「角川武蔵野ミュージアム」(所沢)ー図書館と美術館と博物館が融合した巨大な有角建築と、内部の謎に満ちた不思議な空間。角川歴彦、隈研吾、松岡正剛、、。

先月、埼玉県所沢のサクラタウンの「角川武蔵野ミュージアム」を訪問しました。

角川歴彦がオーナー、隈研吾が設計、松岡正剛が館長という特別なミュージアムが誕生していました。図書館と美術館と博物館が融合した巨大な有角建築です。

「魑魅魍魎とも霊魂とも神々とも言えるスーパーマインドみたいなものが下からぱっと持ち上がって五階建ての岩場を築いたという印象」と松岡は見事な紹介をしている。この花崗岩2万枚でできた角ばった建物は、隈研吾の代表作となるだろうと自身も認めている。

外見だけでなく、巨大な空間を持つ内部も普通ではない。謎に満ちた空間である。

楽しむ「想像力」、考える「連想力」、感じる「空想力」な混ざっている不思議な異空間だ。

松岡正剛館長の選んだ2万5千冊の図書が9つの書域、それが15の書区、それが10列の書列になっている。

角川が出版した本3000冊が主役の円形の「本棚劇場」がある。プロジェクションマッピングも。ここでは子供たちが説明を熱心に聞いていた。

もう一度、長い時間をとって楽しまなければ全体像とそれぞの関係が理解できない。また再訪したい。

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「図書街」。本棚でできている「本の街」。2万5千冊の本が並び壮観だ。

「本の賑わい」「連想の翼」「ブックウェア」「読前・読中・読後」という読書。

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9つの「書域」:「千夜千冊」を20年継続して来た松岡正剛の世界観。分類ではなく連想の海。

「記憶の森へ」:人間が世界を感じてきた流れ。

「世界歴史文化集」:世界の文明と文化を総覧。

「むつかしい本たち」:学問の世界。世界の言語。百科事典。

「脳と心とメディア」:知覚と脳、さまざまのメディア群、AI。

「日本の正体」:歴史・文化・文学・芸術。最大の書区。

「男と女のあいだ」:「細胞とゲノム」から「傑作ラブロマンス」まで。

「イメージがいっぱい」:詩歌、音楽、ヴィジュアル本、SF、、。

「仕事も暮しも」:多彩な職業の本と、実用・趣味の本。

「個性で勝負する」:世界中、歴史の中にあらわれた格別な個性をもった人々の本。

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荒俣宏の蔵書群。

「ここには生きたヤオヨロズの香りがする。ネットによる自動化を拒否する生臭さがふんぷんと漂っている」「松岡正剛の想像力また妄想力が、隈研吾の美意識の上で躍動している」(坂井修一)

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武蔵野坐令和神社(むさしのにますうるわしきやまとのみやしろ)。

命名中西進。デザイン監修は隈研吾

(資料:「武蔵野樹林」4号、5号)

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「名言との対話」10月4日。三枝佐枝子「どうしたら少しでも美しくふるまうことができるか、どうしたら少しでも教養ある女性といわれるよういなれるか」

三枝 佐枝子(さいぐさ さえこ、1920年10月4日 - )は、編集者、評論家。

山梨県甲府市生まれ。1941年日本女子大学を卒業後、翌年に1結婚。

1946年、26歳で中央公論社へ入社。1958年に『婦人公論』編集長。日本で初めて大手出版社での女性編集長となった。総合雑誌的カラーを大幅にかえて斬新な誌面を作り読者層をひろげた。編集長として就任していた 1958年から1965年までの7年間の『婦人公論』は、揺れ動く性道徳や女性観の中で、女性が抱える実際の悩みや解決方法を具体的に取り扱ったという特徴があった。のち女性初の編集局長に就任した。

1968年に退職し、1973年には商品科学研究所所長。1984年には山梨県立総合婦人会館館長と県教育委員を務め、『山梨女性史ノート』編纂にも携わる。1984年から13年間、読売新聞の人生相談を担当した。

著書。『女性編集者』(筑摩書房, 1967)。『日本の母たち』(中央公論社, 1973)。『魅力ある女性への25章』(PHP研究所, 1974 )。『さわやかなひとに』(PHP研究所、1976)。『共働きの人間学 仕事も結婚もと願う女性へ』(ティビーエス・ブリタニカ, 1980)。『働く女性のサクセスノート』(大和書房, 1983) 。『女が一生、仕事を上手に続けていく法』(三笠書房, 1991)。『生活者の発想 実態とニーズを探る15篇』(実業之日本社, 1994)。

1978年に刊行された『さわやかなひとに』を改題した『さわやかに生きるひとに』(三笠書房)を読んだ。副題は「働く女性のための心のエチケット集」だ。

「しきたり、礼儀作法、心くばり、おつきあい、気働き。女が女として、人間としておのずから身につけていなければならないもの、少なくとも身につけてほしいものなのである」。「清潔に優るものはない」。「女がつよくなる。女の良さを百パーセント発揮して、男性に対しても優位に立つ魅力ある人間として成長することではないかと思う」。「相手の立場に立って考えるーーあるいはそれこそ女らしさの第一の条件ではないだろうか」。「タイミングが悪いということは、相手の気持ちがわからない、ということにもなる」。

以上は、部下としての立場の若い女性社員向けのアドバイスだ。

そして、「どうしたら少しでも美しくふるまうことができるか、どうしたら少しでも教養ある女性といわれるようになれるかと考えてきた」三枝は、20年余に及ぶ編集者生活の中で、しだいに仕事師としても目覚めていく。

上司に信頼される「仕事のこなし方」という項目があり、まったく同感する。「何か頼まれた時、必ず自分が納得のゆくまで聞いて、理解した上で引き受けることである」。「他人から頼まれたことは、できるだけすぐにすることである」。「頼まれたことをやった場合には、必ず報告することが望ましい」。「上司にとって好ましい部下というのは、報告をキチっとし、連絡のよい人である」。

また、部下を持つことになった時の心得も語る。「信頼のできる人の第一の条件として、公私の区別のはっきりした人、をあげたいと思う」。公私混同を戒めている。大賛成だ。役得という言葉があるが、それに身をゆだねていては部下の信頼は得られないし、組織にも悪い影響を与える。そういう事例が、政界、官界、経済界にも最近増えてきた。精神の清潔さを尊ぶ価値観が薄れてきている感じがある。これこそ、日本の危機である。

役得などはない、役損は確かにある。役職に就くということは権力を手に入れるという事ではない。責任が重くなるということなのだ。三枝三枝子のような女性のアドバイスは大事だ。この人が新聞の人生相談に長く携わっているのは納得できる。

 

「50歳からの仕事も人生もうまくいくキャリアデザインの考え方」

幻冬舎オンラインの連載の5回目のタイトルは「50歳からの仕事も人生もうまくいくキャリアデザインの考え方」。

50歳からの仕事も人生もうまくいくキャリアデザインの考え方 | 富裕層向け資産防衛メディア | 幻冬舎ゴールドオンライン

1:キャリアは「仕事歴を中心とした学習歴、経験歴の総体」

なぜ、キャリアは「青年期・壮年期・実年期」の3期にわたるのでしょうか。ここで重要なのは、キャリアというものをどのように定義するかです。

キャリアというと、ほとんどの人は「キャリア=仕事上の経歴、職歴」を思い浮かべるでしょう。しかし、キャリアは仕事だけで構成されるわけではありません。「仕事歴を中心とした学習歴、経験歴の総体」(図)、それが真のキャリアです。なぜなら、仕事歴だけでは、その人の生き方の全体像をとらえられないからです。

 

[図表]キャリア開発の3領域

 

たとえば、MBA経営学修士)を取得するため、内外のビジネススクールに通うなどの学習歴があれば、それもキャリアの一部です。会社での仕事のほかに、プロボノ(各分野の専門家が職業上持っている知識やスキルを無償提供して社会貢献するボランティア活動)などの活動を行った経験歴も、キャリアを構成します。

私は、大学教授に転身する前は、日本航空に勤務していましたが、30歳のとき、「知的生産の技術」研究会(通称、知研)というビジネスパーソンの集まりに入会しました。

知研は、日本を代表する民族学者であり、「京大式カード」の生みの親でもある梅棹忠夫先生の代表的著作『知的生産の技術』(岩波新書)に共感した人々による勉強会で、当時、各界の第一人者を講師に招いては、毎回、200人ほど会員が集まって、講義を傾聴していました。

私はやがて、中心的スタッフの1人として、講演の企画や書籍の出版活動にも携わるようになります。

知研での活動という学習歴、経験歴は、私にとって重要なキャリアとなりました。その後、「図解コミュニケーション」という、新しい分野を開拓することに結びつき、大学教授への転身を呼び寄せることになるのです。

私は、自分の能力を発揮する領域として、2つの領域が必要であると考えます。

第1領域とは本業のことです。

ビジネスパーソンの場合、ほとんどの人は主として仕事によって成長します。仕事に真正面から取り組むことによって、社会や人間の織りなす集団の力学が見えてきます。また、人間に対する洞察力も備わってきます。この第1領域が空洞化していたら、人生は味気ないものになってしまうでしょう。全力をもって仕事に当たるべきでしょう。

一方、第2領域とは、従来は趣味といわれたり、最近では副業といわれたりと、仕事に対するプラスアルファの部分を、付属的な領域ではなく、第1領域と並ぶ重要な領域として積極的に評価するという考え方です。

 

2:大切なのは自分は何のために生きるのかという問い。

現代は知識社会と呼ばれます。「マネジメントの父」と讃えられるピーター・ドラッカーが知識社会に求められる人材像を「ナレッジ・ワーカー(知識労働者)」と呼んだように、私たちの社会は、もはやどのような仕事も知識労働の要素が強くなっています。

知識労働には成長や自己実現という要素があらかじめ組み込まれており、日々進歩しているという実感を抱きながら仕事をすることになります。知識労働に従事するものは、進歩が実感できなければ意欲が出ません。

しかし、第1領域での仕事には定年という〝時限爆弾〞がセットされており、そのときを過ぎるとぽっかりとした空白の時間が出現します。このとき、第2領域を育ててこなかった人は空しさを味わうことになります。そこから他の分野に進出しようとしても、知識や経験がないためうまくいきません。そのため、若いときから第2領域を育てていくことが大切なのです。いわば、1本足ではなく、2本足で進む生き方です。今風にいえば「二刀流」です。

私にとって知研での活動は、まさに第2領域に属するものであり、そこで積み上げた学習歴や経験歴は、私のキャリアにとって重要な役割を果たすことになりました。

キャリアは「仕事歴を中心とした学習歴、経験歴の総体」であるとしても、50〜65歳の壮年期と65〜80歳の実年期では、当然、その構成に違いが出てきます。

壮年期と実年期の境目の65歳は、どういう年齢なのでしょうか。厚生労働省の調査によると、企業規模や業種にもよりますが、60歳定年を定めている企業割合は平均約80%となっていますが(65歳以上17.8%)、65歳まで雇用を確保している企業の割合は99.8%にも上ります。

高年齢者雇用安定法の改正により、2025年には「65歳定年」が全企業に適用される見込みです。

一方、65歳という年齢は、企業に勤めるビジネスパーソンの場合、現在の日本では実質的に年金の受給開始時期を意味します。

65歳になっても、実年期に向け、壮年期の延長線上で「公」の仕事を続ける道もあります。壮年期とは違う仕事を始めてもいいし、社会活動や地域活動などを通じて、壮年期とは違う新たな「公」の世界に入っていくのもいいでしょう。

また、「公」の部分を縮小する、あるいは「公」から離れるなどして、「個」の領域や「私」の領域で学習歴や経験歴を積み上げていくのもいいでしょう。

山を登って、頂上に立ったと思ったら、その山に連なるもっと高い山が見えてくることがあります。尾根伝いにその山に挑戦するのもいい。いったん下山して、別の峰に登るのもいい。それは人それぞれです。

いずれにしろ、大切なのは、自分は何のために生きるのかというテーマを自覚するライフコンシャスな生き方です。人生100年時代にあって、65歳でリタイアし、残る35年は余生として暮らすなどという生き方はありえません。

ライフワークとは、生涯をかけて、人生のテーマを持って続けることがらであるとすれば、25歳から80歳までの青年期、壮年期、実年期は「公」に重点を置いた生き方になる。ただ、それぞれ仕事歴、学習歴、経験歴の構成に違いが出るでしょう。しかし、キャリアは「青年期・壮年期・実年期」の3期にわたると考えるべきなのです。

青年期と壮年期は、「公」の領域が多くを占める点では共通していても、仕事歴も、学習歴も、経験歴もそれぞれ量的にも質的にも異なります。その異なり方はこれから本書を通じて明らかにしていくことになるでしょう。

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今日の収穫。

山本周五郎の日記。

  • 人間を書くのだ。真実の人間が書ければ「面白さ」は附いて来る。簡潔に、的確に、そして生き生きと鮮やかに。「人間狩り」をもっと沢山しよう(山本周五郎。35歳)
  • 「真実の人間」が描ければ、読者にとって面白い作品になる。それでいいではないか。
  • こういうものばかり書いていていいのですか(妻・きよえ)
  • 「青べか日記」「愛妻日記」「戦中日記」。
  • 昭和18年8月3日。「日本婦道記」が直木賞内定。日記には「直木賞の事で来訪、断はる。」とだけそっけなく記されている。

人間は顏の下半分で感情を表し、上半分で私は何者かという識別情報を伝える(「顔学」の原島博

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SOMPO美術館「川瀬巴水」展。

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昼食は息子夫婦と4人で学芸大の「Midorie」オーガニックレストラン。産地直送の有機無農薬野菜やオーガニック素材。無添加。手作り。

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「名言との対話」10月3日。寺澤芳男「外国人が興味を持つ日本のことを英語で語る」
寺澤 芳男(てらさわ よしお、1931年10月3日 - )は、日本の実業家、政治家。

栃木県佐野市生まれ。早稲田大学政経学部卒。野村證券入社。1956年、フルブライト留学生としてペンシルべニア大学大学院ウォートン・スクールに留学。1972年、米国野村證券社長。1982年、会長。野村證券副社長。1985年、ニューヨーク日本人として初めてニューヨーク証券取引所の正会員。1988年、MIGA(世界傘下と多数国間投資保証機構)初代長官(在ワシントンDC)。1992年、日本新党から参議院議員に立候補し当選。1994年、羽田内閣で経済企画庁長官。1997年、参議院外務委員長。1999年、ローン・スター・ジャパン会長。2001年、スターバンク会長。

主な著書「ウォール・ストリート日記」「Thank Youといえる日本人」「英語オンチが国を亡ぼす」等、多数。2009年8月号「文藝春秋」の巻頭随想で「ウォール街高橋是清の墓」を発表。

寺澤が活躍していた頃、私もメディアに登場する姿や言葉を追っていた。意外なのは70歳を過ぎて永年連れ添った妻と離婚して27歳も年下の若い女性と結婚したニュースも聞いた。その女性も早々に亡くなる。公私とも数奇な運命を生きている人だ。

以下、語録。

「通用するのは内容であり人格であり、英語でコミュニケーションできる実力である」「日本語が常語として通用しているのは日本だけで地球上の人口60億のうち1億24万、約2%。国連の調査によると75%の加盟国は英語を公用語とすることを望んでいます」「仕事とは何か、会社で働く企業で働くとはどういうことなのか?私は女性とか男性とか、日本人とかアメリカ人とか、大人とか子供とか年寄りとかそういう分け方じゃなくて、これからは個、それぞれ持っている個、自我、自分というものが重要になる時代だと思います」

『スピーチの奥義』 (光文社新書)を読んだ。いくつか参考になったことを記しておこう。

スピーチの前の発声練習が大事。「あいうえお発声練習」。大きな声を出して10回繰り返す。ウウとかエエとか言わないこと。「たとえ」のうまいのは中曽根総理で「弁慶のいない牛若丸(安倍首相)」「甘いけれどすぎに溶けてなくなってしまうソフトクリーム(鳩山首相)、、、。
この本の中では「外国人が興味を持つ日本のことを英語で語る」という記述に膝を打った。相手の土俵ではなく、自分の土俵で戦えというアドバイスである。それは日本のことを知っているか、そしてそれを英語で話すことができるか、という問いである。

現代日本の政治経済文化、そして寿司、日の丸、富士山、天皇、カラオケ、短歌、俳句、相撲、歌謡曲、浮世絵、などの日本文化、、、。私は今まで大学や図解塾でこういうものを図解する講義をやってきた。ぞの図のなかの単語を英語に変えることで、寺澤の要請に応えることができると思っている。そういう本もそろそろ手掛ける時かも知れない。

 

 

 

森鴎外記念館で「森類ーーペンを執った鴎外の末子」展ーー私人としての鴎外

森鴎外記念館で「森類ーペンを執った鴎外の末子」展をみてきました。」

生誕150周年記念事業として千駄木の鴎外旧居・観潮楼跡に建てた森鴎外記念館。この記念館への訪問は、2012年のオープン時、2017年の「賀古鶴所という男」に次いで3回目。
1962年の鴎外生誕100年では、文京区立鴎外記念本郷図書館に鴎外記念室ができた。私は2005年に鴎外記念本郷図書館を訪問している。2006年には図書館移転に伴い、記念室は独立して本郷図書館鴎外記念室となる。そして生誕150年の2012年、瀟洒で重厚なこの記念館が建った。

森類は、鴎外の末子。鴎外の子であることの幸福と、鴎外の子であることの不幸を描いた朝井まかて森類』の大著を読んだ。

長兄・ 於菟おと、医学者)、長女・茉莉まり随筆家・小説家)、次女。・杏奴あんぬ、随筆家)と違って、末子の類(るい)は才能は乏しかった。鴎外の子であることから恵まれた環境にあったが、不器用でありための生活苦も経験し誠実な80年の生涯を送っている。文豪の子として生まれた宿命を背負い、何物かであろうと生涯もがき続けた人である。

朝井まかては、この目立たない末子のことを『類』(集英社)という作品にまとめた。この作品は芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。

類という人物についてよりも、公人としては最高の職で働いた軍人、個人としては明治を代表する文豪であり、この二つの生涯を生きた鴎外であるが、家庭における夫、父としての私人としての鴎外の姿を興味深く読んだ。

  • 公人としての鴎外。月、水、金は上野の博物館(帝室博物館総長)。火、木、土は虎ノ門の図書寮(図書頭)に出勤するという日々だった。
  • 家庭での私人としの鴎外。休日はほとんどの時間を書斎で過ごすか、花畑の手入れをしている。笑うべきことを見つめるのが上手。ふだんは和食で飾りけのないものを好むが、贅沢をするときは一流のものを愛した。洋食は上野の精養軒、鰻は山下の伊豆栄。優しさは子どもに等しく注ぐ。生ものは食べない。果物も必ず煮る。煮桃に砂糖、饅頭茶漬け。子どもへの教え方がうまく腑に落ちるように教える。成績については一言も口にしない。出張時には妻や子どもたちに毎日のように葉書を書く。「多種多様な花畑にしている。雑で強すぎる草を抜き、野蛮なものは侵略を阻む。その手助けを少ししてやる」「自然だけは、おいそれと取り返しがつくものではないというのに」
  • 個人としての鴎外。「人間は新しいことを学ぶものだ。学んで、それを実践する」「努力する精神だ。物事を整理して、考えを発展させる力だ。それさえ身につけさせれば、案ずることはない」「おれの本はただでさえ売れない。全集なんぞもっと売れないだろう」「おれの書いたものは売れない。死んでからはもっと売れぬだろう」
  • 二足のわらじという生き方について。「おれはとうとう、役人と文学、二つの道を歩きつづけた」「君も往きたまえ、艱難の道を」。

鴎外は人間としての傑作だ。公人・個人・私人、そのどれをとっても最高の境地である。この本では家庭人としての私人・鴎外を知った。鴎外研究はずっと続けていきたい。

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深呼吸学部:コミュニティ。共有意識。プロセスの共有。

  • キツ:広場でなく喫茶店。参加型投稿新聞。「人生相談。エニアグラム診断。後姿探検隊の写真。名言の部屋。偉人の名言50本。本の部屋100冊。読書悠々。人物記念館。図解塾動画」。
  • 深呼吸新聞:青山。5万円で2000部、好きな地域に配布。日刊新聞も。新聞販売店。「人・旅・本」。
  • 参加型:アクション。自由。双方向。仕掛け。セルモーター

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名言との対話」10月2日。坂田俊文「宇宙考古学」

坂田 俊文(さかた としぶみ、1931年10月2日 - 2020年3月24日)は、日本の情報工学者である。東海大学教授、宇宙航空研究開発機構技術参与。

千葉大学工学部卒。東大助手を経て、1970年東海大教授、1985年同大情報技術センター所長。1996年地球科学技術推進機構初代機構長。地球観測衛星ランドサットの画像処理システムを開発する。地球環境の監視からハイテク考古学まで手がた。人工衛星による宇宙からの地球観測や解析等を手掛けた画像処理工学における第一人者として知られている。

宇宙飛行に関わる重要な仕事にも多く関わっており、毛利衛向井千秋、両宇宙飛行士がスペースシャトル搭乗時に行ったハイビジョンカメラでの撮影をNASAジョンソンスペースセンターから誘導・指示した。

画像情報工学のパイオニアである。衛星画像をさまざまなことに活用しようとする。災害、事故の監視警報。砂漠化も森林資源破壊も汚染も一目瞭然である。「衛星画像で見れば地球は人類のかけがえのない家とおのずと気付くはず」と強調する。

著書に『「地球汚染」を解読する』(情報センター出版局、1989年)、『ハイテク考古学』(丸善、1991年)、『「太陽」を解読する』(情報センター出版局、1991年)がある。 

考古学というのは、現地へ入り、古文書を見ながら穴を掘ったり物のカケラを拾い集めるのが仕事である。

坂田は高度五百キロから調査しようとした。人工衛星から送られてくる地球観測データを画像処理する仕事に励み、「宇宙考古学」を提唱した。『現代』(96年7月号)「宇宙考古学で人類の未来を語りたい」のインタビューでは、人工衛星から送られてくるデータをコンピュータで解析し密林や地中に埋まった遺跡を探査したり古環境を浮び上がらせようという試みについて語っている。チンギス・ハンの墳墓の探査や法隆寺金堂の壁画の復元などを手がけた。エジプトのナイル川に沿ったピラミッド群のなかから未知の物を発見、発掘を行った。

坂田先生にはJAL時代に会ったことがある。「航空文明」というテーマで大がかりなイベントを企画したとき、相談に行った。このとき、宇宙からの画像を見せられて驚いたこと、そしてイベントの肝は膨大な入場者の胃袋をどう満足させるか、つまり「食」であると喝破されて、さらに驚いたことがある。スケールの大きさと人間への理解の深さを感じ感動した。

考古学は、生命科学の進展によるDNA解析による遺跡の分析、宇宙か送られてくる画像の高度処理技術からの視点という情報科学の両面から、革新が行われつつある。人体という小宇宙、と大宇宙から人間の歴史をみる視点は飛躍的に高まった。その一翼を坂田は担った。「宇宙考古学」という鮮明な旗は、可能性に満ちている。

 

 

 

 

7年分の「学部長日誌」「副学長日誌」が4冊1838ページにまとまる。。吉野彰さんの「私の履歴書」(10月)に期待。

2012年度の「学部長日誌」から、2018年度の「副学長日誌」までの7年分がまとまりました。大学改革にあたっての日々の動きを詳細に記録した貴重な資料です。

2012年4月1日「学部長任命」から、2018年3月31日「『多摩大学時代の総決算』、『宮城大大学時代の総決算』と併せて、宮城大学11年・多摩大11年の合計22年間の大学教授生活の総決算」まで、4冊合計で1838ページになっています。

この後の2年間、2018年度、2019年度は、特任教授です。

ビジネスマン24年、教育者24年という経験で、半分づつのキャリアになりました。

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10月の日経「私の履歴書」は、2019年にノーベル化学賞を受賞した旭化成名誉フェローの吉野彰さん。

1日目を読んだけだが、面白い。この連載は期待できそうだ。

研究開発、特に企業の研究者についての苦労と醍醐味がわかるだろう。

・基礎研究が実を結ぶためには大半が芽が出ず、振り落とされる「悪魔の川」がある。

・商品化に至るまでに大半が脱落する「死の谷」がある。

・商品化に成功しても市場が拓けるまでに長い年月がかかる「ダーウィンの海」がある。

吉野彰さんの「リチウムイオン電池」は3つの壁を乗り越えるまで15年近くかかった。

「アイデアを自身の手で育て、製品として世に送り出し、結果として世界を変えることができた。これは企業の研究者ならではの醍醐味だ」。素朴な驚きと疑問、ヒント、アイデアが3つの壁を越えて、世界を変えるまで、一貫して関わることができる。それが大学の研究者にはない喜びなのだ。そして、その過程は「創造と挑戦」の連続である。

毎朝の日経文化欄「私の履歴書」が楽しみになった。

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「名言の対話」10月1日。河井信太郎「捜査の結果によっては、内閣倒壊もやむをえない」

河井信太郎(かわい のぶたろう、1913年10月1日 - 1982年11月15日)は日本の検事。

愛知県蒲郡市生まれ。蒲郡農業、東京実業から中央大学法科の夜間部を経て、高等文官試験に合格。 東京地検検事となり、特捜部長をへて1965年に東京地検次席検事に就任。「特捜の鬼」とよばれ、昭和電工疑獄事件、造船疑獄事件、吹原・森脇事件などの捜査を指揮。1976年、大阪高検検事長を最後に退官し、弁護士を開業。69歳で死去。

検察庁法は「検察官はいかなる犯罪についても捜査できる」と規定しており、「政官財」の腐敗に切り込む最強の捜査機関である。その本体ともいうべき東京地検特捜部の生みの親が河井信太郎だ。辣腕の河井は、「特捜の鬼」「検察の鬼」の異名をたてまつられた。

河井は、「株式会社の役職員の刑事責任」「会計上の粉飾と法律上の責任」で法学博士号を取得した勉強家であり、昭電疑獄でのちの特捜部の捜査の流れである帳簿捜査を確立している。

造船疑獄では主任検事をつとめ、その後も武州鉄道汚職事件、東京都議会黒い霧事件、吹原・森脇事件、田中彰治事件、共和精糖事件、日通事件など多くの複雑多岐にわたる知能犯会社事件の捜査・取調べにあたり 「鬼検事」の名をほしいままにした。

また多くの特捜検事を育てたことでも知られ、「東京地検特捜部生みの親」といわれている。検察内部では中央大学卒の河井率いる中大閥は、東大閥との主導権争いがあり、「中東戦争」などと称されている。

河井には、特捜の鬼、検察の鬼、鬼検事などの異名には必ず「鬼」がついている。池波正太郎の「鬼平」からとった異名である。池波正太郎には、実在の人物である江戸時代の火付盗賊改方の責任者の長谷川平蔵を主人公とした『鬼平犯科帳』というロングセラーがある。現代の火付盗賊改方である検事たちは自分たちを長谷川平蔵に擬して仕事に励んだのだろう。

日本弁護士連合会会長の中坊公平は「平成の鬼平」とマスコミからあだ名をつけられている。裁判官の原田國男は、池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。弁護士、裁判官、そして検事の河井も「仕事の鬼」であったことは間違いない。

河井信太郎の検事魂を聞こう。

「まず身を修め、だれの前にでても(犯罪に関する限り)懺悔させ頭を下げさせるという確固たる信念を持たねばならない」と検察官の心得を後輩に伝えている。そして、「捜査の結果によっては、内閣倒壊もやむをえない」とも語る。

最近の検察、地検については、捜査についての手法や成果、そして不祥事など、なにかと批判が多い。昨今の世の中を見るにつけ、現代の火付盗賊改方には期待が大きいものがある。出でよ!「令和の鬼平」。

 

 

 

 

 

「角川武蔵野ミュージアム」の「俵万智」展ーー帰って『英語対訳版 サラダ記念日』(ジャックスタム訳)を愉しんだ。

先日、埼玉県所沢のサクラタウンにできた「角川武蔵野ミュージアム」を訪問しました。角川歴彦がオーナー、隈研吾が設計、松岡正剛が館長という特別なミュージアムが誕生していました。図書館と美術館と博物館が融合した巨大な有角建築です。このミュージアムのことは別途、報告することにします。

今日は、その中で開催されている「俵万智 展#たったひとつの「いいね」 『サラダ記念日』から『未来のサイズ』まで」のことを書きます。

1987年に刊行し280万部の大ベストセラー『サラダ記念日』から、釈超空賞を受けた最新作『未来のサイズ』までの短歌から300首を選び、展示するという好企画。
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これを機会に改めて『サラダ記念日』を自宅でさがす。『英語対訳版 サラダ記念日』があった。俵万智(1962年生)の短歌に、ジャック・スタムの英語訳を並べるという趣向。ジャックはニューヨーク出身のコピーライター、詩人である。JALが子ども俳句を万博で世界から集めるプロジェクトをやっていたとき、ジャックは世界各国の言語でのHAIKUを日本語に翻訳するという難題をやり遂げた人だ。1988年には『HAIKUの国の天使たち』の出版に携わった。このプロジェクトは当時の私の上司がやっていたので、何度もジャックとは顔を合わせている。そのジャックは今はもういない。「梅咲いてまた一年(ひととせ)の異国かな」。

 

この本の中から、目に留まった短歌とジャックの対訳をいくつか選ぶ。俵万智の短歌も、ジャック・スタムの英訳も素晴らしい。

 

 沈黙ののちの言葉を 選びおる 君のためらいを 楽しんでおり

  It ticks me-your way of  hesitating while you grope after the proper words to follow a silences.

 奥さんと 吾を呼ぶ屋台のおばちゃんを 前にしばらく オクサンとなる

 「寒いね」と 話しかければ 「寒いね」と 答える人のいる あたたかさ

 ハンバーガーショップの席を 立ち上がるように 男を捨ててしまおう

 愛人でいいのと うたう歌手がいて 言ってくれるじゃないのと思う

 男というボトルを キープすることの 期限が切れて 今日は快晴

 君といて プラスマイナスカラコロと うがいの声も 女なりけり

 潮風に 君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて 貝殻になる

 「嫁さんになれよ」だなんて カンチューハイ二本で 言ってしまって いいの

  Are you all right? After chugging down a mere twocans of Chu-Hi,coming right out and saying ”I want you to be my wife".

 バレンタイン 君に会えない一日を 斎の宮のごとく 過ごせり

 やさしさを うまく表現できぬこと 許されており 父の世代は

 見しことの 濁りを洗い流すごと コンタクトレンズ 強くすすげる

 今日までに 私がついた嘘なんて どうでもいいよと いうような海

 「人生はドラマチックなほうがいい」 ドラマチックな脇役となる

 髪型も ウエストもまた 生徒らの話題なるらし 教壇の上

 センセイを評する 女子中学生の 残酷揺れる 通勤電車

 薄命の詩人の生涯を 二十分で 予習し終えて 教壇に立つ

 旅立ってゆくのは いちも男にて カッコよすぎる背中 見ている

 陽のにおいにくるんで タオルたたみおり 母となる日が 我にもあらん

 「この味がいいね」と君が 言ったから 七月六日は サラダ記念日

 Because you told me."Yes.that tasted pretty good".July the Sixth shall be

 from this dayforwardo Salad Anniversary.

 選択肢二つ抱えて 大の字になれば 左右対称の我

 Tシャツを つるりと脱げば 丁寧に 母の視線に たどられている

 玉ネギを いためて待とう 君からの電話 ほどよく甘みでるまで

 さくらさくら さくら咲き初め 咲き終り なにもなかったような公園

 金曜の六時に 君と会うために 始まっている 月曜の朝

 文庫本読んで 私を待っている 背中みつけて 少しくやしい

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目黒:橘川さんと、久しぶりの林光さんと昼食。林さんは日本未来学会の会長。博報堂生活総研の初代所長。橘川さんの師匠の林雄二郎の長男、弟はリンボウ先生こと林望

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「名言との対話」9月30日。五木寛之「ピンピンソロリがいい」

五木 寛之(いつき ひろゆき1932年9月30日 - )は、日本小説家随筆家

『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。反体制的な主人公の放浪的な生き方(デラシネ)や現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に幅広い層にブームを巻き起こした。その後も『青春の門』をはじめベストセラーを多数発表。近年は人生論的なエッセイや、仏教浄土思想に関心を寄せた著作が多い。

五木寛之の本は、『青春の門』などの小説以外に、エッセイや人生論を多く読んでいる。その中から五木寛之の言葉を拾ってみよう。

仏教の「慈悲」について。

「「慈」とは頑張れという励ましですね。そして「悲」とは、もう頑張らなくてもいいと、」。「慈」とは、同朋にむけて発する励ましの目差しですが、「悲」」のほうはただ黙ってそばに坐り、苦しんでいる人の手に手を重ねて、ともに涙を流しているような、そんな姿勢ではないかと思います。「慈」と「悲」とは「励まし」と「慰め」と言いかえることができるかもしれません。

藤圭子の歌を、演歌でもなく、艶歌でもなく、援歌でもなく、負の感情から発した「怨歌」と表現している。黒人のブルース、宿命を意味するポルトガル民謡・ファドなどと同様の、下層から這い上がってきた人間の、凝縮した怨念の燃焼と五木は語っている。

「3Kっていうと、やっぱり体と金と心でしょうね。健康と経済と精神。いまの人の悩み、苦しみの大半はこの三つに集約される気がします」

「今必要なのは楽しみを加える技術ではなく、苦しみを救う技術です」

「人生に目的はありません。あえて言えば、生きるということ自体が目的です」。

「世の中に自分で試してみないでわかることなんか、一つもない」。

「朝起きると「今日もまだ生きていてありがたい」と感謝し、寝るときには「今日一日無事に生きられてありがとう」と感謝する」。

「愚かしさは罪であり、知ろうとしない素直さは恥であることを、あらためて反省させられる夏である」

今回読んだのは『生き抜くヒント』(新潮新書)だ。

・「ピンピンコロリではなく、ピンピンソロリがいい」。

・老後の3Kは「体と金と心」と言っていたが、「心」に代わって「孤独」が最近の3Kだとしている。

・食事について。10代は腹十分、20代は腹九分。30代は腹八分。40代は腹7分。50代は腹六分。60代は腹五分。70代は腹四分。80代は腹三分。90代は腹二分。100歳上はカスミを食って生きればよい。

・今後の世界の覇権は、軍事力ではなく、ウイルスへの対応かもしれない。

・コロナ禍で88歳目前での生活革命。夜型から昼型へ。午前7時起床、夜12時就寝。昼には原稿が進まない。

 2005年に松本清張記念館を訪問した。毎日新聞の2004年10月26日の記事に第58回読書世論調査の「好きな作家」(一人で5人挙げる)という結果が出ていた。芥川賞では、1位松本清張(22%)、2位遠藤周作(17%)、3位井上靖(13%)、4位石原慎太郎、5位田辺聖子、6位北杜夫、7位大江健三郎、8位村上龍、9位石川達三、10位柳美里直木賞では、1位司馬遼太郎(17%)、2位五木寛之、3位向田邦子五木寛之は人気が高い。エッセイなどで人気は継続しているようだ。息が長い作家だ。

2007年に金沢で北国総研主催のビジネス情報懇話会で講演した。その後、あてもなく歩いていたら独特の建物が目に付いた。石川銀行という破綻した銀行の建物をリモデルした金沢文芸館で、その2階に五木寛之文庫があった。本人がデザインして調度も品物も揃えたという文庫で、とても素敵な空間だ。案内のボランティアが熱心に説明をしてくれた。五木寛之は奥さんの実家のある金沢で若いころ暮らしていて、この地で書いた本が直木賞をとるなど作家としてのスタートをきった土地である。「百寺巡礼」のDVDが流れていた。日本中の名刹を五木が訪ね解説をし、住職と対話するという趣向の番組のDVD版で、実に味わいの深いものだった。

2019年8月16日の日刊ゲンダイでは、五木寛之の連載「流されゆく日々」が目にとまった。「原稿用紙が消える日」というテーマの文章だ。この連載は3枚弱だそうだが、30年、10715回続いている。手書きだそうだ。この連載だけでも1万日を超えている。この継続力には恐れ入った。

作家はガス発生をいち早く察知する炭鉱のカナリアにように人々の不安を感じる。その不安を言葉にするのが作家の仕事と五木は理解している。いわばマーケッターだ。また作家は死者や祖霊の言葉を伝える霊的力を持つ巫女であるイタコ(東北地方の霊媒)であり、イタコの口寄せと同じで実は書かされているのだとも五木は述べている。生者に寄り添う心理カウンセラーの役割なのだろう。作家の仕事というのは社会の不安をいち早く察知し、人々に神々の言葉を伝えるという仕事ということか。五木寛之の息の長さの秘密はここにありそうだ。

優れたマーケッターとして時代と社会をつかみ、優れたカウンセラーとして言葉を紡ぎ人々に伝える。五木寛之はその名人だということがわかった。「みんながそれぞれ心の中に持っている無意識の欲望や夢を感じ取り、形にして投げ返すのが作家だと思っていいます」、今を生きる人々の心を慰めるのが自身の役割だから、時代とともにあるから消えることはない。作家としての長寿の秘密はここにある。 

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「図解塾」課外授業:テーマは「関東大震災、あの人は何歳で出あったか」

「図解塾」課外授業。テーマは「関東大震災、あの人は何歳で出あったか」

関東大震災の被害。

  • 1923年(90年前)の関東大震災相模湾)。死者10万人M・7.9:犠牲大。 その後の人生に大きな影響。
  • 死者99,331人。負傷者103,724人。行方不明43,476人。家屋全焼128,266戸。家屋流出868戸。家屋消失447,128戸。東京府の死者は68,215人。神奈川県の死者は29.065人。千葉県の死者は1,335人。大雑把にいって、10万人以上の死者、60億円の財産が灰燼に帰した。
  • 陸軍省被服廠跡を公園にした両国の横綱公園は避難の場所だったため、大地震後数万人が集まった。そこを火炎の大旋風が襲い、大多数の3万8千人が累々と重なり合い、抱き合って黒焦げになった。そのためこの地が慰霊の中心になり、葬儀場となった。
  • 関東大震災6000人の朝鮮人、400人の中国人の虐殺関東大震災24本が脱線転覆。
  •  1923年の関東大震災で横浜は10万戸のうち80%以上が被害。22000人の死。
  • 港の復旧に2年。1935年に復興記念横浜大博覧会を開催。
  • 1923年に発生した関東大震災後の震災手形をめぐって銀行の取り付け騒ぎが起こり、銀行の休業が続出するなど、金融恐慌が起こる。鈴木商店不良債権救済の緊急勅令が否決され、若槻内閣は総辞職に追い込まれた。 後を襲った立憲政友会田中義一内閣はモラトリアム(支払猶予令)等によって金融恐慌を乗り切った。
  • 東京国立博物館:コンドルが設計した旧本館は関東大震災で被災。表慶館関東大震災で被害は受けなかった。
  • 湯島聖堂:1923年の関東大震災で焼失。 1935年に鉄筋コンクリートで再建し今日に至っている。
  • 横浜の岩崎ミュージアム・山手ゲーテ座は、関東大震災で崩壊した。
  • 渋谷区立松涛(しょうとう)美術館がある。この一帯は鍋島家が屋敷として持っていたが、関東大震災の後、松涛園と名付けて郊外住宅地となった。鍋島公園もある。
  • 1923年の関東大震災で横浜は10万戸のうち80%以上が被害。22000人の死。

0歳の西丸震哉から83歳の渋沢栄一まで、60人ほどの著名人の生涯と地震の影響を、資料を見てもらいながら解説しました。

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  • 本日も濃い2時間をありがとうございました。「関東大震災の時に何歳で、その後の人生にどういう影響を与えられたか。」という切り口で非常に多くの人々の生き様を紹介してくださいました。これまで全く知らなかった人、名前は知っていたがその仕事に圧倒された人など、たいへん勉強になりました。特に興味を持った人を数名挙げてみると、賀川豊彦キリスト者だということは知っていましたが、生活協同組合の創設をはじめ現代にもつながる様々な社会事業を行ったことを知りました。久恒さんが高校生の時に著書を読んで進路を決めるほど影響を受けられた朝鮮人虐殺事件で政権を糾弾した布施辰治、白洋舍の創始者五十嵐健治、2000人以上の難民を世話した岩崎久弥などが印象に残りました。いずれにせよ、今日登場した人たちの何人かはNHKの朝ドラなどのテーマになっても遜色ない生き方ですね。知れば知るほどさらに知りたいことがいっぱい出てきます。
  • 本日も、ありがとうございました。関東大震災にからめた、震災を機に奮闘される人たちのお話でしたが、その人数がものすごくて、さすが先生です。逆境を、そこを踏ん張って乗り越えて前向きに進んでいくお話は、力をもらえます。人物を事象つながりでしかも若い順に紹介してくださるのは、同じ時期にそれだけの人たちが活躍されていたのだと知ることもできました。ためになる2時間でした。ありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れ様でした。冒頭の「近代と現代」お話がまず印象に残りました。以前寺島先生も「100年周期」と称され「歴史は繰り返される」とお話しされていたのを思い出しました。日露開戦以降、40年毎に上がり下がりを繰り返しているという事実が符合している点もさることながら、1990年から続く「下りが底打つ」と思われる2030年とは、果たしてどの様などん底なのか、感慨深かったです。「将軍様がミサイル打ちまくって壊滅?」「太平洋プレートで大震動が生じ日本列島が沈没?」、やって来るであろうとんでもない事柄の備えて、日ごろ寺島先生のおしゃる「対話で平和維持」「防災産業強化」の重要さを改めて認識した次第です。またその源泉は「カネ」とか「派閥」ではなく、国や言語を超えた「合意形成」が欠かせず、これにはやはり「図解がカギ」であるとの思いを深めた次第です。本日講義の「関東大震災が与えた影響」ですが、震災で繋がる偉人達の人間模様もさることながら、一つ一つを丹念に取材され、収集された先生の怒涛の情報シャワーをたっぷりと浴びさせて頂きただ感服致しました。「あきらめない」「人の恩義を裏切らない」「気概(他に誰がやる)」といった、その時代を一生懸命生きる人たちのサマを見せつけられ、勇気連れられた気が致しました。10年後に訪れるかもしれない「すごいどん底」にしっかりと対峙できるよう、学びを続けたいと思いました。ありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします。
 
  • 久恒先生、本日もありがとうございました。近現代を経済の浮き沈みのパターンと関連付けて40年周期を見出した視点から始まり、近現代史の重大事件のひとつである関東大震災で影響を受けた人物をご紹介いただき、楽しめた2時間でした。何十名という方の話を聞きましたが、関東大震災がその後の人生に大きな影響を与えている方々の印象が強かったです。また、一犯一語の大杉栄の話は、刑務所生活でさえ、前向きに自己の成長の機会としている姿勢は素晴らしいと思いました。災害を悲観しすぎず、新たな気づきの場とすることで後世に残すものをうみ出せるということかなと思います。「ピンチはチャンス」ですね。来週もよろしくお願い致します
  • 久恒先生、みなさま。本日9/29の課外授業も有難うございました。本日、都合により9時前からの参加となり、前半参加できておりませんが、1923年9月1日の関東大震災の時に、何歳で被災したかを、若年時の方から83歳の時に罹災した渋沢栄一まで、当時の日本に生きた有名・無名に関わらず、足跡を残した先人の生き様を、ショートムービーで繋いだ絵巻のように疑似体験出来た、濃厚な時間でした。誰にとっても避けがたい厄災を、偶々、生き残ったものとして、どのように自身の人生に抱えていくのか?は、想像だけでは、片づけられない、近寄れさえしない時間の積み重ねとその凝縮としての足跡なんだな、と感じました。また、今日ご紹介いただいた先人たちと同時代に生きていた、今は亡き、本当に名も残らない普通の方々も含めた、足跡が歴史なんだ、ということに想いを至らせていただく、機会となりました。何を為すか、為したか、為せなかったか、ではなく、為そうとしたか?が、大震災が突き付ける究極の問い、なのか、と。ご紹介いただいた「一芸一能に専心せよ」という与謝野晶子の言葉と共に。
     
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    自民党総裁選。岸田総裁が誕生。与野党決戦の衆院選が面白くなってきた。

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「名言との対話」9月29日。井出孫六「有名無名さまざまな事件をつないでいって、ひとつの時代を浮き上がらせる」

井出 孫六(いで まごろく、1931年9月29日- 2020年10月8日)は、日本の小説家、ルポライター

長野県佐久市生まれ。東大仏文卒。中・高校教師を経て中央公論社に入社し、「中央公論」などの編集に当たる。1970年に退職。1968年に発生した永山則夫連続射殺事件に関心を抱き、1970年末に犯人である被告人・永山則夫に面会する。弁護士から永山が獄中で綴ったノートを見せられて内容に驚き、その出版を企画する。永山の獄中手記は1971年3月に『無知の涙』として刊行され、永山の作家としてのデビュー作となった。

秩父困民党群像』で文壇に登場。1975年、川上冬崖の謎の最期を描いた『アトラス伝説』で第72回直木賞。1986年、『終わりなき旅 「中国残留孤児」の歴史と現在 』で第13回大佛次郎賞。『抵抗の新聞人桐生悠々』『秩父困民党群像』『峠の廃道』は秩父事件を扱っている。『抵抗の新聞人桐生悠々』など人物評伝にも定評がある。他に『ルポルタージュ戦後史』など。また、日本文芸家協会理事、日本ペンクラブ会員、「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめている。

井出孫六の企画した死刑囚・永山則夫無知の涙』は、私も読んでいる。永山は私と同学年であり、興味深く読んだ。連続射殺魔・永山則夫は哲学・精神分析学・心理学・小説などあらゆる名著を紐解いている。この独学で自己自身を考える実存主義思想思想で両足で立つことを教えられ、貧困を扱った師マルクスエンゲルスから決定的に覚すいさせられる。そして、マルクスを信奉する左翼という立ち位置を獲得する。その過程が克明にわかる。「頭の中で逃走する」という存在理由を見つけたから、「私は生きますよ死ぬまで、」と決意表明をしている。井出孫六も手記を読んで感動したに違いない。

井出孫六『その時この人がいたーもうひとつの昭和史』(ちくま文庫)を読んだ。昭和の時代に起きた37の事件とそれに関与した人物たちを描く人物評伝集である。

「地下鉄男・早川徳次」、「吉展ちゃん誘惑」、「三億円強奪事件」、「三島由紀夫の自殺」、「金大中の消えた日」などに興味があり、読んでみた。事件と人物でつづる昭和史となっている力作だ。「週刊エコノミスト」の連載が単行本になったものだ。

同時代史の試みであり、井出自身の体験や感慨も随所に散りばめられており、昭和の空気を読者は強く感じることだろう。有名無名のさまざまの事件と人物をつないで、自身が生きた昭和という時代を浮き上がらせている。ドキュメントである。

明治の終焉は大宅壮一『炎は流れる』などで、明治という時代が幕をおろしたときの日本人の茫然自失ぶりが描かれている。統合の中心であった明治天皇の死によって、拠り所を失った喪失感が世にあふれたのだ2016年に読んだ朝井まかて「落陽」(祥伝社)には当時の世相が記述されていた。そして国民は「明治を生きた人間にとって天皇への万謝の念、よくぞ天皇として全うしてくださった」と感じ、同時代を伴走してくれた天皇に思いを馳せたのだ。

明治天皇の病状を巡って国民が固唾を呑んで見守ったのは有史以来初めてのことであり、二重橋前の広場に恢復のを願う人々が多数現れた。そして何かに祈っている。この姿は私もみた経験がある。それは昭和天皇崩御のときと同じ風景だ。1989年1月7日の昭和の終焉のときにも、自粛がはじまり、世は一気に暗くなった。日本人の精神構造は変わっていない感じがする。

異色の昭和史である。丁寧な文献の渉猟収集と現場を踏破するまれにみる健脚、そして人物と事件によって時代を浮かび上がらせる洞察力には感銘を受けた。人物を視野においた歴史記述はリアルな実感をもって時代の相がみえる。いつかこういう本を書いてみたいものである。

 

 

 

 

 

 

鴎外の信奉者・吉野俊彦の81歳時の肉声を聴いたーー「覚悟、実行、継続」

カルチャーラジオNHKラジオアーカイブスの9月は渋沢敬三日銀総裁民族学研究者)と吉野俊彦(日銀理事と鴎外研究者)。二人とも二足のわらじ、二刀流の体現者。

吉野俊彦の肉声を聴いた。81歳当時の音声は元気で、かくしゃくとした語り口だ。

吉野俊彦は、私にとっては、主として30代の10年間を通じて、サラリーマンとライフワークの間を揺れる自分を、著書や雑誌記事で、励ましてもらった人である。

吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。

千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。次長時代には安定成長論者の代表として大蔵省の下村治を代表とする高度成長論者と激しい論争をし批判されている。この不遇の時代に鴎外研究へのめり込む。

1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。退任後も経済書を出版するなど90歳で没するまで生涯現役だった。

吉野俊彦の名言として選ぶなら、この番組の中で熱を帯びて語っていた「覚悟、実行、そして継続」だろう。覚悟が誰でもするが実行しない。実行はするがすぐに挫折する。挫折しないで長く継続できるか。それが本当の生を生きる秘訣である。

手に入れるべき本:『妄想』。『青年』。『水沫集』(『美奈和集)の改訂版の序。『追難』の頭書き。鴎外の箴言集:随筆『知恵袋』『心頭語』『慧語』(小堀桂一郎)『鴎外漁史とは何ぞ』。

今の生活の先に本当の生活はあるのか。現在に生きがいを。ヘトヘト、ちょっと寝る、12時に起きて2時まで。石油ランプ。亀のように学び続ける。「一日を過ぎれば一日の長を得ている」(鴎外)、、、。

鴎外は「酔生夢死」という生き方はしたくない。酔っぱらっているかのように生き、夢を見ているように死んでいく。何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。ぼんやりと無自覚に一生を送る。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく。

対義語は「精励恪勤」で、「力の限りに仕事や学業に励むこと」だ。

小倉時代:哲学的基礎(ドイツ)を学び美学の理論を体得。フランス語を習得。再出発に備えた勉強。そして批判をかわすための「翻訳と史伝」を発見した。

坪内逍遥との「没理想論争」、描写だけでよいとする逍遙と理想を込めるという小説の在り方をめぐる論争。

鴎外の知的生産物は『森鴎外全集』38巻という膨大な量に結実している。立派な日本人、優れた先輩として、吉野は仰ぎ見ている。

複線的生き方をした鴎外の文学活動には前期と後期の間の沈黙の15年がある。日清戦争日露戦争、小倉の生活の期間は沈黙の時代だ。『即興詩人』は9年かかって小倉時代に仕上げた。平日は夜、日曜は昼が勉強の時間だった。このような厳しい生活を送る鴎外にとって、陸軍な武、世間から投げつけられる批難は冤罪というしかない。。

さて、吉野俊彦である。鴎外を師とする吉野は、専門の経済書以外の著作は膨大だ。

鴎外論。13冊! 57歳から84歳の間に書いた。

サラリーマン論。吉野は62歳から74歳。私は20代後半から40歳直前までの苦しい時期によく読んで励まされた。

  • サラリーマンの生きがい 生涯を賭けた仕事を持て 徳間書店 1977.12 。サラリーマンのライフワーク わが生きがい論 徳間書店 1978.8 。サラリーマンの哀歓 わが出処進退十訓 徳間書店 1978.12。サラリーマンの知的読書法 経済書から文学書まで 東洋経済新報社 1979。複線的ライフワークのすすめ サラリーマン生きがいの探求 充実した人生をどう創るか PHP研究所 1984。ビジネスマンとしての「私」の勉強術 講談社 1989.1。わが家のルーツ探し プレジデント社 1990.11。企業崩壊 私の履歴書(正・続) 清流出版 1998.12。

晩年には永井荷風にも関心を寄せている。84歳と86歳。

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埼玉所沢にできたサクラタウンの「角川武蔵野ミュージアム」を訪問した。

角川歴彦松岡正剛隈研吾。、、、

俵万智展。

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「名言との対話」9月28日。吉田武彦「サービス力は世間話力」

吉田武彦(1937年9月28日‐)は日本の経営者。ビジョンメガネ社長。

中小の町工場がひしめく東大阪で、4人兄弟の次男として生まれる。父親のはメガネの下請け工場を経営する実直な職人であった。吉田は大学受験に失敗し、父の経営するシミズメガネで、製造から貿易、小売りまで幅広く学ぶ。1976年に独立し、後に小売り大手となるビジョンメガネを創業した。思い切った店舗展開と現金買取りの経営手法で急成長する。吉田はメーカーからメガネを買い付ける時、全て現金で支払い、一切返品をしなかった。そのため、従来の50~60%の値段でメガネを仕入れることができた。また、メーカーとの約束事を守り、一度も反故にしなかった。小売業界きってのアイデアマンとして数々のヒット商品を世に送り出し、2002年には自宅のパソコンでメガネが買える「どこでもメガネ」システムを開発するなどメガネ業界の革命児である。

ギリギリまで吉田の独立に反対した父親は、1984年に亡くなるまで保証人の判を押し続けた。その後、ビジョンメガネを立派に育て上げた吉田はシミズメガネの保証人となる。「今度は自分が死ぬまで判を押すつもり」と語っている。

「毎日、いろいろなお客さんに応対しなければならない小売りの仕事は、製造業とは違った辛さがある。でも、1人のお客さんで失敗しても、次のお客さんで失敗するとは限らない。いくらでも修正がきく。こんな面白い商売はない」。

メガネビジネスは健康産業であり、情報産業でもあると考えていた。創業当初から分不相応の投資をしていた。コンピューターで全ての顧客を情報管理。電話番号と生年月日を入力するだけで、お客さんがいつどんなメガネを購入されたか、奥さんはメガネをかけているのか、子供さんはどんなメガネをかけているのかが全て分かるようになっていた。

震災時。老眼鏡を無料で配り始めた。さらに、検眼するための医師を同行して被災者が避難している集会所を回り、合計1万本の老眼鏡を配布して回った。その年ビジョンメガネは前年比50%増の74億円の売上げを計上。長い間、突破できなかった50億円の壁を一気に超えた。また、利益も8億円を上げ、直面していた危機を乗り切ることができた。「老眼鏡を無料で提供したり、メガネを安くしたり、初めは私たちの方が奉仕したつもりだったが、反対にお客様に助けてもらう結果になった。『情は人の為ならず』と言いますが、この時は本当にその通りだと思いました」。

吉田はパソコンで視力を測れないかと考え、パソコンによる検眼システムを世界で初めて完成させた。吉田はこの検眼システムに、約1万種類のフレームからお気に入りを選べるシュミレーション画面を合体させて、「どこでもメガネ」ショピング・システムと命名。いつでも顧客の好きな時間に自分のペースでメガネを買えるシステムを作り上げた。構想に5年、開発に3年の歳月を費やし、実に5億円の開発費がつぎこまれていた。

吉田は、メガネ店に入ってくるお客で、実際にメガネを購入するのは5人に1人であることを踏まえ、「メガネはメガネ店で買うもの」という常識をも根底から覆す。

65歳で退任し、新たに眼鏡会社(株)プラネット・ビジョン60を設立。新会社は事業こそ順調だったものの、連帯保証の借金をきっかけに破産へ。吉田武彦社長は「親父の教えを守っておけばよかった」と悔やんでいる。ハンコをむやみに押すなというアドバイスを忘れていたのだ。

「世間話をしたかったら、新聞はテレビ欄から読め」、「サービス力は世間話力」だ、という。新聞はテレビ番組欄から読む。次はスポーツ欄。世間話するだけだったら20分読む。将来いい生活をしたかったら2時間読む。週刊誌は電車の中吊り広告を見て、題だけを覚える。それはなぜか。「新聞を読んでおかないと世間話ができないので、ついお客様のプライバシーに入ってしまう」からだ。

モノづくりの町が生んだメガネ販売の革命児、メガネ業界きってのアイデアマン、早い段階でのコンピュータの導入、情報入手の方法の吟味、仕事で会った人に送る礼状はもちろん、入社試験でビジョンメガネを訪れた学生にも自らの気持ちを手紙2枚にしたためるという、ファンづくりの方法、、、。吉田武夫は情報感度の高い経営者だった。

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「名言との対話」吉田武彦「食糧の輸入をできるだけ減らす」

生年月日?

大阪生まれ。東大農学部農芸化学科卒。農林水産省入省。

専攻は土壌肥料学で、おもに作物の根の整理と養分吸収の研究を行う。著書に「水田軽視は農業を滅ぼす」などがある。

岩波ジュニア新書『食糧問題ときみたち』(吉田武彦。1982年刊)を読んだ。

世界における食べ物の生産と消費の仕組を説き明かし、人類の偉大な発明である農業の歴史を見直して、食べるということの大切さと飢えの恐ろしさを訴え、これからの時代のための食糧問題を考えようとする内容だ。以下、吉田の所論をまとめる。

日本人が食べている米以外の食料品の大半は、外国からの輸入である。穀物というのは主食だから自分の国でつくって食うのが原則。貿易に回るのは生産量の10‐15%しなかいが、日本は世界貿易の4分の1を輸入している。

1960年頃には穀物自給率は80%。しだいに低くなって1979年、33%。食生活が変わった。米を食べなくなった。おかず食い。食生活の洋風化。肉類の摂取。畜産物の生産を増やすには飼料用穀物を大量に必要となる。1キロの生産には数キロの穀物を家畜に与えなければならない。アメリカの安い穀物との競争と政治的な圧力があり農家は栽培をやめてしまった。いわば日本は工業製品の輸出とのバーターで農業を疲弊させてきた。

最近では世界では食料が戦略物資として武器のように使われることがでてきた。食糧の不平等はどんどん拡大している。日本ほど外国の穀物に頼っている国はない。金がなくなってくれば買えなくなる。防衛上の弱点になっている。

イギリスは2度の世界大戦でドイツの海上封鎖を受け、食糧難に苦しんだ経験から、穀物自給率を高めようとしている。現在でもそのイギリスは日本を除く先進国では最も低い自給率だ。それでも日本の倍近い数字になっている。

福沢諭吉は維新後に中津藩から問われて、「琉球のようになるのがよい。学校をこしらえて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせる方針をとるべき」と説いた。「弱藩罪なし武器災いをなす」だ。平和国家、科学技術立国のすすめである。

世界の軍事費の10%を削って農業開発に回すと、途上国の灌漑背水計画の2年分をまかなうことができる。軍事費を減らし、国内生産をあげよ。これが吉田武彦の1982年時の提言である。それから40年。日本の軍事費は増え、食糧自給率はわずかに上がったがまだ30%台にとどまっている。危ない。