旧吉田茂邸(大磯)。島崎藤村記念館(大磯)。徳富蘇峰記念館(二宮)。

 神奈川県大磯の旧吉田茂邸と島崎藤村記念館、二宮の徳富蘇峰記念館を訪問。

 旧吉田茂邸は、2009年に不審火で消失、2017年4月に再建し、公開されたばかり。吉田自身が「海千山千荘」と命名。

吉田茂は「皇室と富士山」が日本だ、と言っていた。吉田が飽きることなく見つめていた富士山。

「戦争に負けて、外交に勝つ」

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同じ部屋から相模湾を見渡せる。吉田がみた海。

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 庭の七賢堂。もともとは伊藤博文邸に四賢堂があった。四賢とは、木戸孝允岩倉具視三条実美大久保利通。これに、死後に伊藤博文が加わり、五賢堂となった。五賢堂を吉田邸に移築することになり、新たに西園寺公望を合祀。吉田の死後、佐藤栄作によって吉田が合祀され「七賢堂」となった。

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 吉田茂銅像は3つ。東京・北の丸公園(洋装)。高知空港(和装)。そして大磯。この銅像は他の二つと違って、多くの人々からの寄付によった。講和条約を結んだサンフランシスコを見つめている。右手にステッキ、左手に葉巻。

吉田茂は外交官養成を主眼とした学習院大学科が廃止になり東京帝大法科大学政治科に転入し卒業後外務省には28歳で入省。中国とイギリスなどが勤務地でエリートコースではなかった。外務次官を経て61歳で退官。67歳で外務大臣に就任、首相就任は68歳という遅咲きだった。この後、6年にわたり5度首相をつとめ(在任2616日)、引退後は大磯で後輩達を指導した。89歳で死去。三女の和子が麻生多賀吉に嫁いだ。その子が麻生太郎

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吉田は犬好きだった。庭には愛犬の碑が多い。「サン」「フラン」「シスコ」も。

旧吉田邸の一階は楓の間 は執務室。1979年の大平・カーター会談が行われた。

2階の書斎は4畳半。富士山が見える。掘りごたつ式。首相官邸への直通の黒電話。

吉田文庫には、伝記が多い。渋沢敬三牧野富太郎、小山完吾、尾崎三良、樺山資紀、、、。論語豊前市産業百年史も。

金の間(応接室)。左は海、右は富士山。

銀の間(寝室)。ここで亡くなった。吉田文庫:原敬、ジョン万次郎、乃木希典神武天皇の元首的性格、長生きの科学、、。日本航空整備株株式会社十年史、播磨造船所50年史、日本水産50年史、日立造船80周年、、。

建物は近代数寄屋を確立した吉田五十八の家屋を再現。

庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという。

 吉田茂は3歳で養子になり、11歳で家督を継ぐ。その財産は今の50-60億円になる。外交官と政治家生活で全てを使い果たした。勘弁して下さいと養父の墓で言ったという逸話も聞いたことがある。

 

 島崎藤村記念館。最晩年を過ごした家。「東方の家」を書いており、第三章半ばで夫人が朗読中に斃れた。71歳。墓は本人の希望で大磯地福寺にある。写真は書斎。

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電車で一駅の二宮の徳富蘇峰記念館。

蘇峰ほど記念館が多い人はいない。熊本、八代、大森、逗子、二宮。まだ訪ねていないのは八代と逗子。熱海の古屋旅館晩生草堂。楽閑荘。蘇峰のファンクラブである蘇峰会は全国各地にあり、蘇峰はよく訪ねている。だから各地に揮毫した書が残っているのだ。石碑は全国に200ほど。

蘇峰の秘書だった塩崎氏の自宅に蘇峰堂を建てたのが蘇峰堂である。逗子からよく訪ねたと、子の塩崎信彦氏(常務理事・学芸員)が説明してくれた。国民新聞は現在の東京新聞に引き継がれている。

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 塩崎氏の編集の蘇峰の動画を見せて貰った。快活な蘇峰の姿がそこにあった。

近世日本国民史100巻。

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 34歳から13ヶ月の欧米漫遊ではトルストイにも会っている。日清戦争直後であり、欧米は軍国主義であった。この影響を受けて帰国後は国権主義に転向した。

開戦時79歳、「文章元帥」。墓には「待つ五百年之後」とある。

粗放な性格と郷里の阿蘇山をもじって、蘇峰と号した。

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 この記念館は「手紙」の記念館。1200人からの4600通の手紙を持っている。

学芸員の高野静子の3冊の本を購入。手紙中心の本なので読むのが楽しみだ。「蘇峰とその時代」「続蘇峰とその時代」「蘇峰への手紙」。

ちょっと読むと、吉野作造からの手紙があり、蘇峰の人生そのものが尊いと記している。

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  「名言との対話」。川喜多長政「人は祖国を離れたとたんに、愛国者となる」

 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年4月30日 - 1981年5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母かしこ、娘の和子伊丹十三の最初の妻)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。

2010年4月にオープンし鎌倉市川喜多映画記念館はヨーロッパ映画の輸入と日本映画の海外への輸出を仕事にした夫妻を記念して建てられた記念館だった。川喜多長政は、府中四中、北京大学を経て、東ドイツに留学。東洋と西洋の和合を目指し東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入を始める。この会社が東宝・東和になり社長、会長を歴任する。
妻の川喜多かしこ(1908年生まれ)は、「制服の処女」で大ヒットを飛ばし、以後「会議は踊る」「巴里祭」「天井桟敷の人々」などを日本に紹介する。日本映画を海外に紹介することにも尽力する。「羅生門ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとった。映画祭の審査員は26回に及んでいる。この夫婦は、夫は勲二等、妻は勲三等と勲章をもらっている。
48席の気持ちのいいミニシアターで夫妻を紹介する映画を観る。関係した映画祭は、カンヌ、ベルリン、クラコフ、ムスクワ、ベネチアサンパウロ、ハワイ、プサン、、、。交流のあった映画人は、チャプリン、ドヌーブ、黒沢明淀川長治尾上梅幸大島渚アラン・ドロン原節子、、、。
かしこは、「徹子の部屋」で、師から「ビジョンを持て」「女性は美しくなければならない」と言われた。自身を「映画を好きすぎる、マニアみたい」と映像で語っている。
私達の観た外国映画は、この夫妻の仕事のおかげだった。また日本映画が海外で日の目を見たのもこの夫妻のおかげだったことがわかった。

長政という名前は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとったという。その名のとおりに「映画」をテーマに世界に雄飛した川喜多長政は、海外に出たらみなが愛国者になると述べている。外に目が開かれると、自身の内側に目が向かう。郷里から出る、日本から出る、このとき私たちはアイデンティティを強く意識する。そして愛郷心愛国心が芽生えるのだ。