二日目。朝5時半から23時までの記録をつける。

二日目。

どのような生活パターンになっていくのか、しばらくは実験しながら考えていくことになる。生活を詳しく記すことをしばらくはやってみようか。

朝は5時半に起床しブログを書く。書き始めが少し遅くなったのと人選びに手間取って4月1日の「名言との対話」は未了。トイレで日課になっている梅棹忠雄著作集11巻「情報と文明」の「情報産業とファッション」の項を読む。

8時50分からは3年ほど毎週通っている近所のヨガ教室で1時間ほど励む。体と心の両方にいい。女性の先生で、受講者はほぼ全員が女性。帰宅し日経新聞東京新聞の「令和」の記事を読む。

11時、駅までの15分をユーチューブで「ラジオ版学問のすすめ」の池井戸潤(小説家。「下町ロケット」で直木賞)のインタビュー番組を聴きながら歩く。二駅先の京王永山からはタクシーを使って大学へ到着。

総研で1時間ほど書類整理。14時からラウンジで脳波の共同研究のリーダーの良峯先生から脳波の記録のやり方を習う。図解を描いている時の集中がどの程度のものかを調べることにしている。アルファー派とベーター派の割合を記録し分析することになる。途中で、久保田先生と今泉先生とコミュニケーション。測定器を頭につけている姿は彩藤T先生に撮ってもらった。多摩大で同僚だった金子さんに退任祝いにいただいたオルゴールの御礼の電話。日本実業出版社の安村さんと新刊本の受け取りの相談。

大学から京王永山まで20分ほど歩く。この間「ラジオ版学問のすすめ」の沖方丁(小説家。「天地明察」「光圀伝」)のインタビューを聴き始める。池井戸潤沖方丁も最初から小説を書こうとし実際に実現した人だ。どちらも現在の生活を楽しんでいるし、もっともっとうまくなれると確信し、作品ごとに成長を実感している。この番組は1時間近くの番組でインタビュアーがうまく引き出すので楽しくてためになる。電車の中で聴き終わって、アマゾンミュージックで音楽を聴きながら、出口治郎『知的生産術』を読み進める。

17時過ぎに品川に到着。駅構内の行きつけの寿司屋で食事。少し時間があったので、カフェで本を読了。その後、本夕の大学院授業の準備。18時に品川キャンパスに入る。事務局の滝川課長、杉本係長を冷やかしてD教室に入る。始まる前に万葉集の本を出している九州の母に電話し、「令和」と万葉集についての話題。

18時半から2018年秋学期入学生徒対象の「修士論文基礎講座」シリーズの中で「図解・修士論文の書き方」を1時間半講義する。受講者は15名程度。文章は「内容」X「表現」という理論から始めて、考え方の解説と2つの演習を行う。

終了後のアンケート「実戦的でわかりやすく著書を読みたい。論文にも人生にも仕事にも活用できる」「刺激的な講義だった」「図解を描ければ文章を書けることがわかった」「図を描くことは必要な要素と関係が明確になっているので、逆算してゴールにたどりつくことができた」「足りないものと不要なものがわかる」「論文は文章の塊という考えが消え、若干親近感を持つようになった。文章読本に踊らされ過ぎていた」「じぶんのかんがえをもつこと」「文章を書くときの不安をぬぐうことができる」「全体像を整理できる。自ら作成した図なら記憶に残る」「論文を書くのは高い能力と技術が必要だと思っていたが、今日の講義で書き方がわかった」「鳥の目は有効だ」「文章を書きやすい」「図解は文章の設計図というのは、たしかにガッテンした」「この能力を得ることができれば、意見の集約、思いの伝達、そして「アイデアを広げることができる」「先生の図解表現は画期的。時間短縮に一番納得」「修士論文に役立つ」、、。

帰りの電車の中で、ユーチューブで「あの人に会いたい 竹内均先生」の「閃きの源泉」という講義を聴く。物理学者の竹内先生の本は若いころよく読んだ。毎月300枚の原稿を書くという自分との約束を破ったことがない。著書は300冊を超えている。継続力の大切さ。異質の接触、組み合わせ。、、

帰宅は22時過ぎになった。風呂で本日が命日の戸田城聖の自伝『戸田城聖 偉大なる師弟の道』を読み始める。あがったあと、リビングのテーブルで、ビールと日本酒を飲みながら読み進める。半分の65ページでやめて就寝。

f:id:k-hisatune:20190403054515j:imagef:id:k-hisatune:20190403054525j:image

 f:id:k-hisatune:20190403054534j:image  

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」4月2日。戸田城聖「大革命をやるのだ。武力や権力でやるの革命ではない。人間革命という無血革命をやるのだ。これが本当の革命なのだ」。

戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年明治33年〉2月11日 - 1958年昭和33年〉4月2日)は、日本宗教家教育家実業家。

20歳の青年戸田は北海道から上京し、自分の生涯をかけるにたる人生の師と哲学を求め歩く。そして出会ったのが西町尋常小学校校長の牧口常三郎だった。「君の才能は成功すれば素晴らしく成功し、失敗すれば、大いなる敗残者になるであろう」と予言される。戸田は牧口に師事する。

戸田は時習学館という塾経営を始める。自分の頭で考え解決法を見つけ出す。子どもたちの探求心、挑戦心を触発する。情熱あふれるふれあい、そして研究工夫された教授法で人気を博した。牧口の教育学の目的は「価値を創造すること」であった。戸田はそれを「創価教育」と名付ける。創価教育学会は、教育変革からしだいに社会変革を目指す運動へと重点を移していく。宗祖日蓮は蒙古襲来を予言し的中させ、現実の政治にも関わった。その流れを汲んだ創価学会は政党をつくり、楽園を現世に実現しようとしている。

治安維持法不敬罪で逮捕され、独房に入れられた戸田は『日蓮宗聖典』を読み切ろうと決心する。1日1万遍唱えることにした。ある日、「仏とは生命そのものだ」と分かり、180万遍を超えようとした日に、「自分も地湧の菩薩のひとりだ」と悟る。「僕の一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!」。戸田はこの読書に「身読」という言葉を使っている。

「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。初めから、望みが、小さいようでは、なにもできないで終わる」。戸田は次代を担う一騎当千の後継者群を育てることに腐心した。それが池田大作青年だった。池田大作が戸田に「古の奇しき縁に 仕へしを 人は変われど われは変らじ」という歌を献上。戸田城聖の返歌は「幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君の太刀ぞよ」だ。牧口。戸田、池田の3代の師弟関係は強固だったことがうかがえる。

創価中学・高校の開校後、3年を経て牧口常三郎生誕100周年の1971年に八王子に創価大学が誕生する。牧口の遺言「卒に将たるは易く、将に将たるは難し。その器を持つ人を育てよう」を実現したのである。

横浜の山下町を歩いていた折に、偶然「戸田平和記念館」を見つけ戸田城聖という人物の足跡に触れたことがある。外国商館の建物であり、関東大震災以前のものとして唯一現存する歴史的・文化的建築物だ。

大学時代、戸田城聖『人間革命』を、タイトルに惹かれて読んだことがある。その時はよくわからなかったが、「人間革命」とは、個人に内在する「仏」という最高の創造的生命を引き出して、自己の宿命の転換と正しい繁栄を目指しながら、たゆまぬ前進を続ける自己変革への挑戦のことである。

1958年に戸田城聖が没した時、告別式には12万人が焼香した。学会葬の一般焼香には25万人が参列した。その影響力は壮大である。

無血革命こそ本当の革命だ、と戸田城聖は語る。確かにそうだ。方法や手段はいくつもあるだろうが、たゆまぬ前進を続け、自己変革に挑み続けることだ。自己変革を果たそうとする人々の群れが、社会の変革を引っ張っていく。人間革命こそ本当の革命だ。

 

新装普及版 戸田城聖 偉大なる「師弟」の道

新装普及版 戸田城聖 偉大なる「師弟」の道

 

 

 

出発進行!

昨日で11年間の多摩大の、もっと言えばその前の11年間の宮城大時代をも含めて22年間の専任教授生活を終えた。

本日から、多摩大学特任教授を拝命。学部は春秋1コマづつ、大学院は春1コマの授業も担当。また多摩大学総合研究所所長としての仕事は継続する。

ーーーーーー

午前:多摩大総研に出勤。近藤秘書とスケジュール、講演資料準備など。

午後:立川。

夕刻:日本地域社会研究所で落合社長と懇談。「地と知を結ぶネットワーク」。

ーーーーーー

元号「令和」の発表あり。メディアは「命令の令」と説明していたが、印象が悪い。そうではなく「令嬢の令」など良い意味の言葉で伝えるべきだと思う。「よき」という意味なのだから。

『女流歌人が詠み解く!万葉歌の世界』(久恒啓一監修、久恒啓子著)の162ページに「梅歌の宴」という項がある。 

 「天平二年(730)正月、旅人は帥(そち)の官邸で盛大に梅花の宴を催した。集まった人々は、大宰師大伴旅人をはじめ大弐以下府の官人二十一名、九国三島から筑紫国山上憶良をはじめ十一名、計三十二名であった。大陸から渡ってきた梅の花を愛でつつ風流に遊ぶというこの文芸活動は、文学史の面からみても貴重な資料であるといわれている。、、梅花の宴の歌三十二首の殆どは、梅の花をかざして歌え、舞え、遊び暮らそうといった歌が多く、、、」とある。

その万葉集の梅花の歌三十二首の序に「令」と「和」がある。「天平二年正月十三日、師老(そちろう)の宅(いえ)に集まり、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月、気淑(うるわし)く風和(やわら)らぐ。梅は鏡前に粉に披き、蘭ははいご?の香に薫る。

加上(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移りて、松は羅を掛けて蓋(きぬがき)を傾け、夕(ゆうべ)の岫(くき)に霧結びて、鳥は穀(こめのきぬ)に封(とぎ)されて、林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。ここに、天を蓋(きぬがい)にし

地を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け、さかづき?を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(ほか)に開く。淡

然として自ら放(ほしいいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ざれば、何を以てか情(こころ)をのベむ。詩に落梅の扁(へん)を紀(しる)す。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊(いささ)かに短詠を成すべし」。

「初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ」が「令和」の意味するところだ。そういう世の中になることを祈念した命名である。母にも電話。万葉ブームがくるだろう。

#令和 #万葉集 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

今日の収穫ーー図解。

「魏にしても宋にしても、自国を中心に据えた世界図を描きたいと思っている。天下を統一するということはすなわちこの図を描くということです。かつては秦の始皇帝がこれを実現しました。」(池澤夏樹日経新聞連載小説「ワカタケル」204。190401).

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話」4月1日。、五味康祐「私が死ぬとき、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとに往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある」

五味 康祐(ごみ やすすけ1921年12月20日 - 1980年4月1日)は、日本の小説家

中学時代には退学処分になりかけるが、「困難は伴うけれど独学でも文学の道を進むつもりです」と決意を述べて退学は取り消しとなった。

戦争時には、「日本の国体に目を注ぐか、目をつむるか、この二つの方向しかない。五味は大和路に仏像の美をさぐり、「国のまほろば」が象徴するものに、いのちをかけた」。

徴用逃れのために明治大学し、亀井勝一郎の門下につらなる。戦後は、保田與十郎を生涯の師とする。保田は「心やさしい、天然自然の男である。彼のやることふるまいことは、みなおのづから作為や思惑がない」と『現代き?人伝』で評している。

五味は純文学を志していた。『喪神』で1953年、第28回芥川賞を受賞したのだが、この小説で剣豪小説のレッテルが貼られてしまう。1956年の「週刊新潮」創刊時から「柳生武芸帳」を連載。精神性の表現と格調高い文体は人気を博し、柴田錬三郎の「眠狂四無頼控」と双璧となった。「五味の柳生か、柳生の五味か」といわれる。流行作家となった。

手相『五味手相教室』。観相学『五味人相教室』。麻雀『五味マージャン教室』。五味の世界は広い。「直観は誤らない。誤るのは判断だ」はマージャンの名言である。しかしカーマニアとしては、事件を何度も起こしている。

2014年には練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室の2階に「五味康祐資料展示室」が開設されており、五味の集めた膨大な遺品でしのことができる。

五味はオーディオの神様でもあった。『西方の音』『オーディオ巡礼』などの著作がある。ベートーヴェンの第九交響曲については「無名の文学青年でルンペン同様の流浪時代に、町のレコード店からもれてくる「メサイア」第二部(受難と贖罪)の合唱を聴いて胸をふるわせ、落涙し、再起を己に誓ったのを「忘れえない」(『いい音いい音楽』)。そして「私が死ぬとき、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとに往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある」と語っている。

五味康祐の名はよく聞いていたが、剣豪小説を書く流行作家であり、やや怪しげな印象を持っていた私は、五味の本は読んでいない。五味の若い時代の遍歴や、オーディオの神様などと称される関心の広さと深さに感銘を受けた。反省し、五味康佑の本を読むことにしたい。

『天の聲 西方の音』の中で「私は観相をするが、多分自分は五十八で死ぬだろうと思う」と予言している。そして五味康祐は本当に58歳で亡くなっている。

 

 

 

『多摩大学時代の総決算』。『宮城大学時代の総決算』と併せて、宮城大11年・多摩大11年の合計22年間の大学教授生活の総決算。

f:id:k-hisatune:20190331221936p:plain

多摩大学時代の総決算(2008年度~2018年度)』。こちらからPDFで。

多摩大学時代の総決算

 http://www.hisatune.net/html/01-kyouiku/tamadai_sokessan.pdf

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮城大11年・多摩大11年の合計22年間の大学教授生活の総決算。

f:id:k-hisatune:20190331222123p:plain

久恒啓一図解Web :: さよなら講義−宮城大学時代の総決算

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」。3月31日。新崎盛「自分自身が沖縄現代史とどうかかわって生きてきたか」

 新崎盛暉(あらさき もりてる、1936年1月27日 - 2018年3月31日)は、日本の歴史学者評論家。

二・二六事件のひと月前に、沖縄出身の両親のもとに東京で生まれた。東京生まれのウチナンチュウー(沖縄人)である。高校、大学と「沖縄」を意識し、卒業後は「沖縄を生きる」ことにする。東大時代は日高六郎、尾高邦雄のもとで勉強する。弁護士、ジャーナリスト、琉球大学の助手、沖縄タイミス記者、教員など進路をいろいろ考えてきたが、偶然から東京都庁を受験する。最下位合格だった。日高の紹介で1960年に沖縄資料センターを立ち上げた中野好夫と出会う。「大学教授では飯が食えん」と東大教授を辞めたという伝説の持ち主の中野好夫は、「飯を食うことを甘くみてはいかん」と本職は適当にこなしながら沖縄の勉強をすることを勧めた。25歳から都庁と沖縄資料センターの二足の草鞋を履くことになった。

沖縄の本土復帰後、38歳で沖縄大学の教員として採用されることになる。「沖縄闘争の伴走者としての物書き」を自任していたが、1974年3月に家族ともども沖縄に到着、その後は沖縄にどっぷりとつかることになる。新崎は大学では学長、理事長もつとめた。そして市民運動をけん引してきた。

今回読んだ『私の沖縄現代史』(岩波現代文庫)は、自分自身が沖縄現代史とどうかかわってきたかを書いた本である。2016年10月の書いたこの本の「あとがき」では、以下のように基地問題をとらえている。

「使い勝手の悪くなった普天間基地の返還を口実にして辺野古に弾薬搭載や強襲揚陸艦の接岸岸壁を備えた新基地を建設すること、米海兵隊にとって利用価値のない北部訓練場の北半分を返還して南半分にヘリパッドを集約することを意味した。政府は、面積の減少が負担軽減になると強弁している。しかし、高度な基地機能の新設と集約化は基地負担の増大を意味している」。

自分から突き放して客観的に沖縄の戦後史・現代史を書いきた。それは『沖縄現代史 新版』『沖縄同時代史』(全10巻、別巻1)『現代日本と沖縄』『日本にとって沖縄とは何か』などに結実している。最晩年に書いたこの書は、新崎の自分史であり、沖縄と日本の激動の同時代史である。出自を強く意識し、志を育て、一生をその実現のために捧げた人の物語である。

公務員研修の受講生の感想のまとめが届く:代表のまとめ。各人の研修の評価。印象に残った言葉。

先日行った公務員研修の受講生のまとめが届いた。これほどよくまとまった感想は珍しい。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

  ○全体(研修生代表まとめ)

・図は様々な方法で表現できるが故に完成形がないため、他者と優先順位・因果関係・包含関係などについて議論しながら作成でき、「意識を情報で合わせる」ことに繋がるのだと感じた。

・住民対応などで、相対化(一歩引いた視点、鳥の目線から説明)ができると、合意にいたるまでのスピードが早くなると感じました。物事の全体的な状況や成り行きに対する見方・判断ができるような“大局観”をもつよう心掛けておきたいと思います。

・都民との合意を得るために、行政側はこれまでの(定量情報)×(文章)に加え、(定性情報)×(図解)をもっと増やすべきである。

少子高齢化や情報化社会、新技術の発展等により、今後更に社会構造が複雑になり多様性が広がるため、行政を進める上で住民との合意を取ることは、難しくなると予想される。そこで、従来の説得型から納得型を取り入れ、図解を使用するテクニックを学べたことは大変有意義でした。

・図解の第一人者である久恒教授の講義を受けることができ、大変勉強になりました。教授自身がさまざまな問題をコンサルとして図解で解決に導いており、その経験を踏まえた講義内容となっていたため、合意形成にかかわる図解の役割や効果を理解することができた。

・著書やインターネット情報では、中々実感できなかった図解の効力を体感できて大変良い勉強となった。

・最後の取りまとめと研修生のコメント等を図解で示すことができら、良かったと思いましたが、箇条書きでの作成となったことお許しください。

 

【各研修生コメント】

○研修の評価

・箇条書きの問題点は非常に自分でも実感できた。図で示すことで理解が促進されるというのは自分の体験からもよくわかるし、とても重要だと思う。一方、具体的にどういうふうに仕事の流れ方が変わり、どのように改善したかというのがやや分からなかったところがあった。

・自分の仕事というシンプルなテーマであったが、図のみで表現することが予想以上に難しかった。普段から説明資料等に図を取り入れているつもりであったが、あくまでベースは文章であり、補足的な使い方であったと感じた。班の中で比較してみると、自分は調整業務のため関係者との繋がりを軸としている一方で、現場に近い業務の方は設計や維持管理が必要となる原因を表記していたりと、盛り込む情報の種類が全く異なっていることに気付いた。

・演習で実際に作業するなど、実践的で分かりやすかった。

・いかに図が重要か、わかりやすく教えていただきました。

・文章や箇条書きは、事柄の重要度の大小や重なり、関係性が見えにくいことが分かりました。また、図解で示すことにより、それらを分かりやすく示すことが可能になるとともに、自分自身の頭の整理が進むことを、演習を通じて実感できました。

・講師の著書を読んだ経験もあり、すんなりと話を聞き、納得することができた。特に、人に分かってもらう(分かり合う)には、文章から図解に変えることが有効であり、普段からその活用を意識したい。

・講師が実際に作成した図を用いての説明から始まったため、スムーズに話が入ってきた。

・研修を通して、箇条書きの情報の見えにくさ、図解にすることによる情報の見える化の効果が実感しながら学ぶことができた。図解思考という慣れない新しい思考であったため、講義時間がもう少し長いと良かった。

・事例や演習を交えた講義のため集中して取り組むことができた。また、数字や具体例を追記する必要性を学んだ。

・とても親近感のある講師の方に教えていただき、あっという間の講習でした。見やすい図解のテクニック論のような話を想定していましたが、意外にも図化に対してはシンプルで、関連付けるもの、A4内で取り上げるものなど、本質を教えていただき、勉強になりました。

・重要なポイントをや、エピソードを交えて説明いただき、大変わかりやすかった。

 

〇研修で印象に残った言葉

・箇条書きでは物事の重要性や関係性が示せない

⇒箇条書きは物事を表記するにはとても便利と思っていたが、むしろ楽をできるツールというほうが正しいと思った。思いつきを喋っていくことを正当化しているだけだったのかもしれない。

・図示では全体が分かる

⇒全体の関係性を考慮しないで部分のみの議論が行政ではとても多くみられると思う。他の分野への外部不経済や、本質的な阻害要因等をしっかりととらえて課題意識を共有するためには、図示は良い考えと思った。

・都民や知事について…

⇒都民や知事が図に書き込まれないのは、我々が知らず知らずのうちに考えが卑近になってしまっているのだということを感じた

・図を指摘されても不快に思うことはなく、一緒により良い物を作ろうとする意識が働く。

⇒図は様々な方法で表現できるが故に完成形がないため、他者と優先順位・因果関係・包含関係などについて議論しながら作成でき、「意識を情報で合わせる」ことに繋がるのだと感じた。

・行政方言をやめるべき

⇒優位に立とうとして難しい言葉を使用しても相手には響かない。住民向けの都事業説明文を取りまとめる機会が度々あるので、気を付けたいと思った。

・他者を納得させるには相対化する

⇒普段業務の中でも、相手方に要望を聞いてもらう場合は、全体的な状況や他の対応例と比較することでその必要性を訴えると、より理解を得られるのではないかと思った。

・箇条書きは良くない

⇒今まで意識せずに箇条書きを使用していたが、相関性を考慮することで図解の方が良いことが体感できた。

・図解

⇒様々なことに対して、図解での整理を試みようと思う。いろんな人の図解を見たいと思った。

・説得から納得

⇒人間は基本的に説得されるのは嫌いで、一緒に作り上げる意識にさせて、納得させるという考え方に感銘を受けた。

・説得ではなく納得へ

⇒参加と情報が大事。納得させるためには相対化することが重要であり、全体を見せる図解が有効である。

・行政方言

⇒都庁でしかわからない言葉”行政方言”は使わない。”標準語”を話す都民が”行政方言”を理解できないことが問題ではなく、”標準語”で説明できない行政側が問題。

・合意

⇒合意をはかるためには、都民(客)の視点で、(定量的情報から導いた)定性的な情報を、図解で説明することが重要である。

・真似について

⇒何も考えることなく、ただ単純に真似をするだけでは良くないことが分かりました。公務員は得てして過去事例や他自治体の実績などに解決策を求めがちなような気がします。私自身も、そのような傾向がありますので、今後は事業の目的や効果などをしっかりと踏まえた上で、良い事例を取り込んでいきたいと思います。

・相対化

⇒住民対応などで、相対化(一歩引いた視点、鳥の目線から説明)ができると、合意にいたるまでのスピードが早くなると感じました。物事の全体的な状況や成り行きに対する見方・判断ができるような“大局観”をもつよう心掛けておきたいと思います。

・知事の視点・都民の視点

⇒演習「私の仕事」で書き上がった図を眺めると、知事の視点・都民の視点が欠落していました。普段、直接都民に接することがない職場ではありますが、日頃から意識ができていなかったことの表れだと思いますので、今後は、頭の片隅に置いておけるようにしたいと思います。   

・箇条書きでは、物事の関係性・本質が見えない。                    一つの図が、⇒莫大な文章を用いても説明できない内容を語ることはよくあり、その有効性をもっと活用すべき(したい)と思う。また、つじつまが合わないものは図にできないため、それに気づけば再検討することができる。

・立場(担当職員、知事、都民)によって、見える景色が違う。合意を得るには、同じ景色が見えるように心掛けるとよい。

⇒「同じ景色を見ずして説得を試みるより、同じ景色を見えるようにして納得してもらうように心掛けるのがいい」というのは、確かにそうだと思った。

・行政は、行政方言を使いがちである。本来は、都民が分かるのが標準語である。

⇒都民との合意を得るために、行政側はこれまでの(定量情報)×(文章)に加え、(定性情報)×(図解)をもっと増やすべきである。

・同じ業務について図示をしても、それぞれが違う図を書く。

⇒同じ指示や事象・状況においても人によって捉え方・考え方が異なる、ということが可視化され興味深かった。

・図示する際は、矢印の太さや文字の大きさ等を変えることで関係を表すことができる。

⇒自分の書いた図は表現の仕方が一様で、重要性や関係性がわかりづらかった。図示をするというのも工夫がいると感じた。   

・箇条書きでは、それぞれの要素の関係性がわからない。

⇒相手に簡潔に伝えるために箇条書きを用いることが多かった。振り返ると、確かにその際には言葉による補足説明が多くなっていることがある。   

・文章だと皆違う理解となる。

⇒実際のワークで、文章を図にしたところ、廻りの人と違う図になった。(みなばらばらの図)文章による相互理解が低いということが分かった。

・人間は説得されるのは嫌い。文章は説得である。図であれば参加性があり納得となる。

⇒稟議書等の文章は説得するために書くが、すぐには納得してもらえず、細かい「てにをは」をつっこまれる。これには、参加性がないからだということが分かった。

・箇条書きは、その施策等の大小、重なり、関係が見えない。

⇒確かにおっしゃるとおりである。文章で書くときは、大小、重なり、関係に留意したい。

・箇条書きは情報が抜けている

⇒箇条書きで表現するときに2項目が重複していたり、関連し合っている場合の表現によく苦労していました。これからは図解してみようと思います。

・文章では、皆理解の仕方が違う

⇒文章では読み方や、書き手のぼかしが入るため、本来の情報と歪んだ理解を好きにできてしまうことは日頃から理解していました。良し悪しありますが。図解することで、共通の理解を得られることと、自分自身の考えも整理され、とても良い思考だと思いました。

・人は説得されることが嫌いな生き物である

⇒以前、上司に説得されたいのではない、安心させてほしいだけだ!と一喝されたことがあり、それから、相手が安心できる説明を心掛けているので、納得型はとても共感が持てました。

・箇条書きについて

⇒A、・B、・Cの箇条書きでは、それぞれの関係性や重要性が伝わらない。

・「てにをは」で殺人が起こる

⇒大げさな言い方かもしれませんが、管理職を中心に、資料のチェック依頼をすると、内容よりも「てにをは」等の体裁に注視する人が多いと思っていたので、共感しました。

定量情報、定性情報について

⇒「見える化」がトレンドであり、定量情報を出すことに尽力しているが、都民や事業者はピンときていないのではと感じた。

・「都民」と「知事」を関連付けて「私の仕事」を描くこと

⇒今の業務で精いっぱいですが、また、直接都民と関わる案件を担当していないからこそ、積極的に意識をしていきたいと思います。

・同じ職場でも図はすべて異なる。図を見れば相手の考え方がわかる。

⇒仕事に対する考え方、自分と周囲との立場の捉え方等、文字の大きさ、矢印の太さで異なるだろうと実感しました。職場の中で、図を合わせることも、違いを個性として認識することも必要なのかなと思いました。

・自分を中心に描くこと

⇒主役は自分なんだなと思いました。大学の鳥瞰図を見て最初は違和感がありましたが、(歴史的な風刺画を見ているような気分でした)、自分中心の鳥瞰図を描けるような人になるよう練習します。

・1枚の紙に表す際、人によって軸が違う。

⇒2次元的に情報を整理することまではできた。3次元的に整理するのは無理かと思ったが、工夫次第で表現できることが分かった。いい例をもっと参考にしたいと思った。

・説明するだけでなく、自分の知識の整理にも役立ちそう。

⇒人に説明する用だけでなく、特に事象がそれぞれ関連している場合に自分の知識を整理するためにも有用だと感じた。

・図の大小によって重要度を表現する。

⇒箇条書きの習慣がついていると、図解してもつい同じ大きさの図を並べて記述してしまう。

 

○都政や自らの仕事に関して参考となった点、今後の活用について

・今後、説明においては箇条書きより図をより使っていくようにしたい。

・図解は他者と考え方を共有する際に活用できる有効な手段だと思った。今後、業務や研修において、意識のすれ違いを生じさせないために取り入れていきたいと思った。また個人的に本を読む際にも、その内容を理解しながら図で記録することによって、自らの知識として着実に身に付けたいと思った

・日々の問題に対して、図解を書くことで、関係性を明らかにし、的確な課題の設定をすることができると思うので、積極的に活用していく。

・合意を図る方法について具体的に学べて大変勉強になった。合意を図るためには、まず、職員と同じ視点で物事を考えられるように情報を提供すること、図解で関心を持ってもらうこと、何がわからないかわかるようにすることなどが重要であり、納得してもらうことで行政参加意識を醸成すること大切だと感じた。合意に関する知識は、自分の日常業務においても都政の課題を考える際にも必要なことであるので、都政をよりよくするために活用していきたい。

・普段の業務で国や他自治体、業界団体等と意見交換や調整をする機会が多くありますので、今回の講義は非常に有意義なものとなりました。特に、図解による表し方については、演習などを通じてより良く見せる方法やテクニックなどを学ぶことができ、文章や箇条書きにはない効果も実感しました。今回の講義でお話しいただいた内容を踏まえ、自らの業務遂行能力を上げていきたいと思います。

・現在進めているテーマ別研究においても、班員での審議をより有益なものにするには図解が非常に有効である。自身での活用を心掛けるとともに、他のメンバーとも図解での審議を心掛けたい。

・普段、頭の中で考えていることを図示するということは、人に説明することに加えて自分の考えを整理する意味でも有効であると感じた。問題点を整理する際に実践してみようと感じた。

・仕事を図にすると、自らの理解が深まり、それが、人との合意に大きく役立つことが分かった。我々、東京都職員は各分野のスペシャリストよりも皆をまとめて行く役割の方が大きい。図解を活用しながら、各部署の横串になっていきたい。

・行政は住民説明など、多岐にわたる立場の人に共通の理解を得なければならないと考えますので、今回の図解思考を徐々に取り入れ、納得できる説明ができるよう鍛錬したいと感じました。

・レク資料など作成する際は、今回の講義で学んだことを活かしたいと感じた。

・演習の中で、自分の仕事に関わる人を図示することで、そのかかわりの過不足が明らかになることを学びました。また、関連する人をつなげることで、その図が連絡網になることもわかりました。現在、所属部署で局内の横断的な調整をしなければならず、そもそも登場人物を把握することに苦労して、樹形図を黙々と作っていた時期もありましたが、図示の良さを教えていただいたので、今後も積極的に使用したいと思います。

・会議などで議論をまとめる際、また説明資料を作成する際、図解によりわかりやすくまとめるヒントを学べた。本研修にも普段の業務にも有用な研修内容だった。

--------------------------------

「名言との対話」3月30日。蟹江敬三「自分が出るシーンは自分が主役」

蟹江 敬三(かにえ けいぞう、1944年10月28日 - 2014年3月30日)は、日本俳優ナレーター

子どもの頃は自閉症気味で赤面症もありおとなしかったのだが工業高校の文化祭でたまたま芝居をやって目が開き役者の道を歩むことになる。

日活ロマンポルノで強姦の美学」とまで言われた野性的な演技が話題になった。演技のうまさには定評があり、NHK大河ドラマにも数多く出演している。「勝海舟」の学友・田辺。「春の波濤」の幸徳秋水。「炎立つ吉彦秀武。「葵 徳川三代」の福島正則。「龍馬伝」の岩崎弥太郎。そして、朝の連続テレビ小説あまちゃん」の天野アキの祖父でもいい仕事をした。私もその一人だが、こういう番組で蟹江の演技を覚えている人も多いだろう。

当初は悪役が多く、子どもはいじめられたそうだ。蟹江は「ごめんな、パパが悪役で。でもこれが俺の仕事だ。お前たちは俺が守る」と言っている。そして後半は、刑事役などが多くなり善人役へ転身している。その息子の一平は今風なイケメンの俳優になって活躍中だ。

蟹江は「役には良い役も悪い役もない。面白い役かつまらない役かだけだ」として、「ひたむき」をモットーに演じていた。盟友であり厳しく演技を要求する演出家・蜷川幸雄は「蟹江の芝居に注文を付けたことは一度もない」「蟹江となら、心中してもいいと思った」と全幅の信頼を置いていた。「どうやって監督を裏切るか」を考え、工夫をしていた結果だろう。

名脇役だったが、「自分が出るシーンは自分が主役」と考えていた。「役は『作る』ものではなく『なる』もの」という信念だった。そのためには「まずは相手のセリフをよく聞く」ことから始めている。蟹江は「 どんな役でもやれるけど、でも、何をやっても「蟹江らしいね」と言われる俳優。そんな存在を目指して、この40年間やってきたつもりです」と語っているように、人がつけるレッテルからかけ離れた存在になろうとしていたのだ。蟹江敬三は、そのとおり「蟹江らしい」俳優になったのではないか。

 

 

 

 

 

最後の大学運営委員会で挨拶。最後の教職員懇親会で挨拶。

  • 午前中は研究室:4月の4つの講演の資料準備。
  • 午後は九段:大学運営委員会:最後に挨拶「10年間、大学運営委員会にすべて出席した。混乱から組織的運営へ。量的にはあるレベルに達した。例えば2012年作成の初の学部中期計画では名目就職率98%・実質88%という挑戦的目標をたてたが、2018年度には達成した。高い目標を持つことが大事だ。今後は質の向上に向けて教育はアクティブラーニング、研究はジェロントロジーという方向感ははっきりしている。今年の卒業生総代の一人は不登校で通信教育高校からの入学者でアクティブラーニングで目覚め首席となった。もう一人は大学の提供した海外留学、インターゼミなどにフル参加して著名企業に就職している。提供している教育プログラムを信じ、こなせば未来が開けるというモデルだ。ここを自信を持って説明すべきだ。私は研究をテーマとする特任としてはどんどんまとめていく予定。総研所長としては卒業生の「知の再武装」のための参画のプラットフォームを提供し大学本体をバックアップしていきたい」。
  • 夕刻からは新宿の京王プラザホテルで全学の教職員懇親会:学長、理事長の挨拶。永年勤続表彰(10年・20年・30年)。退職者挨拶。入職者紹介。

f:id:k-hisatune:20190330054259j:imagef:id:k-hisatune:20190330054306j:imagef:id:k-hisatune:20190330060057j:image

ここでの挨拶は、他学部や大学院の先生たち、全学の職員、そして新しく入職する教職員に向けてなので、先日の教授会で述べたメッセージ性の強い内容と同じにした。

「10年一昔。多摩大の30年。最初の10年は大学改革の旗手として黄金の輝きで航海を始めました。ただこの船は「紙」の船でした。次の10年は牡蠣殻がつき速度が落ち最後は「泥」の船に変わりました。次の10年で教職員一丸となって努力し「再建のステージ」は完了しました。皆さんと一緒に「木」の船に作り替えることができたと思います。これからの10年、波が高いけれど、チームワークという強力なエンジンが装着できているので、十分に戦える体制にあると思います。次の10年で木の船を「鉄」の船に改造していくことを期待しています。お世話になりました」。

理事長から「感謝状をいただく」。

f:id:k-hisatune:20190330060102j:image

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月29日。大河原良雄「(日本はアメリカに対して)『NO』と言い過ぎている」

大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年2月5日 - 2018年3月29日)は、日本外交官。

大河原は外務省で一貫して日米関係を担当している。最後は1980年から5年にわたった駐米大使である。本省のアメリカ局長、官房長に加えて、1960年代、1970年代、1980年代とアメリカ勤務を3回している。アメリカ側は60年代は無関心、70年代は貿易不均衡、80年代は経済以外にも日本に関心という流れであった。

大河原良雄へのロングインタビュー『オーラルヒストリー 日米外交』を今回読んだ。以下は、その本の内容である。

駐米大使時代は、以下のような事案に取り組んでいる。日米貿易摩擦。イラン石油輸入問題。自動車の対米輸出規制。牛肉・オレンジ交渉。シーレーン防衛。鈴木総理の日米同盟関係発言。日昇丸事件。中曽根総理の不沈空母発言とロン・ヤス外交。対日規制法案。先端技術分野の日米競争。、、、。日本は大平、鈴木、中曽根総理、アメリカはカーター、レーガン大統領の時代だ。

大河原駐米大使がアメリカ全土で講演活動を行っているニュースを日本でもよく耳にしたし、帰国してからも記者クラブ(外務省、日本、外国特派員)などでも「経済摩擦、対日批判、日本がとるべき対応」などを講演し、日米関係を良好にする努力を重ねた。

ワシントンポスト、ニューヨークタイムスの幹部からは、アメリカ世論を親日にするためには東京の特派員を大事にしろとアドバイスを受けている。また日本の新聞社特派員の記事は時差の関係で夕刊に間に合うから、日本ではトップになりやすい。その記事がアメリカに逆流するというメディアのサイクルが回っている。ここは注意が必要だという。

日米関係は永遠ではなく、互いに努力しなければ良好な関係は続かないという危機感も強い。「相手の事情を理解しあえるよう努力することが不可欠」「お互いに相手に対してショックを与えることにないよう、努力する必要がある」「不断の努力を怠ってはならない」。キッシンジャーは1970年代から、日本はいずれ軍国主義になり核兵器を持つ、と言い続けていたという述懐もある。このインタビューは2002-2003年に行われており、30年経ってもそうはならなかったと笑っていたが、それから15年以上経って現在に至っている。世界情勢の変化でどうなるかはわかない。

盛田昭夫石原慎太郎の『NOと言える日本』という本が話題になったが、大河原は逆に「NOと言い過ぎる日本」とユーモアを交えながら語っている。最初から「NO」と言いすぎているのではないか。相手の反応をみながら一歩づつ下がるという交渉スタイルは後味が悪いという。難しいアメリカとの付き合いのコツを熟知した人の未来へ向けての貴重な遺言である。

 

オーラルヒストリー 日米外交

オーラルヒストリー 日米外交

 

 

 

www.hisatune.net

 

 

http://www.hisatune.net/html/01-kyouiku/tamadai_sokessan.pdf

来年度の多摩大総研の活動打ち合わせ。二人のナイチンゲール。看護の母と、自己啓発のパイオニア。

午前:4月の講演準備。

午後:多摩大学総合研究所。松本、長島両氏と来年度の活動打ち合わせ。

活性化した活動になりそうだ。

f:id:k-hisatune:20190329050040j:image

 -----------------

品川での大学院運営委員会に出席。

 -----------------

品川との往復で、ナイチンゲールの伝記『ナイチンゲール』(小玉香津子

清水書院)を読了。本日亡くなったと思っていたら、アメリカの自己啓発作家のアール・ナイチンゲールと勘違いしていた。アールは、「仕事に行く前にある分野の本を1時間読んで、それを5年続ければその分野の第一人者になるだろう。7年続ければ、その分野の世界レベルに到達できる」などの名言を残した人だ。

さて、クリミヤ戦争で有名になった「看護の母」のナイチンゲール

「書き魔」「観察が細かい」「数学と統計」「訓練と修練」「管理手腕と看護婦としての実力」「知識。方策。資金」「看護覚え書き13章」「私は忘れない」「150冊の著作」「病人の苦しみのほとんどは病気そのものが原因ではなく、清潔さ、食事、安心などが原因。その苦痛を取り除くのが看護」「日本では1885年に今日の東京慈恵医大病院に聖トマス病院留学から帰った医師・高木兼寛によってナイチンゲールシステムの看護婦教育所発足」「女性よ、自立しなさい。自分の足で立ちなさい。それには職業を持つことです。、、その職業には看護を選びなさい」「1889年、英国滞在中の津田梅子は78歳のナイチンゲールを訪問」「1820年生まれ1910年没、90歳。ヴィクトリア女王は1819年生まれ1901年没」。 

ナイチンゲール (CenturyBooks―人と思想)

ナイチンゲール (CenturyBooks―人と思想)

 

 急遽、画家のシャガールを書くことにした。

ーーーーーーーーー

 「名言との対話」3月28日。マルク・シャガール「色は、近い色同士が友人で、反対の色同士が恋人」

 マルク・シャガールMarc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל, 1887年7月7日 - 1985年3月28日)は、20世紀ロシア(現ベラルーシ)出身のフランス画家

ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術を融合した画家。エコール・ド・パリ(パリに定住した外国人芸術家集団。ユダヤ人が多い。藤田嗣治もその一人)の中心人物。戦後はタペストリー(室内装飾の織物)、天井画、舞台デザインなど多彩な活動を展開した。
ロシア出身のユダヤ系だったため、ナチス政権の台頭で「退廃芸術家」として迫害を受け、アメリカに亡命。世界有数のユダヤ人芸術家だった。
戦後はフランス共和国アンドレ・マルロー文化大臣の尽力で大きな仕事をしている。パリのオペラ座の天井画を描いた。1973年、86歳の誕生日にはニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館しているのにもマルローの尽力があった。
以下、シャガール語録から。
  • 心を込めて創り出した時は、たいてい何でもうまく行く。頭を捻ってひねって作り出しても、おおよそ無駄である
  • 自分自身を完全に打ち込ませなければならない。仮に99パーセントしかのめりこめないのであれば、情熱が足りないか、才能が足りないかのいずれかだ。
  • 人生には単一の色がある。芸術のパレットと同じ様に、その色は人生と芸術の意味を与えてくれる。それは愛という色だ。愛を取り巻くものとしか私はかかわりを持たない。

「色は、近い色同士が友人で、反対の色同士が恋人」は、最初の妻・ベラをよく描き「愛の画家」とも呼ばれた、シャガールらしい説明だ。反対の色とは補色のことである。色相関によれば、黄色と青紫、黄緑と紫、緑と赤紫、赤と青緑、水色と朱色、などが補色の関係にある。ゴッホの「夜のカフェテラス」や、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は、黄色と青紫という補色を意識して使っているようにみえる。両者は互いの色を最も目立たせる、お互いを引き立てあう色の組み合わせだ。ただ、近い色同士では安らぎがあるのに対し、補色関係はストレスがたまりやすい組み合わせでもある。シャガールは98歳という長寿の人だった。

 

 

最後の教授会挨拶「紙、泥、そして木、次は鉄の船へ」

午前。

学部運営委員会の後、教授会。新レイアウト。

f:id:k-hisatune:20190328084819p:plain

3月の教授会なので、最後に挨拶。

「今年は横綱稀勢の里・メジャートップのイチローが引退しましたが、私も同じタイミングで専任を退任します。多摩大の30年。最初の10年は大学改革の旗手として黄金の輝きで航海を始めました。ただこの船は「紙」の船でした。次の10年は牡蠣殻がつき速度が落ち最後は「泥」の船に変わりました。2008年に着任し状況を把握し、野田先生がつくり寺島先生が学長をつとめる多摩大の再建を担うことになりましたが、それは私の「天命」と考えました。この10年で教職員一丸となって努力し「再建のステージ」は完了しました。素晴らしい仲間との年月は私の宝です。皆さんと一緒に「木」の船に作り替えることができたと思います。今からの10年、少子化の一段の進行・専門職大学の発足など波が高いけれど、チームワークという強力なエンジンが装着できているので、十分に戦える体制にあります。次の10年で木の船を「鉄」の船に改造していくことを期待しています。ありがとうございました」。

f:id:k-hisatune:20190328114517p:plain


 ---------------------- 

 

多摩大学時代の総決算」を各課の職員へ配布。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夜は、近所の蕎麦屋「古潭」で、以前から約束していた山本さんを励ます会。高野課長と久恒夫妻の4人で越し方と次の展開を話題に楽しい時間を過ごす。

 f:id:k-hisatune:20190328081159j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月27日。児島襄「指揮官が指導し、参謀が計画し、下士官が運営し、兵が動く。、、、中でも参謀は他の三つにくらべて、重要視される」

児島 襄(こじま のぼる、1927年1月26日 - 2001年3月27日)は、 戦記作品を多数著した日本作家である。

旧制高校時代東京裁判の法廷に通う。大学院では米国の極東政策を専攻。卒業後、共同通信社に入社し外信部記者となる。日本の政治外交史の理解には戦争史の研究が不可欠と考え、1964年に退社し作家活動に入る。1966年『太平洋戦争』で毎日出版文化賞を受賞。以後、第二次大戦前後の日本をテーマに執筆する。資料収集と関係者への取材を重ね、近現代の戦史、外交史を踏まえた作品を数多く発表した。

身長190センチ、体重120キロの巨漢は、精力的に膨大な著作を書いた。『東京裁判』(上下)。『太平洋戦争』。『日露戦争』(文庫全8巻)。『日中戦争』。『朝鮮戦争』。『満州帝国』。『日本占領』。『日本国憲法』。『開戦前夜』。『講和条約』、、。こういった児島の著書を年代順に読むと、日露戦争から戦後までの日本の政治と戦争の流れがつかめることになる。児島は自分のために書いたのであろう。司馬遼太郎が、戦争に落ち込んでいった自分の国の原点を探るために、中世から近代までの日本の時代を網羅して小説を書いたのと同様に、「近現代」を一貫して書いた。一方で、その時代を生きた人物にも焦点をあてた本もある。昭和天皇大山巌ヒトラー、南雲忠、栗田健男、山下奏文など。

その副産物でもあろうが、『指揮官』と対をなす『参謀』も上梓している。どの国も軍隊は、指揮官が指導し、参謀が計画し、下士官が運営し、兵が動くという構造になっている。参謀は軍隊組織の中枢だ。近代的「参謀」は計画と統制を具備したプロシア軍が模範となった。児島襄『参謀』(上)は、第二次大戦中の日本陸海軍の参謀15人を取り上げた名著だ。

40代半ばまで勤めていた企業の参謀を志していた私は、日露開戦の秋山真之参謀をモデルに励んでいたが、この本も熟読していた。今回改めて、石原莞爾、辻正信、杉山元の項を再読したが、参謀たちの実像を乾いた文章で示す手腕に感銘を受けた。 

参謀 (上) (文春文庫)

参謀 (上) (文春文庫)