世田谷美術館の「グランマ・モーゼス展--素敵な100年人生」展ーー農業と家族を中心とする地域コミュニティの大事さと100年人生の過ごし方を教えてくれる。

世田谷美術館の「グランマ・モーゼス展」(11月28日訪問)。

1860生まれ、1961年死去。101歳のセンテナリアンである。「グランマ・モーゼス」は潜在的な能力と豊かに年を重ねることの代名詞としてアメリカで日常的に使われる言葉になった人だ。

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アメリカニューヨーク州、ニューイングランドの農婦。12歳で奉公。27歳で同僚と結婚。子どもは10人設ける。77歳という70代後半から趣味で絵を描くようになる。80歳から個展を開催し、101歳まで画家として活動する。

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自給自足の田舎暮らしをしながら、晩年から独学で趣味として絵を描き続けた遅咲きの女性である。自然とともに人々がのびのびと暮らす幸せな様子は、多くの人の心に響いたのだ。95歳頃からは誕生日がニュースで流れるようになる。

タイム誌(1953年12月28日号)の表紙を飾る。ライフ誌の特集記事(1960年)。100歳の誕生日にはアイゼンハワー大統領からお祝いの電報をもらう。

101年間というのはリンカーン大統領就任からケネディ大統領就任までの時間である。日本では桜田門外の変から日米安保改定までとなる。人生100年とはこういうことだと改めて感じた。

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以下、グランマ・モーゼスの言葉から。

  • 「人生は自分で作りあげるもの。これまでも、これからも」
  • 「私は常に自立していたかった。じっと座って、トーマス(夫)がお金を渡してくれるという考えには耐えられなかったわ」
  • 「私たちは、いつも悪いことも良いことも受け入れなければなりませんでした」
  • 「私たちは本当に進歩しているのだろうか、、素敵な幸せな暮らしでした。人々はそれぞれ今より生活をエンジョイし、少なくとも今の人々より幸せに思われました」

95歳時のエッセイ「仕事と幸せ」では、「どんな仕事でも、幸せを増やしてくれるものです」「幸せでいるための時間をとっていない」「昔は、こんなにせかせかしていなかった。今よりみんなもっと人生に満足していました」と述べている。

「農場では、毎日ほとんど変わりばえしません」「季節だけが移ろっていくのです」

素朴画家である。プリミティブ・アート。ヘタウマの芸術。

日本では『モーゼスおばあさんの絵の世界ー田園生活100年の自伝』が出版されている。鈴木治雄(昭和電工会長)が1981年以降コレクターとなっている。1987年以降、伊勢丹美術館(東京)、大丸ミュージアム(梅田)、Bunkamuraザ・ミュージアム高松市美術館などで展覧会が行われている。今年2021年に「グランマ・モーゼス展ーー素敵な100年人生」が開催されている。

グランマ・モーゼスは、農業と家族を中心とする地域コミュニティの大事さと、100年人生の過ごし方を教えてくれる。

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今日のヒント 『致知』1月号。渡辺利夫

「公に生きる、自分以外の何者かのために生きることが、私たちを名状しがたい誇りと幸福に導びいてくれます」

「日本人自身が日本を新たに再発見していかなくてはならない、そういう旅をこれから始めなければならない」

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午前は立川:体の手入れ。福島さんと懇談。

夜:デメケン。昨日「名言との対話」で書いたフジ子・へミングのCD「La Campanella」をじっくりと聴く。

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「名言との対話」12月6日。キダ・タロー「仕事の依頼が来ると嫌で仕方ないんですが、いざ書き始めると楽しくて。まだまだ曲を書きたい。良い作曲をしたいですね」

キダ・タロー(本名:木田 太良(きだ たろう)、1930年12月6日 - )は、日本の作曲家、ピアニスト、タレント、ラジオパーソナリティ

兵庫県宝塚市生まれ。主に放送番組のテーマやCMソング、校歌、社歌、歌謡曲などの作曲活動を展開している。「プロポーズ大作戦」「ラブアタック!」(朝日放送)、「バラエティー生活笑百科」(NHK総合)などのテレビ番組。「アサヒペン」や「出前一丁」「チキンラーメン」(日清食品)などのCMソング。関西人なら誰もが一度は口ずさんだことがあるメロディーを世に送り出した。代表作のひとつは「かに道楽」(歌はデューク・エイセス)だ。関西では「浪花のモーツァルト」の異名を持っている。

若い頃に「後にも先にも、これを超える衝撃はありませんでした」と振り返るジャズとの出合いがあり、ジャズバンドでの演奏の道に入る。

「ジャズバンドでピアノを演奏すること自体が作曲作業なんです」。楽曲はコード(和音)とメロディーとリズムでできており、それにアドリブでメロディーを乗せる。だから演奏中自然に作曲してることになるのだそうだ。そして「歌詞が〝こう曲を書いてくれ〟と私にいうてくれるんですわ。素晴らしい歌詞を頂くと、それに導かれるんです」というプロセスで作曲が進行する。

ジャズピアノの楽譜には、コード進行とリズムのほか、各セクション(楽器)の動きが書いてあり、楽曲の構造が分かる。このようにして編曲を学んだ。

このように作曲と編曲は実地で身につけていったのだが、膨大な量の曲をつくったいずみ・たくと同様に独学であることが強みになっている。数えたことはないが、3千曲から5千曲を世に送り出したという。2009年には5000曲と言っている。一流の作曲家と言われるには2000曲は必要という持論もあるから、一流を自認しているのだろう。

一方でキダ・タローは対談の名手としても知られている。『キダ・タロー対談ーひと・こころ・いのち これが私の生きる道 26人からのメッセージ』(本願寺出版社)を読んだ。浄土真宗信者向けの月刊誌『大乗』に連載した対談集だ。2年間の予定が、4年間にのびたというから好評だったのだろう。「はじめに」では、意外なことに「小心者」であり、冷や汗の連続であると述懐しているが、本当かどうか、、、。

津本陽「みんな死を忘れて楽しんでいます」。大平光代「生かさせていただけるこの一日にすべてを」。上山善紀「ありがとうございますと生ききる人生」。日下田紀三「いのち伝え、育てる、いのちのしくみ」。君原健二「歩く。花の美しさと、いのちに気づく」。佐々木洋「ゆっくりで間に合うか、この地球」。内田至「二億年のいのちのナゾにせまる」。大村崑「いまやから、オニにならんと」、、、。

対談を読むと楽しそうに語り合っているが、「楽しい経験もいいけど涙が出るほどつらい体験こそ貴重。そういうあちこちで積んだ経験いうのがいざというときやどうにもならんほど苦しいときに役に立つんですわ」という言葉もある。独特の笑顔の裏には苦労がはりついているのだ。

90歳を迎える直前のインタビューでは、「仕事の依頼が来ると嫌で仕方ないんですが、いざ書き始めると楽しくて。まだまだ曲を書きたい。良い作曲をしたいですね」と意欲的だ。作曲数はどこまでのびるだろうか。キダ・タローは本日で91歳。