ユーチューブ『遅咲き偉人伝』第2弾ーー松本清張。永田耕衣。

ユーチューブ『遅咲き偉人伝』(深呼吸放送局)第1回の後半です。

遅咲きの偉人として、小説家の松本清張と、俳人永田耕衣を取り上げました。

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松本清張は高等小学校卒。職を転々。44歳という遅いデビューにも関わらず、700冊の著書と全集66巻という膨大な作品を書いた国民作家。

永田耕衣は、工業高校卒後、工場勤務。55歳で退職。その後、97歳で亡くなるまで42年間の俳句生活で、日本を代表する俳人となった。

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0.9万歩。

ステーキ宮

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「名言との対話」5月19日。薄田泣菫「長い文章なら、どんな下手でも書くことができる。文章を短く切り詰める事が出来るようになったら、その人は一ぱしの書き手である」

薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年明治10年)5月19日 - 1945年昭和20年)10月9日)は、日本詩人随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。

岡山中学中退後上京。第1詩集「暮笛集」を刊行。「ゆく春」「白羊宮」などにより明治30年代の代表的詩人として蒲原有明とならび称された。1912年大阪毎日新聞社に入社。学芸部部長時代には、芥川龍之介を社員として招聘して発表場所を与えている。岡山の立派な記念館にはその時代の原稿依頼や就職の世話などをした手紙が展示されていて、私も見たことがある。与謝野鉄幹・晶子の子供の名前もつけているなど、交遊が広いことに感心した。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いたている。象徴派詩人の代表であったが、新聞社時代からは、随筆に転向している。

新学社近代浪漫派文庫『蒲原有明 薄田泣菫』を読んだ。薄田泣菫の「森林太郎氏」という小文が目についた。鴎外が亡くなったときに書いた、蒲原有明と岩野泡鳴の3人で森鴎外の団子坂の自宅への訪問の思い出である。「顔つきは案外若く、利かぬ気が眼から鼻のあたりにかけて尖って見えた」「元気な軍人らしいところが交って、私達は自分と同じ年配の人と話をしてゐるやうな気持ちになった」「森氏はかう言って声高く笑った。その声には、どこか馬の上で笑ふやうな軍人式なところがあった」と観察している。3人とも30代に入ったばかりで、鴎外は40代の半ば頃だろう。

薄田泣菫 名作全集: 日本文学作品全集(電子版)』 (薄田泣菫文学研究会)を読んだ。この中の「茶話」には過去の偉人、当時の有名人が数多く登場する。菅原道真、六代目菊五郎良寛大隈重信、、。こういった一廉の人物の噂話、失敗談、クセや見栄を面白がって描いている。、泣菫の人物眼はさえていて、谷沢永一が、渡部昇一との対談本「人生後半に読むべき本」の中で紹介している。詩人として有名な泣菫であるが、エッセイもいいのである。私も読んで楽しんだ。以下、少しピックアップ。

  • 腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。
  • 世の中に崇拝者程うるさいものは無い。 そのなかで別けてうるさいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者に有つたのは一番事が面倒
  • この伝で今の名士の墓を定めたら、大隈伯のはメガホン型、原敬のは巡査のサアベル型、山本権兵衛のは英蘭銀行の証券型、尾崎学堂のはテオドラ夫人
  • 詩人の蒲原有明氏は、、、。「僕は景色を見るばかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
  •  野口米次郎氏は「蟇を食べるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面鳥を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つて
  • 画家では竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所
  • 森田草平氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でも、、、、天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人
  • 新渡戸博士が自分の近眼と性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔して居るのは善い事だが、世の中には近眼者といつても沢山居る事だし、その近眼者が皆が皆まで
  • トルストイは『芸術とは何ぞや』といふ書物のなかで仏蘭西の新しい詩人を攻撃しようとして、作家連の詩集から例証をあげるのに奇抜な方法を選んだ。それはいろんな詩集から廿八頁目の詩を引つこ抜いて来るといふ方法
  • 画家といふものは、何うかすると他所の葡萄を欲しがつたり、相弟子の女画家に惚れた
  • 「君が自分で説明したら可いぢやないか、君は何時だつたか、青銅で馬の模型を作りかけて鋳上げる事もしないで、打捨り放しにしたぢやないか、いい恥晒しだね。」と吐き出すやうに言つた。
  • レオナルドはそれを聞いて海老のやうに真紅になつて了つたさう
  • 謹んで世上の女に告げる。男は皆かうしたものだ。彼は「女」の鑑定家としては、与みし易いやくざ者で
  • 女は筋肉の逞い男の腕の上でのみ睡る事が出来る。女は狡猾な鳩のやうなもので、男がうつかり掌面を弛めると、直ぐぱた/\と
  • 早稲田派の文士は、絶えず生の充実をはかつてゐる。そのなかでも相馬御風君などは、書いてゐる論文でみると、散髪をする閑もない程、人生の事ばかり思つてゐるらしい。ほんとに殊勝な事
  • 坪内逍遙博士は名高い洋服嫌ひで、洋服と言つてはフロツクコートが一着しか
    犬養木堂の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益
  • そして日本人の会合へ出ると、何時でも、「富士の山のやうにあれ。」と云ふ事に定めてゐる
  • 女といふものは、十人が十人、先づチヨコレエトを喰べて、それから徐々男に惚れるもの
  • 池大雅が真葛原の住居には、別に玄関といつて室も無かつたので、軒先に暖簾を吊して、例の大雅一流の達者な字で「玄関」、、、上田秋成南禅寺常林庵の小家にも、入り口に暖簾をかけて「鶉屋」とたつた二字が認めて
  • 岡松参太郎博士の言葉によると、満洲に居る時は、頭がはつきりと澄んで細かい考へ事や計算やも極楽に出来るが、台湾へ出掛けると、頭がぼんやりと草臥れてしまつて、考へ事はとんちんかんに、計算は間違ひだらけになる。台湾に三日も過ごすと、満洲に三十日も居た程疲れが出るさう
  • ラフエエル前派の詩人ロゼツチが自分の詩集を、亡き妻の棺に納めて葬つたのを、後になつて友達の勧めに随ひ、妻の墓を掘かへして、詩集をとり返したのは名高い話
  • ニイチエは女を訪問する時には鞭を忘れるなといつた
  • 栂尾の明恵上人は雑炊の非常に好きな人
  • 男にせよ、女にせよ、連添に死別れてから、四十年も生き延びてゐると、色々な面白い利益になる事を覚えるもの
  • 幸田露伴氏が今のやうに文字の考証や、お説教やに浮身を窶さない頃、春になると、饗庭篁村氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐ
  • 大学教授には二種あつて、一種は芸者を女中のやうに「お前」と呼びつけ、一種はお嬢さんのやうに「あなた」と言つてゐる。博士は後者の方で、どの芸者をも「あなた」呼ばはりをするので、芸者の方でも「敏さん/\」と近しくなつてゐ
  • 岩野泡鳴氏は厭になつて自分が捨てて逃げた清子夫人と哲学者の田中王堂氏とが怪しいといつて、態々探偵までつけて二人の行動を気をつけてゐたが、とうと辛抱出来ぬ節があつたと見えて、持前の癇癪玉を破裂させ
  • ベンヂヤミン・フランクリンが女房を迎へようとした
  • 千利休がある時昵懇の女を、数寄屋に呼び込んで内密話に無中になつてゐた事があつ
  • トルストイ伯は、その名著『アンナ・カレニナ』のなかで、塞耳維対土耳其の紛紜から、もしか戦争でもおつ始まるやうだつたら、筆一本で喧しく主戦論を吹き立てた人達だけで、別に中隊を組織して、一番前線にそれを使ふ事にしたい、「すると、屹度立派な中隊が出来る。」と皮肉を言つて
  • 亡くなつた上田敏博士、、、何時でも「万法流転」と『松の葉』の小唄を借用してゐ
  • 渡辺崋山の手紙は、今では唯一通で帯が幾本も買へる。 崋山の手紙も今ではそんなに値段が高まつて来た
  • 仏蘭西の小説家エミイル・ゾラは、寺内伯と同じやうに新聞記者との会談を甚く怖がつてゐ
  • 文展がまた開けた。入選した画家の苦心談を読んでみると、大抵影に忠実な細君が居て、塩断茶断をしたり、神様に百日の願を掛けたりして画家仲間の達者人といはれた富岡鉄斎翁も近頃大分耄けて来
  • この頃竹内栖鳳氏の画がづば抜けて値が高いので、栖鳳氏の許へは取り替へ引き替へ色々の事を言つて、無代の画を描かしに来る者が多いといふ事
  • 故人井上馨侯が素晴しい癇癪持だつた事は名高い事実
  • 島村抱月氏はよく欠伸をするので友達仲間に聞えた男
  • むかし王献之の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償でそれを手に入れようといふ、虫の善い事を考へる向が多く出来て来
  • 広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出し(広岡浅子
  • 実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで
  • 先日亡くなつた喜劇俳優渋谷天外は、何処へ往くのにも、紫縮緬の小さな包みを懐中にねぢ込むで置くのを忘れなかつ、、、小本の『膝栗毛』の一冊
  • 竹内栖鳳氏などになると、頼み込んでから、十年近くなつて今だに描いて貰へないの
  • 実業家馬越恭平氏は、旧臘大連へ往つたが、用事が済むと毎日のやうに骨董屋猟り

あまりに面白いので、多くなってしまった。新聞社学芸部長という役職のせいか、また人脈がが多いせいか、下世話な情報も含めて、あらゆることを知っていた感がある。鋭い観察眼に裏打ちされた人物と人間と人生のとらえ方に感心する。そして文章が実にうまい。この「茶話」は人気があって、代表作になっている。

さて、冒頭の文である。だらだらと長い文章を、切り詰め、切り詰めて、鋭い随筆に仕立て上げる。その究極は、一編の詩ではないか。言葉を組み立てて見事な詩を書いた泣菫にとって、人生後半に詩から離れて書き続けた随筆は、余分な情報を盛り込むことができるからお手の物だっただろう。短文を書けるか、それがすぐれた書き手の条件だ。