知研宮島設立総会で講演(広島)

新横浜から新幹線で広島、在来線で宮島口下車。フェリーで宮島へ。

日本三景の1つ、広島県の宮島でNPO法人知的生産の技術研究会宮島の設立総会が創業1912年の老舗旅館である錦水館で15時から行われた。

規約も決まり、会長には錦水館の竹内社長を選出。知研宮島は岡山を除く中国、四国をカバーした会になった。

参加者は、以下。知研本部の高橋副理事長。知研九州の山崎副代表(ヤマチク専務)。香川県高松の株式会社浜崎の浜崎社長。鳥取県米子市のビジネスプロデューサー後中さん。岡山県倉敷市の帯江屋の須山代表。福岡県北九州市のインテリジェントパークの荒添美穂社長。島根県松江市の彩雲堂の山口社長。知研岡山の伊藤会長。広島市の清水税理士事務所の清水税理士。同じく福田早紀さん。広島市エディオンの山中マネージャー。知研岡山の辻川登貴子幹事。島根県松江市のビーアイサポートの濱崎社長。東京から見えた三井不動産の下村さん。同じく石橋弁護士。同じく知研本部の池淵幹事。知研岡山の黒川幹事。

知研理事長の私は記念講演として、「人生100年時代を迎え撃つ!-アタマとココロの革命を」というタイトルで話をした。

食事と懇親会と二次会は宮島別荘で行われた。錦水館は老舗の旅館スタイルであるが、宮島別荘はイタリアンなどがおいしい洋風の素敵なスタイルだ。二次会では話が盛り上がり午前0時を回った。今後の活動が実に楽しみだ。関西、岡山に加えて、沖縄、九州、東北など全国に続々と設立されつつある地域知研同士の交流が活発になるだろう。

来年の6月には北海道が設立される予定。そして創立50周年を迎える2020年には、知的生産の技術の聖地である梅棹忠夫先生の創立した国立民族学博物館などで全国大会を開催することになる。

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「名言との対話」7月1日。橋本龍太郎「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」

橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう
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生年月日 1937年7月29日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市渋谷区
(現:東京都渋谷区
没年月日 2006年7月1日(68歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区
出身校 慶應義塾大学法学部政治学科
前職 呉羽紡績従業員
所属政党 自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
法学士慶應義塾大学1960年
岡山県総社市名誉市民
剣道教士六段
配偶者 妻・橋本久美子
親族 加納久宜(義曾祖父)
中村雄次郎(義曾祖父)
阪谷芳郎(義曾祖父)
橋本卯太郎(祖父)
大野緑一郎(祖父)
若宮貞夫(義祖父)
加納久朗(義祖父)
中村貫之(義祖父)
橋本龍伍(父)
橋本大二郎(異母弟)
橋本岳(二男)

日本の旗 第82-83代 内閣総理大臣
内閣 第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1998年7月30日
天皇 今上天皇

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年4月1日 - 2001年4月26日

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年1月6日 - 2001年4月26日

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
在任期間 2000年12月5日 - 2001年1月6日

その他の職歴
日本の旗 副総理
(1995年10月2日 - 1996年1月11日
日本の旗 第103代 大蔵大臣
(1998年1月28日 - 1998年1月30日
日本の旗 第59代 通商産業大臣
1994年6月30日 - 1996年1月11日)
日本の旗 第93-94代 大蔵大臣
1989年8月10日 - 1991年10月14日
日本の旗 第58代 運輸大臣
1986年7月22日 - 1987年11月6日
日本の旗 第57代 厚生大臣
1978年12月7日 - 1979年11月9日
日本の旗 衆議院議員
1963年 - 2005年8月8日
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橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年昭和12年)7月29日 - 2006年平成18年)7月1日)は、日本政治家。

衆議院議員(14期)、厚生大臣第57代)、運輸大臣第58代)、大蔵大臣(第9394103代)、通商産業大臣第59代)、副総理村山改造内閣)、内閣総理大臣(第8283代)、沖縄開発庁長官第42代)、行政改革担当大臣初代)、沖縄及び北方対策担当大臣初代)、規制改革担当大臣初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。

政治家の父の後継は次男の大二郎(後の高知県知事)となっており、龍太郎は慶應義塾大学を出て呉羽紡績に勤務するが、父の急逝で、1963年25歳で衆議院最年少で議員になる。

1996年「自社さ政権」の村山首相が退陣した時、宮沢内閣退陣以来、自民党は2年半ぶりの政権復帰に際し、副総理だった橋本は総理に就任する。慶応出身の初の総理である。1997年4月1日の消費税5%を断行し、これが長期不況の始まりとなった。その後の参院選で負け、首相を退陣し、小渕が首相となる。2001年に森首相退陣後の自民党総裁選に出馬するが、小泉純一郎に破れた。

橋本龍太郎は、多趣味の人であった。剣道は錬士6段、写真はプロ級、エベレスト登山隊の総指揮をとるなど登山家としても活動した。

「見識はあるが、人望はない」などと揶揄されることもあったが、座右の銘の「誠」と「初心忘るべからず」を胸に秘めて政治活動を行った。橋本行革と呼ばれた省庁再編では、22省庁を1府12省庁とし、この体制は現在まで続いている。「火だるま宰相」と異名をとった行革には命をかけていたことがわかる言葉である。

 

実録・橋本龍太郎

実録・橋本龍太郎

 

 

 

 

 

 

 

鈴木信太郎記念館--「生まれ変わって、もう一度現在までの人生を同じようにもう一度生きたい」

東池袋鈴木信太郎記念館。2018年3月28日開館。

鈴木信太郎(1895-1970)は、20世紀前半の日本におけるフランス文学研究の黎明期に、フランス文学・語学の研究体制を確立し、研究者および教育者として活躍した。

フランス象徴派詩人マラルメと中世文学のヴィヨンの研究者。東大仏文科を活性化し、渡辺一夫小林秀雄などを育てた。フランス稀覯本の蒐集家でもあった。

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 実家は埼玉県春日部の大地主。莫大な財産を継ぐことが決まっていたが、父は米穀商を継がせるつもりはなく、美術などを勉強した。15歳では漠然とフランス文学を志望するようになる。東京帝大文学部に入学しフランス文学を専攻。卒業後、副手を経て講師。

1925年30歳で私費留学生として渡仏。3つの目標。演劇を観る(260回)。本を蒐集する。中世仏フランス語を勉強する(ヴィヨンを読む。個人教授)。父の死去で繰り上げて、シベリア鉄道で帰国。

34歳、助教授。52歳、教授。定年退官後は、中央大学東洋大学で教授。1960年、64歳フランスからレジオン・ドヌール三等勲章(コマンドール)。1970年、75歳で死去。

「生まれ変わって、もう一度現在までの人生を同じようにもう一度生きたい」と最終講義で語っている。

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 書庫付き書斎。書斎は新生で重要な場所。仕事部屋とサロン。耐震構造の鉄筋コンクリート造り。天井まである書棚は圧巻だ。

マラルメ「世界は一冊の美しき書物に近づくべくできている」を具現化した小宇宙。

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「ロザリオ」同人。団伊能(団琢磨の父)。

今日出海辰野隆中島健蔵三好達治岸田国士小林秀雄

大佛次郎石川達三日夏耿之介阿部知二

書斎のステンドグラスは信太郎自身の手によるデザイン。

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インターゼミ。

学長講話:

全体知を目指す。100歳人生。納得のいく創造的人生。流動性知能と結晶性知能(つながり)は認識。。第三の知能「唯識論的知能」。5識(5感、、)と深層意識(美意識など)は意識(仏教の教えをスタディ!)

大学のビジネスモデルの変革。ジェロントロジー高齢化社会工学)。

今夏2冊「20世紀と格闘した先人たち(アジア・アフリカ編)」と「若き日本の肖像(欧州編)」(再読!)。中年の危機の克服は、使命感と出会い。「多摩の地域史」「江戸期の日朝関係」「江戸期の日中関係」を読め(図解化!)

 

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  「名言との対話」6月30日。高宮行男「予備校教師は5者を兼ねなければならない。学者、医者、役者、芸者、そして易者だ」

高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 2009年6月30日)は北海道出身の実業家で予備校経営者。学校法人高宮学園代々木ゼミナール理事長を務めた。

  代々木ゼミナールは「生徒の駿台・机の河合・講師の代ゼミ」と言われるほど、「講師第一主義」の方針を貫いた。現在のタレント講師のはしりだ。

高宮の言う5者とは、学問を教える立場の「学者」。鬱屈した浪人生の心を支え、癒す「医者」。教室を舞台に見立て、教師役を演じる「役者」。艶やかな衣装や芸で魅せ、生徒の羨望の的となる「芸者」。そして志望校に導くアドバイスや“読み“ができる「易者」である。教育者に求められる理想の資質を見事に言い当てている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学院「インサイトコミュニケーション」の6回目の授業--日本・韓国・中国の高齢化事情

夜は品川の大学院の6回目の授業。いくつかのグラフ、表を題材に図解化する作業に挑戦してもらった。ほとんどの受講生が受講し、人数が多かった。

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受講生のアンケート(フェイスブックへの書き込み)から。

・本日もありがとうございました。まずは自分なりの仮説を立てて、その裏付けとなるデータを集めていくという流れは他の講義で学んだことと重なり印象に残りました。図解にする、図解にできるということは事柄をロジカルに説明できるということであり、その力がまだまだ足りないと痛感しました。

・図解できる人は人生も仕事も、プレゼンも、最短で最大の結果を得ると思います。時間をかけて、だらだら説明するのは非効率。図解し、図解する際に論点や重点を頭で整理できるよう、また次回、スキルを磨きます。早退申し訳ありません。ありがとうございました!

・おつかれさまでした。今日の授業では、テーマが決まらないとデータは集まらない、テーマが決まると磁石のように情報が吸い寄せられるとのこと、数字、具体的な事例を入れて自分の仕事を通じたストーリーを作ることを学びました。正直難しかったです。この授業ではいつも皆さんの発表から、多くの新しい気付きをいただきます。今日も同じ経済データを見ているのに、どこに着目して、ストーリーを作っているのか、とても面白く参考になりました。ありがとうございました。

・グラフや表を繋げて図解し、数値を読む。・大数、トレンドから読む。・海外のことを知る。図解して繋げることで、新たな仮説が生まれる。それを検証するために、新たデータが必要となることもある。今回の演習をしながら、追加でこんなデータが必要になるかもな・・・と考えながら進めていました。

・今日の講義は、表や数値から図にする方法を学ぶ事でした。図にするには、数値から結論や傾向を読み理解しなければ図にする事は出来ない事がわかりました。一歩前進です。

・グラフや表から図解に表現していく講義。他のクラスメイトからも多くの発見や気付きの学びを得れることもこの講義の良いところです。世帯構造の変化について、まとめました。つまり、結婚して子供もいる家庭というのが、35年前の半分近くに減っています。このまま、単身世帯が増えていくと、孤独死などの問題にもつながっていき、大きな社会課題ともいえます。ただ、あえて単身という道を選ぶ人も少なくはないようです。

・大数からの比較。海外との比較(韓国・中国)。我々は比較から物事を把握することできる。アンテナを貼れば情報がはいってくる。Chance favors prepared mind.

・難しい課題で初めは少し困惑しましたが、課題を決めてから多数ある情報の中から必要な情報をまとめるのに時間はあまりかかりませんでした。初めの課題設定の重要性がよくわかりました。また、韓国、中国の今まで知らなかった情報も詳細に伺えて面白かったです。次回も楽しみにしております。

・今日の講義では、文章の図解にデータを加えることで説得力が増すことを実感できました。また簡潔に分かりやすくキーワードや数字を使わないと情報過多になるし、シンプルにしすぎると内容が浅くなるので、バランスも大事だなと感じました。少子化の話の際に、中国では、親がマンションを子供に買うという話を聞けて、2人目を欲しがらない中国の方の話と繋がりました。孫さん、ありがとうございました。

・前回は、COA Consultingにことで、弁護士事務所に行かせて頂いておりまして、だいぶ喋らされたので、そのままお休みさせて頂きました。法的に、何もないようで、安心でした。全部の表を使えるのが良い、との先生からの課題に、全部の表から単語を使って、完成させました。現在、業界として1番大きな通信業界ですが、良し悪し色々で、悪循環な図にもなりそうでしたが、良いネットワークが広がるのは、良いことだと思いました。教育も通信で安いのは、助かる人も多いと思いますが、ちょっと寂しいなとも、感じました。

・本日は、経済データからテーマを考えて図解することを行いました。発表内容としては、日本以外の経済事情の話を伺うことができ、大変勉強になりました。かつ、発表内容も面白かったです。データからテーマを考えるのではなく、テーマからデータを使う、という順路が非常に重要なことだと、発表している皆さんの内容を拝聴して改めて感じました。

・今日のテーマはかなりタフでした。文章から図解することにはそのストーリーを把握してロジックを構築して図式化すれば良いですがデータを読み解く事から始めると自らストーリー作成をしなければならず更に図解するということで二倍手間がかかります。しかし実はビジネスシーンではこの様な状況は多く存在しており実験データの分析や経営指標などよく目にします。これらの数字を単に眺めるのではなく数字を読み解いてそこで語るべきストーリーを作り、さらに分かりやすく図解して伝えるという一連の流れを意識せずに出来るよう経験を積みたいと感じました。また発表もお国事情が出ていてとても興味深かったです。ありがとうございました

・結局、内部留保を増やす背景としては、経営は倒産リスクが問われるのと、一度上げた給与は落としにくいこと。配当は、うるさい株主が社員への還元はどうでもよく、将来への投資より自分達への配当を求めるからなのだろうか?政治も大きな問題ですが、経営者の資質も問われている時代なのだと思いました。本気でやれば日本はまだ間に合うのが分かったことが良かったです。

 

以下、留学生。

・今日 私が選んだテーマは都道府県別総人口増加率でした。下記、2つの図は比較で、日本の高齢少子化の影響を激しく与えています。2018年推計により、日本の47都道府県のうち、人口が増加しているのは東京都しかないでしょう。人口が増加しても、0.7%しか増えません。人口減少率が高い県のは秋田県です(-41.2%)。晩婚・晩産化の問題は一つの原因だと思います。今日の授業のお陰で、また 大変勉強になります。先生 ありがとうございました。

・数字とデーターから、図表や文章に書く練習をやって見ました。資料と皆んさんの発表からにも、また日本人口や経済などのことを勉強しました。ありがとうございます。
自分は初回の授業と比べて、図表を書くことも、文章を構成することも大分上手くなった気がしました。また、次回の授業も楽しにします。

・「都道府県別総人口増加率」をテーマとして選定しました。人口問題について関心を持っています。現在、日本の少子高齢化問題が深刻です。実は、中国も数年後そのような状態になる見込みです。さらに厳しいかもしれない。現在の日本の政策を学んだほういいと思います。また、文字フォームを曲線グラフに転換したら、一目瞭然となりました。

・「日本人の不安の心理の蔓延」について、図解しました。現在の日本は多くの問題があります。例えば、格差が大きくなり、消費低迷、社会人は仕事への情熱が低く、若者は革命、変革に関心なしなどです。これらの問題は不安心理の蔓延と密接な関係があると思います。また、もっと深く考えると、なぜこれらの問題が起きたのか、問題の本質は何だろうか。自分で分析してみて、原因が2つあると思いました。1つは経済低迷です。もう一つは人の価値観の変化ということです。ところで、人の価値観は非常に重要です。個人にとって、価値観が個人の思想と行動を支配します。国にとって、国民の価値観が国の発展に影響を及ぼすと思います。もう一つの感想があります。社会問題を説明する時、詳しい数値がなければ、説得力が弱いということです。 

・皆さんの癸表は非常に素晴らしかった、他人の癸表をかけて現今の日本及び世界で白熱化社会閜題を勉強になりました。それぞれの国の学生の癸表から外国の社会問題狀態を触れました。今回私は 世界の高齢化の現状と今後について、図解の担当しました。グラフによると世界経済先進主要な国とアジア経済発展中心国の高齢者の比率の変化値が分けてデータを示して、結局高龄少子化の人口要因は未來の全世界で直面しなければならないgrobal 社会問題である。人口要因は、国家地区の長期的な経済発展に影響を与える重要な要素であり、政府からの財政支援、移民政策の支持などが直接出生率の向上に影響し、文化の伝統的な種族文化保護は、中長期の地域ひいては世界経済の発展に対してくびきの反作用が存在し、先進的なヨーロッパ、古い文明のヨーロッパ文化は、時と共に入ることができなければ、地域社会の人類文明の進歩を阻害する束縛となるだろう。高齢化社会が入ってからは、国家、政府、企業個人側から対応するか、より重要な認識が避けなくて、国家,社会人,個人は、自側から、目の前の利益を見てることだけではなく、グローバル全人類の観点から、そのまま对策しなければ人類の滅亡の可能性があるということが大きな試練に自らの貢献をすることができるだろうか。

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午前:多摩キャンパス

・授業「ビジネスコミュニケーション」の11回目。テーマは「新聞の社説」の図解化への挑戦。自信を持つ人が増えてきたようだ。

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午後:九段サテライト

・大学戦略会議:テーマは「教務」。ゼミの体系化。適性科目数の考え方と実現方策。

・大学運営会議:戦略会議の「入試」と「就職」を報告した。大学の業態転換。社会課題の実現。資格制度設計。高度IOT人材。プロジェクト!。「ジェロントロジー宣言」、、、。

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 「名言との対話」6月29日。地井武男「ただ、スターは無理でも、味のある脇役ならなれると思ってたんです」

地井 武男(ちい たけお、1942年5月5日 - 2012年6月29日)は、日本俳優

1963年俳優座養成所へ第15期生として入所。同期には原田芳雄林隆三太地喜和子前田吟高橋長英栗原小巻小野武彦村井国夫、など錚々たるメンバーがいた。こういうライバルとして切磋し、友として琢磨していった個性的な仲間から生命力を学んできたから、なんとか持ちこたえたと述懐している。地井は主演から脇役悪役からマイホームパパまで、幅広い役柄を演じることのできる演技派俳優として活躍を続けた。

「庭先や街路樹として植えられている木の名前はだいたいわかるんだけど、たまにどうしてもわからないのが出てきてね。そういうのを調べるのがおもしろいね」。地井は日本の四季自然植物を愛することでも知られている。2006年4月3日より、『ちい散歩』(テレビ朝日)が放送を開始し、2012年に病に倒れて終了するまで、放送1518回、訪問地833ヵ所、総歩数3,227,000歩、総距離数2581.6kmを記録した。約6年続く人気番組となったこの番組は現在まで続く散歩ブームの火付け役となった。趣味の絵画では美術展に出展するレベルであり、この番組では絵手紙を描いていた。ゴルフ、空手、絵画、蕎麦、ブランコ、植樹活動、、と地井は好奇心が強い人であった。

 高校のころには「俳優になろう」と決めていたのだが、そのころからスターにはなれないと悟っていた。スターではなく、最初から脇役を目指したのだ。「アメーバみたいに、食べるものによって色が変わっていくような俳優になりたいんです」とも語っていた。昨日眺めた女優沢・村貞子『わたしの脇役人生』(ちくま文庫)では、沢村も「脇役を語っていたが、男優・地井武男とも通じるところがある。二人とも日々の生活の楽しみを知っおり、味のある人物だ。その地井武男はテレビの『ちい散歩』に巡り会い、自分を総合するライフワークを残したのである。この幸運を引き寄せたのも実力だろう。 

ちい散歩 地井さんの絵手紙最終集―2011年5月から2012年2月に描いた80枚

ちい散歩 地井さんの絵手紙最終集―2011年5月から2012年2月に描いた80枚

 

 

 

 

季刊同人誌「邪馬台」の2018年夏号:「読書悠々」は18回目。

郷里中津の同人誌「邪馬台」の2018年夏号。連載「読書悠々」は18回目、ということは季刊だから4年半。

「平成命日編」:河原淳『雑学人生のすすめ』(新人物往来社)。小西和人『楽しみを釣る』(エンターブレイン)。松本重治『上海時代--ジャーナリストの回想』(中公文庫)。淡路恵子『死ぬ前に言っとこ』(廣済堂出版)。佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい--坂田道太』。文藝春秋別冊『大島渚--日本を問い続けた世界的巨匠』。

「編集後記」には、「久恒啓一氏の「読書悠々」は回を重ね佳境に」とあった。期待に応えていこう。

中津北校同級生の20回生の「団塊の自分史」は猪俣君の「中国国営企業買収と運営顛末3」は力作。同じく松田君のビジネス川柳5作のうちでは「爺ちゃんの口癖いつも老婆心」(不良長寿)が最高だ。

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  午前は多摩キャンパス。

・ラウンジで中村その子先生:ゼミのあり方。

・Tスタで中村その子先生と対談。その子先生の座右の銘「あわてず、さわがず、たじろがす」を巡る会話が30分。どんな仕上がりになるか、楽しみだ。

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・夕刻は、品川キャンパスで大学院運営委員会に出席。2019年度学年暦。ディプロマポリシー。2019年度カリキュラム。春学期VOICE。教務分科会報告「紀要」。入試広報分科会。FD研修会。多摩大出版会。

・その前に今年3月28日に開館した新大塚の「鈴木信太郎記念館」を訪問。フランス文学者。

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「名言との対話」6月28日。宮澤喜一「一億一心の対極、それがリベラル」

宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年大正8年)10月8日 - 2007年平成19年)6月28日)は、日本大蔵官僚政治家

宮澤喜一の年譜を眺めると、大蔵大臣秘書官時代を含め26歳あたりから84歳での衆議院議員引退まで60年近く、保守本流として自民党と政権の中枢で長く仕事をしたことに驚きを覚える。『宮澤喜一回顧録』を読むと、戦前から戦後、そしてイラク戦争あたりまでの歴史がみえてくる。

宮澤は父の友人であった保証人・池田勇人との縁で大蔵省に入り、30差前後で池田大蔵大臣秘書官をつとめたところから人生が決まっていく。池田勇人が総理になったとき、師匠の吉田茂は反対したが、「寛容と忍耐」というフレーズでデビューした。大平正芳が「忍耐」を提案し、宮澤が「寛容」を提案した。

経済企画庁長官通商産業大臣外務大臣内閣官房長官副総理大蔵大臣郵政大臣農林水産大臣財務大臣初代)、内閣総理大臣などを歴任した。政治家生活50年のうち、閣僚であったのは実に18年であった。「戦後政治の生き字引」と言われた。

安倍晋太郎竹下登らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。総理総裁は推されてなるものと考えていた宮澤は1991年に72歳で総理に就任している。

政界きってのインテリであった宮澤は、酒豪、酒乱でもあり、温厚な外見に似ず毒舌家でもあった。新聞記者であった私の先輩は宮澤をイヤな奴だと嫌っていた。どうも人格者とは言い難いようだ。京都に行くと必ず司馬遼太郎梅棹忠夫と酒を飲んだとのエピソードがある。「司馬遼太郎は日本を描いた、宮澤喜一は世界を見た、梅棹忠夫は人類を考えた」。これは、2011年にウメサオタダオ展で見かけた言葉である。この3人の酒席での会話を聞いてみたいものだと思ったことがある。

「政界随一」と謳われた宮澤の英語力は有名だが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用した。総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げている。

「政治家というのが、そういう特殊な人間であってはいかん、と思うのです。むかしのギリシャみたいに、市民みんなが、当番でもって代議士になり、大臣になったりする、そういう性質のものとして考えるようになるべきだ」

宮澤の考えはこうだ。日本が核兵器を持った一流の軍事大国になることは日本のためによくない。日米関係の下に日本の安全保障があることはやむを得ない。そして21世紀の日本には、軍事大国にならないことと、経済援助を大事にし経済援助大国になることを提唱している。

現在では影の薄くなった保守本流ハト派宏池会の流れの中にあった宮澤喜一は、リベラルとは「一億一心の対極」にあると述べている。一億火の玉、一億総保守、、など時代の空気に同調しない。主義主張を声高に論じるのではなく、全体の制約から距離を置いて、独立した個人とした自由な生き方、自分で考えることを抛棄しない、自立自尊、それがリベラルであるということだろう。心したい言葉である。 

聞き書 宮沢喜一回顧録

聞き書 宮沢喜一回顧録

 

 

 

 

トレンドウオッチャーの第14回「無限教師」。

トレンドウオッチャーの第14回「無限教師」。

「ライフワークとして参加型メディアを追求してきた橘川氏。現在のインターネット環境には、満足と絶望が半々。根拠のないデマやフェイクニュースが蔓延する昨今の状況に、もう一つのインターネットを模索中。開発コードは「無限教師」。記名でコンテンツを発信する全く新しいe-learningについて解説します。」

www.youtube.com・学部運営委員会:済州島のフォーラム出席者が多く、違った雰囲気。

・教授会:ホームゼミの方針

・杉田学部長・松本地域センター長:人事

・事務局との定例ミーティング:後援会セミナーの総括。教員との懇親会スタイル。

・学長室の渡辺さん:戦略会議。入試。就職。そして今週の教務。

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「名言との対話」6月27日。アルビン・トフラー「将来の文盲とは、読み書きのできない人ではなく、学ぶことも、学んだことを捨てることも、また学び直すこともできない人のことである」。

アルビン・トフラー(Alvin Toffler、1928年10月4日 - 2016年6月27日)は、アメリカ評論家作家未来学者

トフラーは大学卒業後、工場の従業員として約5年間を過ごし、工業化された大量生産の現場で機械修理工兼溶接工になり実地で勉強した。組合系の新聞の記者となり、ワシントン支局に異動。ペンシルベニアの日刊新聞の特派員として3年間にわたり議会とホワイトハウスを担当した。

その後、フォーチュン誌に招かれてニューヨークで労働問題担当のコラムニストになり、後にビジネスや経営についても担当するようになる。IBMからはコンピュータが社会や組織に与える影響について調査する仕事を請け負った。ゼロックスの招きで同社研究所について文章を書いてもらう。AT&Tではコンサルタントとしての戦略的助言を行った。本格的なビジネス誌「フォーチュン」を創刊したアメリカのメディア王ヘンリー・ルースはドラッカー、トフラー、ベル、ガルブレイスなどを育てるという功績もあったのである。

トフラーの著書は多くあるが、代表作は1980年出版の『第三の波』である。第一の波は人類が農耕を始めた新石器時代の農業革命。第二の波は産業革命。そして今から襲ってくる第三の波は脱産業社会である、という趣旨である。1962年にダニエル・ベルが提唱した脱工業化社会が、それまでの伝統社会と産業社会の二分法ではなく、新しく脱工業社会の概念を作った。産業界に詳しく未来学者という肩書きを持つトフラーのベルの延長線上の提唱は、日本でも大きな話題になり私も夢中で読んだ。

不思議なのは「脱」と言い、「第三」という言い方は、中身を言い当てていないことである。トフラーの著書より20年も前に、日本の梅棹忠夫は、人類の産業の歴史を「農業の時代」、「工業の時代」、これからは「情報産業の時代」になると予言した。人類を人間が完成する過程ににたとえ、農業時代は受精卵から消化器官をつくる内胚葉の時代、工業時代は血液や筋肉をつくる中胚葉の時代、そして情報産業の時代は脳神経をつくる外胚葉の時代となり、人類は最高の段階に達するという理論だ。梅棹説の方が説得力があるように思える。

さて、トフラーは「学び、学んだことを捨て、学び直す」人でなければ、新しい時代を生きぬくことはできないという。情報産業の時代には、生命科学を含めてあらゆる分野の知識がものすごい速度で変化し、視界が大きく変わっていく。昨日学んだことを、今日は捨て去る。そして明日は新しい知識を学び直す。こういうサイクルに参加する気概がなければ、企業も個人も時代に置いていかれる。私たちは、自己革新の連続で生きていかなければならない。

 

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」展。--「映画は世界の広場だ」

2018年に国立近代美術館から独立した国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」が開催中だ。国立映画アーカイブは、5800枚のポスター。705000枚のスチール写真。46000冊の映画図書、、などのアーカイブ

「映画は世界の広場」だと語っていた黒澤明の作品は欧州、北米、中南米、アジアなど世界中で公開されている。「没後20年 旅する黒澤明 槙田寿文ポスター・コレクションより」。

今回の展覧会は世界30ヵ国の84点。「姿三四郎」から「まあだだよ」までの作品の各国のポスター。欧州20ヶ国、南北アメリカ5ヶ国、アジア・中近東4ヶ国、オセアニア1ヶ国。ポーランドや旧チェコスロバキアなど東欧のポスターは大胆な表現だが、これは、「共産圏の時代、映画ポスターは芸術家に表現の自由が比較的認められた分野だったから」と岡田主任研究員は日経「文化往来」で語っている。

 

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 展示されているポスターは黒澤明の研究家である槙田寿文氏のコレクションだ。

 槙田は高校2年で「七人の侍」をみてファンになり、1978年19歳の時大学の映画サークルで黒澤監督の自宅に突撃し、丁寧な対応を受ける。それから資料収集が始まる。90年代初めにニューヨークに赴任し、本格的に収集を開始。

黒澤に喝采 海外ポスター 現地で製作、国際色豊かな150枚収集 槙…|エンタ

メ!|NIKKEI STYLE

槙田はJ-LOP事務局次長。日系商社で米国駐在。米国大手食品メーカー日本法人CFO、米国大手医療機器メーカー日本法人CFOを経験。J-LOPは、クール・ジャパン戦略の一環として、総務省経済産業省が実施している「 ジャパン・コンテンツ ローカライズ&プロモーション支援助成金」。

「黒澤作品は世界で広く一般の人に見られており、日本映画の中で圧倒的な広がりをもつ。その世界を理解してほしい」。

ライフワークとしての黒澤研究が誰も見たことのない一つの世界を形づくった。その志の延長線上に現在の仕事があるようだ。

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「名言との対話」6月26日。田淵節也「自分なりによく勉強して、史観というか大局観を身につけること、自分がいまどんな時代に立っているかを的確に位置づけることが第一」。

田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本実業家

野村徳七が創業し、奥村が天守閣を構え、瀬側が城壁を築き、北浦が外堀を埋めた。田淵の仕事は城下町を作って、野村城を更に強固なものにすることだと考えた。

社長室に直径1mほどの地球儀を置き、豊富で正確なデータを積み上げ、その延長線上に本質や未来の姿がくっきりと浮かび上がってくる優れた洞察力で、情報資本主義時代を予測し、来た球を思い切りようスイングせよ、見逃し三振はいかんとハッパをかけながら、野村證券を「世界のノムラ」に変貌させた。

田淵は公平無私で仕事に臨んでいる。その栄養源は小説だ。愛読する作家は、山本周五郎、城野宏、山本夏彦など。座右の銘は、「美点凝視」。人の美点を凝視し、他の会社の美点を凝視する。それは「気がついたら即刻変えろ。、、改悪になってもいいから変えろ。、、変化は即改善」という方針になっている。

前社長の北裏からの引き継ぎは「野村證券は設立され五十数年間流れ続けてきた地下水は一度も汚されていない。清流が流れている。これを絶対に汚しちゃいけなう」だけだった。人事の活性化である。絶えざる若返りである。「雑草のような教育から頭角をあらわすタフな人物じゃなめれば指導者にはなれない」と言っていた田淵は後任社長に田淵義久を指名する。区別するため社内では「大田淵」と呼ばれていた。

この後任の「ミニ田淵」を日航時代に社内報の社長対談で招いたことがある。山地社長から「時の人だ。よく引っ張りだしたね」と言われたことを思い出す。このとき、朝7時になると社員が活動し始める野村証券は日本トップの利益をあげていた注目企業だった。

歴史認識と時代認識を持つこと、そして変化に対応していつでも自己革新できる人間になること。新しいものや変化に対して、自分の皮膚で接触すること。まず飛び込んでみること。岸で見ていたら間に合わない。そういったリーダー像が田淵節也自身であった。

 

田淵節也・経営語録 知の戦略・人の哲学―情報・人材王国野村證券の秘密

田淵節也・経営語録 知の戦略・人の哲学―情報・人材王国野村證券の秘密

 

 

 

T-Studio『名言との対話』、第32回は石川晴子先生の座右の銘「一期一会」を巡る対談。

T-Studioの久恒啓一の『名言との対話』。第32回は石川晴子先生との「座右の銘」対談の初回。テーマは石川先生の座右の銘「一期一会」を巡って。

『』www.youtube.com

多摩キャンパス

・高野課長:情報交換

・渡辺さん:戦略会議の資料

・下井先生:学部の課題と方向について意見交換

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「名言との対話」。6月25日。尾上松緑「舞台が好きになるか、ならないか」

二代目 尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、1913年大正2年)3月28日 - 1989年平成元年)6月25日)は、日本歌舞伎役者。屋号音羽屋重要無形文化財保持者(人間国宝)。日本芸術院会員。文化勲章

歌舞伎界の有名な「芸談」には、六代目尾上菊五郎『芸』と五代目中村歌右衛門『歌舞伎の型』という名著がある。尾上松緑松緑芸話』は小父の六代目尾上菊五郎、父・七世松本幸四郎、上の兄・十一世市川団十郎、中の兄・初代松本白鴎などとの交流を交えながら、「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」などの名作に関する芸談である。

松緑は意外であるが、三度軍隊に招集され、幸運にも生き延びた。悪い兵隊としてブラックリストに載っていたらしい。

1972年15歳の時、父から六代目に預けられ歌舞伎修行をする。六代目菊五郎の芸風の良き継承者となり、その薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代もの・世話ものを問わず立役として大いに活躍し、昭和を代表する歌舞伎役者となった。

松緑が若い頃、横山大観を招いた席で大観から「君たち、今後この人(六代目)を真似しちゃ駄目だよ。真似をしたらこの人より上へ行けっこないんだから、絶対に真似しちゃ駄目だよ」と言われ、六代目も「そりゃそうだ」と相づちを打った。松緑はこのやり取りに強い印象を持った。

松緑テレビ映画の出演、歌舞伎以外の商業演劇でも積極的に新劇俳優と共演するなど芸域は広かった。私はNHK大河ドラマでは1963年の第1作の『花の生涯』での井伊直弼役が強く記憶に残っている。井伊直弼安政の大獄を断行したことで人気がないが、この松緑主演の大河ドラマを見たことで、私自身は悪い印象を持っていない。ちなみに「一期一会」は、井伊直弼が広めた言葉である。

器用な人はいい歌舞伎役者になることができるが、不器用な人も徹底してそうならそれはそれで味が出てくる、それが芸事の難しいところだと松緑は述べている。父は自分が不器用だと知っていた。上の兄・十一世団十郎は不器用さと役者っぷりのよさを合致させ成功した。そして松緑には不器用な自分の芸を移すことをせずに、六代目へ修行に出したのだ。偉大なる凡人の父は、後のことをよく考えていたのである。松緑は舞台は苦しいが、器用・不器用に関係なく、その「舞台が好きになるか、ならないか」が勝負であり、好きなればどこまでも行けるという。何事もそうだろう。 

松緑芸話 (講談社文庫)

松緑芸話 (講談社文庫)