「関東大震災」考

 

 

 

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柳田国男:1923年の関東大震災を契機に本筋の学問のために起つ決意をした。

大谷竹次郎:46才、関東大震災で映画館22館を失う。

大河内伝次郎:26歳の時に関東大震災に遭遇し人生観が変わり宗教書を読み耽る。

岩崎ミュージアム・山手ゲーテ座は、関東大震災で崩壊した。

柳瀬長太郎:関東大震災が発生した。大災害の時は、「物より人の移動が優先する」との直感で大量の在庫を抱える中で震災直後にGMに乗用車2000台を新たに注文、横浜へ出荷し、それが当たって破産寸前から立ち直った。

吉岡弥生:52歳では関東大震災に遭遇し、苦労してつくった第二至誠病院を焼失。

堀文子:5歳で、関東大震災に遭遇。「在るものはなくなる」

萩原朔太郎:37歳、関東大震災。親戚を見舞いに上京する。

会津八一:関東大震災。「うつくしき ほのほ に ふみ はもえはてて ひと むくつけく のこり けらし も」「わが やどの ペルウ の つぼ も くだけたり な が パンテオン つつがあらず や」。

村雨紅:文化楽社刊「文化楽譜 あたらしい童謡」に「夕焼け小やけ」が掲載されるが、関東大震災で楽譜は灰になるが、わずか13部残った。それが歌われていった。

大仏次郎:外務省に勤務。の関東大震災を機に同省を辞し、文筆に専念する。

山本周五郎:小学校卒業後に奉公にでた東京木挽町の質屋「きねや」山本周五郎商店の主人である。店主は奉公人に英語学校、簿記学校に通わせた、徳のある人だった。「真実の父」と呼んだ。筆名の山本周五郎は、この恩人の名前だったから、その恩の深さがわかる。 20歳で関東大震災に遭い、山本商店は焼失。

与謝野晶子文化学院が壊滅したとき、与謝野晶子が進めていた源氏物語の新訳の完成原稿が灰になった。駆けつけた晶子は「十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰」と詠んだ。

矢部良作・1923年の関東大震災で東京の出版社が壊滅して、入荷がなく売る本がなくなったので、いよいよ出版に踏み切ることになった。その第一作が1925年の『文芸辞典』で、「文化の香り高い出版」という志を持つ創元社の基礎ができた。

浜田庄司:知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。

今村明恒:上山明博関東大震災を予知した二人の男」(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2001年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

石垣りん:3歳で関東大震災に遭遇。

東京国立博物館:コンドルが設計した旧本館は関東大震災で被災。表慶館関東大震災でも被害は受けなかった。

関根要太郎:1920年、関根建築事務所創立。 京王閣、多摩聖蹟記念館の建設。1923年の関東大震災でが全焼するも、「信用と同情」により復活する。

関東大震災で「白樺」が廃刊。

山野愛子:14歳、関東大震災

高橋義孝:10歳で関東大震災に遭遇。

金原 まさ子は、関東大震災は12歳で遭遇。

五十嵐健治:関東大震災では大損害を受けた。五十嵐は「人生はひっきょう難関の連続である」と達観している。

赤尾敏:左翼活動家として拘留中に東京の人口の47%が羅災した関東大震災に20代で遭遇。

江上波夫:中学生だった江上は関東大震災で避難した千葉の房総で地震のために隆起した洞窟の堆積物の断面に土器や動物の骨を見つけ、東京帝大の人類学教室に持ちこんだ。このことが学者への道に繋がり、太古の歴史を探究する学問をが天職となっていく。

東郷平八郎:77歳、関東大震災で自宅焼失。

高木東六:関東大震災。横浜の家がつぶれた。一瞬の差で助かる。ヨコハマ・グランドホテルの前に海には見渡す限り裸体の姿態が浮かぶ地獄絵図を見る。

 西丸震哉:珍しい「震哉」という名前は、関東大震災の直後に生まれたための命名

川村勝巳:父が創業した川村インキ製造所は、関東大震災東京大空襲などで壊滅的な打撃を受け、あるいは石油ショックなどで苦境に立ったが、その都度立ち直った。

川口松太郎:関東大震災の後、大阪のプラトン社に勤め、直木三十五と共に働いた。

佐伯旭:シャープペンシルの発明者でシャープの創業者・早川徳次は、関東大震災で2人の子どもを失い、天涯孤独の少年をわが子のように育てた。その佐伯旭は早川に仕え、町工場に過ぎなかった早川金属工業研究所を日本を代表する総合エレクトロニクスメーカーに育てた。

梅屋庄吉関東大震災は避暑のために滞在していた千葉の別荘で遭っている。13日には大久保の留守宅に向かった。「東京市民の惨害は酸鼻の極に達し到底筆紙のよくする所ではない。、、この世ながらの修羅地である。」「最近の鮮人騒ぎの〇〇に顧みるときは、負けいくさに対しては、国民は必ずしも頼もしき国民ではないとの観念を一般外人に抱かしむるに至ったことを残念に思ふものである。、、朝鮮人騒ぎの経験は日本国民性の最大欠点を遺憾なくばく露したるものとして切に国民的反省を促さんとするものである。」

山本周五郎:丁稚奉公をした「きねや」の主人で父と仰ぐ山本周五郎(洒落斎)の名前を、ペンネームにしたという逸話があるからだ。物心両面で若き日を支えてくれ、「今でも本当の父と思ってゐます」と遺族に書いているように、実の父親以上に敬愛していたのだ。そのきねやは1923年の関東大震災で焼失し休業となる。このとき、文筆で身を立てようと決心する。

岡田紅陽:1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影。

土屋文明:33歳、関東大震災

今和次郎:日本の田舎を対象とした研究活動をしており、都会は大きすぎて手に負えなかったのだが、一面焼け野原と化した東京をみて研究対象を都市に変えるきっかけとなった。原始的な状態になってしまった東京の復興を細かく記録することにしたのである。人々の生活や風俗を克明に記録していく。これがきっかけとなって「考現学」が形をなしていく。

 大杉栄関東大震災が発生したとき「地震のおかげで原稿の催促をされなくなって助かったよ」とのんびり構えていたが、自宅で甘粕憲兵大尉らにつかまる、その夜のうちに惨殺されて井戸に放り込まれた。

吉岡弥生:52歳では関東大震災に遭遇し、苦労してつくった第二至誠病院を焼失している。殊に震災当時のことは忘れようにも忘れられず、、、いつまでもいつまでもぞっとする思いがいたします。

与謝野晶子:ライフワークは、源氏物語の新訳を作ることでしたが、40代のときに書き終えたにもかかわらず、関東大震災ですべて燃えてしまっています。がっくりときますよね。気を取り直して、60歳で完成します。

岸田劉生関東大震災の様子の記述も生々しい。「ああ何たる事かと胸もはりさけるようである。家はもうその時はひどくかしいでしまった。もう鵠沼にもいられないと思ったが、これでは東京も駄目か、、、、。つなみの不安でともかくも海岸から遠いところへ逃れようと、、、」 

吉村昭:『関東大震災

横浜復興会の原三渓会長:「外形は焼き尽くした。しかし本体は残っている。本体とは市民とその精神だ」と述べ、横浜は一気に復興に向かった。

奥村土牛:34歳、関東大震災で自宅消失。

 湯島聖堂:1923年の関東大震災で焼失。 1935年に鉄筋コンクリートで再建し今日に至っている。

 

1923年に発生した関東大震災後の震災手形をめぐって銀行の取り付け騒ぎが起こり、銀行の休業が続出するなど、金融恐慌が起こる。鈴木商店不良債権救済の緊急勅令が否決され、若槻内閣は総辞職に追い込まれた。 後を襲った立憲政友会田中義一内閣はモラトリアム(支払猶予令)等によって金融恐慌を乗り切った。

 

宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を観た。
原作・脚本・監督の宮崎駿によればこの映画の絵コンテを描き終わったのは、東日本大震災の前日だったとのことだ。
関東大震災から始まって、第二次大戦での敗北に終わる宮崎版昭和史は、3・11とも関係していたのだ。

 

「藤山雷太君像」と書かれた銅像の碑文は藤山雷太(1863−1938年)の撰。「藤山工業図書館由来記」。「50余年工業に尽くしてきた。銀行・鉄道・保険・信託などの事業もやったが、主として芝浦製作所王子製紙、大日本精糖という工業会社を運営してきた。工業報国の志はこれでやむものではない。工業図書館を建設する計画を大正4年に作ったが、欧州の戦乱、関東大震災などのため遅れ、昭和2年に落成した。」という内容だ。

 

実質的な二代目・山口正造(1882-1944年)は、日光の金谷ホテルの次男で仙之助の長女孝子の婿養子であるが、富士屋ホテルを大発展させる。関東大震災による大打撃、妻との離婚を乗り越え、ホテルマンの育成のための富士屋ホテルレーニングスクールも設置するなど先見の明があった。

 

田端文士村記念館(北区)。明治、大正、昭和にかけて、多くの文士や芸術家が田端に住んだ。東京芸大のある上野から台地続き。田端文士村と呼ばれた。小杉放菴板谷波山、吉田三郎、香取秀真、、。芥川龍之介室生犀星菊池寛、掘辰夫、萩原朔太郎土屋文明、野口雨情、サトウハチロー竹久夢二岩田専太郎田河水泡、、。関東大震災後は再開したが、昭和20年の東京大空襲で田端文士村も終焉を迎えた。

 

写真家の岡田紅陽。関東大震災の惨状を撮りまくり写真集や絵はがきを出すようになったり、富士山の写真が評判を呼んだりするようになり、写真家としての道を歩み始める。

 

斎藤茂吉(1882年(明治15年41歳、実父死去、関東大震災。42歳、医学博士、青山脳病院全焼。44歳、世田谷区松原に病院を再開、アララギ編集発行人。

 

渋谷区立松涛(しょうとう)美術館がある。この一帯は鍋島家が屋敷として持っていたが、関東大震災の後、松涛園と名付けて郊外住宅地となった。鍋島公園もある。

 

竹久夢二(1884-1934年)1923年に旗上げを計画した「どんたく図案社」は、図案、文案、美術装飾のすべて引き受けようとしていた。ポスター、レッテル、包装、チラシ、カード、新聞・雑誌広告、看板、飾窓、舞台装置などを行うつもりだった。しかしこの計画はこの年の9月1日の関東大震災で挫折する。この震災時には、連日焼跡をスケッチしている。

 

駒井哲郎(1920-1976)裕福な家に生まれたが、1923年の関東大震災に遭遇するが危うく難を逃れ一家で日本橋から五反田に転居している。

 

〇3・11の東日本大震災(M9.0)から1年以上。地震津波原発事故・世界観が一変。死者行方不明2万人

◎1923年(90年前)の関東大震災相模湾)。死者10万人M・7.9:犠牲大。 その後の人生に大きな影響。
 〇83歳の渋沢栄一:日本資本主義の父・500社。「老人は、こういう時にいささかなりとも働いてこそ、、」。 民間組織をつくり救済と復興に全力
 〇45歳の与謝野晶子歌人「乱れ髪」。源氏物語の現代語訳4000枚が消失。十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰。 60歳で完成!
 〇4歳の堀文子―日本画家・93歳(1918年生)存命中。婆やが総大将で乗り切った。 婆やは1855年安政地震の経験者! 1854年東海地震(M8.4)、32時間後南海地震(M8.4)。価値観!堀文子-「あるものは滅びる-この世は無常だ」

寺田寅彦は、1923年の関東大震災以後は、東大の地震研究所に移って地震の研究に没頭した。寺田もまた関東大震災によってその後の生き方に影響を受けた一人だった。1935年頃にはこの本に収められている「天災と国防」「日本人の自然観」などのエッセイを書いている。

 

1923年の関東大震災で以後、鉄筋コンクリートの普及が行われたのだが、寺川与助はその前年に日本最初の鉄筋コンクリート造りの長崎神学校を建設している。与助は独学で勉強していた。五島に生まれた鉄川与助(1879年ー1976年)は、大工棟梁の家系に生まれ、生涯に100ほどの建築物を設計している。そのうち教会は30棟に及ぶ・

 

鳥居龍蔵(1870-1951年)日本における人類学・考古学・民俗学の先駆者東大人類学教室で博士号を取り助教授にも昇進するが、54歳で辞職しきみ子夫人ら家族とともに鳥居人類学研究所を設立する。1923年の関東大震災を鳥居は53歳で迎えている。鳥居は人類学教室員を率いて、震災跡を探査撮影し、考古学の資料に供している。東京市は火災のため焼失し、昔の武蔵野に戻り、鎌倉時代の風景のようであった。多くの古墳が現れたきたので、学問上にはすこぶるいい調査の時期となったようだ。

 

1923年の関東大震災は様々な人の人生を変えていく。今和次郎の場合は日本の田舎を対象とした研究活動をしており、都会は大きすぎて手に負えなかったのだが、一面焼け野原と化した東京をみて研究対象を都市に変えるきっかけとなった。原始的な状態になってしまった東京の復興を細かく記録することにしたのである。人々の生活や風俗を克明に記録していく。これがきっかけとなって「考現学」が形をなしていく。

 

1923年の関東大震災で横浜は10万戸のうち80%以上が被害。22000人の死。港の復旧に2年。1935年に復興記念横浜大博覧会を開催。

 

堀文子。四歳の時に体験した関東大震災の影響。、、私の家に年をとった婆やがいて、驚くことに安政の大地震を知っていた。でもその人が総大将になって、、、。その時、「あるものは滅びる」って声が電流のように全身を貫いた。幼い心が悟りを受けたのです。

 

萩原朔太郎。37歳、関東大震災。親戚を見舞いに上京する。

 

梅屋庄吉(1868-1934年)は関東大震災は避暑のために滞在していた千葉の別荘で遭っている。13日には大久保の留守宅に向かった。「東京市民の惨害は酸鼻の極に達し到底筆紙のよくする所ではない。、、この世ながらの修羅地である。」「最近の鮮人騒ぎの〇〇に顧みるときは、負けいくさに対しては、国民は必ずしも頼もしき国民ではないとの観念を一般外人に抱かしむるに至ったことを残念に思ふものである。、、朝鮮人騒ぎの経験は日本国民性の最大欠点を遺憾なくばく露したるものとして切に国民的反省を促さんとするものである。」

 

政友会と憲政会がもめている最中に、加藤友三郎首相が死去し、首相不在時であった1923年に関東大震災が発生した。

 

関東大震災と牧水。震災を沼津で出会う。貸家から出て行かざるを得なくなり、結果として自宅を建築せざるを得なくなった。この家を根城に牧水が活動する。借金の返済もあり、牧水は全国の揮毫の旅に出る。そして体を壊す。

 

田山花袋「東京震災記」(河出文庫「本当の光景や感じや気分」を「出来るだけ」書いてみようとしたものだ。花袋は、被災地を訪れ、被災者の話を聞き、時折自分の感想を述べる。この書は、当時の第一級の文人がみた震災の姿、空気をよく描写しており、聞き込んだエピソードも含めて、会話や語りで震災に遭った人たちの口ぶりを伝えているので、当時の様子が実感を伴ってわかる感じがある。花袋は一カ月半以上の歳月が経った段階で、筆をようやく執っている。大震災に出逢った小説家が、為すべき仕事をしたということだろうか。尊い仕事となって後世に残る仕事となった。

 

蕗谷紅児(1898-1979年)。関東大震災の後、次々に雑誌の震災特集を手がけている。「令女界」の関東大震災記念号では自身の「転げある記」という文章も掲載している。震災画集は4集手がけた。被災した人々の様子を繊細なペン画で仕上げている。1集では「生き残れる者の嘆き」「絶望」「落ち行く人々の群」「落陽」。2州では「戒厳令」「焼跡の日」「たずね人」「家なき人々」。カラーの4集では、「建設を描く」「建設の力」「復興の女神」などを描いていて、発災直後から、復興へ向けての様子がよくわかる。

 

吉川英治。30歳、東京毎夕新聞営業局長に推され家庭部に勤務する。翌年処女作「親鸞」が単行本になる。その9月に関東大震災にて社屋焼失。社業再開の見込みがたたず、全社員解散。やはり関東大震災は、多くの人の人生に大きな影響を与えている。

 

柳田国男は、東大法科を出て農商務省農務局に入り、全国の農山村を歩く。貴族院書記官長を44歳で辞任。1923年の関東大震災を契機に本筋の学問のために起つ決意をした。

 

池波正太郎。関東大震災の年に生まれ、小学校卒業後すぐに就職。勤め先を転々としつつ、芝居見物を楽しみ、美食を覚え、吉原にも通う早熟な十代を過ごす。戦時中は旋盤工として働き、やがて海兵団に入団。戦後、脚本家への道を歩み始める。

 

原敬何といっても19才から65歳までの日記83冊の「原敬日記」の存在が凄い。
遺書には「余の日記は、数十年後はとにかくなれども、当分世間に出すべからず、余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」とあった。このため本箱ごと盛岡に送られ、保存されていたため、関東大震災にも東京大空襲にもあわずに後世に遺すことができた。この日記は没後30年たった1950年に公開されて、出版された。

 

三渓 「横浜の本体とは市民の精神であります」。関東大震災で横浜も大打撃を受けた。横浜復興会の会長に推された原三渓は、横浜の外形が焼き尽くされたに過ぎない、横浜は厳然となお存在している、横浜を支えてきた人々が存在するではないか、そして横浜の本体は市民の精神である、と述べた。この発言によって横浜の復興という志のベクトルの方向が決まった。優れたリーダーの発する言葉は、時代を変える。

 

吉村昭。1977年刊行の文春文庫「関東大震災」の新装版である。全東京市の死者の55%強(3万8千人)を数えた本所横綱町にあった被服廠跡の大惨事は詳細を極めている。この地には現在は復興記念館が建っている。

 

死者99,331人。負傷者103,724人。行方不明43,476人。家屋全焼128,266戸。家屋流出868戸。家屋消失447,128戸。東京府の死者は68,215人。神奈川県の死者は29.065人。千葉県の死者は1,335人。大雑把にいって、10万人以上の死者、60億円の財産が灰燼に帰した。元陸軍省の被服廠跡を公園にした両国の横綱公園は避難の場所だったため、大地震後数万人が集まった。そこを火炎の大旋風が襲い、大多数の3万8千人が累々と重なり合い、抱き合って黒焦げになった。そのためこの地が慰霊の中心になり、葬儀場となった。

 

関東大震災24本が脱線転覆)

 

関東大震災。6000人の朝鮮人、400人の中国人の虐殺。

 

「弁護士 布施辰治」。関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件で政府を徹底して糾弾。

 

ホテルオークラ本館の前に中国風の「大倉集古館」が建っている。大倉喜八郎(1837-1928年)が創立した美術館。1917年に誕生した我が国初の私立美術館である。関東大震災で一部消失したが、倉庫に残った所蔵品を中心に1928年に再び開館。長男・喜七郎(1882-1963年)が喜八郎の遺志をを継ぎ近代絵画の充実をはかった。所蔵品は日本をはじめ東洋各地の絵画、彫刻、書跡、工芸など広範にわたる。

 

武者小路実篤。26歳では文学同人誌「白樺」を志賀直哉らと創刊している。「白樺」は、学習院中等科での実篤(当時17歳)と志賀直哉(当時19歳)の出会いとそこから生れた十四日会、そして明治43年に創刊された白樺を紹介している。こういう雑誌は長く続かないことが多いのだが、大正12年関東大震災まで実に160号を数えるから、その影響は大きかった。

 

村雨紅。26歳で結婚。文化楽社刊「文化楽譜 あたらしい童謡」に「夕焼け小やけ」が掲載されるが、関東大震災で楽譜は灰になるが、わずか13部残る。それが歌い広げられていった。33歳、春秋社「世界音楽全集」に日本の童謡集に「ねんねのお里」「夕焼け小やけ」が掲載。以後、高校教師を続けながら、童謡の作詞にまい進する。59歳のときに、生誕地に夕焼け小焼けの碑が建つ。夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手手つないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょう。子供が帰った後からは まるい大きなお月さま 小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星。

 

賀川豊彦(1888-1960年)は、最初に観たビデオによると、日本生活協同組合の初代理事長だった。1923年の関東大震災の救援活動では、セツルメントから江東消費組合を結成。関東大震災の救援活動で目の悪化が進み、それ以降はほとんど口述に頼った。

 

狛江の万葉歌碑。名勝保存に志のある渋沢栄一に再建の協力を依頼することとして大正11年12月に玉川史蹟猶興会を結成する。顧問となった子爵渋沢栄一は、総費用を5000円と見積もり、本人が2500円、財界人から2150円(大倉喜八郎服部金太郎和田豊治、安田善治郎、成瀬正恭、、、)、そして総額は6014円になた。そして名石・小松石に羽場順承の持つ拓本の文字を刻み大正12年8月に大方完成した。秋には除幕式を行う予定だったが、関東大震災で歌碑は倒れ、除幕式は延期された。「多摩川に曝す手作りさらさらに
 何そこの児のここだ愛しき(万葉集巻十四)」

 

岩崎久弥。旧岩崎邸は、洋館、和館、撞球(ビリヤード)室、庭園で構成されている重要文化財である。関東大震災が起こったとき、久弥は邸宅を大開放し2000人以上の難民を1ヶ月以上にわたって世話をしている。久弥は地味で堅実な人物であった。

 

馬込文士村とも呼ばれている。「馬込放送局」と情報発信力の高さをうたわれた尾崎士郎宇野千代夫妻がこの地に居を構えた影響を受けて、関東大震災後に、多くの文人が集まっている。

 

与謝野晶子。1923年の関東大震災によって原稿が焼失するなどの悲劇があり、乗り越えている。「 十余年われが書きためし草稿の 跡あるべきや学院の灰

 

大河内伝次郎。文学に励み雑誌に投稿を続ける。26歳の時に関東大震災に遭遇し人生観が変わり宗教書を読み耽る。28歳、新国劇俳優養成所に入り脚本を書くが、師師の倉橋の夫人に「独特の発生」を面白がられ俳優に転向する。

 

 

 

 

 

 

 

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夜は大学院FD勉強会(ZOOM)。高田貴久先生「課題と問題」。

問題は発生型(原因追及で再発防止する)、課題は設定型(あるべき姿に照らし共通認識をえる)。

課題設定(WHAT)、所在・どこ(WHERE)、原因(Why)、対策(How)の流れ。

リーダーはHowを指示しない。問題解決の手順を共通の認識にする。

P(問題解決:What/Where/Why/How)。Do(対策)。C(評価)。A(定着)。

職場、事業、経営。自分のテーマ。

(図解思考はすべてをカバー。クレーム対応から課題の設定(JALのサービス改革)。戦略図は課題設定(宮城大・多摩大戦略図)。共通認識の武器が図解。私の仕事図・人生鳥瞰図の有用性。私の考えは、改善、企画、構想だ)

 

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「名言との対話」9月1日。石井ふく子「あせらず、おこらず、あきらめず」

石井 ふく子(いしい ふくこ、1926年9月1日 - )は、日本テレビプロデューサー、舞台演出家。

東京下谷の大正15年9月1日生まれ。この日生まれは「天一天上」といわれ、人に恵まれて育つという運勢である。結果をみると、そのとおりになっている感じもする。

『あせらず。おこらず、あきらめず』(KADOKAWA)を読んだ。2016年刊行で、まもなく卒寿になるという年齢だから、2021年の今日はそれから5年経っている。
石井ふく子は、テレビのホームドラマの名プロデューサーとして有名である。

東芝日曜劇場」、「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「女たちの忠臣蔵」「「ありがとう」「渡る世間は鬼ばかり」「「母の贈り物」「居酒屋もへじ」など枚挙にいとまがない。この本を書いた90歳の時点で3400本以上の作品がある。名作だらけだ。

1968年頃から手がけた舞台演出では、「唐人お吉」「妻たちの鹿鳴館」「夢千代日記」「忠臣蔵」「おしん」「春の雪」「春日局」「かあちゃん」など多数の舞台を演出した。舞台演出の仕事のきっかけは父から、そして素養は母から受け継いだものだ。

菊田一夫特別賞など多くの賞をもらっており、1989年には紫綬褒章を受賞しているが、極め付きは、長く仕事をしたことで、ギネス世界最高記録の持っていることだろう。1985年にテレビ番組最多プロデュース、2014年に世界最高齢現役テレビプロデューサー、2015年に最多舞台演出本数と3度にわたるギネス認定を受けている。世界記録なのだ。長年にわたり倦まず弛まず仕事を続けることの凄みを教えてくれる。

私生活では青山のマンション暮らし。TBSに近く、広くはないが管理と警備がいい。ロビングの窓が広く部屋が明るい。奈良岡朋子京マチ子若尾文子も同じマンション。独身の一人暮らしを気に入っている。

この本が出た時点ではまもなく卒寿だが、「3年先まで予定が入っている」とのことである。プロデューサーはいい作品を入手するために、「先手を打つことが大事だ」。またオリジナル作品の場合、「ヒントは日常の些細なところに転がっている」という。

「ひとつの作品のために人が集まりみんなでよりよいものを目指して一喜一憂しながら努力し、やがて終りの日が訪れる」。その繰り返しで、本当の終りはやってこない。新たな出会い、新たな企画、新しいスタートという循環の中にいるのだ。

石井ふく子流キーワードを挙げてみよう。日々をよりよく過ごすヒントである。

「自分スタイル」「常に新たな気持ち」「もう時間がないではなく、まだ時間がある」「ひとつひとつ対処していけば、いつか必ず終りをやってきます」「頼まれたことはすぐやる」、、、。取り上げたい言葉はいくつかあるが、今や信条となり本のタイトルにもしている「あせらず、おこらず、あきらめず」が石井ふく子の仕事ぶりをあらわす言葉として採ることにしよう。

この本の最後に、「私はこれからも、全身全霊をかけて心温まるドラマづくりに励んで参ろう」という決意が述べられている。意外な「全身全霊」という言葉に身が引き締まる思いがした。本日手にした『関東の万葉歌碑』という本の著者の長島喜平は、70歳から10年の歳月をかけて126基の歌碑を収録している。「精魂をこめて書きました」とつづっていて感銘を受けた。

ドラマづくりも、万葉歌碑の集録も、フィールドワークを土台にしたライフワークだ。「全身全霊」「精魂」という大仰な言葉も、彼らの残したものをみると納得させられる。

石井ふく子という存在の面白さは、自分が手にしたテーマを「あせらず、おこらず、あきらめず」に淡々と続けているように見え、外からみると春風の趣があるが、やはり厳しい姿勢の人なのだ。「春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら慎む」という佐藤一斎の言葉を思い出した。「春の風のように暖かい心で他人に接し、秋の霜のように厳しい気持ちで自らを律する」という意味である。私の人生6期説でみると石井ふく子は、青年期、壮年期、実年期、熟年期を過ぎて、いよいよ本日から95歳からの「大人期」に入る。どのように過ごしていくだろうか。