神の原点。万葉集も無名の人の歌を集めた。和の精神だ。
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2019年に「法隆寺宝物館」。東京国立博物館の敷地にこの建物があることに気がつかなかったのはうかつだった。東京の正倉院だ。設計は谷口吉生。平成11年新装オープン。
収蔵展示物をみた後、目玉の8Kアートビューによる「聖徳太子絵伝」をみた。「絵伝」の細部が確認できるので、内容がよくわかった。
聖徳太子の「超人伝説」:太子の前世「6度の転生」。太子の母「夢に金色の僧現れる」。太子誕生「馬小屋の前で突然誕生」。太子5歳「初の女帝を予言」。太子11歳「驚異の記憶力」「空中遊泳」。太子16歳「祈りで軍勢を撃破」。太子27歳「神馬で空飛び富士山頂へ」。太子33歳「十七条の憲法を制定」。太子36歳「小野妹子を遣隋使として派遣」。太子37歳「幽体離脱で隋に渡る」。太子50歳「予告通りに逝去」。
宿泊は、サクラテラス。
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「名言との対話」3月5日、鍛冶壮一「ジェット・パイロット」
鍛治 壮一(かじ そういち、1930年(昭和5年)7月6日 - 2022年(令和4年)3月5日)は、日本のジャーナリスト、作家、航空評論家。享年91。
東京府東京市出身。1956年東京大学教養学部卒業後、毎日新聞社に入社。東京社会部記者として1965年から航空担当となる。1972年 サンデー毎日編集次長。1975年 社会部編集委員。1985年(昭和60年)に同社を退社し、ジャパンタイムズ編集委員を経て独立。航空機事故などの評論家として活躍した。他に、通産省委員など歴任した。992年 日本航空協会表彰委員。1993年 日本宇宙少年団理事。
著書。
- 『ジェット・パイロット : 国際線機長ものがたり』ぺりかん社 1969
- 『ジェット・パイロット : 国際線機長ものがたり 増補改訂版』ぺりかん社 1971
- 『ジェット・パイロット : 国際線機長ものがたり 新版』ぺりかん社 1974
- 『飛行機のはなし』塩田みつを/絵 ポプラ社 1978
- 『パイロット・鉄道マンへの道』ポプラ社 1978
- 『ジェット・パイロット』ぺりかん社 1981
- 『ちしきの絵本 3』ポプラ社 1982
- 『ジェットパイロット物語 : ロマンを秘めた男の群像』朝日ソノラマ 1988
- 『コクピットの男 : ハイテク機に挑む』朝日ソノラマ 1989
- ほか、執筆記事、共著多数。
私がJALの広報部にいたとき、鍛冶先生は航空界にとって重要な人物であり、よくご一緒した。また、1991年にJALがワシントン直行便を開設したとき、広報課長だった私は航空関係の識者、学者、評論家、メディアのツアーを企画したことがある。総勢で20人ほどのツアーだった。ワシントンでの政府関係者を招いてのセミナーやウイリアズムズバーグの訪問、ジョージタウンでのジャズ鑑賞などの旅だった。大学の学者や航空評論の関川栄一郎先生や鍛冶壮一先生などもおり、和やかな雰囲気が最後まで続いたのは同行した草柳文恵さんのおかげも大きかった。
鍛冶壮一先生の著書には、「国際線機長」「パイロット」「コクピットの男」「ジェットパイロット」などのタイトルが多い。パイロット、特にジェットパイロットに大いな関心を持っていたことがわかる。その知識を存分に発揮し、関川栄一郎先生とともに、航空評論家、航空機事故評論家として名をなした人である。