多摩未来創造フォーラム---小池百合子東京都知事の基調講演と、市長・学長・社長のシンポジウム

多摩未来創造フォーラムが玉川大学にて行われ参加した。

元々は公益社団法人「学術・文化・産業ネットワーク多摩」が主催する多摩の大学の理事長・学長会議だった会合がフォーラムに進化した。

名刺交換の時間に懇談:ネットワーク多摩の細野専務。八王子市の木内容子副市長。キャリアマムの堤代表。いなげやの成瀬社長。立飛ホールディングスの村山社長。法政大学の増田副学長。学生情報センターの清藤常務。

小池百合子都知事を迎えての昼食会:気候変動と飢饉、革命。23区の定員厳格化。首都大の100年人生講座。東京オリンピックのオランティア。、、、。小池知事とも名刺交換。

小池知事の基調講演。「新しい東京の実現に向けた多摩地域の可能性--2020年のその先を見すえて」。

・現在の東京をつくった偉人たち:後藤新平(幹線道路)。安田善次郎日比谷公会堂)。渋沢栄一井の頭公園)。

・セーフシティ。ダイバーシティ。スマートシティ。

・多摩は人口の3分の1。面積の2分の1。昨年、多摩振興プランを作成。多摩は2020年の人口422万人が2040年に398万人。都の予算は7兆円。予算の総合交付金490億円から550億円に。製造業5兆円は東京都の6割。2015年の観光インバウンド1000万、2017年1379万人。多種多様な農産品・加工品。みどり率は67%(都は50%)。鳥の目・虫の目・魚の目。

・セーフシティ:人に着目:子育て。受動喫煙児童虐待。医療。多摩ニュータウンの再生。防災。。無電柱化推進条例。

ダイバーシティ:幹線道路6割。南北・東西7割。公共交通ネットワーク。モノレールの延伸調査費。・産業:イノベーション。VR。都市農業。ブランド化。8つの自然公園の総合ビジジョン。

・スマートシティ:ゼロエミ。EV充電設備。燃料電池車。二輪車

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細野専務司会のシンポジウム。

細野:大学を核として次の時代を準備する。集積のメリットを出せているか?交通の問題が大きい。

立川市清水市長「南北の渋滞」。町田市の石坂市長「モノレール延伸を期待」。いなげやの成瀬社長「人出不足」キャリアマムの堤社長「職住近接。サテライトオフィス」。京西テクノスの臼井社長「人材が課題。4%しか就職しない」。創価大学の馬場学長「留学生8%。留学生対応が課題」。帝京大学の沖永学長「留学生3.5%。留学生対応が課題」。桜美林大学の畑山学長「留学生7%。国際化とキャンパス拠点化」

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 創価大の馬場学長「生涯教育の拠点に」。帝京大学の沖永学長「日本人だけではやっていけない。留学生。新産業と自治体の有機的連携」。桜美林の畑山学長「国際線パイロット育成事業」。うなげやの成瀬社長「社員は多摩から取りたい」。キャリアマムの堤社長「サテライト。ジョブカード」。京西テクノスの臼井社長「日本にいながらグローバルマーケットを相手に。IOT。メンテ。インターンシップ採用」。立川市清水市長「モノレール90キロ計画。今16キロ。隣接の8つの市で首長勉強会、そろそろ」。町田市の石坂市長「町田と立川をつな雲のレール」、、、。

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 玉川学園創立者・小原國芳の言葉が、全学共通の実践目標となった。

「人生の最も苦しい、いやな 辛い 損な場面を 真っ先に微笑を以って担当せよ」

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 「名言との対話(平成命日編)」6月9日。塚本邦雄「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」

塚本 邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本歌人詩人評論家小説家

学校卒業後、商社に勤務。転勤した松江で鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』は中井英夫三島由紀夫に絶賛された。

1960年代の前衛短歌運動の先頭にたって、 寺山修司岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称された。また近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

歌集は80冊を残した。また俳句小説評論なども多く発表している。死後には蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。

絢爛たる語彙と強烈なイメージを駆使した短歌を残し、後進に影響を与えた。塚本の歌は難解であるが、以下比較的わかりやすいものをいくつかピックアップしてみよう。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ

百年後のわれはそよかぜ地球儀の南極に風邪の息吹きかけて

 五月祭の汗の青年、病むわれは火の如き孤獨もちてへだたる

青年の群に少女らまじりゆき烈風のなかの撓める硝子

少年発熱して去りしかば初夏の地に昏れてゆく砂絵の麒麟

日本脱出したし、皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも

人生いかに生くべからざるかを憶ひ朱欒(ザボン)を眺めゐたる二時間

あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす

急速に日本かたぶく予感あり石榴をひだり手に持ちなほす

ほととぎす啼け わたくしは詩歌てふ死に至らざる病を生きむ

乳房その他に溺れてわれら存る夜をすなはち立ちてねむれり馬は

父となり革(あらたま)る莫(な)しぬかるみに石油の虹のみだるるを喩(こ)ゆ

台風は冴え冴えと野を過ぎたれば再(ま)た綴るわが片々のこころ

逝きしもの逝きたる逝ける逝かむもの疾風(はやて)ののちの暗き葉ざくら

二十世紀と言ひしはきのふゆく秋の卓上に梨が腐りつつある

人に告げるざることもおほかた虚構にて鱗(いろこ)きらきら生鰯雲

日清日露日支日独日日に久米の子らはじかみをくひあきつ

秋の河ひとすぢの緋の奔れるを見たりき死後こそはわが余生

 塚本邦雄の名前と業績については、恥ずかしながら全く知らなかった。今回作品に接してみて、跳躍する驚くべき発想、絢爛たる豊かな語彙、冷え冷えとした眼差しなどに深く感銘を受けた。「人間の愚かさ。『人間の』は、よけいだ。愚かなのは、人間以外にない」と塚本邦雄は言う、冒頭の歌「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」は、戦争の悲惨さと人間の愚かさをわずか31文字であますところなく伝える衝撃の作品だ。

 

 

 

授業「図解文章法」:文章を書くことに抵抗が減ったという感想が多かった。

10時:橘川先生:ピリオ(名言)。無限教師。移民、、、。

10時40分:授業:テーマは「図解文章法」。文章を書くことに抵抗が減ったという感想が多かった。

12時半:山本さん:T-Studioでの録画企画。女性教授シリーズ。

12時45分:高野課長:インターゼミ、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」6月8日。青木定雄「常識的なことをしっかりやることが、これが革命なんです」

青木 定雄(あおき さだお(通名)、1928年6月23日 - 2017年6月8日)は、日本実業家在日韓国人1世。MKタクシー創業者。

15歳で韓国から渡日。23歳立命館大学中退。32歳、ミナミタクシー創業。41歳、MKシステム(コストカットで浮いた利潤の83%を乗務員に還元。銀行支店長並の給与を目指す)を採用。49歳、桂タクシーを吸収しMKタクシーを設立。66歳、代表取締役会長を退任。73歳、経営破綻した3つの信用組合の事業を引き継いだ韓国系近畿産業信用組合代表理事会長に就任。青木定雄は交通と金融の革命児となった。

1972年、急病・急用・出産対応の深夜ステーション。1975年、学士ドライバー採用。1978年、救急タクシー(赤十字の救急員資格)。1983年、身体障害者割引制度。1992年、全車両禁煙。1995年、阪神・淡路大震災に救援無償タクシー派遣。2割が英語で観光案内。ライセンスがあればサービス料として10万の追加収入、ライセンス獲得者のうち年間5人をイギリス留学、20万円の追加収入。動く情報デパート。待合室。運賃値下げで運輸省を提訴し勝訴、、。「教育がすべてなんです」という青木定雄は、月に9回の社員向けセミナーを実施。大学教授やお寺の管長などが講義するなど、自身の講義も含め教育に全精力を傾けた。

MK精神とは奉仕と親切の精神であり、人本主義を標榜する世直し企業を一代で創業した。結果的に、日本のタクシー業界を一段階グレードアップした。京都のタクシーではトップ。全国で9番。「エレガント・カンパニー」。いい商品、いいサービス。9位。日経流通新聞の「商品ブランド」では、3位。、、というように社会的評価も高かった。MKタクシーの斬新な経営改革は、メディアで大きな話題になった。東京への進出時には街で見かけて、私も試したことがある。

消費者からみて当たり前の常識を、自らの企業で徹底して工夫を重ね、実現していったという印象が深い。それが社内の意識を改革し、さらに業界と地域を越えて波及していき、世直しが実現しているという思いが青木定雄にはあった。経営手法や評価には、嫉妬も含めて賛否両論、そして毀誉褒貶があるのは当然だが、「経営は一つの総合芸術である」と考えた交通の革命児、風雲児であったことは間違いない。

 

韓流 人が動く―MKタクシー青木定雄の成功哲学

韓流 人が動く―MKタクシー青木定雄の成功哲学

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中村元一・ノグチ幸一『ハイ、MKタクシーの青木定雄です』(ダイヤモンド社

 

 

「去年今年貫く棒の如きもの」--ブログ「今日も生涯の一日なり」、連続5000日目。

このブログ「今日も生涯の一日なり」が、2004年9月28日以来、本日で連続5000日を達成した。13.7年かかっている。生まれてから本日で24992日であるから、人生の5分の一はブログを書いていることになる。

ブログは毎日コツコツと一歩づつ積み上げていく感じがあるから、野球で言えばヒットを打つ感覚に近い。最初はファンである松井秀喜の連続試合出場記録1768を目標にすると冗談で言っていたのだが、その数もとうに超え、いつか名球会資格のヒット数2000を超えた。4位の松井(日米通算)を超え、長島(2471本)、王(2786本)、野村(2901)、そして日本トップの張本の3085という数字を過ぎた。メジャーリーグ2位のタイ・カップの4191本、1位の4256本のピート・ローズも、そしイチローの日米通算4367安打も越えてきた。5000日達成には、少し感慨がある。

宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。鍛錬とは千、万の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。

この考え方でみると、練れるのは一万日であるから、そこに達するのは生まれてから約3万日あたりで、私は82歳になっているはずで、その時点では人生の3分の一はブログを書いていることになる。1万5千日は95歳あたり。ブログが2万日になるのは109歳。その時点では人生の半分はブログを書いていることになる計算だ。以上は空想と妄想。

「去年今年貫く棒の如きもの」と虚子が詠んだように、生涯にわたって棒の如く日々少しづつ進んで行こう。

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 「名言との対話(平成命日編)」6月7日。日高六郎「自由からの逃走」

日高 六郎(ひだか ろくろう、1917年1月11日 - 2018年6月7日)は、日本社会学者 

1941年東京帝国大文学部卒業。戦後、東大新聞研究所助教授を経て同教授。1969年、東大紛争の機動隊導入に抗議し、教授を辞職した。

市民運動家として「人間の解放とは何か」を問い続け、ベトナム反戦水俣病日米安保条約問題など現実の問題に積極的にかかわった。宿泊客らを人質に旅館に立てこもり注目を集めた1968年の金嬉老事件の際は、背景にある在日コリアン差別を指摘し、金氏を擁護した。戦後民主主義憲法擁護の立場から60年安保改定の問題点を論じたほか、ベトナム反戦の国民行動を呼びかけ、革新市民運動をリードした。戦争加担を拒否して脱走した米兵を援助する活動も、作家の小田実(まこと)や評論家の鶴見俊輔らと進めた。その後も、雑誌「市民」を創刊するなど、平和や教育、社会問題について発言し続け、市民運動の拠点として創立された「国民文化会議」の代表も務めた。
1980年代後半からはパリに住み、「九条の会」などの招きでたびたび帰国、講演やシンポジウムに出席した。

恩師の尾高邦雄教授は「日高君は思いつきと構想力の天才である。それなのに、まだ自分の仕事らしい仕事を発表していない」と不満を語っていた。鋭いジャーナリスティックな感覚があり過ぎて、社会学から離れて現実の市民運動に深入りし過ぎたという思いであろう。

日高六郎という名前は戦後のいわゆる進歩的文化人の一人であり、マスメディアで発言する勇姿はよく見かけたものだが、本日までその後もずっと生きて101歳の長寿を全うしたセンテナリアン(百寿者)である。

  ドイツ社会心理学者エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を訳したことでも知られる。「人間の解放」を問い続けた日高は、自由を見つめていたのだろう。前近代社会の制度からの解放は「--からの自由」にとどまり、次の段階としての個人の諸能力の表現という「ーーへの自由」にまでは届かなかった。「--からの自由」は得たが、孤独や責任という新しい恐怖に直面することになり、自由を手放したくなる。それがヒトラーを生んだのだ。日高六郎は高い次元の「ーーへの自由」の存在する社会を夢見た。それは自我の確立した市民が自由に表現できる社会であり、それを実現する運動に生涯を賭けたのであろう。

 

トレンドウオッチャー第13回 橘川幸夫客員教授。話題は「連休、アジア、ゲーム、教育とゲーム、、、」

T-Studio「トレンドウオッチャー第13回」は 橘川幸夫客員教授へのインタビュー。

話題は「連休、アジア、ゲーム、教育とゲーム、、、」

www.youtube.comトレンドウォッチャー ~時代の波がしら~ || 多摩大学 現代の志塾

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「副学長日誌180606」

・渡辺さん(学長室):戦略会議「就職」「教務」の打ち合わせ

・小西先生・趙先生・金先生:自己点検

・学部長・学科長ミーティング:杉田経営情報学部長、小林経営情報学科長、趙事業構想学科長。

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「名言との対話(平成命日編)」6月6日。なだいなだ「人間、とりあえず主義」

なだ いなだ1929年6月8日 - 2013年6月6日)は、精神科医作家評論家

1955年、慶応病院医学部神経科に入局、精神科医として勤務するかたわら、文筆活動を行う。医局には麻布中学の2年先輩の北杜夫がいた。

小説家としては6回芥川賞の候補に上るがとうとう受賞はならなかった。これは最多落選記録である。しかし『娘の学校』は1969年に婦人公論読者賞受賞。1975年に『お医者さん』で毎日出版文化賞受賞。1991年にベストメン賞(日本有職婦人クラブ)を受賞。

精神科医師としてはアルコール依存症をメインテーマとし、7年間つとめた国立療養所久里浜病院ではアルコール依存症の治療方法を確立し、それは。「久里浜方式」と呼ばれた。

「今の日本の老人の不幸は、大学病院の老人専門の医者が、老人ではないことではないか」というなだいなだは、。2003年に『老人党宣言』という著書を出し、インターネット上のヴァーチャル政党「老人党」を提唱し、上田哲立川談志西丸震哉が賛同、老人党東京を旗揚げし話題になった。

「日本は強い国ではなく「賢い国」になれ」「重要なのは意志じゃなくて意地なんです」「取り締まる教育でなく見守る教育を」「大人になると質問をしなくなる」

初老期では、今から取り組んでも中途半端に終わるのではないかと想い、大きなテーマに取り組む気持ちが萎えてきて鬱病になる。それでいいではないかと思えるようになったら、鬱病はなおっていくとこの精神科医は言う。とりあえず主義者になれば、いいのだ。これがスペイン語の "nada y nada"(何もなくて、何もない)に由来するペンネームを持つなだいなだの主張である。完全でなければ、完遂しなければ、という強迫観念から脱し、とりあえず前に進もう。
人間、とりあえず主義

人間、とりあえず主義

 

 

 

6月2日の「知研東北」設立総会及び記念講演の記録。

2018年6月2日に行わた「知研東北」設立総会及び記念講演の議事録が事務局の本山さんから送られてきた。以下。

・ 15時~16時 第1部:「知研東北」設立総会19名参加。仙台の中小機構東北6階。

・16時~18時 第2部:記念講演 NPO法人 知的生産の技術研究会理事長 久恒啓一氏。「人生100年時代を迎え撃つ---アタマとココロの革命を」 19名参加。

・8時~20時 懇親会 19名参加

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第1部:「知研東北」設立総会

NPO法人 知的生産の技術研究会 副理事長 高橋茂人氏

NPO法人 知的生産の技術研究会の設立の経緯、38歳で入会してから今まで多くの刺激を受けてきた。今度は、それを次の世代に伝えたい。2020年にNPO法人 知的生産の技術研究会は、設立50周年を迎える。再興・再生が必要。その一環として今日、「知研東北」を立ち上げる。7月には「知研宮島」。来年は「知研北海道」が立ち上がる。地域を越えて知の交流を行う」

全員で名刺交換。人数が多い場合、このやり方はいい。これだと、誰と名刺交換したのかわからないということがない。

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NPO法人 知的生産の技術研究会 副理事長 「知研岡山」会長 伊藤松郎氏

「初めは異業種交流会を行っていた。でも、それには限界があると感じ、20年前に久保田貢さんと話し、本部との交流をスタート。なんといっても、よき仲間に尽きる。仕事もこのような活動も、楽しくなければいけない。様々な得意分野を持つ人に幹事になってもらっている。会を継続させるために、飽きさせない工夫をしている。講演会だけではなく、様々なイベントを企画して。知研東北とのコラボができたらいい。健康寿命をのばすためには、人とのつながり、交流が大切。知研が発展すればするほど、国に貢献する」

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NPO法人 知的生産の技術研究会 副理事長 高橋茂人氏

「知研岡山のやり方をヒントに。今日参加したメンバーはみな幹事。体制は以下の通り。会長は福島の大槻一博さん。会長の補佐として若い二人、青森の柳谷彰成(あきしげ)」さんと山形の菅原脩太さん。各県の幹事は、宮城県が片瀬弥生さん、早坂道信さん。福島県高橋美帆さんと佐藤義道さん。秋田県が黒田文男さんと萩原俊輔さん。岩手県が山田裕幸さん。山形県が菅原脩太さん。青森県が青森の柳谷彰成(あきしげ)さん。事務局が本山賢治さん」(今日参加されていなかった青森の三上博久さんも事務局です)

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日本経済新聞社の中沢編集員委員。

「25年前、久恒先生と高橋さんに会い、梅棹先生のことを知った。それ以前は、体力勝負の記者生活だった。梅棹先生の全集を読んだ。そして、民博の館長をしていたもとに梅棹先生のところにしょっちゅう行った。梅棹先生の言葉、『知はオリジナリティ』、『リアル』。梅棹先生は天才で一人でできるが、自分たち天才でない人間は共同でやるしかない。全国的に本の購読数は減っているが、東北は例外。特に、岩手県の購読数は日本一(率だと思う)。梅棹先生は、『知的生産の技術』を書いた前後に、『普通の人が発信する時代になる』と予言していた。そして、ブログやインターネットが普及し、自由にやれる時代になった。便利なツールがある時代だからこそ、生で会い、刺激を受けあうことが重要。直に触れ合い、知的生産をすることが大事。やっぱり人間関係。今後、地研の活動をまとめ、記事にする予定」

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16時~18時 第2部:記念講演 NPO法人 知的生産の技術研究会理事長 久恒啓一

「人生100年時代を迎え撃つ---アタマとココロの革命を」

「鳥の目で考える人、鳥瞰できる人が重要。大学時代、探検部に所属していて、梅棹先生の本に出会った。その後、日本航空に勤務していた1980年に知研に出会った。その後、約10年刻みでキャリアが変わっていった」

「今後は、超高齢化時代になる。長生きはリスクというのは間違い。『新・孔子の人生訓』の図を用いて人生50年時代と現在の高齢化時代の比較。国の65歳定年は、キャリアデザインの考えは全くない。キャリアは、青年期・壮年期・実年期の3つ。そして、その後も、熟年期・大人期・仙人期の3つある。ワークライフバランスという言葉はおかしい。ワークとライフを並列に考えている。ライフデザインをどうするかが大事」

「箇条書き、カタカナだから、だまされる。箇条書きは実体を表していない」。「読む→書く→考えるというのは、順番が違う。読む→考える→書くが正しい。これが、ビジネスコミュニケーション。図解は、理解できたこと、疑問に思ったこと、本当にわかったことだけで組み立てて描く」

『アジア・ユーラシアダイナミズム・・・日本をめぐる世界潮流』という図をもとに、世界の構造や変化を説明。「1枚の図で全体を表すことができる。この中の数値は毎年書き換えている。そうすることによって、世界の構造の変化がわかる」。 『江戸幕府の成立』という図をもとに説明。「年号や部分部分だけで覚えさせられたが、覚えていない。それは、図解していないから。このように図を描いたことによって、記憶できる。そして、見ないでも話せる。図を描いているときが、脳が一番働いている。ある分野で100枚図を描けば、図同士が関係しあう」

「講演会をやると、現場が見える。その業界のことは知らなくても、どこに行っても話せる。どの会社・組織に行っても、『うちには考える人間がいない』と言われる。考える力・企画力・想像力・構想力が欠けている。文章はコミュニケーションのOS。私は、そこに図解を入れた。それ以外のものはOSではなくアプリ。図解というOSを握っている人の勝ち。図解はグローバル言語」

 人生100年時代:「2005年に始めた人物記念館巡りの旅は800館を超えた。やってみてわかったことは、いかに歴史を知らなかったか、なんて偉い人が多いんだろう、人は必ず死ぬ、人生は有限ということ。人物館巡りの旅をブログに書くという修行を行っている。自分の周りの人に影響を与えられるのが偉い人。もっと偉い人は、広く深く影響を与える人。もともっと偉い人は、長く生きて影響を与える人。死んだ後も影響を与えることができる人が一番偉い。深さ×広さ×長さ×死後の長さ。近代の中では、福沢諭吉が一番偉いと思う。経済界では渋沢栄一。お金・事業・思想の順で残す人が偉い。普通の人は、なかなかそうはいかない。普通の人は、高尚な人生を送ることが偉いこと」

 今後の知研はどうあるべきか。「俳句結社のようなものだ。どこに行っても仲間がいる。そうやって人生を送る。そのための勉強は、図解とマネジメントゲームだと思う」

 『豊かさとは自由の拡大にある』という図をもとに説明。「肉体的自由を土台として、経済的自由と肉体的自由を得て、精神的自由を獲得する」

 以上、今日は、総括してざっくりと話した。

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NPO法人 知的生産の技術研究会 副理事長 高橋茂人氏

締めの言葉。今後、図解は勉強したほうがいい。本山さんに教わって、一緒に。今後は、仙台以外でも集まるようにしたほうがいい。仙台→仙台以外→仙台→仙台以外・・・・・・・と。そうやって、場所を移動しながら学んでいく。その土地に行って、誰に会うかできまる。活動は、記録に残すこと。各地の事務局が編集委員になる。活動は、本部に送って『知研フォーラムに載せてもらう』。

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「名言との対話」。6月5日。佐藤棟良「大地に足跡を残せ」

佐藤 棟良氏(さとう・むねよし。1919年1月1日-2015年6月5日)は宮崎のフェニックスリゾート創業者。

佐藤棟良は年商1300億円の規模の紙の専門商社・旭洋を一代で築いた。故郷の宮崎にフェニックス観光を設立。バブル期に日本中が不動産投資で沸き立っていた頃、宮崎交通社長の岩切章太郎社長と、松形宮崎県知事と3人で宮崎を一大観光都市へ生まれ変わらせる構想を練った。その構想は総合保養地域整備法(リゾート法)の第1号指定である「宮崎・日南海岸リゾート構想」の中核施設「宮崎シーガイア」として実現する。官民一体の巨大プロジェクトである。

 1988年、宮崎市内で第三セクターとして設立された企業の社長に就任。1993年に大型リゾート施設「シーガイア」を開業した。バブル期に策定された計画は総事業費680億円であり、世界規模の国際会議場、地上42階・地下3階のホテル、プロゴルファー、トムワトソン設計のゴルフ場、そして巨大な開閉式屋根を持つ室内プール「オーシャンドーム」であった。「オーシャンドーム」はギネスブックにも登録されるほどの規模だった。計画はどんどん過大になり、結局着工時は2,000億円を超えるものとなった。

シーガイヤには日航時代に訪問したことがある。確か社内の大きな会議がここで開催された時だったと思うが、その時に話題の大型ホテル、オーシャンドームなどを視察した。九州沖縄サミットの会場となるかもしれないとのことで、その施設も見学した。

佐藤は「シーガイアはかならず世界遺産になる」と豪語していたが、開業時にはバブル崩壊の影響で客足が伸び悩み累積赤字が拡大した。初年度入場目標数は250万人であったが、半数を下回る集客が続く。最大の年間入場者数は1995年の約124万人であった。 2000年の九州沖縄サミットでは外相会談が行われている。2001年には遂に3,261億円の負債を抱え会社更生法を申請。アメリカの投資会社リップルウッド・ホールディング社が投資額の1割にも満たない162億円で経営権を取得し、県民の財産であったはずの施設は外資の手に渡ってしまった。2012年にはフェニックスリゾートの全株式をセガサミーホールディングスが取得し、完全子会社化している。

佐藤棟良は、裸一貫で事業を興し、82歳にしてまた裸一貫にもどった。しか外資の運営によってシーガイヤは残った。「大地に足跡を残せ」という哲学は、皮肉なことに壮大な失敗の軌跡として実現したのである。

 

 

 

 

 

 

 


 

多摩大学・高大接続アクティブラーニング研究会の2018年度の第1回を開催。

多摩大学・高大接続アクティブラーニング研究会。2018年度の第1回を開催。

・金センター長挨拶。

・自己紹介:多摩大(金・小西・趙・バートル・加藤・初見・松本・杉田。水嶋・池田・松井)以外は以下。神奈川県立上鶴間高校の浅香先生、室井先生、夕田先生。科学技術学園高校の豊島先生。多摩大聖ヶ丘高校のいずおか先生。目黒学院の藤牧先生、多摩大目黒の越前先生、谷川先生、田端先生、加藤先生、、、。

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 目黒学院の藤牧先生:KP法。質問と回答。なりきる。演劇的手法。納得感の醸成。ペアワーク。ルーブリック。学力も向上。 

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多摩大目黒の谷川先生:ipad。新教育研究部。classi。actibook(動画)

スタディアプリ。kahoot(小テストあり)。デジタル教材の活用。

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多摩大目黒の越前先生:校外アクティブラーニング。異文化・異世代・探究。チェジュ島・いちょう団地・起業体験・東北復興に加えプログラミング体験プロジェクトも。

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記念撮影。

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「名言との対話(平成命日編)」6月4日。林隆三「感情を込めないと、我々役者は」

林 隆三(はやし りゅうぞう、1943年9月29日 - 2014年6月4日)は、日本の俳優及びナレーター

四谷で生まれ、物心ついた時は新潟・柏崎。小学校は仙台で過ごす。両親が山形出身であり、微妙に異なる方言の中で育つ。終生人間の生の声としての方言にこだわり、渋みのある演技でドラマ、舞台などで活躍した。

1970年に木下恵介・人間の歌シリーズ『俄』(TBS)に初主演。その後、平賀源内の青春時代を描いた『天下御免』(NHK)に出演し、人気を博する。1974年には映画『妹』(藤田敏八監督)で秋吉久美子と共演し注目を集める。1977年、津軽三味線の名手高橋竹山の若き日を描いた『竹山ひとり旅』に、新藤兼人監督に請われて主演。津軽弁を駆使した鬼気迫る演技で一躍スターと認められ、第1回日本アカデミー賞の主演男優賞を受賞。その後、テレビドラマは『森村誠一シリーズ』『噂の刑事トミーとマツ』『夢千代日記』』『ザ・ハングマン』『誘惑』、映画は『時雨の記』『郡上一揆』などに出演した。ドラマ「たけしくん、ハイ!」の頑固おやじから大河ドラマ徳川慶喜」の重厚な松平春嶽役まで幅広い役柄を演じた。

 ツアーでは3歳から習い始めたというプロ級のピアノを披露しており、「愛の讃歌」をよく弾き語りしていた。ライブでも「ボン・ヴォワヤージュ」を弾き語りして会場を沸かせていた。ヤマハクラビノーバのCMでは「音楽をもっている人はひとつ幸せです」と語りながら、野外劇場で弾く姿を見せていた。

ボランティア活動にも積極的で、重度障がい者の施設に招かれたときには、「ふるさとの空のもとで」などを弾き語った。東北育ちであったことから宮沢賢治をライフワークとしており、短編童話集「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」を太く、ソフトで、艶がある声で朗読した。

2011年東日本大震災後は復興支援活動にも積極的に参加。前年に宮城・石巻市でロケを行い、撮影では現地のエキストラの協力の下、完成させた映画「エクレール・お菓子放浪記」の公開にあたって、ギャラを全額、同市復興のために寄付した。

「『夢千代日記』の山根刑事は忘れることができません。素晴らしかったです」と共演した吉永小百合が語ったように「感情を込める」ことができる名優だった。この人の渋い演技は私も好きだった。70歳で亡くなったが、もっと俳優の道を進んでいたら、さらに記憶に残る名演技を楽しめたのだろう。人には寿命がある。

 

 

 

 

 

 

 

自己点検ヒヤリングの日。

自己点検ヒヤリングの日。9時から17時まで。多摩キャンパス。経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院経営情報学研究科の委員会がヒヤリング対象。こちら側は副学長、学部長、研究科長、事務局長。

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以下、私のコメント。

・自己点検ヒヤリングは相互に学び会う機会。

・ 就職:中計の目標値。実質就職率。数字への執念。トップクラス対策。質の目標値。トップクラス学生。戦略経営塾。留学生。

・国際交流:長期留学の目標値。学内資源の相互活用。ホームページの更新。多摩大独特のプログラム開発。

・学生:離学率。

・学長室・地域:発信・露出対策。成果は問題解決。

・入試:質を担保する項目。進研ゼミ。

・アクティブラーニング・研究・教務・人事:研究費。授業評価。両学部の授業評価の点数。

・教務・AL:プロジェクトゼミ・合同ゼミ。両学部の図書館。教養教育。グローバル学部のカリキュラム構成。留学生対応。

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総括。

・ヒヤリングの場は2学部1研究科の全学のタテ・ヨコの合意形成の時間だ。

・「質」の向上が全学共通のテーマであることがさらに明確になった。

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「名言との対話(平成命日編)。6月3日。モハメド・アリ肯定の繰り返しが信念につながる。その信念が深い確信になると、物事が実現し始める」

モハメド・アリMuhammad Ali [muˈhɑməd ɑːˈliː]1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国プロボクサーWBAWBC統一世界ヘビー級チャンピオン。

1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得後にプロに転向。1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。ジョージ・フォアマンザイールで対戦し、一発大逆転を演じたタイトルマッチ(キンシャサの奇跡)や、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。

1964年リストンを破り世界チャンピオンになった頃から引退するまで、私もアリの大ファンだった。1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火した。病のため震える手で点火用のトーチに火を点けた姿は記憶に新しい。

アリはリングの中での戦いも素晴らしいが、リング外の戦いも見事だった。マルコム・Xと出会いその思想に共鳴し、イスラム教に改宗。ベトナム戦争への徴兵を拒否したことにより米国政府と長期にわたって争い無罪を勝ち取った。WBA世界ヘビー級王座、WBC世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7ヵ月のブランクがあった。

その発言は時代に大きな影響を与えた。以下、アリの名言を並べてみると、偉大さがわかる。

カシアス・クレイは奴隷の名前だ。俺はそんなものを選ばないし、そんな名前はいらない。俺の名前はモハメド・アリという、自由な名前だ。俺に話しかけたり、俺のことについて話す時には、この名前を使うよう求める

・チャンピオンはジムで作られるものじゃない。彼らの奥深くにある「何か」で作られるんだ。

・私は蝶のように舞い、蜂のように刺す。奴には私の姿は見えない。見えない相手を打てるわけが無いだろう。

・不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。不可能とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない。不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。不可能とは、誰かに決めつけられることではない。不可能とは、可能性だ。不可能とは、通過点だ。不可能なんて、ありえない。

・私が心から恐れるのは神の法だけだ。人が作った法はどうでもいいと言うつもりはないが、私は神の法に従う。何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由は私にはない。

・私は神話を作り、神話の中で生きる

・人間が困難に立ち向かう時に恐怖を抱くのは、信頼が欠如しているからだ。私は自分を信じる

・想像力のない奴に、翼は持てない。

・日数を数えるな。日々を有意義なものにせよ

・他者に貢献することは、この地球でのあなたの居場所に払う家賃である。

・人は世界一のゴミ収集人になれる。世界一のモデルにだってなれる。たとえ何をやろうと、それが世界一なら何も問題はない。

・俺は自分が誰よりも偉大だと思っている。自分で意識する前から、そう言っていた。何度も言っていたら、他の人たちも、俺が本当に偉大だと信じるようになったんだ。

モハメド・アリリング内とリング外の戦いも素晴らしいが、そういったキャリアと人生から形づくられた思想と叡智のこもったメッセージも偉大だ。肯定が信念を生み、信念が確信を誕生させ、確信が実現と成功をもたらす。そのくり返しの軌跡が、奇跡の人を生み出したのだ。アリは更に言う。「私ほど偉大になると、謙虚になることは難しい」。そうだろう。