八王子夢美術館「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」展。理解するカギ理解するカギは、出会いと出来事、そして旅である。

八王子夢美術館「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」展。

川瀬巴水(1883-1957)という人物を理解するカギは、出会いと出来事、そして旅である。

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絵の道に進むことができたのは、家業が傾いたことにより反対がなくなったことによる。その時、巴水はすでに25歳となっていた。入門を希望した鏑木清方は「絵かきになるには年をとり過ぎている」としたが、まず洋画を学ばせた。27歳で入門した鏑木門下の14歳年下の伊東深水木版画に影響を受けて、若旦那の境遇を捨てて、木版画に挑戦すること決意する。

その後の2つほど年下の版元・渡邊庄三郎との出会いは大きい。二人は同志となって「新版画」を開拓していく。全国鉄道網の発達によって旅行人口が増えていたことが風景画のニーズを高めていた。旅と版画が結びついたのである。

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(前列、向かって左が巴水、右が渡邊庄三郎)

そしてもう一つは人生の節目に行った大旅行である。1923年の関東大震災で写生帖などが焼けるという悲運に見舞われる。震災以前は思い切った構図が特長だった。巴水は庄三郎に励まされ、102日間の旅にでる。その後は、鮮やかな色彩と精密な筆致の作品を描いいている。

1936年から1939年のマンネリ化した作風を突破したのは、朝鮮への旅行だ。初めてみる異国の風景と珍しい風俗を新鮮に感じ、その成果は戦中、戦後に開花する。

戦後は海外から版画に注目が集まるようになり、多忙となる。その間、国内を旅を何度も重ね、日本の原風景を描いた。その旅情あふれる作品は今日でもファンが多い。この展覧会で改めてそのことを確認した。

川瀬巴水は、文部省からの高い評価や、三菱財閥の総帥たちの起用によって、木版画の中心人物になっていく。この「旅情詩人」と呼ばれた画家は、「昭和の広重」という最大の尊称をうけるまでになる。巴水は広重の模倣といわれることが動機となって大型のシリーズに挑んでいく。

下の雪景色の中尊寺金色堂に歩を進める僧侶を描いた絶筆である。この僧侶は巴水自身である。

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巴水の作品は、アップル創業者のスティーブ・ジョブスが蒐集家であった。審美眼が確かで即断即決の人だった。ジョブスの収集した「新版画」の多くは巴水の作品だった。新版画の究極の「シンプルさ」がジョブスの美の原点であった。

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「名言との対話」5月3日。中坊公平「世の中で一番大切なもの、人間にとって最も大切なもの、それは『思い出』ではないか」

中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年8月2日 - 2013年5月3日)は、日本の弁護士(大阪弁護士会)。日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議21世紀臨調)特別顧問。

京都市出身。京都大学法学部卒。24歳で司法試験に合格。1970年、40歳で大阪弁護士会副会長に就任。

1973年、森永ヒ素ミルク中毒事件や豊田商事の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構の初代社長をつとめた。1999年に設置された司法制度改革審議会において委員として参加し、法科大学院裁判員制度の導入に尽力した戦後日本を代表する弁護士であり、「平成の鬼平」とマスコミ各社に名付けられた。実在の人物であり悪を懲らしめる「鬼平」と呼ばれた火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする池波正太郎の捕物帳『鬼平犯科帳』に因んだ言い方である。

NHK「ETV特集」では1997年に4夜連続で「弁護士・中坊公平」を放映している。「森永ヒ素ミルク事件ーーすべては現場から始まる」。「豊田通商事件ーー悪とは何か」。「豊島産業廃棄物不法投棄事件ー悲惨な勝利でも良し」。「史上最大の不良債権回収ーー理念を持って闘え」。

中坊は、100人以上が死亡し、1万人を超える乳児が中毒となった大惨事となった森永ヒ素ミルク事件の弁護団長になることをためらっていたが、父親から「赤ちゃんに一体何の罪があるんだ! そんな情けない息子に育てた覚えはない」と一喝されて目覚めた。父親は小学校の先生から弁護士になった人で、息子に「公平」という名前をつけたのだ。

戦後最大の詐欺商法と呼ばれた豊田通商事件の破産管財人。高齢者から2000億円を集めて破産した事件。暴力団を使った妨害工の中、100億円を回収した。

豊島産業廃棄物不法投棄事件。有害物質の投機で土壌や地下水が汚染された事件。この裁判で不法投棄物問題が国家の最優先問題となった。

住宅金融専門会社というノンバンクがバブル経済の時期に抱えた6兆5000億円の不良債権の処理を巡り、政府が6850億円を支出し、債権回収の為に住宅金融債権管理機構が設立された。その初代社長が中坊公平である。

この特集シリーズの反響は大きく、拓銀、山一などの金融機関の破綻が続出したこともあり、新たにインタビューが行われた。その映像を見た。住専問題で70兆円を超える不良債権処理にあたり、銀行に30兆円を投入して日本経済の危機を救った案件について語っている。

「すべては現場から始まる」という中坊の信念が披露されている。神尾書類を見るだけでなく、生身の身体の持つ五感をフル動員して、本質に迫ることができるのが現場である。日本のゆがみを象徴する大事件に取り組んできた中坊の言葉は説得力がある。

以下、中坊公平の言葉。「 私は太陽電池で動いており、妻が私のお日さんなのだ。」(いい家庭をつくることは男子一生の事業である)

「いろいろな仕事の条件や内容を調べて、自分に適合する仕事を探そうとすること自体が、私は違うだろうと思っています。それよりも、いかに自分の能力を上げるか。現場へ行って本質をどのようにして発見できるか。その力を自分のものにする技を磨くことがもっと重要なのですね。」(就職は、現場での修行と思え。場所はどこでもいいということだ)         

「少なくとも三つ(牧師・医者・弁護士)の職業はですね、人の不幸を金に変えてはならないというのが厳然たる倫理だと思うんですね」(やはり、鬼平と呼ばれるだけのことはある)

濡れたタオルを絞って出てきた水と、乾いたタオルを絞って出てきた水とでは、その値打ちが全く違う。(正義への執念)

常識で曇ったガラスを手で拭き払え。(現場主義)

弁護士という枠を超えた行動力の持ち主だった日本弁護士連合会会長の中坊公平は「平成の鬼平」とマスコミからあだ名をつけられている。池波正太郎の「鬼平」からとった異名である。池波正太郎には、実在の人物である江戸時代の火付盗賊改方の責任者の長谷川平蔵を主人公とした『鬼平犯科帳』というロングセラーがある。

検事の河井信太郎には、特捜の鬼、検察の鬼、鬼検事などの異名には必ず「鬼」がついている。現代の火付盗賊改方である検事たちは自分たちを長谷川平蔵に擬して仕事に励んだのだろう。

裁判官の原田國男も、池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。司法の立役者である、弁護士、裁判官、検事には「鬼」が多い。

亡くなったとき、日本経済新聞は「弁護士に求められる理念を体現しながら、抜群の行動力で弁護士の枠を超えた活動を続けた。晩年は刑事告発を受けて弁護士バッジを外すことになり、無念さを残した」と書いた。不適切な回収告発に刑事告発を受けて引退を余儀なくされたのである。

冒頭の「思い出」とは、「家族と過ごした楽しい思い出。必死になって仕事に打ち込んだ思い出。心を分かち合った友人との思い出。そんな多くの思い出こそが人が生きてきた証であり、最後にやすらかな幸福感をもたらしてくれる」と本人が解説している。中坊公平はこころやさしき人であることがわかる。やはり「平成の鬼平」にふさわしい。

 

 

 

東京写真美術館「木村伊兵衛 写真に生きる」展ーー「日本人の目で今日の世界が、どこまで表現できるか、できるところまでやってみたい」

4月24日に訪問した東京写真美術館「木村伊兵衛 写真に生きる」展。

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木村 伊兵衛(きむら いへい1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本写真家戦前戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。

女性の写真で人気があったが親友の写真評論家から「アルチザン(職人)」と酷評されたこと、そして有名な写真家・ブレッソンの作品から衝撃を受けて、報道写真家の道を歩むことになる。

どこに行くにも、同時代の土門拳にようにテーマを決め打ちすることなく、そこで暮らす人間とその生活を撮る。それが木村伊兵衛のやり方だった。

  • 夢の島ー沖縄」:沖縄文化を紹介した写真は世に出るきっかけになった。
  • 「肖像と舞台」:役者の演技の一瞬をとらえ、「ライカの名手」と呼ばれるようになった。最初の個展は「ライカによる文芸家肖像写真集」だ。
  • 「昭和の列島風景」:街角と昭和。
  • 「ヨーロッパの旅」:ブレッソンやドアノーという著名な写真家との交流もあった。欧州には数度訪問している。
  • 「中国の旅」:『王道楽土』と『木村伊兵衛写真集 中国の旅』の2冊の写真集がある。
  • 「秋田の民俗」:日本社会の縮図として20年間通い続け、農民の姿を摂った。

木村伊兵衛は、美を撮るという芸術写真ではなく、「人間の顔」「日常生活」にこだわった。性格や感情の動きを撮るのである。その人の過去、現在、未来を撮ろうとした。それが報道写真である。

「日本人の目で今日の世界が、どこまで表現できるか、できるところまでやってみたい」、それが木村伊兵衛の志であった。

ホームページ来訪者:1419

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「名言との対話」5月2日。かこさとし「真ん中だけがエライんじゃない、端っこで一生懸命に生きているものもいるんだよ」

かこ さとし(加古 里子、1926年3月31日- 2018年5月2日)は、日本絵本作家児童文学者工学博士技術士(化学)。本名は中島哲。

福井県越前市出身。成蹊高校時代に俳人中村草田男に学ぶ。その影響だろうか、俳号を「里子」とする。東大工学部応用化学科を卒業後、昭和電工に入社。勤務の傍ら児童向けの人形劇や紙芝居などの活動を行う。工学博士を取得。技術士の資格を取得。

『だるまちゃんとてんぐちゃん』に代表される「だるまちゃん」シリーズや科学絵本を手がける。加古の代名詞の「だるま」は、ロシアの民芸品人形のマトリョーシカにヒントを得ている。

1973年、47歳で昭和電工を退社し、子どを対象とした多彩な活動に本格的に取り組んでいく。

代表作は、「だるまちゃん」シリーズと、「からすのパンやさん」シリーズ、「どろぼうがっこう」などがある。いずれも子どもやお母さんに人気がある。作品には、台風、竜巻、富士山だいばくはつなど科学者としての目がふんだんに生かされている。そして伝統行事や子どもの遊びなど日本文化の紹介も入っている。

92歳までの生涯で600以上の絵本や紙芝居などの作品がある。最後の作品は2018年3月14日刊行だ。その年の5月に永眠しているから、最後まで現役の絵本作家だったことになる。

国民的絵本作家と呼ばれ、受賞も多い。1963年の産経児童出版文化賞大賞から、2017年の巌谷小波文藝賞まで、22の賞を受賞している。1975年には日本エッセイスト・クラブ賞、2008年には菊池寛賞、2011年には国際アンデルセン賞画家賞にノミネトされている。

NHK「あの人に会いたい」で映像をみた。軍国少年であった加古は19歳で終戦を迎える。「勉強が足りなかった」と反省し、子どもたちに賢く、健やかに育って欲しいとの願いを持つ。

そのことエネエルギーとなって子ども対象の絵本の出版などの活動になっていく。ところが本人は「私自身が、子どもたちから教わってきた」とし、「子供たちに未来を切りひらく力を持って欲しい」とのメッセージを穏やかに語っている。

「真ん中だけがエライんじゃない、端っこで一生懸命に生きているものもいるんだよ」というメッセージは、どの場所でもどの役割になったとしても真面目に生きることの尊さを教えているのだ。

越前市には「かこさとし ふるさと絵本館」がある。公式ホームパージをのぞくと今でもかこさとしにちなんだイベントが行われており、かこさとしの仕事の余韻をみるこことができる。

会社勤務と絵本作家の二刀流で腕を磨き、47歳で絵本で一本立ちする。青年期を終えて、壮年期、実年期、そして熟年期の初めまで、若い時の志を維持し、多くの子どもに親しまれた。子どもの心と科学の目をもった人である。

 

神奈川近代文学館「帰って来た 橋本治」展ーーー心境。準備。膨大。

ホームページ訪問者が、一昨日から急増している。最近は200台、300台と言ったところだが、4月30日:1676。5月1日:1816という訪問者がある。何が原因だろう。

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神奈川近代文学館「帰って来た 橋本治」展。

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  • 小説を書く時の心境:「机にすわって、まっ白な原稿用紙に向かうと、やっぱり、原稿用紙の向こうに小説の神様がいるような気がするのね」(森鷗外の心境と同じだ)
  • 一つの作品が終わった時の心境:「ああ終わった」の一言が幸福をもたらしれくれる。「ちょっとしんどいな」と思うこともありますが、書き終えた幸福感は変わりません。
  • 小説を書くエネルギーの源:どうしてこうなっているのか。
  • 思考の特徴:全体をにらみながら部分を考える。すべてを見渡すことができるため細部をないがしろにはできない。だから、長編になっていく。橋本治の出発点が絵描きだったからか。(画家は写真家とは違い、細部にまで目を凝らさなければかけない)
  • 何を勉強したか:国文科の卒論は「四世鶴屋南北の劇世界」。歌舞伎「よく分からないもんが好きだから」。浄瑠璃人形浄瑠璃のドラマを「近代の日本人のメンタリティの原型」「近代になって成立する小説の先祖」と考える。
  • 敬愛した作家は3人:久生十蘭山田風太郎。そして「有吉佐和子については、生な感触、生きた言葉があり、どれを読んでも参考になる。

橋本治の特徴は、準備に膨大な時間と労力をかけていること、そして一つ一つの作品の量が圧倒的に長いことである。橋本治の知的生産の技術を観察してきた。

  • 桃尻娘』:インパクトのあるタイトル。少女マンガのおしゃべりの文体。自分の心を把握して、それを自分の言葉で相手に伝えることの大切さや、つまづいても何度でも原点に返ってやりなおせることを真摯に説き続けた。
  • 『桃尻語訳 枕草子』は1986年から10年かけて完成。長大な時間と神経を使った。4箱の「訳語カード」、単語カード。「愛嬌なし」は「ドッチラケ」。清少納言の原文を、現代の女の子の言葉に置き換える。「平安朝の女流文学は少女マンガである」。
  • 『窯変 源氏物語』:全14巻。1991年6月荒1993年1月。「どうやら誰にもつまんない悪口を言われそうもないな」。
  • 『双調 平家物語』:全15巻。1998年10月ー2007年10月。10年間。準備に多くの時間をかけた。年表や系図づくりの準備が凄い、吾妻鏡」「平家物語」などから、仕事の記録を拾い出し、ワープロで年表や系図を作り、その多くは巻物に仕立てられている。これらの資料作成、本文、執筆を繰り返し、9年の歳月をかけて12巻の予定が、全15巻となり完結した。最後の原稿用紙はノンブル「8408」で締めくくれられている。年齢表。登場人物の名前が並んでいる。そして彼らが何年の時にどの天皇の時代に何歳であったかが国民に記されている。これによって、登場人物の年齢差が一目でわかるような構成になっている。仕事に何が起こったかそして自身の考察や感想なども詳細に記してある資料がある。しかし会場で見た原稿用紙の束は圧巻であった。2つの列があったが、それ全てで8408枚あると言うことである。

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『少年軍記』:東大闘争に関する小説。参加せず居場所がないまま孤立してきた自分を見つめ直す作品になるはずだった。これが未完なのは残念だ。

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今まで『小林秀雄の恵み』などを読んで、その力量に驚いたが、やはり橋本治の森は相当に深いようだ。橋本は「分からないけど魅力がある人間に」になりたいと語っていた。その通りの人間だったようだ。

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「名言との対話」5月1日。戸川幸夫「人に、「見られている」ことを常に意識することです。そういう動物的な緊張を忘れなければ、人間はボケないし、輝きを失わないものなんです

 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年4月15日 - 2004年5月1日)は、日本小説家児童文学作家。享年92。

旧制山形高校に進むが、中退する。東京日日新聞(いまの毎日新聞)社会部記者となり、サン写真新聞取材部長、東京日日新聞社会部長、毎日新聞社会部副部長、毎日グラフ編集次長となる。この間、長谷川伸に師事して文学を学び、42歳で「高安犬物語」にて直木賞を受賞。43歳で作家生活に入り、動物に関する深い観察と広範な知識を元にして「動物文学」というジャンルを確立し、国民の支持を得た。

1977年の戸川幸夫動物文学全集』で「日本文学に動物文学という新しいジャンルを開き、独自の高峰をうちたてた」として芸術選奨文部大臣賞受賞。1980年紫綬褒章受章。1985年、児童文化功労者1986年勲三等瑞宝章を受章。

年譜を繰ってみると、晩年に到るまでの間断のない膨大な仕事に圧倒される。53歳、西表島を二度訪問し新種を発見し、イリオモテヤマネコ命名される。

54歳の時の新聞・雑誌等への寄稿などを並べてみよう。「野生への旅V」、「ゴリラ記」、「乃木と東郷」、「謀議」、「三里番屋」、「象」、日本テレビすばらしい世界旅行」の原作執筆のため東アフリカ取材旅行、「からすの王様」、「世界名犬物語」、写真展「動物のアフリカ」開催。、、、、。

著書は200冊に迫る量があり、「戸川幸夫動物文学全集」も冬樹社の全10巻、主婦と生活社の全6巻、講談社の全15館の3つのシリーズがあり、動物文学のニーズが高いことがわかる。

日本犬復活運動を展開した斎藤弘吉日本動物愛護協会初代理事長は、渋谷の秋田犬ハチ公に惚れ込み資料を収集し、朝日の記者が「主人の帰りを待つ老犬ものがたり」として報道した。一番びっくりしたのが渋谷駅の駅長以下駅員だった。このハチ公と戸川は交流があったと戸川の自伝的小説『猛犬 忠犬 ただの犬』にある。この本を読みながら、中野孝次『ハラスのいた日々』という愛犬との日々を書いた傑作を思い出した。犬にも感情、意志、知識、思いやり、情など精神作用としての「心」は確かにある。私も少年時代、そして最近までチョコラという名の犬を飼っていたから、動物文学というカテゴリーがあることに納得する。誰もなし得なかった新世界を切り拓いたのが戸川幸夫だった。

「見る、見られる」ことに敏感であること。、ことに、人に、「見られている」ことを常に意識することです。そういう動物的な緊張を忘れなければ、人間はボケないし、輝きを失わないものなんです」と戸川幸夫は言う。その通りだったか、気になるところだ。

 

 

 

「言葉の力」塾30回記念イベントに参加。

著者のいる読書会には16人が参集。

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私の発表メモ。青海エイミー「ジミー」と「本当の私を探してた」について。小説とは何か。希望。勇気。新しい自分。自分づくり。体験。ピラミッド。次のテーマ。、、、

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参加者の発表メモ。

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昨日のHPの訪問数が1676となっている。原因は何だろうか。

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「名言との対話」4月30日。立花隆「知の旅は終わらない」

立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年昭和15年)5月28日 - 2021年令和3年)4月30日)は、日本ジャーナリストノンフィクション作家評論家。本名は橘隆志。享年80。

長崎市出身。東大文学部フランス文学科卒業後、文藝春秋社に入社。3年で退社。1967年東大文学部哲学科に学士入学するが、東大紛争などがあり中退。

1974年「文芸春秋」に「田中角栄研究」を発表,この論文は首相退陣への引き金となる。1979年「日本共産党の研究」で講談社ノンフィクション賞。1983年菊池寛賞。1987年「脳死」で毎日出版文化賞。1998年司馬遼太郎賞。2014年「読書脳―ぼくの深読み300冊の記録」で毎日出版文化賞。著作はほかに「臨死体験」「電脳進化論」など。

立花隆は生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験などをテーマに執筆し、その都度ベストセラーになっている・「知の巨人」と呼ばれた。

私は立花隆の著作や活動に関心があり、著作も多く読んでおり、知的生産者としての立花に惹かれてきた。

亡くなる直前の2020年3月には『知の旅は終わらない』(文春新書)を読んでいる。「立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている」と総括して、活躍に期待している。

副題は「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」だ。哲学、古代文明脳科学、司法、音楽、美術、近現代史人工知能、神秘思想、論理学、宇宙、がん、、、、。知の旅の自分史である。

エリート校の小学校で知能検査で学校一番。上野高校時代には旺文社の大学入試模擬試験で全国一番になる。ノーベル賞湯川秀樹にあこがれて素粒子物理学をやろうとするが、色弱のため断念している。(こういう記述は、立花隆には珍しい)

東大に入り原水爆禁止運動にのめり込む。原爆禁止映画を上映しながらヨーロッパを旅することを考え、実行に移し、ロンドンの国際学生青年核軍縮会議から招待状が届く。半年間の旅で人生最大の勉強をする。帰国すると、デモなんかよりもやるべきこと、なすべきことが山のようにあることに気づく。20歳前後はかたっぱしから口の中に放り込む時代だという。(同感だ)

文芸春秋社に入社するが、仕事がいやになる。本も読まなくなりどんどんバカになっていく気がする。3年で退社し、東大の哲学科に学士入学する。文春時代に本名の橘隆志と同音異字の立花隆というペンネームになる。(就職して多忙で本を読まなくなり、そのような生活に疑問を感じる。私の場合は、何とか知の旅を続けようと悪戦苦闘)

事前の準備しだいでインタビューで引き出せる話の質も量も違う。一流の学者を個人的な家庭教師にするようなものだった。取材でいちばん必要なのは質問力だ。質問する側の知性が試される。(雑誌や本の取材で、偉い人にインタビューをするのが一番面白い)

人は小さな旅がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在だ。(人は変化が常態だ)

20代から30代前半の「青春漂流」の時代を経て、一人前の人間になる。定住生活を始める。成人期の始まりだ。34歳で「文藝春秋」に「田中角栄研究」を書き、田中首相の逮捕へつながっていく。その過程で出版をじゃまする人々に遭遇し、第二弾はでなくなる。「あんな奴らに負けてたまるか」という怒りがエネルギーとなって1万枚を超える仕事がスタートする。(20代の青春漂流を経て、私も30歳前後から足元を掘り続ける定住生活に入った)

スピノザの「永遠の相の下に」に見ることが大事だと悟る。「時代をこえて語られるのは、ただひとつ、時代をこえて語られるだけの価値を持つ真理である」。永遠の相の下で見ても価値がある言葉を発見する方に仕事の中心を移していこうと考える。(永遠相のもとで取り組むべきテーマ、やるべき仕事に向かうことだ)

38歳、『日本共産党の研究』(講談社ノンフィクション賞)。43歳、菊池寛賞。同年に初めてのベストセラー『宇宙からの帰還』。51歳、『精神と物質』で新潮学芸賞。52歳、ネコビル竣工。54歳、『臨死体験』。58歳、第1回司馬遼太郎賞。73歳、『自分史の書き方』。76歳、『武満徹」・音楽創造への旅』。(この人の本はずっと読んできた。とくに知の技術関係は見逃していない)

同時代人として見た戦後現代史。近代史。生物の進化史。地球史。宇宙史。大きな視点でみると全体がよく見える。(歴史を追いかける旅人は、足元から遡ってどこまでも行くことになる)

人の死生観に大きな影響を与えるのは宗教だ。樹木葬か。(死生観が固まれば何も怖くはなくなる)

9年前に未発表リストの存在を発表している。そのうち3冊は完成済みという。この知の巨人は、間断なくいい仕事をし、その都度、メディアで話題になっている。その立花隆も80代を迎える。今後どのような知のパノラマを見せてくれるだろうか。この人も「終わらざる人」である。(1940年生まれの立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている)

折に触れて、立花隆についてこのブログで知りしてきた。その一部を記しておこう。

田中健吾文藝春秋』編集長は、自民党というのは、ぬえのような存在で、洗い直すことはできなかったけど、立花君はクー)ルにやったらどうだろう、と」と、回想している。(文藝春秋2021年9月号)「文藝春秋」に書いた 「田中角栄研究」がきっかけで田中が逮捕されるにいたったとき、新聞記者たちはあんなことは知っていたと語り合ったそうだ。しかし、人からの伝聞と自らの調査では、ものが違ってくる。

・「どういうふうに自分たちの世界が構成されていて、どういうふうに世界は動いていくのか、その全体像の把握が教養です」。

「哲学的な思索というのは、正解がない問題について、深く考えることである」

・「がんに勝てなくても、がんい負けない生き方はあると思った」

・「取材をしないジャーナリストが生存できる時代は終わった」

『宇宙からの帰還』。アームストロング船長を「精神的に健康すぎるほど健康な人で、反面人間的面白みにはまるで欠けた人物。驚くほど自己抑制がきく人で、いかなる場面でもパニクルとか、感情が激するといったことがな。」と評している。その通りであった。同僚のオルドリンは月面に降り立った二人目となり、敗北感を持ち、帰還後の喧騒の中でうつ病を発症している。登山においても誰が一番先に頂上に立つのかが問題になるが、宇宙飛行においても同じことがある。この栄光の影には、人間関係の問題もあったことがわかる。

2012年に新宿のプレイスMで開催中の「立花隆の書棚」展を覗く。ネコビルの地下2階、地上3階、屋上書庫。3丁目のマンション(57.7ヘーベ)。立教大学研究室。3号館屋根裏。 以上の3つに分散されている約10万冊の書籍が納まっている書棚を書名が分かるうように克明に撮影した、わし田純一さんの展覧会だ。28棹、1881棚、2389段、10万冊。この企画は書斎ではなく、書棚に目をつけたのがユニークだ。わし田さんがいらしたので話をする。リービ英雄大宅壮一文庫、梅棹資料室、司馬遼太郎記念館徳富蘇峰などの書棚が話題になった。現代の知の巨人・立花隆の書棚、納めてある書名に興味をそそられて眺めた。

2014年9月。NHK「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」。

  • 心を構成する「意識」は、膨大で複雑な脳細胞のつながり(ネットワーク)の中にある。意識は脳内の様々の要素を統合する機能だ。死ねばつながりがなくなるから意識は消える。複雑なネットワークでは意識が立ちあがってくる可能性があるから、機械にも意識があらわれる可能性がある。つながりが複雑なほど意識の量多くなる。
  • 心拍が停止した後も、短い時間だがわずかな量だが脳波は動いている。このときにみる夢が臨死体験である。偉大なものから包まれて幸福感に満ちている状態。脳の辺縁系は人を幸福感で満たすことができる。
  • 様々な感覚を統合する辺縁系という脳の部分が最後に壊れるとき、体と意識の分離の感覚が起こることがある。意識が体から抜け出して空中浮遊する。それが体外離脱現象である。救急医療が増えてきて対外離脱体験者が増えてきている。

立花隆は、「知の巨人」として私は長い間、その足跡を追ってきたし、書かれた内容もそうだが、知的生産の技術に大いに関心を払ってきたから、大きな影響を受けている。

立花隆は、がんに冒されても、がんの本質に迫っていく。その姿も映像で見たことがある。どこまでも興味を追求した人だ。青年期、壮年期、実年期を経て、80歳からの熟年期の入り口に立ったところでその活動を終えることになった。

 

NHKスペシャル「未解決事件」FILe10「下山事件」。須賀敦子論。

 

NHKスペシャル「未解決事件」ーーFILe10「下山事件」の再放送。第1部はドラマ、第2部はドキュメンタリーで、午後1時から3時近くまでだった。

終戦直後のアメリカ占領時代に労使紛争にゆれる国鉄を舞台に起こった未解決事件の一つが下山事件だ。国鉄での10万人の解雇という圧力を受けていた下山総裁が謎の死を遂げる。その真相は今もって闇の中である。

東京地検主任検事の布施健を主人公に、国鉄労組、共産党ソ連、日本政府、GHQ、アメリカ、スパイ、二重スパイ、右翼の大物、小説家、新聞記者らが織りなす複雑怪奇なストーリーを描いた傑作だ。ソ連説、アメリカ説をめぐって生存者の証言やアメリカ公文書館の文書が明らかになっていく過程は息をつかせない。

朝鮮戦争の勃発をにらんで、当時共産主義勢力の伸長に危機感を抱いたアメリカが、下山総裁殺害の犯人を共産側になすりつけるために仕組んだい陰謀という結論が示唆される。

主任検事の布施健は政治によってこの事件から手を引かされるが、最終的に検事総長にのぼりつめていく。そして田中角栄元首相を逮捕することになる。最後に、これも大きな陰謀の肩を担がされているのかも、という述懐を残して消えていく。NHKスペシャルらしい力作だ。主役の森山未来の演技が印象に残った。

森山未來

NHKスペシャル 未解決事件

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高橋源一郎飛ぶ教室」で須賀敦子について取り上げていた。 

須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日] - 1998年3月20日)は、日本の随筆家・イタリア文学者。18歳で洗礼を受ける。24歳で渡欧、以後日欧を往き来する。32歳ペッピーノと結婚。34歳、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』のイタリア語訳を刊行し、以後日本文学のイタリア語版を刊行していく。谷崎作品のほか、川端康成『山の音』、安部公房砂の女』などをイタリア語翻訳刊行する。長く大学の非常勤講師を務めた後に、53歳、上智大学国語学助教授。60歳、比較文化学部教授。

須賀敦子の名は、ビジネスマン時代に同僚の女性から名前を聞いてはいたが、本を読むまでには至らなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで、須賀自身のエッセイに興味が湧いた。

翻訳を長く仕事とし、生前はエッセイを書いた。翻訳は自分をさらけ出さないで、責任をとらずに文章を書く楽しみを味わえたから須賀は好きであり、いい仕事をし、イタリア共和国カヴァリエール功労賞を受章している。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。また、エッセイでは女流文学賞講談社エッセイスト賞を受賞している。2014年にはイタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

少女時代から「書く人」になりたいと願った。書くということは「息をするのとおなじくらい大切なこと」という須賀は、『ミラノ 霧の風景』から始まる完成度の高いエッセイ群によって、たどってきた時間を生き直したと『須賀敦子を読む』の著者・湯川豊はいう。信仰と文学の一体化を実現する小説の道を発見した須賀敦子が語った「書くべき仕事が見つかった。、、」は、死の直前の1998年2月4日の言葉だ。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(孔子)を彷彿とさせる。孔子の言う道は真理という意味であるが、須賀敦子の場合は自分の進むべき道であったろう。

以上は2018年に私がブログに書いた文章だ。ラジオの刺激を受けて、手元にある『日本文学全集』(池澤夏樹個人編集。全25巻)の「須賀敦子」を手に取った。

池澤の解説によれば、須賀敦子のイタリア語は母語の域に達していた。そして日本人としての主体性を失うことなく、ヨーロッパ思想を最も深いところから身体化していた。母岩としての13年に及ぶイタリアの日々の観察と記憶を精錬して貴金属を抽出し、人物単位でまとめるという仕事をしたのである。

ラテン語の詩を読んだ時に漢文の詩を思いだして、ああ同じだ。という感じを持ちました」

この全集の中に「マルグリット・ユルスナール フランドルのうみ」というエッセイがあった。ユルスナールは大傑作『ハドリニアヌス帝の回想』の著者だ。この本を昨年読んで感銘を受けている。

この本の内容、つまりハドリニアヌス帝が述べる生涯に出会う、多彩な人物、遭遇する事件とそこから引き出す教訓、旅の過程での発見、皇帝であることを活かした猛烈な仕事ぶり、人生についての深い知見、、、など、感銘を受ける箇所が随所にある。この本は手元に置いて、座右の書の一つにすることにしている。

69歳になっていた須賀敦子は「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなものだから」 と死の直前の2月に覚睡しているのだが、3月に帰天する。

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「名言との対話」4月29日。牧伸二「漫談芸は格闘技である」

牧 伸二(まき しんじ、本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月29日)は、日本のウクレレ漫談家。色モノ芸人の集まりである東京演芸協会の会長。

牧伸二は芸能界の「色モノ」ウクレレ漫談の創始者だ。色モノとは非正統という意味である。泉ピン子は弟子にあたる。最初の芸名は漫談の先駆者・徳川夢声一門から出た師匠の牧野周一からつけてもらった「今何度」である。高校卒業後、温度計を製造している東亜計器に勤めていたからだ。

ウクレレをひきながら「あーあやんなちゃった、おどろいた」で始まるやんなっちゃった節は一世を風靡した。今でも私の耳にも残っている。「フランク永井は 低音の魅力 神戸一郎も低音の魅力 水原弘も低音の魅力 漫談の牧伸二 邸能の魅力 ああやんなっちゃった ああ おどろいた」は、1300番以上も続く歌詞の最初である。

1963年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、5秒に1回笑わせるテレビ的な番組となった。この人気番組は1978年まで続き15年にわたり司会をつとめた。牧伸二が偉いのはこのままではまとまった芸ができなくなり芸が枯れると考え、この間もキャバレーなどのステージを増やし芸を磨き続けたことだ。

「つかみ」を盗み、「間」を盗み、達人たちのいい部分を盗み、自分のセンスに加え、長い年月をかけて熟成させる。そうしてやっとオリジナルの格闘スタイルが完成させていった。そして「長い休みを取らず芸をやり続ける」ことで芸をさび付かせず、最高のコンディションを維持していく。これが牧伸二の芸の磨き方だった。

牧伸二ビートたけしを「化け続ける芸人」と呼ぶ。タモリは「緊張感のないお笑いスタイル」でテレビで遊んでいると批評する。ダウンタウンには師匠のいない芸人の欠点の修正法をアドバイスしている。永六輔大橋巨泉はテレビが生んだ「不思議業」と規定する。これが芸の格闘家・牧伸二の確かな目である。

時事ネタを取り入れて漫談を行うには時代の流れに敏感でなければウケナイ。また政治や宗教の風刺、下ネタ、その土地土地に存在するタブーなどはやらない。自分の足で街を歩き、見て、聞いて、観じた「いま」をネタにしなければ、お客さんが笑うような面白いものは出来上がらない。これが牧伸二のポリシーだった。優れた芸人は「時代」を表現し、今を生きる人々の心に共感のさざ波を起こし、笑いをとる。牧伸二は油断できない、隙を見せられない、真剣勝負の格闘技の世界を生き抜いた人だったのだ。

 

 

 

八王子夢美術館「川瀬巴水ーー旅と郷愁の風景」展:出会い・出来事、そして旅。

八王子夢美術館「川瀬巴水ーー旅と郷愁の風景」展。

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高齢の夫婦と中年女性が多かった。巴水展はSOMPO美術館と日本橋丸善の企画展で見てきたが、あたらめて画力を堪能した。

詳しくは別途書くことにするが、今回の訪問の趣意は、彼の人生行路に興味を持ったからだ。

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川瀬巴水(1883-1957)という人物を理解するカギは、出会いと出来事、そして旅である。

絵の道に進むことができたのは、家業が傾いたことにより反対がなくなったことによる。その時、巴水はすでに25歳となっていた。27歳で入門した鏑木清方門下の伊東深水木版画に影響を受けて、木版画に挑戦すること決意する。

その後の2つほど年下の版元・渡邊庄三郎との出会いは大きい。二人は同志となって「新版画」を開拓していく。

そしてもう一つは人生の節目に行った大旅行である。1923年の関東大震災で写生帖などが焼けるという悲運に見舞われる。震災以前は思い切った構図が特長だった。巴水は庄三郎に励まされ、102日間の旅にでる。その後は、鮮やかな色彩と精密な筆致の作品を描いいている。

マンネリ化した作風を突破したのは、朝鮮への旅行だ。初めてみる異国の風景と珍しい風俗を新鮮に感じ、その成果は戦中、戦後に開花する。

戦後は海外から版画に注目が集まるようになり、多忙となる。その間、国内を旅を何度も重ね、日本の原風景を描いた。その旅情あふれる作品は今日でもファンが多い。この展覧会で改めてそのことを確認した。

川瀬巴水は、文部省からの高い評価や、三菱財閥の総帥たちの起用によって、木版画の中心人物になっていく。「昭和の広重」という最大の尊称をうけるまでになる。

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粟津潔 - 作家|大地の芸術祭

「名言との対話」4月28日。粟津潔「ものを創りだすことは、見ることだと思う」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本グラフィックデザイナー

小学校を出ると建具職組合の給仕をしながら夜間の商業学校で学ぶ。神田の古本屋街や自宅に間借りしていた哲学者からも影響を受ける。古い映画雑誌の口絵などを教科書として、「独学」で絵を描き始める。山手線を循環しながら人物描写のスケッチ練習を重ねた。20歳頃には、政治運動に熱中。この間、ベン・シャーンというリトアニア出身のデザイナーの仕事に「出会う」ことでデザインの世界に入る。そして図案家、商業美術家という職人的地位を脱しようとする人々の動きの中に入っていく。

1956年、日活映画宣伝部に入り、職業デザイナーの道を歩む。20代は演劇、映画、そして街頭の芸術であるという考え方でポスターを手がけた。1960年建築家の有志を募り新陳代謝を提案する『メタボリズム』を結成する。その後武蔵野美術大学商業デザイン学科(現・視覚伝達デザイン学科)助教授に就任。「デザイン批評」編集長もつとめた。

粟津潔のデザインのモチーフをあげてみよう。指紋、地図、印鑑、手相図、人相図、肖像写真。亀、花、鳥、。既成のイメージを引用、再編、聖化していく。阿部定の顔、モナ・リザの手、髪、家相図、地相図、方位図、胎児、嬰児、陰毛、人体解剖図、統計、同性愛、、、。死と魔の世界といってもよい。こういった世界は「生」をつきつけてくるという。粟津の方法は、模倣し、取り入れ、表現することだ。ベン・シャーン北斎、ガウディ、白川静などがその対象だった。

粟津は日常の中にデザインがあると考えていた。日常に身を投じながら、創造していくというスタイルを通していく。土着的なモチーフを大事にしたのは、デザイン作品は生活や人間をきりはなせないと考えていたからだ。根源は「生いたち」の中にあるとする。そして「誰かと誰かが「出会う」という事実によって、何か今までになかった世界がつくられます。お互いが未知なるものを秘めながら、必然的であろうと偶然的であろうと、そこから新しい出来事が始まります」。

書籍のデザイン、いわゆるブックデザインにも力を注いでいる。長いあいだ残る作品であり、複合的なデザインが要求される分野だ。内容とデザインを一致させる必要があり、結果としてさまざまの領域の本を読むことになった。他人の思想を生かしながら自己成長を続けていったのだ。粟津潔の仕事は膨大で、かつその都度、大きなインパクトを与えている。注目のデザイナーとして若きデザイン学生たちが杉浦康平粟津潔を挙げていたことからもその影響力がわかる。

私の記憶にあるのは、映画『田園に死す』での詩人役、日本文化デザイン会議の諸ポスター作品、映画『心中天網島美術監督、つくば万国博覧会・テーマ館アートプロデューサーなどだ。作品は国際的にも評価が高い。ニューヨーク近代美術館、アムステルダム現代美術館、オスロ近代美術館ワルシャワ・ポスター美術館、富山県立近代美術館、金沢21世紀美術館などに作品が所蔵されている。

粟津潔の『デザインになにができるか』(企画制作:金沢21世紀美術館)を面白く読んだ。何人か私も縁のある人の名前があった。この中で、「生い立ち」「出会い」「出来事」という言葉がでてくる。私は「人生鳥瞰図」というコンセプトデザインを提唱しているが、この中で人の「価値観」を導くのは、この三者であるとしている。粟津と同じ方向を向いている感じがする。そして粟津は人との「出会い」や、イベントなどの「出来事」によって、学習し、経験し、デザインという仕事を広げ、深めていったとみえる。粟津潔は「独学」と、「ヒトリノヒトガヒトリデタッテイル」と本人がいうように「独歩」の士であった。

「ものを創りだすことは、見ることだと思う」という。見ること、見えてくること、見抜くこと。見て、見て、見つづけることが、やがて創りだすことである。独創の秘訣は見ることにある。

 

 

 

 

 

神保町:シェア書店「ほんまる」見学会。喫茶「襤褸」での懇親。「PASSAGE」2号店尾のカフェで懇談。

神保町のシェア書店「ほんまる」のオープンの日。

橘川さんのグループの見学会。私の本棚も少し入れ替えをする。

左から。田原、仁上、片岡、地蔵、橘川の各氏。撮影者は私。

「ほんまる」の私の棚「アクティブ・シニア革命」。この理念にあう自著を中心に登録して並べた。「イコール」増殖版の知研責任編集の「アクティブ・シニア革命」も並べる予定。

見学の後、昭和の匂いの立ち込める喫茶「襤褸」(ぼろ)で懇談。橘川さんに「人物記念館ミュージアム」の構想図と「アクティブ・シニア」の企画図を手交。

終わって、岡山の白石島で地域協力隊の活動をしている片岡玲実奈さん(25歳)と、シェア書店「PASSAGE」2号店(1号店のビルの3階)でお茶。400人ほどの島での活動の様子を聴く。いくつかアドバイスも。

皆さんとのやり取りの中で京都と白石島に行く案が浮上。

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「名言との対話」4月27日。佐田の山「お前たちはお客さんに『相撲を見せてやっている』と思っていないか。『見ていただいている』という気持ちで土俵に上がりなさい」

佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日)は、長崎・五島列島出身の大相撲力士。第50代横綱。享年79。

1956年初場所初土俵。1961年初場所に新入幕を果たした。入幕3場所目の夏場所、前頭13枚目で12勝3敗を挙げて初優勝。1963年、出羽海親方の長女と結婚。1965年初場所に3度目の優勝を果たし横綱に昇進。大鵬柏戸の両横綱と全盛期が重なった不運があった。私は攻め続ける姿勢が好きだった横綱だ。

大鵬佐田の山戦は常に大相撲となった。佐田の山が突っ張りで激しく攻める。大鵬は下からあてがいながら応戦し、あと一歩のところで組み止められることが多かったが、敢闘精神あふれる相撲をとった。大鵬に善戦する姿は目に焼きついている。ユーチューブで久しぶりに大鵬戦を何番か見てみたが、闘志あふれる姿は爽やかだ。

「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」「力士たるもの、はがき一枚出すにも着物で行け」

1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たしたのだが、3月場所で序盤に3敗を喫するとあっさり現役を引退した。出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだと言われている。

「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と後悔する口ぶりだったが、出羽ノ海部屋を立派にマネジメントした。師匠としては、三重ノ海横綱へ育てたほか、子飼いの弟子からも関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海舞の海などの幕内上位力士を多数育成した。

二子山理事長が停年を迎えた1992年からは日本相撲協会理事長を3期・6年にわたり務めた。現役時代に苦杯をなめた大横綱大鵬が理事長にはなれなかったのとは対照的だ。引退後はライバルを圧倒したのである。一方、一代年寄の栄誉を担った大鵬は、白鵬という不世出の横綱を育てている。

こういうライバル関係で思い出すのは将棋の世界だ。「北海の美剣士」二上達也という天才棋士の時代には、大山康晴という突出した名人がいた。二上は9歳年上の大山康晴とは、通算で45勝116敗と苦杯をなめた。タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩している。天才・二上達也の名前は、メディアでよく見たものだが、大山は自分を脅かすその二上を浮上させないように気合を入れて対局に臨んでいた。

二上の10人の弟子の一人が、2019年に大山康晴の通算勝利数を抜いた天才・羽生善治だ。1989年に弟子の羽生と初めて公式戦で対局し、負けて引退を決意する。二上は大山会長の後を継いで日本将棋連盟会長に就任する。7期14年の長期政権となり、大山の12年を超えた。二上は「最後にようやく勝った」と述懐している。

「見ていただいている」は、力士としての発言ではなく、歴史と伝統ある大相撲を率いる日本相撲協会理事長としての名言である。