鎌倉FM「理系の森」第1回の放送。向田邦子『思い出トランプ』を聴く。

鎌倉FM「理系の森」の第1回をインターネットサイマルラジオで聞きました。鎌倉FMは多摩では入らないので、ウェブ上で全国のFM放送局が参加する同時配信(サイマル)プラットフォーム。

スムーズに会話ができていたので、まあまあかな。

再放送は18日(月)の19時半から。 鎌倉FM - JCBAインターネットサイマルラジオ|コミュニティエフエムのポータルサイト (jcbasimul.com)

2回目は来週、3回目は再来週の土曜日の16時半から。だんだん、面白くなっていくはず。

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向田邦子直木賞受賞作品の『思い出トランプ』をオーディブルで聴きました。

人間の弱さ、ずるさ、後ろめたさをせつなく描く短編集。日常生活の細部にわたる気づきの描写が実にうまい。一貫して男の悲哀を書いているのだが、登場する妻、不倫相手などの女性の描き方が辛辣で容赦がない。向田邦子の鋭い人間観察眼による、人間関係の彩や機微の描写のうまさは改めて驚いた。

向田邦子は実践女子専門学校を卒業、卒論は「西鶴」だった。1952年から映画専門雑誌「映画ストーリー」の編集者。仕事の傍ら、脚本を書き始める。当時は、朝は編集部で仕事、午後は映画の試写、夕方は脚本書き、夜はライターの仕事、いうすさまじい生活を送っている。

35歳、テレビドラマ「七人の孫」で売れっ子シナリオライターになる。「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」「隣の女」などのヒット作品を量産。

絶妙な台詞と巧みな構成で「向田ドラマ」と呼ばれ、ホームドラマの基礎を築く。書いたテレビドラマの脚本は1000本以上。ラジオは10000本を超える。膨大な仕事をしている。

46歳、乳がん手術。テレビの仕事を休んでいる間に書き始めたエッセイ「父の詫び状」が高い評価を得る。この出版は、乳がんという大病の「お釣り」だった。51歳、「思い出トランプ」(「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」など13編)で直木賞を受賞。

1981年、台湾での航空機事故で死去。最後の作品となったTBSドラマの「隣の女」の副題は、「現代西鶴物語」だった。「どこで命を終わるのも運です。、、骨を拾いにくることはありません。」、この遺書は2年ほど前に書かれている。飛行機事故(1981年8月22日)を想定していたかのようだ。「死んだ後も人に思い出してもらえるようなものを書こう」と本人が言っていたように、自ら選び取った生き方への矜持が滲む言葉だ。

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吉本隆明 撮影年月日:1965年10月14日 場所:台東区自宅 同年、「言語にとって美とはなにか」第1巻・第2巻刊行。 - Cultural ...

「名言との対話」3月16日。吉本隆明「ほんとうに教養のある人というのは、どういう人のことを言うか。それは要するに、日本の現在の社会状況、それに付随するあらゆる状況が、どうなっているかをできるだけよく考えて、できるだけほんとうに近いことが言えるということです」

吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年大正13年〉11月25日 - 2012年平成24年〉3月16日)は、日本詩人評論家。享年87。

東京都出身。東京工大電気化学科卒。東洋インキ製造に勤務した後、詩人、評論家、思想家として、戦後の論壇を風靡した。戦後の主な論争のほとんどに関わってきた吉本の言葉は大きな影響力を持っていた。私の世代でも信奉者が多かった。また亡くなる直近まで、この人の言説は注目されていた。

全共闘運動のなかで教養エリートたる大学教授たちを糾弾した吉本隆明に対する共感が起こり、吉本はヒーローとなった。そして大学はレジャーランドになっていき、次の世代は大学卒の資格をとることを目的とするようになり、大学のキャンパスは静かになった。そしてレジャーランド化したのだ。

 教育評論家の竹内洋は、全共闘運動の本質を言い当てている。大学進学率は15%未満がエリート段階と呼ばれる。団塊の世代の親の高等教育進学率(短大を含む)は6%、団塊世代は22%で、1970年には23.6%になり、高等教育のマス化が進んだ。そして大卒者のサラリーマン化が進行する。大学紛争の解釈として竹内は、学生たちが「学問とは何か」「学者や知識人の責任とは何か」と問うた原因は、大学生である自分たちが「ただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった憤怒である」としている。

 高度成長を担うビジネスマンとなった私たち団塊の世代の大学卒業生は、経営学ブームの中で成長していく。専門知を身につけたテクノクラート型ビジネスマンの誕生だ。階級社会の消滅によって膨大な大衆が登場してくる。これが新中間大衆社会である。先日読んだオルテガの「大衆の反逆」にある凡俗に居直る大衆が支配する社会である。この大衆社会の進行が新中間大衆社会を生んだ。この新中間層は、定年退職後、令和に世になって行き場を失っている。

教養という言葉の解釈で明け暮れるべきではない。「教養のある人」とはどういう人を指すのかという問いを立てるのがいいように思う。吉本隆明の言う「現在の状況」とは歴史と地理の交点である現在の時代状況を認識し、それを語り、その状況の中でいかに生きるべきかを毎日問い続けながら、行動している人ではないか。現在を真摯に生きようとしている人である。

 教養人とは常に自分の立ち位置を確認し、いかに生きるかを問い続けている人である。彼は人間としての生き方を磨くために修養していく人だ。とすれば、歴史や地理、そして科学や芸術など人類の英知に学ぶ必要があるということになる。教養を実世界の中で生きる術ととらえたい。