母の「万葉歌碑を巡る旅」に付き合う---川崎編

九州から84歳になる母親が上京している。
母は子供たちから手が離れた40代前半から40年ほど短歌をやっていて歌集も何冊か出している。一方で夫が脳溢血で倒れて看病生活が始まった60歳から万葉集をテーマに研究もしていて、その成果として「万葉集の庶民の歌」という本を出版している。現在、郷里中津では弟子に囲まれて忙しくまた愉快な日々を送っている。一介の主婦であるが、テーマを持っていることの強みと継続ということの凄みを感じさせる。高齢時代のモデル的生き方だと思う。

その母のライフワークは「万葉歌碑を巡る旅」である。住んでいる大分県中津周辺、福岡県、瀬戸内海、壱岐対馬など自分一人で行ったり弟子を引き連れて行ったり、また東北や関東では私たち息子や娘を使って旅をする。やはり「文献とフィールドワーク」という研究スタイルである。

今日は川崎を私の運転で回った。
まず、麻生区金程(かなほど)四丁目の金程万葉苑を訪ねる。坂道を登った住宅街の小山が万葉苑だった。万葉集には萩を歌ったものが143首、梅が118首ある。ここには80種類の万葉草木を植えてあり、そのいくつかには縁のある歌を掲げてある。

防人の歌碑が二首石碑に刻まれている。

家ろには葦火炊けども住み好けを筑紫に至りて恋しけもはも 
       橘樹郡の上丁物部真根(たちばなのこほりのかみつよほろのもののべのまね)
  家では葦火をたいているけれど住みよいのだが、防人の任にある筑紫では恋しくなるだろうなあ

草枕旅の丸寝の紐絶えば吾が手と付けろこれの針持し
       妻の椋橋部弟女(くらはしべおとめ)
  つらい旅の丸寝の紐が絶えるなら私の手と思ってこの針を使ってください

関東の武蔵野国から防人に行く夫とその妻が歌った歌である。夫は筑紫ではこの粗末な家も恋しく思い出すだろうなと言い、妻は旅の無事を案じて針を持たせる、万葉の時代も今も変わりはない。
防人は663年に朝鮮の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗れ、攻めてくるのではないかと九州の沿岸に配備された辺境防備の兵である。奈良時代の「万葉集」には防人やその家族の歌が100首以上収録されている。万葉集の編者の大伴旅人は灘波津(大阪)に集結する防人たちが詠んだ歌を集めて、それから選んで万葉集に載せた。

防人には東国の民がなった。西国の人は辛抱がきかず、郷里が近いので逃亡の恐れがあるとのことで、辛抱強い東の民が選ばれた。任期は3年だが往復を入れると4年は家を空けることになる。徒歩や馬で関西で集合し、そこから船で九州まで下るという難儀な旅だったのだ。

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次に、中原区等々力(とどろき)の市民ミュージアムを訪ねて東歌の碑を探す。歌碑は穴が開いた面白い形をしている。

橘の古婆の放髪(はなり)が思ふなむ心愛(うつ)くしいで吾は行かな
   お下げ髪が私を思っているその心がいとしい、さあ会いに行こう