「この授業(立志人物伝)を受けてあなたはどうかわりましたか?」

授業を受けてあなたはどうかわりましたか?(最終回のアンケート)

エニアグラム<タイプ1>完全主義者

・自分がどのような人間か理解できた。・自身の志を再確認できた。最終レポートを書き終え人生の指針を決める礎とすることができた。名言に興味が深まった。・さらに歴史を好きになった。・色々な人物に興味を持つようになった。目標となるものが見つかり、悩むことが少なくなった。・偉人の名言を聞いて、自分もそういう人になろうと思い、変わろうと思う。・「みんな努力して頑張っているのだな」と思い、ぐーたらしていると「こんなコトしてる場合じゃない」と思えるようになった。・将来について深く考える時間ができた。

<タイプ2>助ける人

・自分の志が決まった。・偉人達の言葉を受け止め、自分なりの強い考えを持って生きたいと思った。・迷った時に、自分のロールモデルの人ならどうするかな。と考えられるようになった。・将来ボビージョーンズの様な人間になりたいと思った。最近では陽気な人間になろうと決心し、今では優しい人間へと変わったなと思う。・変わった事は3つある。1つ目は、歴史や偉人に興味関心を持てた。2つ目はエニアグラムの存在を知れた。3つ目は、人物を図解することにより頭の中を整理しつつ理解を深めるという事が出来た。寺島学長を選んだ。・100歳を超えている人が多いことに驚いた。

<タイプ3>成功を求める人

・目標にする人ができたので良かった。・偉人から学んだ事を社会活動に活かしていく。

<タイプ4>芸術家的な人

・日本の文化の成り立ちなどに更に意欲がわいた。・誰かをテーマにして人生を生きるのは大切だと思った。・20歳になり人生の4分の1が終わった。一日一日を無駄なく過ごしたいと感じた。20代は積極的に行動したいと思った。

<タイプ5>観察者

・「学ぶ力」を得られた。・井伊直弼を調べている内に更に知らなかったことに触れ、より一層好きになった。・どのように生きていくのか指標を見つけ出すことができた。

・価値観が広がった。・エニアグラムが好きになった。・坂本龍馬についてレポートを書いた。調べて図解したらその人について良く分かった。・目標にする人物を明確に分析することでさらに理解が深まった。・意識が変わった。・個人的に気になった人物を調べていこうと思う。・人物について図解することは新鮮だった。尊敬している人を見て、自分に活かせるところはないかという考えを持つきっかけになる授業だった。

<タイプ6>忠実な人

・この講義のおかげで自分の人生を見つめ直すきっかけになった。・見習うべきものが増えたので楽になった。・考え方や価値観が大きく良い方に変わることができた。エニアグラムは活用したい。この講義によって大きく成長できた。受講することができて良かった。・井伊直弼について調べた。知らずにいた部分が知れて良かった。・偉人の真似をする、ということを学んだ。・自己分析ができるようになった。・自分も何か世の中に役に立てるような人になりたいと思った。・アルベルト・アインシュタインは偉大。

<タイプ7>冒険者

・4月から仕事が始まるが、辛いことや苦しいことがあるときは、ポジティブに物事を考えて、壁を乗り越えていきたい。・歴史に残った人物の話は、刺激的だった。

<タイプ8>独裁者

野口英世の様に努力して成功する人になりたい。・お手本にしたい人を決めることができた。・自分の人生について考える時間ができた。

<タイプ9>調停者

・考え方や成した事を深く考えるようになった。自分の頭の中で図解も使えるようになった。・生活習慣と考え方が、良い方に変化した。・山あり谷ありを好む人間たちの話を聞くのが面白かった。・新しい表現法を見つけることができた。・やりたいことを全力でやる。・行き詰まることがあったら、この講義で聞いた言葉を思い出したい。

<タイプ?>

ロールモデルを発見した。・興味を持つ幅が広がった。計画を立てて行動するようになった。自分の興味、価値観、心がけを変化することができた。・自分の人生を今からでも見つめ直してみようと思った。・偉人達が書いた本を読みたい。・自分の志が明確になった。・楽しい講義だった。・特別講座の解説もあり、復習の大切さを学ぶことができた。分析する力が、身についた。・自分の向き不向きが多少分かった。・お年寄りの方とのコミュニケーションをはかる時にとても会話が弾むと思う。・偉人の言葉は、前向きになれる、背中を押してくれる言葉だった。・改めて言葉の大切さが身にしみた。・多くの偉人の尊敬する部分が見えた。・ロールモデルと心を重ねていきながら物事を考えるようになった。・白洲正子を取り上げた。・人に強い影響を与える人は偉い人である。・偉人の言葉に影響を受けた。・来期もこのような授業があったら取りたい。

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午前

・久米先生と懇談:グーグルマップが素晴らしいとのこと。「墨田区から四輪駆動で雪の中をスイスイと運転できた」。

・「立志人物伝」の最終回の授業。大雪のため、遅刻者が多かったが、最終的には出席者は多くなった。

 

午後

・近藤秘書と打ち合わせ

・松本先生:多摩大総研の人事案件(客員教授)。多摩大出版会。

・阿部多摩市長、浦野企画政策部長、若林シティセールス政策監らが新年の挨拶に見える。杉田学部長、小林学長室長、松本地域活性化委員長、高野課長で対応。ブランディング事業、マンホール、橋、、、。

・杉田学部長:情報交換

 

 

「名言との対話」1月23日。戸板康二「道にはトレーニングがつきもの。道とつく限り、鍛錬を抜きにしては考えらえません」

戸板 康二(といた やすじ、1915年12月14日 - 1993年1月23日)は日本演劇歌舞伎評論家推理作家随筆家直木賞作家。

『あの人この人 昭和人物誌』(文春文庫)は「人物歳時記+人物風土記」ともいうべき珠玉のエッセイ集だ。34人の昭和史を彩る各分野で傑出した人物たちの見せる際だった個性を楽しみながら書いたものだ。戸板は締めきりに遅れたことがないというのだが、本を読んでいくと苦しみながら書くのではなく、楽しみながら書いている姿が浮かんでくる。昭和の雰囲気と、その時代を生きた文化人たちのほのぼのとした味わいを感じる名著だ。取り上げた各人物にまつわるエッセイのネーミングが実にうまい。 江戸川乱歩の好奇心。徳川夢声の話術。有吉佐和子の笑い声。芥川比呂志の酒席。三島由紀夫の哄笑。川口松太郎の人情。田辺茂一の大鞄。花森安治のスカート。寺山修司の国訛。大谷竹次郎の劇場愛。渋沢秀雄の童顔。小泉信三のステッキ。東山千栄子の挨拶。、、。

・乱歩は若い頃から自分に関する新聞雑誌の記事や読者からの書簡をファイルしスクラップブックに張り込むのが楽しみだった。それが『探偵小説40年』という大著の基本資料になった。・徳川夢声は1時間のひまがあると時間にかかわりなく映画をみて、本屋で何か買うという習慣。新しい話題を持っていたが、スキャンダルと猥談はしなかった。禁酒ならぬ停酒。・芥川比呂志は酒をいくらでも飲めた。芥川飲み介。渋谷の「とん平」、新宿の「五十鈴」、代々木の「なおひろ」。銀座の「「はちまき岡田」、出雲橋の「はせ川」、七丁目の「よし田(そば)、、。)・獅子文六という筆名は、四四十六をもじったのではなく、文五(文豪)に一つ足したのだと笑っていた。・田辺茂一。「夜の市長」。『わが町・新宿』には田辺のすべてが語られている。・渋沢秀雄は訥々とした口調と童顔の人。父の栄一の遺伝か。・玉川一郎。『シャレ紳士録』。秋深し水洗便所の音高く。

戸板康二『ちょっといい話』(文藝春秋)。 有名人が起こすちょっと面白いエピソード集であるが、時間が経っているのでおかしさが分からないものも、ままある。共通のバックグラウンド、教養などがユーモアには欠かせないということだろう。 「各界名士500人の珍談・奇談集。直木賞作家・劇作家・評論家の著者が半世紀書きためた交友録から最高傑作を公開するユーモア笑事典」。「後記」から。「挿話に興味を惹かれる」「傑作は日記に要点だけ書きとめる」「最後は、落語のサゲのような一句」「幕末から明治大正」「二百字の原稿用紙に一話ずつ」。

・日夏「われらの国語を、路傍の石のごとく動かすのはやめろ」(山本有三へ)・川端康成「じゃ払わなきゃ、いいはありませんか」(吉行淳之介が「銀座のバーが高くなった」と嘆いたのに対して)・遠藤新「君は代議士、ぼくも大技師」(星島二郎へ)・野上弥生子は読んでいた本にも赤鉛筆で文章を直していた。・草野心平は「火の車」(税務署対策)と「学校」(家の人対策)という酒場を持っていた。・瀬戸内寂聴「いいえ、私はアマです」(「プロって大変ですね」に対して)・朝倉摂「いやだわ、元代々木だなんて」(元共産党員の朝倉摂が住んでいる町の名が改正)・榎本武揚「まからねえか?」というよと、イタリアのレストランでは「マカロニ」を持ってきた。・島崎藤村「君、死ぬってどんな気持ちがする?」(田山花袋に聞いた)・佐々木邦「なるほど、翻訳家の家だ」(戸川秋骨の家は門から玄関までが洋風、中に進むと和風)・久保田万太郎「いいえ、あなたの俳句は、退歩しています」(渋沢秀雄「私の俳句は一向進歩ませんで」への返答)・小沢昭一光源氏の役以外は、出演しません」(テレビやドラマの出演を断る口上)・「切腹」(小林正樹監督)宣伝部「切腹もタケミツ、音楽もタケミツ」(刀は竹光、音楽は武満徹)・菊池寛「文才のある文学青年ほど、困ったものはない」・高浜虚子「選句は選者の創作です」・武者小路実篤「雑誌にたのまれたら書く。ことわるより書く方が早い」・山田耕筰「いい歌だなと思って聞いていたら、君ねえ、それは、ぼくの曲だったんだよ」

自分の分野を歩く。それは必ず「道」になる。道には「鍛錬」が必要だ。一千日が鍛であり。一万日が錬であると武蔵が五輪書の中で語っている。鍛えるのに3年、練るのに30年かかる。戸板康二は77年の生涯の50年をかけて172冊の著書を刊行している。その分野は評論・評伝、エッセイ、小説、戯曲、句集、対談、テレビドラマの原作など、実に広い。文人だった。詳しかった歌舞伎、演劇に限らず、人物論にも鍛錬でつくられた道がみえる。

 

 

 

 

ちょっといい話 (1978年)

ちょっといい話 (1978年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「立志人物伝」14回目の授業の感想から。

「立志人物伝」14回目の授業の感想。

<タイプ1>

・レポートの内容をどうしようか悩んでいる。・昔の人ほど様々な情報があり、本当の情報なのか疑ってしまうことがある。・レポートの骨組みができた。・レポートは終わっている。年末年始は計画的に行動できた。・レポートを進められた。知れていない部分があった。・課題をやる時間を作ってくれて有り難い。・福澤諭吉ロールモデルにしている。・タイプ9のウィングが発達したタイプ1に自分は属していると思った。・メジャーではない人物にした。・ニコラエ・チャウシェスクにした。失敗から学ぶ方が失敗せずに成功するよりも教訓になるから。・手塚治虫について調べていくうちに偉人と呼ばれる理由がよく分かった。今後役立てたい。

<タイプ2>

・調べていくと新しい発見があったり、楽しい。・先生のポッドキャストを聞いて朝練を頑張りたい。・鳥瞰図がまとまってきた。一人の人物を色々調べる機会があって面白い。・髙橋是清元大蔵大臣。・市川海老蔵・レポートが完成した。先生とゴルフに行きたい。・野球選手を取り上げた。江川事件に関心を持った。・鳥瞰図が書き終わった。色々調べ知ることができた。・レポートを提出してしまったので、野口英世について調べ直した。・寺島学長について調べようと思う。・大泉洋にする。・宮本武蔵にしようと思ったが星野仙一さんにする。・リオネル・メッシについて学び書き終えた。・本田圭佑にした。凄い人だった。この講義が無ければ知ることがなかったので、取って良かった。・ウイングがあまり合ってないと思った。

<タイプ3>

・期限までには提出したい。・「人生のバッターボックスに立ったら見送り三振だけはするな」という言葉に感動した。

<タイプ4>

・課題が進めば進むほど、その人により近づきたいと考えた。・図と文でまとめることで、どこが凄いのかが理解できた。・人生鳥瞰図の素晴らしさを知った。目標となる人をより理解する最適な方法だと思った。・般若さんを調べた。・スポーツ選手を調べていると短い現役時代を過ごした後の考え、キャリアデザインが重要。・ウォレス・ヘンリー・ハートリー。ホスピタリティという面で、この人物を知ったことで価値観が変わった。・イチロー選手

<タイプ5>

毛利元就にする。・自分の知らないことを久恒先生目線で知ることができて楽しかった。・アーサー王にしたい。・レポートが大きく進んだ。・図にすることでどういう人なのか見えてきた。・新年の計画を緻密に立てて今年を頑張る!計画をたてることの重要性が分かった。・伊達政宗について書いた。・ウィングが強い弱いで性格に違いが現れることが良く分かった。・偉人達の芯に裏打ちされた価値観にふれることで自分の価値観を良い意味で広げられた。・また来年もこの様な講義があったら受講したい。・エニアグラム毎回楽しい。偉人の名言のポッドキャスト、面白いと思った。・レポートを書く時間を授業時間の中で作ってもらえるのはとてもありがたい。・エニアグラムは毎回自分に合ってるのでびっくりした。

<タイプ6>

井伊直弼について書こうと思う。・武田信玄について書く。・しっかり分析して自分の人生に反映させていきたい。レポートも良いものにしたい。・宮沢賢治柳田國男について更に知りたいと思った。・従姉妹を書きたい。小林しげる「人生のバッターボックスに立ったら見送りの三振だけはするな」が心に残った。1年の目標を書きだしているという話を聞いて、新規でやりたいことも書き出したい。・ポッドキャストの「偉人の名言」を聴きたい。・小林と江川の話は有名なので知っていた。・レポートが終わったので新年の目標を考えていた。新たな挑戦も積極的に行うことを目標に、今後の学生生活を送っていきたい。・色々な人との関係を築いていきたい。・嘉納治五郎にする。

岡本太郎について書く。・松岡修造さんの人生鳥瞰図を作ることで、どういった人か講義を受ける前より詳しくなった。・川上国彦氏を選んだ。・パワーポイントが上手く書けるようになるので、とてもためになると思った。・パワーポイントが難しいが、良いものを作れるように頑張る。

<タイプ7>

マリリン・モンローについて調べた。・スティーブ・ジョブズの資料を調べた。

<タイプ8>

・今年の目標は他人のために尽くすことです。・徳川家康に変えた。

<タイプ9>

・ホームページを読んでみようと思った。・そろそろ将来をしっかり考えなければならない。・野球界の話が面白かった。・坂本龍馬についていろいろ調べたいと思った。・遠藤保仁選手について書いた。知らないところが分かった。

<タイプ?>

・この90分のおかげで課題が終わった。・梅棹忠夫先生のことを調べた。・久恒先生の偉人の名言366命日編、これから毎日学校に向かう途中に聴きます。朝練頑張れます。・ポットキャスト聞いてみます。マイケルジャクソンについて鳥瞰図を書きます。・新年の計画をしっかり立てて、今後に活かしたい。・ポットキャストに興味が湧いた。・本田圭佑選手について書こうと考えた。・母のことを書いた。・三島由紀夫さんにした。・人物を調べていくうちに人生を考えるようになった。・課題は終わったので、今年の目標を決めた。・人生鳥瞰図を書くことが楽しかった。・年ごとに計画書をつくるのはいいなと思った。自分もやってみようと思う。・偉人の習慣や生き方が分かりとてもためになった。・本田圭佑選手にした。・次の講義でこの講義が終わってしまうのは残念に思った。・ポッドキャストを教えてもらった。毎朝5時に聞いて、朝練がんばります。・織田信長について鳥瞰図を制作中。

 

 

「名言との対話」1月22日。常磐新平「臆病になるな、他人の目や陰口にとらわれず、自分のやりたいことに忠実になろう」

常盤 新平(ときわ しんぺい、1931年昭和6年〉3月1日 - 2013年平成25年〉1月22日)は、日本作家翻訳家であり、アメリカ文化研究者である。

仙台二高、早大文学部英文科・大学院卒業後、早川書房に入社。海外の文学作品、スパイ小説、冒険小説などを紹介する「ハヤカワ・ノベルズ」を創刊し、人気シリーズとなる。早川書房のSF以外のすべての編集長の立場となる。1969年に退社。翻訳家としてアメリカの雑誌や人物を紹介した。エッセイスト、作家としても知られるようになる。

1986年、『遠いアメリカ』で直木賞を受賞。アメリカのペーパーバックを読み漁り、翻訳の勉強に没頭する自身の大学生活を描いた自伝的作品である。

常盤新平の師匠は5歳年上の直木賞作家・山口瞳であった。サラリーマンの生態や心理をよく知った山口瞳の31年1614回続いた「週刊新潮」の連載『男性自身』を、たまたま読んだのがきっかけで出入りするようになった。山口瞳の13回忌を迎える頃書いた『国立の先生山口瞳を読もう』には、国立に住む師匠の山口瞳への思いがつまっている。文庫本や全集に書いた解説をまとめたものである。

他人の目、他人の口、つまり世間を気にしずぎることをやめて、自分自身の為すべきことを為そう。

 

 

 

 

 

 

 

角川源義の「幻戯山房」---「一年一植」

「副学長日誌・志塾の風」180121

サテライト入試の二日目。

大学のコートで東京都大学リーグの試合が行われていた。東京外語大と多摩大との試合を見たが、18対0という結果で勝利。今年のチームはさらに強くなっている。

 

荻窪の角川庭園を先日訪問した。

角川書店創業者の角川源義が住んだ場所で、住居跡は有形文化財として保存対象になている。角川の名前をもじって「幻戯山房」と名付けられていて、すぎなみ詩歌館という名称もついている。大出版社の創業者ではなく、俳人としての角川源義を顕彰した記念館だ。

大正6年富山県生まれ。13歳で俳句に興味を持つ。15歳、同郷の金尾梅がいた俳誌「草上」に投稿。22歳、國學院大學国文科に進学し、折口信夫武田祐吉の指導を受ける。24歳、戦時のため繰り上げ卒業。昭和20年、角川書店創立。30歳、俳誌「古志」創刊(後に「季節」)。32歳、結婚。35歳、雑誌「俳句」創刊。41歳、「語り物文芸の発生」で文学博士。55歳、「雉子の声」で日本エッセイストクラブ賞。56歳、俳句文学館建設委員長。58歳(昭和50年)、逝去。昭和51年、句集「西行の目」に読売文学賞

四高受験に失敗し浪人中に折口信夫『古代研究』に感激し、折口のいる大学に入ろうと決意する。父は反対であった。折口の短歌結社鳥船社に入門。折口は弟子が結社誌や同人誌に関係するとすぐに破門するので、句作を断念する。

昭和19年に「語り物文芸の発生」が完成するが、空襲で印刷所が被災しする。しかしゲラが残った。それが後の博士号論文となる。

27歳で中学校の教諭になるのだが、終戦時買った古本の空白に「目がつぶれる程本が読みたい」との書き込みがあり、教壇に立つより、出版をやろう決意すし、翌年に辞任する。多くの人々に志を訴えることができるからであった。角川源義の志は、短詩型文芸の啓蒙であった。

角川源義は、近代俳句のリーダとして飯田蛇笏と石田波郷を信奉していたが、二人とも死亡してしまう。

山本健吉の死によて「文人俳句」は終わったともいう。それは古典研究、民俗学、評論、俳句作など文芸全般の多岐にわたり立派な仕事をした人の句業である。

昭和21年、桑原武夫が雑誌「世界」に「第二芸術論」を発表した。それはトルストイミケランジェロなどが代表する本物の芸術を第一芸術と呼び、俳句などを第二芸術と呼んだものだった。虚子などは「芸術として認めれたのだから、第二でもいいじゃないか」と開き直った。29歳の角川は反論した。地下の力こそ俳句の生命でアリ、庶民の娯楽こそ俳句の宿命であり、娯楽に文学意識などない。遊びの文芸というなら、漱石の「猫」は遊びの文学だ。芸術に第一も、第二もないという趣旨である。

昭和31年に処女歌集「ロダンの首」を発表。

同志350人を糾合し俳誌「河」を刊行。焦土の上に一本の緑樹を植える運動を起こそうというものだった。抒情の回復の叫びであった。俳句の世界に登場しつつあった無季・自由律を角川は許せなかった。この病理・病弊と闘った。

第三句集「神々の宴」では、古代復活を次の詩業とし、折口学を俳句によって樹立しようとした。

娘・真理の三回忌には「つくづく俳句をやっていて良かったとおもうよ」と語っている。苦難を克服して生きぬく発想の転換に意味があると「境涯俳句」も支持している。

「俳句はものを言ってはいけない文芸だ。言いたいことは抑えて季語に語らせればいい」と季語を重視した。

 

「一年一植」

清貧に 生きて 大志や 冬柑子

雪はねて けろんりんかんと 春日かな

 

作家の辺見じゅんは、角川源義の娘。民俗、太平洋戦争、短歌などで活躍した。

「日本の民話」シリーズ。「呪われたシルクロード」「男たちの大和」「探訪・北越雪譜の世界」「花冷え」など。

 

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「名言との対話」1月21日。村木良彦「仕事の面白さというのは、ジョブデザインだ」
村木 良彦(むらき よしひこ、1935年11月15日 - 2008年1月21日)は、日本のメディアプロデューサー。
東京放送に(TBS)に入社し、ヒット作品を生むが、10年後に「TBS闘争」で退社。この間の事情は1969年3月の『お前はただの現在にすぎない テレビに何が可能か』(朝日文庫)に詳しい。同時に辞めた萩元晴彦・今野勉らとテレビマンユニオンを創立。
1986年に所属する「知的生産の技術」研究会で、『知的生産者の発想現場から』(TBSブリタニカ)を刊行した。私の発案の「知的実務家」をキーワードに取材した内容をまとめたものだ。ワコールの三田村和彦西武百貨店の水野誠一、ブリジストンの大坪壇、ダイヤルサービスの今野由梨、スキーの西和彦野村総研森谷正規長銀総研の北矢行男、三菱化成生命科学研究所の中村桂子、NHKの木村太郎、東京相互銀行の山田智彦、筑波研究コンソーシアムの河本哲三、そして村木良彦というメンバーだった。30年以上前の思い出深いプロジェクトである。「知的実務家」とは、組織の現場に属す実務のプロでありながら、一方真理の宝庫というべき自らの職場を通して時代と語り、その教訓を一般化するという知的作業を行い得る人々であり、こういう人々が大きな影響力を持つ時代にさしかかっていると、私は考えていたのである。
「しなやかに、したたかに」はテレビマンユニオンのモットーであったが、当時はこの精神には多くの人が共鳴していた。村木は芸能界に片足を突っ込みすぎたテレビの産業構造を変えるグランドデザインを描く仕事をしようとしていた。情報の根源は人間だから、人間関係の構築と維持と進化を目指していた。温顔で柔らかい声と穏やかな話しぶりであるが、仕事に対しての情熱と自信が伝わってきた。
村木良彦のインタービューで強く印象に残ったのは「ジョブデザイン」という言葉だった。ジョブデザインを自分でやれるか、仕事の面白さはジョブデザインにある、そしてTBSから独立して以降は、自分でジョブデザインをやれるから精神的に違うと語っていた。自分でデザインの権利を獲得していく。自分の仕事のデザイナーになる、そして自分の人生のデザイナーになる、私がそれを強く意識したのはその頃からだった。
 
参考
「知的生産者の技術」研究会編著『知的生産者の発想現場から』(TBSブリタニカ)
お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か (朝日文庫)

お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か (朝日文庫)

 

 

 
 

一般入試。インターゼミ。脳力のレッスン「2018年への確かな視座」

多摩:一般入試で本部詰め。

 

九段:インターゼミ。

木村:メディアの劣。正月のバラエティ番組。イスラエルのハーレッツのインタビュー。荻野。松井:デューイ。経験値を高める。学力と人間力。思想・哲学。

学長講話:団塊世代は不条理の経験がない世代で物欲の塊。団塊ジュニアは甘っちょろい。その子たちが大学に入ってくる。志には不条理をはじき飛ばすものがなければ。100歳人生には自分とは何か問うことが必要。アイデンティティ。世代。ヒューマンリレーションマップ(進化・相手に貢献しているか。つながり。問題解決に重要)。アセットマップ(資産。進化?)。中年の危機。壁を突破。力をつけなければ蔑まれる。試練の場。課題解決力。アセットとヒューマンリレーションで解決していく。高校の同級会。そろそろカードを置き始めているのが残念。テーマ。一生のテーマ。一定以上の知見。インターゼミはますます重要になる。戦後日本の多摩ニュータウン団塊世代団塊ジュニア団塊の孫をどうづるのか。ジェロントロジーは若者を対象としたテーマ。(ジェロントロジーとアクティブラーニングをどう組み合わせるか)

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「世界」の連載「脳力のレッスン190」(寺島実郎

2017年:政治リスクの高まりと異様な株高。幸運。トランプは自我狂とディールという貧弱なリーダー。日本はトランプに運命を預託すべきではない。適切な距離感・温度差を。宗教革命500年。400年ぶりの宗教の蘇りと宗教の名による殺人。五識(眼・耳・鼻・舌・身)・六識(理知・感情)・末那識、阿頼耶識、阿摩羅識に至る意識が情報の結合により宿る。宗教は認識ではなく意識。

2018年。政治と市場。トランプ主義とマクロン主義。閉ざされた世界とプロ・グローバリスム。永久政権をはかるプーチン。強権化する周金平。主体的にあるべき日本を構築する意思。鍵はジェロントロジー(体系的高齢者学)。社会参画のプラットフォームの創造とそのための意識醸成の知の再武装システム構築の試み。

 

今日の収穫「内容は高く、表現はやさしく」(化学同人

 

「名言との対話」1月19日。船井幸雄「成長が実感できる毎日は幸せだ」

船井 幸雄(ふない ゆきお、1933年1月10日 - 2014年1月19日)は、大阪府出身の経営コンサルタント

京都大学農学部卒。産業心理研究所、日本マネジメント協会を経て、19070年に日本マーケッティングセンターを設立。船井総合研究所に社名変更、1988年に経営コンサルタント会社として世界初の株式上場。経営指導のプロとして350人のコンサルタントを率いて活躍した。

以下、船井語録から。

「成功する人間には成功する性格があるものだ。能力で成功するのではない」「愚痴るな、嘆くな、舌打ちするな」「仕事の目的を考えることだ。何のための仕事かと、それだけ考える」「長所を磨きに磨くんです」「一番と二番の差は、二番と100番の差よりも大きい」「一流になりなさい。そのためには一流だと思いこむことだ」「朝早く来る人間は、成長しますよ」「成長が実感できる毎日は幸せだ」「マクロに大局をつかみ、ミクロに行動しなさい」「単純化」「原点は継承せよ。仕組みは革新せよ。そして品質は進化させよ」「本物を見続けなさい」「世界で日本化が進む」、、。

船井幸雄本人には会ったことはないが、仙台時代には船井総研支部や関連会社で講演をし、経営コンサルタントという職業の人たちと接触したことを思い出しながら書いている。彼らが船井本人を深く尊敬していたことは、船井の語録を読むと納得する。こういう言葉を適切な場面で直接言われれば大きな影響を受けるだろう。そして全国の経営者がその影響を直接、間接に受ける。それが会社全体に広がっていくという構造になっている。船井幸雄は偉い人だ。

成功、一流、一番、本物、、。そういうものに一足飛びになれるものではない。昨日よりも今日、今日よりも明日とわずかでも成長を実感できる日々を送ることは素晴らしいことだ。その成長の過程が自身に見えるようにすることが重要だ。計画を立てよう。日記をつけよう。ブログを書こう。

 

参考」佐藤芳直『船井幸雄の60の言葉』(マガジンハウス) 

思いが実現する 船井幸雄の60の言葉

思いが実現する 船井幸雄の60の言葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相談。打ち合わせ。授業。録画。ミーティング。面会。移動。会議。相談。

「副学長日誌・志塾の風」180119

多摩キャンパス

・8時45分:高野課長と相談

・9時:秘書と打ち合わせ。講演準備、シラバス改訂、、、、。

・10時:客員の久米先生と懇談。午後の録画の打ち合わせ。

・10時40分:「立志人物伝」の14回目の授業

・12時半:T-Studioで久米先生と「トレンドウオッチング」の対談録画。30分。

・13時:事務局との定例ミーティング

・14時:多摩信金の長島部長が融資部長への異動の挨拶にみえる。地域支援部長の後任は川口幸子さん。

・14時半:知研の八木会長。岩澤さん。

 

杉田学部長の車で意見交換をしながら九段サテライトへ。

・16時半:学長主催のブランディングの会議(2学部1研究科)。構想力。シンガポール。オランダ。プレステージ。参画のプラットフォーム。高齢社会工学。大浮上作戦。日本全体。グローバルな視界。

・意見交換。私からは「総合力」「長寿社会工学」「日本型」「山野の美」「運動論」などの観点から意見を述べた。今年度に2回会議を予定。

・終了後、3階の文庫で、人事案件で学長と相談、説明、意見交換。

 

 

「名言との対話」。1月19日。大鵬横綱が物言いのつく相撲を取ったのが悪い」

大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年昭和15年5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の大相撲力士。第48代横綱

私は子ども時代の栃若時代では若乃花に熱中し、10代の柏鵬時代は大鵬のファンであった。大鵬は21歳で横綱になり、31歳で引退したから10年以上横綱を張っていた。双葉山大鵬北の湖千代の富士、、、と続く大横綱の中でも、特別な存在であった大鵬。中国の古典「荘子」の「逍遥遊」に出てくる大きな魚はひとたび鳥に化すと9万里を飛ぶ「鵬」となるという。そこから古典に詳しい師匠がこの四股名をつけてくれたものだ。この命名のとおり、この力士は大いなる鵬になった。

相手十分の相撲を取りながら勝つ相撲、自然体で応じてなお勝てる相撲が大鵬の相撲であるは、先輩から69連勝の「双葉山の強さは誰に対しても紙一重の強さだ」と聞いて興味深かったと言っている。タイプの近い双葉山という先達を目標に励んだのではないか。

「天才ではない」「努力型だ」「周囲のおだての乗ってしまったらおしまい。死ぬまで勉強」「相手が研究してくれば、その上をいく研究と稽古に励む。毎日毎日同じことの繰り返し。コツコツ、一つのことを繰り返し続けることです」

相撲は自分との戦いであり、「経験、体験、体得」していく、それが「相撲道」であるという大鵬は、心の硬さを調整し、柔軟な心を養うために、精神を鍛えていく。

優勝回数32回の大記録をつくるのだが、九州場所の宿舎・八大龍王寺の福山日種上人は32回の優勝を予言していた。いつの間にか、この予言が頭の中でこだましてその通りになったのだろう。

 

相撲取りは短命である。横綱を張った力士が長寿で還暦まで元気であることを祝って赤い綱を締めて土俵入りを行うという習慣がある。2000年に大鵬はこの栄誉に浴している。この土俵入りは太刀持ち北の湖、露払いが千代の富士という豪華版だった。

山形県鶴岡の横綱柏戸記念館には「阪神柏戸、目玉焼き」という言葉があったのに驚いて笑ったことがある。大鵬は、目標であり、ライバルであり、友人であった柏戸に出会えて本当に幸せだったと述懐している。大鵬柏戸戦は大鵬の21勝16敗だった。故郷・釧路の川湯温泉の「大鵬記念館」(川湯相撲記念館)にも訪問したい。

孫の三番目の幸之助はジャンボサイズで、娘婿の貴闘力と一緒に子どもの頃から相撲取りにさせようと考えていて、「大相撲三世の時代が来るかも知れない」と2001年に大鵬が語っている。この幸之助が2017年12月に大嶽部屋に入門した納谷である。大鵬の予言が当たるだろうか。

46連勝で物言いがついて戸田に負けたビデオをみると明らかに戸田の足が先に出ていて、当時は世紀の大誤審といわれた。しかし大鵬はあれでいいとし、「横綱が物言いのつく相撲を取ったのが悪い」とコメントしている。相撲道を信じて歩き具現した横綱であった。相撲は豊作を願って神前で行う祭祀であり、相撲社会の伝統を守らなければならない。現在の揺れる角界大鵬の相撲道の精神を絶やさずに繁栄を続けることを願う。

 

参考:大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き--私の履歴書』(日本経済新聞出版社

巨人、大鵬、卵焼き―私の履歴書

巨人、大鵬、卵焼き―私の履歴書

 

 

 

 

 

 

 

 

サクラ前線に死す

立川

・所用を済ます。

・電話で打ち合わせ:近藤秘書、杉田学部長。高野課長、、、。

 

荻窪

・角川公園の「幻戯山房」を訪問。角川書店の創業者・角川源義の住居跡。

橘川幸夫さんと喫茶で打ち合わせ:ゲーム研究会。中川大地、大野清一、榎本統太高橋しんすけ、、。日本未来学会。リカレント教育。寄付講座、西村、eラーニングとスクーリング、知のカルテ、ブロックチェーン、、、、、。

・日本地域社会研究所を橘川さんと吉池さんと訪問。夕刻から飲み会を兼ねた企画会議。

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 「名言との対話」1月18日。岩見隆夫「晩年は、毎春、サクラ前線に合わせて、主として徒歩で日本列島を北上、ついで夏祭りをたどりながら南下、各地の銘酒を訪ね歩いた」

岩見 隆夫(いわみ たかお、1935年10月6日 - 2014年1月18日)は、日本のジャーナリスト政治評論家 

2000年発行の『私の死亡記事』(文藝春秋社)は、「ご自身の死亡記事を書いてください」という依頼に各界102人が応えた文章をまとめた企画である。当時64歳の岩見は「サクラ前線に死す」というタイトルで次のように人柄を髣髴とさせる文章を書いている。

美瑛町で今年最後の桜を観賞中、突然倒れ、救急車で運ばれたが、まもなく死去した。運ばれる途中、「サクラ、サクラ……」とつぶやいたのが最後の言葉になった。、、、、晩年は、毎春、サクラ前線に合わせて、主として徒歩で日本列島を北上、ついで夏祭りをたどりながら南下、各地の銘酒を訪ね歩いた。、、、、「徒歩・桜・祭・酒の四拍子人生だ」が得意のセリフだった。テレビドラマ「水戸黄門」をもっとも好み、漫遊癖もその影響ではないか、と知人たちは語っている。

その後、10数年を経て亡くなった岩見隆夫についての2014年1月18日の毎日新聞の訃報記事は以下の通りであった。

 「毎日新聞社特別顧問の岩見隆夫(いわみ・たかお)さんが18日、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。78歳。葬儀は近親者のみで営む。後日、お別れの会を開く。自宅は静岡県熱海市網代549の19。喪主は妻雅子(まさこ)さん。 旧満州生まれ。終戦で引き揚げ山口県に。1958年京都法学部卒。同年毎日新聞社入社。政治部副部長、論説委員サンデー毎日編集長、編集局次長、特別編集委員などを歴任した。 89年9月から昨年12月まで、朝刊コラム「近聞遠見」を執筆。同コラムと昭和天皇の政治との関わりを浮き彫りにした連載「新編・戦後政治」の努力が評価され、92年に日本記者クラブ賞を受賞した。政治ジャーナリストとしてテレビなどでも活躍した。 昨年6月、週刊「サンデー毎日」のコラム「サンデー時評」で、肝臓がんであることを明らかにし、新宿区の病院で治療を続けていた。サンデー時評は死去の直前まで続けた。主な著書に「昭和の妖怪 岸信介」「総理の娘」「陛下の御質問」「角さんの鼻歌が聞こえる」など」。本人の希望とは違って実際の死亡記事は仕事中心となってしまった。

テレビ「みのもんたのサタデーずばッと」では毎週出演して政治評論を行う姿はよく見かけたのだが、サクラ前線を徒歩で追いかけながら、各地の銘酒を訪ね歩くという岩見隆夫の理想の旅は私の年来の希望と似ているので共感を覚える。「沖縄八重岳は1月18日に桜祭り。北海道・宗谷岬公園の桜は5月中旬が見頃。ソミヨシノは九州から北海道まで4月1日から5月中旬過ぎの二か月足らず。紅葉前線を追って北海道から南下する旅はどうか。私なら、温泉、人物記念館、知研、車、SNSとなるだろうか」と私は2014年のこのブログで記していた。生前に「私の死亡記事」を書いておくのも悪くない。

 

 

私の死亡記事 (文春文庫)

私の死亡記事 (文春文庫)

 

 

 

 

江川卓と小林繁

1978から1979年にかけて起こったプロ野球江川事件。今回、小林繁について調べて、この事件の全体構造と当事者同士の関係がよくわかった。

 

「名言との対話」1月17日。小林繁「人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするな」

小林 繁(こばやし しげる1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

ノンプロを経て、1972年に巨人に入団。1976年年、1977年に連続18勝をあげ最優秀投手となり長島強巨人の優勝に貢献。昭和54年、江川卓との電撃トレードで阪神に移籍し、22勝で最多勝投手。1977年年と1979年には沢村賞。11年間のプロ野球生活で、139勝95敗17セーブ。

巨人との契約時には「プロである以上、実力は金銭でしか算定されない」との考えで、当時の制限最高額である1000万円の契約金を要求。900万の契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件を勝ち取った。以後、この精神で球界で生きていった。

巨人が「空白の一日」を使って江川卓を獲得するために犠牲になって、阪神にトレードされて大きな話題になったのが小林繁である。野球協約では入団交渉はドラフト会議当日から翌年のドラフト会議の前々日となっていた。巨人はドラフト会議の前日に江川と入団契約を交わす。セ・リーグ会長は認めなかったが、巨人はドラフト会議をボイコット。ドラフト会議では阪神が江川との交渉権を獲得するが巨人は江川の地位保全東京地裁に行い、日本プロ野球機構を脱退し新リーグ設立に動く。機構の金子コミッショナーは「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」と強い要望を出し期限を1979年1月31日とした。その1月31日に小林はトレードを通告される。この日が運命の一日となった。

球界の盟主、紳士たれがモットーの巨人が禁じ手を使ったのだ。「野球を捨てる覚悟」で対応した26歳の小林は、悪役・江川とは対照的に一夜にして悲劇のヒーローになっ

た。この事件は毎日のようにマスコミに出て、国民的事件だった。

阪神の江本投手は「3本のハリガネを1本の束にしてより上げ、ハガネにし、さらにそのハリガネを束にしたような筋肉」と、著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』に書いている。小林は強靭な精神力で気迫で投げる投手だった。事件の翌年から小林は巨人戦で8連勝をかざっている。3つ年下の江川の生涯成績は9年間で135勝72敗3セーブ。江川は後に「自分は小林を抜くことができなかった」とコメントしている。

引退後は野球解説者、ニュースキャスターなどを経て、いくつかの球団の投手コーチなどを歴任している。2007年秋に黄桜のCMで互いに50代の大人になっていた二人が共演し「空白の一日」について語り合って話題になった。今回久しぶりにその映像をみて、この事件に翻弄された二人の人生を想った。

長い人生では勝負する時が何度かある。それはチャンスと危機が同時にみえる時だ。恐怖に負けて見送るか、乾坤一擲の勇気を出して飛び出すか。天に向かうか、谷底に落ちるかは分からない。それが運命の分かれ目になる。小林繁から学ぶことは、好球を見送って三振を宣言されるようなことはしないで、「思い切りバットを振れ」である。

 

参考:小林繁『男はいつも淋しいヒーロー』(プロメテウス出版社)

 

男はいつも淋しいヒーロー (エンターテイメントシリーズ)

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