イヌシデは「犬四手」。シラカバは「白樺」。ソメイヨシノは「染井吉野」。クヌギは「櫟」。

緑道の木々の名前が新しくなった。首都大と小中学校のジョイントのようだが、散策の楽しみが増えるのでありがたい。イヌシデは「犬四手」と書くのか。漢字もあるともっといい。

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「名言との対話」8月23日。川本喜八郎人形はひとことでいえば神、お仕えするもの」

川本 喜八郎(かわもと きはちろう、1925年大正15年)1月11日 - 2010年平成22年)8月23日)はアニメーション作家、人形作家。

 川本喜八郎は少年期に芸事の好きな祖母から人形作りを教えられる。思春期はアメリカ映画を中心に映画に明け暮れる。戦後、東宝の美術部に入り、劇作家・飯沢が川本の人形に注目し仕事を依頼され、飯澤と組むことになる。27歳で「皇帝の鶯」というトルンカの作品をみて椅子から立ち上がれない程の感激を味わい、人形で詩が語れると人形を一生の仕事にしようと決める。そして心理学でいう中年の危機を迎えた川本は、1963年に38歳でチェコ人形アニメーションの巨匠イジィ・トルカンに学ぶ。

トルンカは、「人形は人間の典型を描くことができる」と言った。人間のエッセンス、本質、原型。だから万人が理解できる。また「民族性を描かねばならない」と語る。自国の文化を探り、日本の様式の発見と人形アニメーションへの応用が川本のテーマとなった。

生涯の師匠であるトルンカ「人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある」「歌舞伎や文楽といった様式的な演劇を、自分のアニメーションに生かせ」「人形芸術というものは、国家や、民族や、肌の色を隔てるものではなくて、それ等を結びつけるものだ」と川本に語った。

帰国後、日本の伝統の粋が集まっている「能」や「文楽」を学ぶ。母である老婆が鬼に変身する「鬼」で人間の典型を、そして青年層に焦がれる女が大蛇に変身する「道成寺」で愁嘆という民族性を描くことができて、中年の危機から10年経って、ようやく川本の人形スタイルが完成する。

47歳「鬼」。57歳、NHKテレビ人形劇「三国志」。400体に命を吹き込む仕事に没頭した川本は至福の時間だたっと述懐している。68歳、NHK人形歴史スペクタル「平家物語 人形絵巻」2003年、78歳、連句アニメ「冬の日」。81歳、人形アニメーション映画「死者の書」は岩波ホールで8週間公演、。2007年、82歳、飯田市川本喜八郎人形美術館オープン。伊那谷は芸能の谷と呼ばれるほど古今の多種多様な民俗芸能が残る地域だ。「いいだ人形劇フェスタ」は2007年で29年目を迎えている。

「アニメーション作家のイメージの膨らませ方は芭蕉に通じ、しかも風狂の精神もある」「人形は何かを懸命に演じている時が一番美しく、人間以上の表現力を持つ」

2013年に渋谷ヒカリエの8階の「川本喜八郎人形ギャラリー」を見たことがある。NHKで放送された「人形劇・三国志」と「人形歴史ペクタル・平家物語」に出演した人形が並んおり、圧倒的な存在感に心を打たれたことを思い出した。

日本では放浪する芸能の民は神の霊魂が宿った人形と一緒に旅をした。『死者の書』を著した折口信夫はあらゆる表現の起源に神への信仰を見ていた。人形は人間のミニチュアではない。人形は神なのである。その神にお仕えするのが人形作家であり、人形アニメーション作家だ。この仕事は民族の歴史と伝統と精神を学んだ、選ばれた人のみが携わることができる神に仕える聖職なのである。 

川本喜八郎 人形―この命あるもの (別冊太陽)

川本喜八郎 人形―この命あるもの (別冊太陽)

 

2018年夏をどう過ごすか?

9月に出る「ビジネス書・徹底ガイド」の担当ページが送られてきたので、コメントをチェック。以下、私が取り上げたビジネス書。

外山滋比古『知的生活習慣』。コリン・パウエル『リーダーを目指す人の心得』。中村修二『考える力、やり抜く力 私の方法』。馬場錬成『大村智 2億人を病魔から守った男』。坂村健『IOTとは何か』。寺島実郎ユニオンジャックの矢』。落合陽一『魔法の世紀』。水戸岡鋭二『あと1%だけ、やってみよう 私の仕事哲学』。

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本日届いた山際寿一『ゴリラからの警告 人間社会、ここがおかしい』を一気に読了。

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 大学。

・秘書と打ち合わせ:夏休みの間のスケジュール。資料確認、、、

・学長室渡辺さん:戦略会議「学生」の指示書の検討。

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2018年夏をどう過ごすか?

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「名言との対話」8月22日。藤圭子「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったらまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」

藤 圭子(ふじ けいこ、1951年7月5日 - 2013年8月22日)は、日本演歌歌手。本名、宇多田 純子(うただ じゅんこ)。

1960年代末から1970年代初頭にかけて、夜の世界に生きる女の感情を描いた歌を、伸びやかに、深々と歌い上げ、一世を風靡した歌手だ。デビュー曲は「私が男になれたなら 私は女をすてないわ」で始まる「新宿の女」。代表曲は「赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく」の「圭子の夢は夜ひらく」。

ドスの効いたハスキーボイスと可憐な風貌とのギャップを不思議に思いながら、テレビに見入っていたことを思い出す。不思議な存在感を醸し出す歌手だった。

母は三味線瞽女藤圭子は昭和の歌姫。娘は天才歌手・宇多田ヒカル。母娘に天才の遺伝子があると天才が生まれるという節がある。三味線瞽女、悲しき歌姫、天才・宇多田ヒカル、と続く血の流れを、現代の歌姫・宇多田ヒカルは、音楽をやっている自分をどう思うかと訊かれて、「呪い」と表現している。

1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え、日本国内の歴代アルバムセールス1位になった娘の宇多田ヒカルは、アメリカンスクールの高校生の時は全成績が「A+」という最高評価だった。そして当然のように名門コロンビア大学に合格している。母の藤圭子は中学生では通知表はオール5であり、恐ろしく頭の回転が速く、頭が良かった。ひかるはその娘だ。宇多田ひかるは、自らつくる歌詞も素晴らしいが、言葉も凄い。「どうしようもないくらい絡まってぐちゃぐちゃになったネックレスを、一生懸命ほどくような感じ」(「歌詞ってどうやって書くんですか?」への回答)。「私が曲をつくる原動力って結局「恐怖」と「哀しい」と「暗い」なんですよ、全部」。

阿久悠は「時代に食い込んだり、時代を引き裂いたりする力は、母(藤圭子)の方にあったかもしれないんだよ」と藤圭子の存在を評価していた。

藤圭子の歌を、演歌でもなく、艶歌でもなく、援歌でもなく、負の感情から発した「怨歌」と表現した五木寛之は、黒人のブルース、宿命を意味するポルトガル民謡・ファドなどと同様の、下層から這い上がってきた人間の、凝縮した怨念の燃焼と語っている。

心の病をもっていた昭和の歌姫・藤圭子は、デビュー作品「新宿の女」の舞台である新宿で飛び降り自殺をしている。享年62。「歌があったからまあいいっか」という死に方だっただろうか。 

悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾

悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾

 

 

 

 

 

朝:ヨガ。昼:大学。午後:出版社。夕:うなぎ。

朝:ヨガで一汗。

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昼:大学で近藤秘書と打ち合わせ

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午後:荻窪の日本地域社会研究所で落合社長と懇談。

新著。シン・知的生産の技術。新企画。

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夕:池袋の「うな鐵」で樋口裕一さんと懇親。

近況。出版。家族。入試。、、

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夜:帰りは京王ライナー。

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「名言との対話」8月21日。平松守彦「リンケージ(人々とのふれあい、つながり)こそが究極の生き甲斐なんですよ」

平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年3月12日 - 2016年8月21)は、日本政治家

大分中学、五高、東大法学部卒業後、商工省入省。「佐橋大臣」と呼ばれた佐橋滋のもとで通産省統制派官僚として活躍した。課長補佐時代には、木下大分県知事にのちの大分臨海工業地帯となる臨海工業地帯構想を進言、そして日本のコンピュータ業界の離陸に関わる。課長時代以降はコンピュータのソフトウェアに関する法律作成、三大コンピュータグループ形成などの重要な施策を展開した。

1975年に望まれて大分県副知事を引き受ける。妻に先立たれ、娘二人を東京に残した人生の再出発だった。1979年大分県知事に就任し、以後6期24年にわたり県政を担当し、「一村一品」運動などを展開し、世界にも広げた名物知事だった。

 平松の思想は、『グローバルに考えローカルに行動せよ』(東洋経済新報社)、『地方からの発想』(岩波新書)などの著書に集約されている。今回『地方からの発想』を読んだ。「陳情とは情を陳べると書く。理屈を述べるのではない」「地方自治とは教育である」「リーダーとはコロンブスの卵を生む人、生み続ける男でなければならない」「一村一品の「品」は人品、品格の品であり、「人づくり」のほかならない」「豊の国づくり塾の塾是は、「継続、実践、啓発」。塾歌は「若者たち」」。

平松知事の代名詞となった「一村一品」運動は日本全国に展開したが、世界にも影響を与えた。特に中国では武漢の「一村一宝」があるなど盛んだった。 2010年9月に私は中国政府の国賓館である釣魚台の昼食会に招待されたことがある。食事は西洋料理で、世界の名品をそろえていたが、ジュースの中に故郷大分の「つぶつぶ かぼす・日田の梨」のジュースがあり、平松知事の「一村一品」運動の浸透に感激したことがある。また、平松知事には、は草柳大蔵さんとは学徒出陣の仲間だった縁で開催された草柳文恵さんのお別れの会、大分県人会、親しい友人であった野田一夫先生の縁、、などで何度もお会いしている。温厚な紳士という印象を持っている。

平松知事は、先哲叢書を10年かけて完成させていることも特筆すべきだ。福沢諭吉、田能村竹田、滝廉太郎、福田平八郎、双葉山、三浦梅園、広瀬淡窓、ペトロ・スカイ岐部、野上弥生子大友宗麟、、、。人づくりに関心が高く、子ども達に先哲から刺激を受けて欲しいとの考えだった。

この本では、福沢諭吉の『分権論』を取り上げ「政権と治権」を論じている。地方行政の担当すべき治権とは、人民の生活に密着したものであり、警察、道路・橋梁・堤防の営繕、学校・社寺・遊園地の造成、衛生の向上、、、などであり、福沢の考えに沿って地方自治の本義に向かってのライフワークである地方行政の仕事に邁進したのだ。

冒頭に掲げた「リンケージ(人々とのふれあい、つながり)こそが究極の生き甲斐なんですよ」の前には、「人間、地位がある、金があるでは満足できないのです」という言葉がある。生き甲斐とは、ふれあいであり、つながりである。高齢化社会を生きる指針として心すべき箴言だ。

地方からの発想 (岩波新書)

地方からの発想 (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

T-Studio「トレンドウオッチャー」第15回をリリース

T-Studio「トレンドウオッチャー」第15回をリリース。


トレンドウォッチャー橘川幸夫第15回

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 大学。

・研究室にて。

・・講演のやり取り:東京都人材育成センター。岡山県職員研修所。大分県PTA連合会。

・・スケジュール調整等

・ラウンジにて:入試改革ミーティング:金入試委員長、杉田学部長、宮地事務局長、私。2時間ほど。大きな絵柄の原案が描けた。

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「名言との対話」8月20日吉田文雀「好きで入った世界、何もかも芝居に直結している」

吉田 文雀(よしだ ぶんじゃく、本名:塚本 和男1928年6月8日 - 2016年8月20日)は、人形浄瑠璃文楽人形遣い

 1945年8月に文楽座入りし、2代目吉田玉市の預かり弟子で吉田和夫を名乗る。翌年正式に南座で初舞台を踏む。1991年紫綬褒章受章。1994年重要無形文化財人間国宝)認定。戦後文楽の発展、復興に尽力した。

仏教用語で美しい玉を浄瑠璃という。万物が金、銀、珠玉からなる薬師如来の浄土が浄瑠璃世界だ。その薬師如来の申し子とされた美しいお姫様である浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語が流行し、いつか浄瑠璃と呼ばれるようになった。

別々に発達した耳で聞く浄瑠璃と目で見る人形が合体して文楽になった。文楽は、義太夫節を物語を語る太夫、対等な立場で演奏をする三味線、人形の三業から成り立っている総合芸術であり、微妙な動きで心情を表現し生身の人間以上に人々に訴えかける舞台を堪能できる。文楽では公演のたびに、人形遣い自身が、かしら(首)、かつら、衣装・手足・胴・小道具を組み合わせる。三人で一体の人形を操る「三人遣い」で、「主遣(おもづか)い」「左遣い」「足遣い」がある。人形浄瑠璃文楽は、人類の口承及び無形遺産に関する傑作として、2003年にユネスコ無形文化遺産に登録された。

さて、この吉田文雀は、1945年に文楽座に入座、2016年に引退するまで71年間、文楽人形遣いとして活躍した名人である。その品格のある舞台にはファンが多かった。文雀は芸域が広かったが、特に老け役女形(おやま)は高く評価された人形遣いの第一人者だ。「文楽博士」と呼ばれるほど博識であり、古典芸能の故実にも詳しかった。けいこの時は、人形を持っては行わない。自分の体で学び、その過程で人形の気持ちをつかみ、それを人形自身にに映していった。

芸域は広く、立ち役(男役)や敵役もこなしたが、特に老(ふけ)女形(おやま)で高く評価された。
芸域は広く、立ち役(男役)や敵役もこなしたが、特に老(ふけ)女形(おやま)で高く評価された。
品と格調のある舞台
品と格調のある舞台
品と格調のある舞台

「役作りに際しては、師匠から芝居をする上で、技術も大事だけど性格、性根の内面と、侍なら石高、身分、女房なら元は腰元か、遊女かとか外的要素もつかんで人物像を造り、何でこの場にいるのか、目的はこれからどうしたいのか、を考えて役を表現するように教わりました」「伝統的な仕事は全て同じだと思いますが、師匠、先輩から学んだことを次の世代に伝える義務があります。この義務を果たすのが師匠への恩に報いることだと思います」。と文楽人形遣いの弟子・吉田和生が語っている。

「人形を遣い」の修行は合理的なシステムを持っているのだが、その中でいかに個性を盛り込み、自分を表現していくかが人形遣いの生涯のテーマになる。引退時に「何より好きなただ一つの道だけを70年に渡って勤められましたことは幸福以外の何物でもございません」とするコメントを発表している文雀は日常のすべてが人形浄瑠璃の世界に結びついた、迷いのない生涯だった。

 

 

 

産経新聞に書評。チャプリン『独裁者』。

本日19日の産経新聞の「書評」に『100年人生の生き方死に方』が取り上げられた。
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人生100年時代。本書は医学や文学、美術などの分野で活躍し、90歳以上で亡くなった81人の箴言(しんげん)を紹介する。107歳まで生きた彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から」と残した。亡くなる直前まで制作を続けた大家らしい。

さすがに長く生きているだけあって、どれも味わい深く含蓄がある。ついつい納得。「出る杭(くい)は打たれるが、出すぎた杭は誰も打てない」(起業家、堀場雅夫

多摩大学副学長の著者は全国にある偉人の800以上の記念館を訪ね、資料や書籍を入手して言葉を集めた。その行動力もすごい。(久恒啓一著/さくら舎・1400円+税)

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チャプリン「独裁者」をDVDで観た。特に印象に残ったシーンは、以下の二つ。

・世界征服を夢見て風船の地球儀で遊ぶ独裁者の姿。

・最後の6分間の感動的な演説。

申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。 それは私には関わりのないことだ。 誰も支配も征服もしたくない。できることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。 

私たちは皆、助け合いたいのだ。 人間とはそういうものなんだ。 私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。 私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。

この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。 人生の生き方は自由で美しい。 しかし、私たちは生き方を見失ってしまったのだ。 欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。

私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。 ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。

知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、薄情にした。 私たちは考え過ぎで、感じなさ過ぎる。 機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。 賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。 そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。

飛行機やラジオが私たちの距離を縮めてくれた。 そんな発明の本質は人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。

今も、私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに、絶望した男性達、女性達、子供達、罪のない人達を拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとに届いている。

私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。 私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。 決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。

兵士たちよ。 獣たちに身を託してはいけない。 君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。

そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。 君たちは機械じゃない。 君たちは家畜じゃない。 君たちは人間だ。 君たちは心に人類愛を持った人間だ。 憎んではいけない。 愛されない者だけが憎むのだ。 愛されず、自然に反する者だけだ。 

兵士よ。 奴隷を作るために闘うな。 自由のために闘え。 『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。 一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。 君たちの中になんだ。

君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。 君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。

だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。 皆でひとつになろう。 新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。

そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。 約束を果たさない。 これからも果たしはしないだろう。 独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。

 今こそ、約束を実現させるために闘おう。 世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。

 理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。 兵士たちよ。 民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。 

ハンナ 聞こえるかい
元気をお出し

ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いてる
明るい光がさし始めた
新しい世界が開けてきた
人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだ

人間の魂は翼を与えられていた やっと飛び始めた
虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来に向かって
輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!
ハンナ 元気をお出し!

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8月19日。伊谷純一郎「人は誰だって快楽を求める。しかし君、男子たるもの歓喜を求めにゃいかんよ」

伊谷 純一郎 (いたに じゅんいちろう、1926年5月9日 - 2001年8月19日)は、日本の生態学者、人類学者、霊長類学者。

霊長類研究の創始者である今西錦司の跡を継ぎ、日本の霊長類研究を世界最高水準とした学者である。高崎山ニホンザルの生態研究を行い、著作『高崎山のサル』(1954年)で毎日出版文化賞を受賞した。その後、1950年代末からアフリカにおいてチンパンジーやゴリラの生態を追い続け、これら霊長類の世界に大きな社会構造が存在することを世界に先駆けて解明した。世界ではじめて野生のサルの餌づけに成功したことでも知られる。1984年に「人類学のノーベル賞」と称されるトーマス・ハックスリー記念賞を日本人として初めて受賞した。

 後年、調査対象を霊長類からヒトにまで拡大し、焼畑農耕民族や狩猟民、遊牧民などの生態を研究した。京都大学にアフリカ地域研究センターを設立し、人類学や生態学といった領域にとらわれない学問研究の流れ(生態人類学)を作った功績も大きい。

 「従容として群れを去る」というサルたちの教えに従って定年退官する直前の1990年に出した『自然の慈悲』というタイトルの第一エッセイ集には、「出自を異にする巨大な雄たちの共存を支えているには、生活を共にするもう少し若齢の雄たちとのど同性行動だ」という報告をした弟子の山際寿一君という人物が登場する。この山際寿一は、現在の京大総長の若き日の姿である。

生涯をフィールドワーカーとして過ごした伊谷は、志賀直哉ヘミングウェイの、簡潔、的確な文章を模範としてフィールドワークの観察記録の描写法とする。このフィールドワーカーは、西行芭蕉、蕪村ら旅の俳人の人生に思いを馳せる。アフリカでは「月湖西にわたり月虹東野に浮かぶかな」という句も詠んでいる。

歓喜」は 20歳の頃、生涯の恩師・小田規矩之助先生(眼科医)から言われた言葉である。それは知的エクスタシーとでも表現すべきものだろう。伊谷純一郎は、肉体的快楽ではなく、知的歓喜の世界を求め続けた旅人だったのだ。 

 

自然の慈悲

自然の慈悲

 

 

 

久恒啓一の「名言との対話」第34回のゲストは梅澤佳子先生「しなやかに」。

久恒啓一の「名言との対話」第34回。ゲストは梅澤佳子先生「しなやかに」。

 「レジャーの環境やプログラムサービス開発が専門の梅澤佳子教授の座右の銘は「しなやかに」。弾力に富み柔らかくたわむだけでなく瑞々しさも含む言葉には、どんな厳しい場面でも折れない強さが隠されている。そしてその強さは品格に繋がっている。「人生100年時代」を生きる学生の精神的な支柱に、シルバー世代が心の世界を開花させるためにも大切にしたい言葉」


久恒啓一の名言との対話第34回梅澤佳子教授2

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「名言との対話」。8月18日。金大中「この世で一番恐ろしいのは自分の眼である。鏡の中に現れる自分の眼こそが一番恐ろしい」

金 大中(キム・デジュン、朝鮮語김대중1925年12月3日- 2009年8月18日)は、韓国政治家市民活動家。第15代大統領(在任:1998年 - 2003年)。

 創氏改名でつけた日本名は豊田大中。略称は「DJ」。カトリック教徒で、洗礼名はトマス・モア。 

 汗と涙にまみれながら海運業を起こした青年実業家は、経済を生命体だと理解していた。そのまま続けていたら財閥の仲間入りを果たしたかもしれない。1961年、1954年以来落選と登録取り消しがあった5回目の挑戦で初めて議席を得る。その後も辛酸に満ち満ちた政治家生活を送る。朴正煕(パク・チョンヒ)大統領とは終生のライバルだった。心身強健なこの「鉄人」は、自動車事故を装った政権による暗殺未遂で股関節に障害を負って歩き方がぎこちなくなった。

1973年、日本滞在中の韓国野党の前大統領候補・金大中は九段のグランドパレスホテルで白昼堂々と拉致される。そして6日目に自宅に帰る。日本の主権が韓国の公権力によって侵害された事件である。その時の生々しい体験は『金大中 わが人生、わが道』に詳しく語られている。この年は私は大学を卒業し、東京に就職した年で、この事件はよく覚えている。グランドパレスはよく使うが、ここで金大中拉致事件があったのだなと思うことがある。この事件以降も、長く野党の議員であり、論客であった金大中は、時の政権からの圧迫と懐柔にさらされ続ける。副大統領のポストまで提示されたことがある。政権与党にとって危険人物だったのだ。

1992年の大統領選挙で敗北し引退を決意するが、再起し1998年には「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、 民主的政権交代が韓国史上初めて実現し、大統領に就任する。アジア通貨危機直後の就任であった。金大中は21世紀の最初の四半世紀には、アメリカ、日本、中国、ドイツに続く人口7千万人を擁する世界経済五大強国になる、それを高句麗時代になぞらえて「広開土時代」と呼ぶ構想を持っていた。危機を脱した韓国はIT先進国になった。

日本の小渕恵三内閣総理大臣日韓共同宣言を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推進する。北朝鮮に対しては「太陽政策」を推し進め、平壌金正日との南北首脳会談を行った。その功績で、2000年にはノーベル平和賞を授与された。10回以上もノーベル平和賞候補であり、ようやく実現したのだ。

85歳での死去の前に「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて病気で先が長くない。あなたたちがしなければならない」と言い遺していた。この金大中の「遺言」を受けて文在寅は政界入りを決意し、8年後の2017年5月9日の大統領選挙に当選して第19代大統領に就任した。文大統領は金正恩との南北首脳会談を行うなど、金大中の遺志を継いでいる。

金大中のニックネームは「忍冬草」だった。ニンドウと読む、スイカズラの一種である。春を準備するために冬場を耐え忍ぶことからついた名である。金大中の死線を何度も越えてきた人生行路を眺めると、ふさわしいニックネームだと納得する。この人はその都度、圧迫と誘惑を戦い抜いた人である。毎日見る鏡の中の自分の眼だけは、自分の人生の折々の姿を冷徹に、ごまかしなく見ている。自分の眼はごまかせない。自分は自分の眼に恥じない生き方をしてきたか?

 

 

金大中自伝―わが人生、わが道

金大中自伝―わが人生、わが道

 

 

 

 

井上貴美子『102歳の平穏死』--平穏死は、大往生の思想である

『102歳の平穏死--自宅で看取るということ』(井上喜美子)を読了。 

102歳の平穏死

102歳の平穏死

 

 『100年人生の生き方死に方』の感想がぼちぼち手に入ってるが、この本は素晴らしい感想とともに送られてきて、読みやすくその日のうちに一気に読み終わった。

102歳で理想の平穏死を遂げた義父の看取りを時間を追って具体的に描いた本だ。著者の誠実な人柄と、人間とその死に対する深い観察で、自身が少しづつ成長していく姿がよくわかる優れた体験記である。

「平穏死」という言葉は最近耳にするが、この本を読んで考え方がよくわかった。無用な苦しみからの解放という意味で、むしろ本当の意味の尊厳死ではないかと思った。

時折、この本であらわれる感想は体験者ならではの感慨がこもっている。「人は、やろうと思うこと、やるべきことがないと、老いていくものだ」。そして「家族のことに思いを馳せながら、苦しみもなく、天寿をまっとうできれば、非常に幸せな死に方ではないだろうか」。それをどう実現するかが、大きなテーマだ。

死の間際に「仲良し時間」があらわれる。「今まで、ありがとうございます。お世話になりました」と著者が言うと、予想もしない言葉が返ってきた。「こちらこそ、ありがとう。お世話になりました」。「あまり、いい嫁ではなかったのですが、、」「そんなことはありませんよ」、、、。そして二人はニコニコしてお互いを長い間、じっと見つめ合っていた。ここがこの本のクライマックスだ。

点滴を外し、延命処置をやめる平穏死には年齢が大きくかかわるようだ。71歳、80歳だったら、平穏死はなかなか選べないだろうと著者は思う。この義父の場合は100歳を超えているので、次第に平穏死へ向かうことができただろうが、なかなか年齢による線引きは難しい。

私の尊敬していた上司も、延命はせずに家族全員が賛美歌を歌う中で、皆と手を取り合って70歳の若さで死に赴いたと聞いている。この例も平穏死を自ら選び取ったということなのかも知れない。

十分に生きて、最後は苦しまず、安らかに、穏やかに家族にかこまれて逝くことができることは大きな価値のあることである。平穏死は、まさに大往生の思想なのではないか。90代に入った母のことを考えるにも大いに参考になったし、自分の死生観にも影響があった。この本の中で触れられている「平穏死」の本も読むことにしたい。

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 大学にて。

・松本先生(地域活性化センター長):人事。

・高野課長(学長室):人事。

・渡辺さん(学長室):戦略会議「学生」の方針。

・バートル先生(国際交流センター長)

・森島課長(入試課):スケジュール

・山本さん(学長室):T-Studioの34階の名言との対話。

・樋口先生と電話:さくら舎

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聖蹟桜ヶ丘の赤坂飯店で知研の八木会長と食事。

・シン(真・進・新)知的生産の技術

・『100年人生の生き方死に方』を贈呈 

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 「名言との対話(平成命日編)」8月17日。柳原良平「つかめる夢はつかんだ。さらに夢をつくろう」

柳原 良平(やなぎはら りょうへい、1931年8月17日 - 2015年8月17日)は、日本イラストレーター漫画家アニメーション作家、エッセイスト

1950年代初頭にトリスウイスキーの広告に登場した切り絵の3等身の「アンクルトリス」は人気があり、高度成長時代にふさわしい国民的キャラクターになった。この作者が柳原良平だ。「サントリー天国」「サントリークオータリー」や、新聞に連載された「新入社員諸君。一歩踏み込め!」「沈着・冷静・果断」「一日一日を大事に使えば、必ず立派な人間になれる」など山口瞳のビジネスマンを励ます文章とマッチした絵は人気があった。私もモーレツビジネスマン時代には、こういった絵や言葉に親しんでいた。

柳原はイラストレーター、デザイナー、漫画家、アニメーション作家、エッセイストなどの仕事を存分に楽しんでいる。生涯で装丁を手がけた書籍は300冊以上。大胆なデフォルメの切り絵と必要最小限の線、そして白目の中の黒目で顔の表情の変化を的確に表現する手法だった。

この人はこども頃からの「船キチ」でもあり横浜・山手の自宅兼アトリエは海の見えるモダン建築だった。「船の画家」と呼ばれ、船会社や船の名誉船長、海のパビリオンの名誉館長、海洋関係の財団の理事など、多彩な肩書きを持っていた。東京に出るときは、夕暮れの銀座を画廊をのぞいてから食事をしながら飲み、そしてなじみの店を一巡している。

関係者の証言を眺めると、「鋭い観察眼。旺盛な仕事量。締め切り厳守。期待以上の作品」と仕事への評価は高い。船長姿でウイスキーをぐいぐいあおってバタンと倒れる姿が目撃されるなど、愉快でおおらかな人柄で慕われていた。

広島県尾道市に「「アンクル船長の館」(2009年閉館)があった。また横浜みなとみらい21地区にある横浜みなと博物館内に常設展示室「柳原良平アートミュージアム」が018年に開設されている。

冒頭の言葉は『柳原良平の仕事』の中で2001年のインタビューのタイトルである。この最後に「あと30年はがんばらなくては」と語っている。この時柳原は70歳だから、100年人生を見すえていたことになる。実際には84歳で没するが、その心意気や、よし!

 

柳原良平の仕事 (玄光社mook)

柳原良平の仕事 (玄光社mook)