「大学の下流化」(竹内洋・NTT出版)

著者は「教養主義の没落 変わりゆくエリート文化」「日本主義的教養の時代」「立身出世主義−−近代日本のロマンと欲望」などの著書がある碩学である。京都大学名誉教授で、現在は関西大学におられる。1942年生まれ。

大学の下流化

大学の下流化

大学教師は18万4千人という多さの時代に、教育ポピュリズムの進行が進んでいる。「師の影を踏まずという師弟関係」から「友達のような関係」の間のどこに大学教育を位置づけるか。
大学進学率が5割を超えるフラット化、大学のサバイバル戦略とからくるポピュリズム官僚主義的大学改革、これらの総合的な影響のおとで、大学の下流化が加速されている。このような主張を展開する著者のここ数年に書いた論考をまとめた書物であり、いつものように説得力があり、読み応えがある。

「大学の下流化」に抵抗するための提案・提言を拾ってみた。

  • 読書マラソンのかわりに新聞ジョギングを。
  • 大学内書店に大学がテコ入れして品揃えを多くしてはどうか。
  • 自校出身教員は無形の財産。
  • 「コア科目」を第三者機関による資格認定試験にする。企業は採用時にコア科目の成績を指定する。
  • 歴史教科書は対立する史観を両論併記し、生徒に考えさせることがあってよい。
  • 嗜みとしての教養と教養としてのユーモア、つまり「感情の教養」はこれからの教養を考える大事な視点だ。

高等教育が人口の15%までがエリート型、15%を超えるとマス型、50%を超えるとユニバーサル型と言われる。1955年は10.1%。1960年は10.3%。1980年は37.9%。2005年は51.5%。
第三章「全共闘の時代」では、学生運動があそこまでなぜ爆発したかを論じている。
団塊の世代では高等教育進学者は20%近くになっていた。エリートと大衆の狭間に位置していた。竹内は全共闘運動は教師に対する家庭内暴力であり、依存的反抗だと受け止めている。
小熊英二団塊の世代を、幼少期を発展途上国状態で過ごし、青年期に高度成長社会を迎えたと言っている。その団塊は、バブル時代は企業の中堅でモーレツ会社員として働き、バブル崩壊後はその余韻の最中に管理職になり、失われた20年で企業の低成長の中で苦しみはしたが、その後半に無事にリタイヤしている。
団塊世代の軌跡と、全共闘運動は私自身いずれまとめておかねばならないテーマだ。

「教員と教師」というコラムもある。趣旨に同感である。教員という言葉は員数、つまり数としてしかとらえていない言葉だ。教師という自覚の復権がまず必要なことではないだろうか。「師」とはお手本である。学校の先生は教師であろうとすべきであるし、社会に出ても自らの師を求めて働くべきだろう。

この本を読んでいるうちに私の名前を発見して驚いた。
「東京赤坂の野田一夫先生(「多摩大名誉学長)の事務所で、先生と久恒啓一多摩大教授とともに懇談。久恒教授は全国の人物記念館をたずねて、その事績を収集し、わかりやすく、人々に伝達するユニークな仕事をしている。近著「志」(ディスカバー・トウェンティワン)をいただく。」

2008年に京都で行われた藤原勝紀先生が主宰するラウンドテーブルで、「偉大な人物像の世界に想いを馳せて」というタイトルで私が発表したとき、次のような好意的なコメントをいただいたことがある。
「偉人伝。渡辺崋山の絵本。人物伝を学ばなくなったのは不幸だ。マルキシズムの悪影響は社会科学を法則科学にしたこと。人間のない歴史。人物で時代を語る。大宅壮一の人物評論。九鬼隆一の評伝の書評。二流人物評伝。異人伝。前尾繁三郎、学問の下流化。」

この本のテーマである「学問の下流化」はこの当時に書いていた論考だったようだ。また、「二流人物の生の軌跡こそ人間学の適切なテキストになる」というこの本の中の主張にもうなずけるところがある。あちらこちらに傷のある二流人物評伝にはほっとするところがあるからだ。一流人物にも実はそういうところがあるのだが、評伝では省かれることがある。私は多摩大学に赴任して以来、生の人物の生きた軌跡を大学で講義しているが、人間学の大事さを改めて確認しているところだ。

気になった場所。

読みながら気になった本。

午後、日本総研の佐藤さん、岩崎さんが大学にみえる。「就職を機に人生を考えるサイト」というプロジェクトの進捗状況を聞いてアドバイスをする。