昨日は箱根ハイランドホテル。
この居心地のいいホテルは、男爵・団琢磨(1858-1932年)の別邸だった。
團琢磨は三井合名理事長や日本工業倶楽部理事長を歴任した経済界の大立者だったが、1932(昭和7年)年に暗殺される。享年75歳。前大蔵大臣の井上準之助も暗殺された血盟団事件である。
團琢磨の長男・団伊能の長男は音楽家の団伊球磨だ。
1957年には伊能はこの別邸をホテルとして活用する。それがこの箱根ハイランドホテルである。「品格のあるホテル」を目指した。夏に長期滞在する経済人、俳優、スポーツ選手も多かった。外相であった藤山愛一郎もこのホテルを使ったそうだ。1961年に小田急グループに系列になった。
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箱根二日目。
成川美術館。
「山本丘人と堀文子」展。
二人とも「同じものは描かない」という信念。
山本丘人:表現の方法を新しく模索して、その作品は自らの心象風景として昇華していく。
堀文子:たえず興味や関心の対象を変える。
堀文子の丘人評「生涯、同じことを繰り返さない。立ち止まることの決してなお、驚くべき作家として存在」「よくしつけられた弟子をお供に、威厳のある雰囲気」「ずば抜けてスケールが大きい方」「統率力もあったし、あたりを圧倒する風情」「貪欲な方」「二度と同じところに安住しない姿勢のエネルギー」「天性の詩人」。
山本丘人(1900年−−1986年)
- 絵画というのは全人格的行為であり、画家の全ては作品のなかにある。
- 個性を強く生かしぬく人。それを深く掘り下げて行く人は、何よりも立派である。
- 画家は不断が大事であり、毎日のライフが大切である。
- 歳月の影が折り重なって、芸(芸術)は円熟の境地に達するものらしい。
- 造形する者は「ゆっくりいそげ」と古人の言葉に教えられてき来た。
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平賀敬美術館。
ユーモアと官能的な表現で独特の世界観を生み出した現代画家の平賀敬。
平賀敬(1936年生まれ)が暮らしていた家と蔵に約30点を常設展示している。婦人の幸さんは現在も住んでいる。その人が案内していた。1990年に平賀は箱根湯本に引っ越し、地元の人に頼りにされた。
建物は明治期に旅館の別荘として建てられたもので、幸さんに明治の伊藤博文や山県有朋が入浴した温泉を見せてもらった。暗殺を防ぐために窓は鉄格子になっていた。井上馨、犬養毅、近衛文麿など明治の元老と重臣が逗留した由緒あるもの。2003年には国の登録文化財に指定されている。作品だけではなく、建物も鑑賞のポイント。湯質は湯本一だそうだ。
平賀は徹底して人間を描いた画家だ。主にカラフルな色彩の男女を描き、人間の本質を絵を通じて物語った。1965年から1977年の12年パリに滞在。「現代の北斎」と賞賛された。帰国後、浮世絵や志ん生などの古典などを題材にした。その20年後、モノトーンの画面となった。2年後、64歳の生涯を閉じた。
- 「好きな画家はみんな変化している」
「名言との対話」10月3日。飯田蛇笏。
- 「誰彼もあらず一天自尊の秋」
- 1885年生まれ。早稲田大学在学中に早稲田吟社で活躍。高浜虚子に師事するが,23歳で郷里山梨県境川村に隠棲(いんせい)し、「土の俳人」を志す。虚子(1874年生れ)の俳壇復帰とともに句作を再開、「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰。山間の地にあって格調のたかい作風を展開した。1962年(昭和37年)10月3日死去。享年77。
- 「吾人はいやしくも俳句道に生涯を賭する決意の下に遅々たる歩みをつづけてきた。世上文学道の何れにも見出し難いところの唯一つの焦茶色の文学道に」と「俳句道」を提唱。
- 「我々の俳句は、皆粒々辛苦の、正しい人間生活から流れ出る結晶であり、指先からペンをかりてほとばしり出る血汐そのものでなければならぬ」
- もつ花におつる涙や墓まゐり(9歳)
- くれなゐのこころの闇の冬日かな
- たましひの静かにうつる菊見哉
- 死火山の膚つめたくて草いちご
- 炉をひらく火の冷冷と燃えにけり
- ふゆ瀧のきけば相つぐこだま哉
- 桐咲いて多摩の朝焼淡かりき(多摩を詠んでいる)
- くろがねの秋の風鈴なりにけり
- 風さえて宙にまぎるる白梅花
- いわし雲大いなる瀬をさかのぼる
- 山中の蛍を呼びて知己となす
- 冒頭の句は77歳のときの作である。ライバルはもはやいない、世界にただ一人の自分の道を行くだけである。世に屹立しようとする蛇笏の気概に感動する。