新横浜から新幹線で広島、在来線で宮島口下車。フェリーで宮島へ。
日本三景の1つ、広島県の宮島でNPO法人知的生産の技術研究会宮島の設立総会が創業1912年の老舗旅館である錦水館で15時から行われた。
規約も決まり、会長には錦水館の竹内社長を選出。知研宮島は岡山を除く中国、四国をカバーした会になった。
参加者は、以下。知研本部の高橋副理事長。知研九州の山崎副代表(ヤマチク専務)。香川県高松の株式会社浜崎の浜崎社長。鳥取県米子市のビジネスプロデューサー後中さん。岡山県倉敷市の帯江屋の須山代表。福岡県北九州市のインテリジェントパークの荒添美穂社長。島根県松江市の彩雲堂の山口社長。知研岡山の伊藤会長。広島市の清水税理士事務所の清水税理士。同じく福田早紀さん。広島市のエディオンの山中マネージャー。知研岡山の辻川登貴子幹事。島根県松江市のビーアイサポートの濱崎社長。東京から見えた三井不動産の下村さん。同じく石橋弁護士。同じく知研本部の池淵幹事。知研岡山の黒川幹事。
知研理事長の私は記念講演として、「人生100年時代を迎え撃つ!-アタマとココロの革命を」というタイトルで話をした。
食事と懇親会と二次会は宮島別荘で行われた。錦水館は老舗の旅館スタイルであるが、宮島別荘はイタリアンなどがおいしい洋風の素敵なスタイルだ。二次会では話が盛り上がり午前0時を回った。今後の活動が実に楽しみだ。関西、岡山に加えて、沖縄、九州、東北など全国に続々と設立されつつある地域知研同士の交流が活発になるだろう。
来年の6月には北海道が設立される予定。そして創立50周年を迎える2020年には、知的生産の技術の聖地である梅棹忠夫先生の創立した国立民族学博物館などで全国大会を開催することになる。
「名言との対話」7月1日。橋本龍太郎「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」
橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう
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生年月日 | 1937年7月29日 |
出生地 | 日本 東京府東京市渋谷区 (現:東京都渋谷区) |
没年月日 | 2006年7月1日(68歳没) |
死没地 | 日本 東京都新宿区 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部政治学科 |
前職 | 呉羽紡績従業員 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 法学士(慶應義塾大学・1960年) 岡山県総社市名誉市民 剣道教士六段 |
配偶者 | 妻・橋本久美子 |
親族 | 加納久宜(義曾祖父) 中村雄次郎(義曾祖父) 阪谷芳郎(義曾祖父) 橋本卯太郎(祖父) 大野緑一郎(祖父) 若宮貞夫(義祖父) 加納久朗(義祖父) 中村貫之(義祖父) 橋本龍伍(父) 橋本大二郎(異母弟) 橋本岳(二男) |
第82-83代 内閣総理大臣
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内閣 | 第1次橋本内閣 第2次橋本内閣 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1998年7月30日 |
天皇 | 今上天皇 |
初代 規制改革担当大臣
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内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編後) |
在任期間 | 2001年4月1日 - 2001年4月26日 |
初代 沖縄及び北方対策担当大臣
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内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編後) |
在任期間 | 2001年1月6日 - 2001年4月26日 |
第42代 沖縄開発庁長官
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内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編前) |
在任期間 | 2000年12月5日 - 2001年1月6日 |
その他の職歴
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副総理 (1995年10月2日 - 1996年1月11日) |
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第103代 大蔵大臣 (1998年1月28日 - 1998年1月30日) |
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第59代 通商産業大臣 (1994年6月30日 - 1996年1月11日) |
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第93-94代 大蔵大臣 (1989年8月10日 - 1991年10月14日) |
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第58代 運輸大臣 (1986年7月22日 - 1987年11月6日) |
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第57代 厚生大臣 (1978年12月7日 - 1979年11月9日) |
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衆議院議員 (1963年 - 2005年8月8日) |
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
政治家の父の後継は次男の大二郎(後の高知県知事)となっており、龍太郎は慶應義塾大学を出て呉羽紡績に勤務するが、父の急逝で、1963年25歳で衆議院最年少で議員になる。
1996年「自社さ政権」の村山首相が退陣した時、宮沢内閣退陣以来、自民党は2年半ぶりの政権復帰に際し、副総理だった橋本は総理に就任する。慶応出身の初の総理である。1997年4月1日の消費税5%を断行し、これが長期不況の始まりとなった。その後の参院選で負け、首相を退陣し、小渕が首相となる。2001年に森首相退陣後の自民党総裁選に出馬するが、小泉純一郎に破れた。
橋本龍太郎は、多趣味の人であった。剣道は錬士6段、写真はプロ級、エベレスト登山隊の総指揮をとるなど登山家としても活動した。
「見識はあるが、人望はない」などと揶揄されることもあったが、座右の銘の「誠」と「初心忘るべからず」を胸に秘めて政治活動を行った。橋本行革と呼ばれた省庁再編では、22省庁を1府12省庁とし、この体制は現在まで続いている。「火だるま宰相」と異名をとった行革には命をかけていたことがわかる言葉である。